第25話 聖女候補、調査協力の名目で距離が近い
礼拝堂の記録庫は、学園の中でもひときわ時間の流れが遅い場所だった。
王立エーヴェルシュタイン学園は、どこを見ても整いすぎている。中庭は絵画のように美しく、回廊は歩くだけで舞台装置めいていて、生徒たちの振る舞いにさえどこか“見られること”を前提とした癖がある。
だが、この礼拝堂の奥にある記録庫だけは少し違った。
分厚い石壁に守られたその部屋には、高い棚が並び、古い帳簿や祈祷録、寄進の記録、聖職者たちの往復書簡、学園祭儀に関する備忘録などが、年代ごとに整然と収められている。窓は小さく、外の光は細い線になって差し込むだけだ。代わりに、いくつか置かれたランプのやわらかな明かりが、羊皮紙や革表紙の背を静かに照らしている。
紙と革と、乾いた木の匂い。
それに、長く人の祈りに触れてきたものが持つ、ほこりっぽくない古さ。
九十九院霊真は、この場所が嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
「こちらです」
先を歩くミレーユ・セラフィナが、棚の間を器用に進んでいく。今日の彼女は、礼拝堂で祈るときより少し実務的な顔をしていた。聖女候補としてのやわらかい微笑を消したわけではない。けれど今は、調査協力者として霊真へ情報を見せる役目を帯びているのだと、その歩き方で分かる。
「かなり古い記録もあるのですね」
霊真がそう言うと、ミレーユは振り返って小さく頷いた。
「ええ。礼拝堂に関わるものは、学園創設期に近いものまで残っています。もちろん欠けている年代もありますし、全部が信頼できるわけではありませんけれど」
「それでも、残っているのは大きいことかと」
「はい。わたくしもそう思います」
ミレーユはそう言って、棚の一角に手をかけた。そこには、あまり外へ出されることのない記録がまとまっているらしい。背表紙の色も落ち着いていて、普段の生徒が軽い気持ちで手を伸ばす感じではない。
ここ数日、ルシアンは魔術的な残滓を追い、ガイゼルは露骨に動く上級貴族子弟たちを睨み、リリアーナとセレスティアは噂の起点を洗っていた。
その中でミレーユが担っているのは、礼拝堂筋、聖職筋、そして記録だ。
学園に“役割を操る歪み”が昔からあったのなら、それは祈りの場にも何かしら痕跡を残しているかもしれない。そう考えた彼女は、自分から記録庫へ入り、古い帳面や報告書を読み始めたのである。
そして今日、霊真をここへ呼んだ。
理由は簡単だった。
読めば読むほど、偶然では済まないものが浮かび上がってきたからだ。
「こちらをご覧ください」
ミレーユが一冊の帳簿を机へ広げる。
古い字で書かれた報告の断片。霊真にはこの世界特有の文字も、会話ほど自然には読めない。だが、ミレーユが横で必要な箇所を指し示してくれるので、意味の流れは追えた。
「これは、今からおよそ三十七年前の記録です。当時の学園で起きた人間関係の騒ぎについて、礼拝堂へ持ち込まれた相談の要約が残っています」
「三十七年前」
「はい。こちらの箇所を」
ミレーユが指先で追う。
ある令嬢が、周囲から高慢と噂されたこと。
ある男子生徒との婚約話が絡んでいたこと。
庶民出身の少女との比較で、令嬢の評判が急速に悪化したこと。
噂の拡散が不自然なほど早く、礼拝堂側でも空気の悪さが問題視されたこと。
霊真は静かにページを見つめた。
「似ていますね」
「ええ」
ミレーユの声音は重い。
「もちろん、細部は違います。でも構図があまりに近いのです。高位の令嬢。周囲の悪感情。比較される別の少女。役割の固定。誰かを“そういう人物”として決めてしまう流れ」
「今のセレスティア殿の件と」
「はい。重なります」
霊真は一度目を閉じた。
似ている、では弱い。
これはもはや、繰り返されていると呼んで差し支えないのではないか。そんな感覚があった。
「こちらも」
ミレーユは別の帳簿を引き寄せる。
「今度は二十年ほど前の記録です。これは学園内で起きた“集団的偏向”について、当時の聖職者が個人的に残した覚え書きになります」
「偏向」
「一人の生徒へ悪い評判が一気に集中し、後から振り返ると、誰も決定的な証拠を持っていなかった――という話です」
ミレーユは紙を押さえながら続けた。
「面白い、という言い方は不謹慎かもしれませんが……ここに、“まるで皆が同じ芝居を見ているようだった”という表現があるんです」
その一文に、霊真の中の何かが引っかかった。
芝居。
役割。
筋書き。
最近ずっと、この学園の空気に対して抱いている違和感そのものだった。
「やはり、偶然では」
「ないと思います」
ミレーユはきっぱり言った。
その目には、以前のような“見極める側”の光はほとんどなかった。今はもう、霊真と同じ方向を見ようとしている協力者の目だ。
「あなたが来たのは偶然ではない気がします」
静かな声だった。
けれど、その言葉は記録庫の空気を少しだけ変えた。
霊真は顔を上げる。
ミレーユは自分の言葉に少しだけ緊張したようだったが、逃げずに続けた。
「最初は、そう考えるのは大げさだと思っていました。異世界から来た方が、たまたま学園の騒動へ関わっただけだと。けれど今は……どうしても、そうは思えません」
