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第26話 セレスティア、嫉妬をまだ嫉妬と認めない

セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、その朝から機嫌が悪かった。


 いや、正確には違う。

 機嫌が悪いのではなく、落ち着かないのだ。


 それを機嫌の悪さとして表に出しているだけで、内側にあるものはもっと別の、もっと説明のしにくいざわつきだった。


 窓の外はよく晴れていた。

 学園の中庭にはいつものように生徒たちが行き交い、石畳は朝の光を受けて白く、花壇はこれ見よがしに鮮やかで、いかにも“乙女向け学園の朝”めいた整い方をしている。


 なのに、セレスティアの心はまったく整っていなかった。


 理由は分かっている。


 ここ数日、九十九院霊真が誰かと一緒にいる場面を、やたらと目にしてしまうからだ。


 リリアーナと話していた。

 ミレーユと礼拝堂のほうから並んで戻ってきた。

 ルシアンとは夜遅くまで図書塔付近で調査していたらしい。

 ガイゼルとは訓練場の近くで何やら真面目な顔をしていた。


 全部、調査の一環だ。


 頭では分かっている。

 分かっているどころか、自分だってその共闘体制に加わっている。

 霊真が皆と接触するのは当然だし、そこへ文句を言う筋合いはない。


 ないのだが。


 ――どうして、あんなに自然に並んで歩けるの。


 朝からそんなことを考えてしまった時点で、もうだいぶ駄目だった。


「……馬鹿馬鹿しい」


 自室代わりの控室で、誰もいないことを確認してから小さく吐き捨てる。


 嫉妬ではない。

 断じて違う。


 これは、そう、進行状況の確認だ。

 調査対象と協力者の動きを把握しているだけ。

 セレスティア・フォン・ローゼンベルクともあろう者が、たかが男一人の行動で落ち着きを失うわけがない。


 ない。


 ない、はずなのだが。


 その日の一時間目のあと、中庭へ続く回廊で、ちょうどリリアーナと霊真が話しているのを見つけた瞬間、胸の奥で何かがぴり、と痛んだ。


 しかも二人とも、妙に空気がやわらかい。

 ぎこちないようでいて、以前のような距離ではない。


 リリアーナは頬を少し赤くしながら何か言っていて、霊真は相変わらず真面目な顔でそれに答えている。

 ただ話しているだけだ。

 ただの会話だ。


 ……たぶん。


 けれど、それが妙に気になった。


 自分でも分かるくらい、足取りが早くなる。

 そして、考えるより先に声が出ていた。


「ずいぶん親しげですのね」


 リリアーナがびくっと肩を跳ねさせる。


「セ、セレスティア様」


 霊真は普通に振り返った。


「おはようございます」


「おはようございますではありませんわ」


 言ってから、やや失敗したと思った。

 別に、挨拶へ怒るつもりではなかったのだ。


 だが引っ込みがつかないので、そのまま涼しい顔を作る。


「何のお話をしていらしたの」


「先日の記録の件です」

 とリリアーナが答える。

「礼拝堂側の情報と、脅迫文の流れが少し繋がりそうで……」


 真面目な話だった。


 ものすごく真面目な話だった。


 セレスティアは一瞬だけ自分の心の狭さに嫌気が差した。

 だが、ここでそれを顔に出すわけにもいかない。


「そう」


 短く返す。


 すると霊真が、いつもの真顔で言った。


「はい。調査協力者ですので」


 その返答が、妙に胸に刺さる。


 調査協力者。

 それは正しい。

 リリアーナも、自分も、ルシアンも、ミレーユも、ガイゼルも、皆そうだ。


 なのに、どうしてその言葉が少しだけつまらなく聞こえるのだろう。


「……そう」


 セレスティアはもう一度だけ同じ言葉を返した。

 それ以上続けると、自分でも何を言うか分からなかったからだ。


 リリアーナは微妙な空気に明らかに困っている。

 霊真だけが、少し不思議そうにこちらを見ていた。


 たぶん、意味が分かっていない。


 そこがまた腹立たしい。


    ◇


 その日の昼、セレスティアは自分でも驚くほど、霊真を目で追っていた。


 王子アルフレッドと短く話している。

 ルシアンに何か資料を渡されている。

 ミレーユが礼拝堂側から来て、少し言葉を交わしている。

 ガイゼルはガイゼルで、何やら肩を叩きながら偉そうに何か言っている。


