表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/27

第25話 聖女候補、調査協力の名目で距離が近い

 礼拝堂の記録庫は、学園の中でもひときわ時間の流れが遅い場所だった。


 王立エーヴェルシュタイン学園は、どこを見ても整いすぎている。中庭は絵画のように美しく、回廊は歩くだけで舞台装置めいていて、生徒たちの振る舞いにさえどこか“見られること”を前提とした癖がある。


 だが、この礼拝堂の奥にある記録庫だけは少し違った。


 分厚い石壁に守られたその部屋には、高い棚が並び、古い帳簿や祈祷録、寄進の記録、聖職者たちの往復書簡、学園祭儀に関する備忘録などが、年代ごとに整然と収められている。窓は小さく、外の光は細い線になって差し込むだけだ。代わりに、いくつか置かれたランプのやわらかな明かりが、羊皮紙や革表紙の背を静かに照らしている。


 紙と革と、乾いた木の匂い。


 それに、長く人の祈りに触れてきたものが持つ、ほこりっぽくない古さ。


 九十九院霊真は、この場所が嫌いではなかった。


 むしろ、好きだった。


「こちらです」


 先を歩くミレーユ・セラフィナが、棚の間を器用に進んでいく。今日の彼女は、礼拝堂で祈るときより少し実務的な顔をしていた。聖女候補としてのやわらかい微笑を消したわけではない。けれど今は、調査協力者として霊真へ情報を見せる役目を帯びているのだと、その歩き方で分かる。


「かなり古い記録もあるのですね」


 霊真がそう言うと、ミレーユは振り返って小さく頷いた。


「ええ。礼拝堂に関わるものは、学園創設期に近いものまで残っています。もちろん欠けている年代もありますし、全部が信頼できるわけではありませんけれど」


「それでも、残っているのは大きいことかと」


「はい。わたくしもそう思います」


 ミレーユはそう言って、棚の一角に手をかけた。そこには、あまり外へ出されることのない記録がまとまっているらしい。背表紙の色も落ち着いていて、普段の生徒が軽い気持ちで手を伸ばす感じではない。


 ここ数日、ルシアンは魔術的な残滓を追い、ガイゼルは露骨に動く上級貴族子弟たちを睨み、リリアーナとセレスティアは噂の起点を洗っていた。


 その中でミレーユが担っているのは、礼拝堂筋、聖職筋、そして記録だ。


 学園に“役割を操る歪み”が昔からあったのなら、それは祈りの場にも何かしら痕跡を残しているかもしれない。そう考えた彼女は、自分から記録庫へ入り、古い帳面や報告書を読み始めたのである。


 そして今日、霊真をここへ呼んだ。


 理由は簡単だった。


 読めば読むほど、偶然では済まないものが浮かび上がってきたからだ。


「こちらをご覧ください」


 ミレーユが一冊の帳簿を机へ広げる。


 古い字で書かれた報告の断片。霊真にはこの世界特有の文字も、会話ほど自然には読めない。だが、ミレーユが横で必要な箇所を指し示してくれるので、意味の流れは追えた。


「これは、今からおよそ三十七年前の記録です。当時の学園で起きた人間関係の騒ぎについて、礼拝堂へ持ち込まれた相談の要約が残っています」


「三十七年前」


「はい。こちらの箇所を」


 ミレーユが指先で追う。


 ある令嬢が、周囲から高慢と噂されたこと。

 ある男子生徒との婚約話が絡んでいたこと。

 庶民出身の少女との比較で、令嬢の評判が急速に悪化したこと。

 噂の拡散が不自然なほど早く、礼拝堂側でも空気の悪さが問題視されたこと。


 霊真は静かにページを見つめた。


「似ていますね」


「ええ」


 ミレーユの声音は重い。


「もちろん、細部は違います。でも構図があまりに近いのです。高位の令嬢。周囲の悪感情。比較される別の少女。役割の固定。誰かを“そういう人物”として決めてしまう流れ」


「今のセレスティア殿の件と」


「はい。重なります」


 霊真は一度目を閉じた。


 似ている、では弱い。

 これはもはや、繰り返されていると呼んで差し支えないのではないか。そんな感覚があった。


「こちらも」


 ミレーユは別の帳簿を引き寄せる。


「今度は二十年ほど前の記録です。これは学園内で起きた“集団的偏向”について、当時の聖職者が個人的に残した覚え書きになります」


「偏向」


「一人の生徒へ悪い評判が一気に集中し、後から振り返ると、誰も決定的な証拠を持っていなかった――という話です」


 ミレーユは紙を押さえながら続けた。


「面白い、という言い方は不謹慎かもしれませんが……ここに、“まるで皆が同じ芝居を見ているようだった”という表現があるんです」


 その一文に、霊真の中の何かが引っかかった。


 芝居。

 役割。

 筋書き。


 最近ずっと、この学園の空気に対して抱いている違和感そのものだった。


「やはり、偶然では」


「ないと思います」


 ミレーユはきっぱり言った。


 その目には、以前のような“見極める側”の光はほとんどなかった。今はもう、霊真と同じ方向を見ようとしている協力者の目だ。


「あなたが来たのは偶然ではない気がします」


 静かな声だった。


 けれど、その言葉は記録庫の空気を少しだけ変えた。


 霊真は顔を上げる。


 ミレーユは自分の言葉に少しだけ緊張したようだったが、逃げずに続けた。


「最初は、そう考えるのは大げさだと思っていました。異世界から来た方が、たまたま学園の騒動へ関わっただけだと。けれど今は……どうしても、そうは思えません」


「私が来たことに、意味があると」


「はい」


「なぜでしょう」


 霊真がそう問うと、ミレーユは一瞬だけ言葉を探した。


「あなたは、皆が“そういう役”だと見ている相手を、その役のままで見ないからです」


「……」


「セレスティア様を悪役令嬢としてではなく、疲れている人として見た。リリアーナさんをただの善良な少女としてではなく、迷っている人として見た。殿下も、ルシアンさんも、わたくしも……たぶん、そうです」