 全員、調査のためだ。

 分かっている。


 分かっているのに、いちいち目に入る。

 そして目に入るたび、胸の奥に小さな棘のようなものが引っかかる。


 これを何と呼ぶのか。


 セレスティアは呼びたくなかった。


 嫉妬、などという安っぽい言葉で片づけるには、あまりに屈辱だったからだ。


 ただ、気になるだけ。

 そう、確認だ。

 この異世界の修行僧が、誰とどこまで話し、何を知り、どう動くつもりなのかを確認しているだけ。


 それだけのはずなのに。


 放課後、中庭の石畳を横切る霊真を見つけたとき、セレスティアはまたしても無意識に声をかけていた。


「少し、よろしいかしら」


 霊真はすぐに足を止めた。


「はい」


 いつもどおり、無駄のない返事だ。

 変に勘ぐらず、変に構えず、呼ばれたから止まる。それだけ。


「こちらへ」


 中庭の人目を少し外れた回廊へ誘導する。

 何となく、他の誰かにこの会話を聞かれたくなかった。


 並んで歩く。

 石壁に沿った細い通路は、昼の時間帯でも比較的人が少ない。窓から見える中庭の緑が揺れ、遠くの話し声が少しだけぼやける。


 こうして二人で歩いているだけでも、きっと誰かは何か言うのだろう。

 だが、今はそれを考えないことにした。


「最近」


 セレスティアが先に口を開く。


「あなた、皆さまとよくご一緒ですのね」


「はい」


 即答された。


 さらに腹立たしい。


「ルシアンとも」

「はい」

「ミレーユとも」

「はい」

「リリアーナとも」

「はい」

「……ガイゼルとも」

「はい」


 全部に迷いなく答えられると、余計に何を言いたいのか分からなくなる。


 霊真は少しだけ首をかしげた。


「何か問題がございましたか」


「問題、というほどでは」


 そこで詰まる。


 問題ではない。

 だが、問題ではないからこそ説明しにくい。


「その……」

 セレスティアは一度視線を逸らした。

「調査の進み具合を確認したかっただけですわ」


 自分でも苦しい言い訳だと思った。

 だが霊真は、少しも疑わない顔で頷く。


「そうでしたか」


「ええ」


「では、ご説明いたします」


 本当に説明し始めた。


 ルシアンが昨夜の残滓測定でどこまで掴んだか。

 ミレーユが礼拝堂側の記録から何を見つけたか。

 リリアーナと噂の流れをどう整理したか。

 ガイゼルが上級貴族子弟たちをどう見ているか。


 セレスティアは黙って聞いていた。


 聞いているうちに、だんだん気が抜けてくる。

 この男は本当に何も考えていない。

 いや、正確には考えているが、色めいた方向へ一切思考が伸びていない。


 だからこそ、こちらだけが妙に意識しているのが馬鹿らしくなる。


「……あなたは」


 話が一段落したところで、セレスティアはぽつりと呟いた。


「はい」


「どうして、そんなに平気でいられるの」


「何がでしょう」


「皆と、ですわ」


 霊真は少し考えた。


「皆さま、お優しい方々ですので」


 その答えに、セレスティアは思わず立ち止まった。


「お優しい……?」


「はい」


「ルシアンが?」

「はい」

「ガイゼルが?」

「はい」

「リリアーナはともかく、ミレーユも?」

「はい」

「……わたくしも?」


 最後の問いだけ、少し小さくなった。


 霊真はきょとんとした顔で答える。


「はい」


 間がなかった。


 セレスティアの呼吸が一拍止まる。


「な、何を根拠に……」


「今まで、何度もお気遣いいただいておりますので」


 看病の件だ。

 それを言っているのだと分かる。


 セレスティアは少しだけ赤くなった。

 だが以前ほど派手に取り乱さなかったのは、自分でも少し成長したのかもしれない。


「……あれは、別に」


「はい」


「確認ですわ」


「はい」


「そこで全部“はい”と返されると、何も言えませんのよ」


 霊真は少しだけ困ったように目を伏せた。

 それから、静かに付け加える。


「ご不快でしたら申し訳ありません」


「不快、ではありません」


 それは本当だった。


 不快なら、こんなふうに自分から呼び止めていない。


 ただ、落ち着かないだけだ。


    ◇


 回廊の先の窓辺まで来たところで、セレスティアは壁へ軽く肩を預けた。

 日の傾きかけた光が、彼女の髪をやわらかく照らす。


 霊真は少し距離を取って立っていた。

 近すぎない。

 だが遠すぎもしない。

 その距離感が、なぜか妙に心地よい。


「わたくし、最近少しおかしいのかもしれませんわ」


 半ば独り言のように、セレスティアは言った。


「そうでしょうか」


「あなたが誰と話していても、なぜか目についてしまうの」


 そこまで言って、自分で何を口にしているのかと思う。

 だがもう止まらない。


「リリアーナと並んでいても、ミレーユと礼拝堂から出てきても、ルシアンと夜まで話していても……いちいち、気になりますの」


 霊真は黙って聞いていた。


 その沈黙が怖くて、セレスティアは少しだけ早口になる。


「もちろん、調査の一環だとは分かっていますわ。分かっていますけれど、どうにも落ち着かなくて」


 そこまで言って、ようやく自分が何を説明しているのか気づいた。


 これは、ほとんど嫉妬の告白ではないか。


 セレスティアは一瞬で顔が熱くなり、勢いよく言い足す。


「ですが、それは嫉妬ではありませんわ!」


 霊真が目を瞬く。


「嫉妬」


「い、今のは忘れなさい!」


「承知しました」


「本当に忘れた顔をしないでくださいまし!」


 もう何を言っているのか自分でも分からない。


 霊真は少し考え、それから本気で言った。


「では、嫉妬ではないのですね」


「そうですわ!」


「では、何でしょう」


「それは……」


 答えられない。


 気になる。

 落ち着かない。

 誰と何をしていたのか知りたい。

 自分と話すときより、ほかの誰かと柔らかい空気だったら嫌だ。


 それを嫉妬と呼ばないなら何と呼ぶのか。


 セレスティアは黙り込んだ。


 霊真はしばらく待ってから、静かに言った。


「調査の進行確認、でしょうか」


 助け船のつもりらしい。


 その優しさが、また少しだけ胸を締めつけた。


「……ええ、たぶん」


「そうでしたか」


「その“納得した顔”はやめてくださいまし」


 セレスティアは目を伏せた。


 たぶん、もう薄々分かっている。

 これは嫉妬だ。

 少なくとも、それにかなり近いものだ。


 けれど、今はまだ認めたくない。


 悪役令嬢だの、公爵令嬢だの、婚約者だの、そういう重たい看板を全部背負ったまま、そんな子どもっぽい感情を自覚するのは、どうにも悔しかった。


 霊真はその複雑さを完全には理解していないだろう。

 だが、追い詰めもしない。

 それが救いだった。


    ◇


 その帰り道、二人が並んで歩いているところを、当然のように何人かの女子生徒が見ていた。


「見て、また……」

「完全に本命ヒロインイベントじゃない?」

「でも昼はリリアーナさんと話してたわよ?」

「ミレーユ様とも礼拝堂で……」

「どうなってるのこのルート分岐」


 分岐とは何だろう、と霊真は思ったが口には出さなかった。

 今それを口にすると、たぶんセレスティアがさらにややこしくなる気がしたからだ。


 セレスティアは表情だけは完璧に取り繕っている。

 だが歩幅がいつもより少しだけ速い。

 霊真にはそれが、“早くここを抜けたい”気持ちと“それでも隣は離れたくない”気持ちの両方に見えた。


 もちろん、それをそのまま言うような無粋はしない。


 彼も少しずつ学んでいた。


    ◇


 夜、自室へ戻ったセレスティアは、椅子へ座ったまましばらく動けなかった。


 机の上には未処理の書類。

 公爵家からの書簡。

 明日の予定。

 どれも目に入っているのに、頭へ入ってこない。


 代わりに思い出すのは、今日の会話ばかりだ。


 リリアーナと話していた姿。

 自分が思わず呼び止めたこと。

 気になる、と口にしてしまったこと。

 そして、“嫉妬ではありませんわ!”と半ば叫ぶように言った自分。


「……最悪ですわ」


 両手で顔を覆う。


 ひどい。

 本当にひどい。


 自分がこんなふうに感情へ引きずられるなんて、想像したこともなかった。


 だが、覆った手の向こうで、自分の頬がまた少し熱いことははっきり分かる。


「あれは嫉妬ではありませんわ」


 小さく、誰もいない部屋で言い聞かせる。


「ただ、調査の進行確認です」


 沈黙。


「……ええ、確認です」


 もう一度言い直す。


 だが、全然言い聞かせられていないことも、自分が一番よく分かっていた。

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