 そこまで言って、ミレーユは少しだけ視線を伏せる。


「役割の歪みがある場所へ、役割で人を見ない方が現れた」


 その言葉は、妙に胸へ沈んだ。


 霊真は、そういう大きな意味づけを好まない。

 自分はただ、見えたものをそのまま受け取ろうとしているだけだ。

 けれど、もしその在り方自体がこの学園の歪みと相性が悪いのだとしたら――。


「偶然ではない気がする、ですか」


「はい」


 ミレーユはうなずく。


「強く断言できるほどの証拠はまだありません。ですが、記録が積み重なるほど、そう感じます」


 霊真は机の上の古い帳簿へ視線を戻した。


 過去にも似た構図があり、今また同じような流れが起きている。

 ならば、それを断ち切るために誰かが呼ばれた、と考えることもできる。


 比叡山で祈祷中に触れた“助けを求める気配”。


 泣きそうな目をした金髪の令嬢。


 異世界への転移。


 そこまで思考がつながっても、まだ完全には言い切れない。

 だが、意味のない偶然だとは、もう思えなかった。


    ◇


 そのあとも二人は、いくつかの記録を続けて調べた。


 祭儀の記録。

 学園内の諍いを聖職者が仲裁した報告。

 古い年譜の欄外に書き込まれた私的な覚え書き。


 直接“役割操作の歪み”と書いてあるものは、当然ない。

 けれど、誰かが異様なほど悪役にされる年、空気が芝居めいて固まる時期、そして礼拝堂側がそれに違和感を覚えた形跡は、何度も見つかった。


 記録を読みながら、ミレーユは時折霊真へ視線を向ける。


 彼は古文書の読み方に慣れているわけではない。

 それでも一つ一つ丁寧に、投げ出さずに追おうとする。その姿勢が、やはりどこか彼らしいとミレーユは思った。


「こちらの棚ですわ」


 やがて彼女は、さらに上段の資料が必要だと気づいた。

 立ち上がり、背の高い記録棚の前へ移動する。


 目的の本はかなり上にあった。

 指先で背表紙を探り、つま先立ちになる。


「届きますか」


 後ろから霊真が声をかける。


「た、たぶん……」


 ミレーユはもう一度背伸びした。

 だが惜しい。

 あと少し指が届かない。


「無理なさらず」


「いえ、これくらい……っ」


 言いながらさらに腕を伸ばしたが、体勢が少し危うい。

 霊真は自然に一歩前へ出た。


「では、私が」


「え……」


 次の瞬間、彼はミレーユのすぐ後ろへ立っていた。


 決して抱き寄せたりはしていない。

 だが、棚へ手を伸ばすための位置としてはどうしても近くなる。霊真の腕がミレーユの肩の少し上を通り、目的の本へ届く。


 近い。


 と、ミレーユは思った。


 近すぎる、とは言わない。

 だが十分に意識する距離だった。


 しかも霊真は、その近さをまったく意識していないらしい。

 静かに本を抜き取り、「こちらでしょうか」と普通に尋ねてくる。


「は、はい……」


 声が少しだけ上ずった。


 霊真は気づいていない。

 気づいていないからこそ、余計に心拍数が上がる。


 そのまま一歩下がってくれればいいのに、彼は本を確認しようとしてミレーユの横へ並ぶ形になった。

 肩が触れるほどではない。

 だが礼拝堂と記録庫の静けさの中では、それで十分すぎる。


「こちらで合っておりますか」


「え、ええ……たぶん、その……はい」


「少しお顔が赤いようですが」


「き、記録庫は少し暑いのです!」


 ほとんど反射だった。


 言ってから、しまったと思う。

 記録庫はむしろ涼しい。


 霊真は素直に周囲を見渡した。


「そうでしょうか。私はそう感じませんが」


「そ、それは……あなたが落ち着きすぎていらっしゃるからです」


 意味の分からない返しになった。


 霊真はさらに少し首をかしげた。

 それ以上追及しないのはありがたいが、その無垢さがまた少し困る。


 ミレーユは本を受け取り、わざと紙のほうへ視線を落とした。

 自分の頬が熱いのを誤魔化すためである。


    ◇


 ようやく落ち着いて再び席へ戻ったころには、空はだいぶ傾いていた。


 記録庫の小窓から入る光は、もう金色から薄い橙へ変わりつつある。


 ミレーユは深呼吸して、話を戻した。


「……この記録を見ても、学園の歪みは少なくとも数十年前から存在しています」


「はい」


「つまり、今起きていることは、誰か一人の思いつきだけではない可能性があります」


「もっと根深い」


「ええ」


 ミレーユは本を閉じる。


「学園そのものに染みついた流れなのか、あるいはそれを利用し続けてきた誰かの系譜があるのか。そこまではまだ分かりません」


 そこにこそ、次の調査の焦点があるのだろう。


 霊真はしばらく考え、それから言った。


「あなたといると、自分が聖女候補であることを忘れそうになります」


 ミレーユは、何気なくそう漏らしてしまった。


 言った瞬間、自分で固まる。


 何を言っているのだろう。

 今のは、かなりそのまま出すぎた。


 霊真は本気で考えたあと、率直に返した。


「忘れてはいけないのでは」


「……そういうところです」


 ミレーユは額へ手を当てた。


「はい?」


「いえ、何でもありません」


 何でもないはずがない。

 だが説明しようがない。


 彼は正しい。

 正しすぎる。

 正しすぎて、時々こちらの心の逃げ道を奪う。


 けれど、その不器用な正しさに惹かれ始めている自分も、もう否定しづらかった。


「ともかく」


 ミレーユは話を進める。


「あなたが来たことは、たぶん偶然ではありません。そして、この歪みは思っていたより長く続いている。そこまでは、今日の時点でかなり確かです」


「大きな進展です」


「ええ」


 ミレーユはやわらかく笑った。


「お役に立てたならよかったです」


「立っておられます」


 霊真がすぐに言う。

 そこに嘘がないのが分かる。


「あなたは、こういうときも真っ直ぐですのね」


「そうでしょうか」


「ええ。良い意味で」


 ミレーユはそう付け足した。


 霊真は少しだけ困ったように、それでも静かに頭を下げた。


    ◇


 記録庫を出るころには、外は夕暮れに変わっていた。


 図書塔の回廊を並んで歩く。

 人は少ない。

 石壁に夕日の色がうっすら映り、窓の外には中庭の木々が静かに揺れている。


「今日はありがとうございました」


 ミレーユが言う。


「こちらこそ」


「また、必要ならお呼びしますわ」


「はい。喜んで」


 その返答があまりに自然で、ミレーユは少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。


 礼拝堂でも、記録庫でも、彼は変わらない。

 誰かに認められるためではなく、整えるために祈る人。

 そして今、自分の中の何かまで少しずつ整え直してしまう人。


 別れ際、ミレーユは一度だけ彼の横顔を見た。


 霊真はすでに、次の調査や皆との共有を考えているようだった。

 そういうところもまた、この人らしい。


 ミレーユは小さく息を吐き、心の中で思う。


 ――これは、たぶんもう尊敬だけではありませんわね。


 だがその先の言葉は、まだ自分でもうまく認めたくなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