「私が来たことに、意味があると」
「はい」
「なぜでしょう」
霊真がそう問うと、ミレーユは一瞬だけ言葉を探した。
「あなたは、皆が“そういう役”だと見ている相手を、その役のままで見ないからです」
「……」
「セレスティア様を悪役令嬢としてではなく、疲れている人として見た。リリアーナさんをただの善良な少女としてではなく、迷っている人として見た。殿下も、ルシアンさんも、わたくしも……たぶん、そうです」
そこまで言って、ミレーユは少しだけ視線を伏せる。
「役割の歪みがある場所へ、役割で人を見ない方が現れた」
その言葉は、妙に胸へ沈んだ。
霊真は、そういう大きな意味づけを好まない。
自分はただ、見えたものをそのまま受け取ろうとしているだけだ。
けれど、もしその在り方自体がこの学園の歪みと相性が悪いのだとしたら――。
「偶然ではない気がする、ですか」
「はい」
ミレーユはうなずく。
「強く断言できるほどの証拠はまだありません。ですが、記録が積み重なるほど、そう感じます」
霊真は机の上の古い帳簿へ視線を戻した。
過去にも似た構図があり、今また同じような流れが起きている。
ならば、それを断ち切るために誰かが呼ばれた、と考えることもできる。
比叡山で祈祷中に触れた“助けを求める気配”。
泣きそうな目をした金髪の令嬢。
異世界への転移。
そこまで思考がつながっても、まだ完全には言い切れない。
だが、意味のない偶然だとは、もう思えなかった。
◇
そのあとも二人は、いくつかの記録を続けて調べた。
祭儀の記録。
学園内の諍いを聖職者が仲裁した報告。
古い年譜の欄外に書き込まれた私的な覚え書き。
直接“役割操作の歪み”と書いてあるものは、当然ない。
けれど、誰かが異様なほど悪役にされる年、空気が芝居めいて固まる時期、そして礼拝堂側がそれに違和感を覚えた形跡は、何度も見つかった。
記録を読みながら、ミレーユは時折霊真へ視線を向ける。
彼は古文書の読み方に慣れているわけではない。
それでも一つ一つ丁寧に、投げ出さずに追おうとする。その姿勢が、やはりどこか彼らしいとミレーユは思った。
「こちらの棚ですわ」
やがて彼女は、さらに上段の資料が必要だと気づいた。
立ち上がり、背の高い記録棚の前へ移動する。
目的の本はかなり上にあった。
指先で背表紙を探り、つま先立ちになる。
「届きますか」
後ろから霊真が声をかける。
「た、たぶん……」
ミレーユはもう一度背伸びした。
だが惜しい。
あと少し指が届かない。
「無理なさらず」
「いえ、これくらい……っ」
言いながらさらに腕を伸ばしたが、体勢が少し危うい。
霊真は自然に一歩前へ出た。
「では、私が」
「え……」
次の瞬間、彼はミレーユのすぐ後ろへ立っていた。
決して抱き寄せたりはしていない。
だが、棚へ手を伸ばすための位置としてはどうしても近くなる。霊真の腕がミレーユの肩の少し上を通り、目的の本へ届く。
近い。
と、ミレーユは思った。
近すぎる、とは言わない。
だが十分に意識する距離だった。
しかも霊真は、その近さをまったく意識していないらしい。
静かに本を抜き取り、「こちらでしょうか」と普通に尋ねてくる。
「は、はい……」
声が少しだけ上ずった。
霊真は気づいていない。
気づいていないからこそ、余計に心拍数が上がる。
そのまま一歩下がってくれればいいのに、彼は本を確認しようとしてミレーユの横へ並ぶ形になった。
肩が触れるほどではない。
だが礼拝堂と記録庫の静けさの中では、それで十分すぎる。
「こちらで合っておりますか」
「え、ええ……たぶん、その……はい」
「少しお顔が赤いようですが」
「き、記録庫は少し暑いのです!」
ほとんど反射だった。
言ってから、しまったと思う。
記録庫はむしろ涼しい。
霊真は素直に周囲を見渡した。
「そうでしょうか。私はそう感じませんが」
「そ、それは……あなたが落ち着きすぎていらっしゃるからです」
意味の分からない返しになった。
霊真はさらに少し首をかしげた。
それ以上追及しないのはありがたいが、その無垢さがまた少し困る。
ミレーユは本を受け取り、わざと紙のほうへ視線を落とした。
自分の頬が熱いのを誤魔化すためである。
◇
ようやく落ち着いて再び席へ戻ったころには、空はだいぶ傾いていた。
記録庫の小窓から入る光は、もう金色から薄い橙へ変わりつつある。
ミレーユは深呼吸して、話を戻した。
「……この記録を見ても、学園の歪みは少なくとも数十年前から存在しています」
「はい」
「つまり、今起きていることは、誰か一人の思いつきだけではない可能性があります」
「もっと根深い」
「ええ」
ミレーユは本を閉じる。
「学園そのものに染みついた流れなのか、あるいはそれを利用し続けてきた誰かの系譜があるのか。そこまではまだ分かりません」
そこにこそ、次の調査の焦点があるのだろう。
霊真はしばらく考え、それから言った。
「あなたといると、自分が聖女候補であることを忘れそうになります」
ミレーユは、何気なくそう漏らしてしまった。
言った瞬間、自分で固まる。
何を言っているのだろう。
今のは、かなりそのまま出すぎた。
霊真は本気で考えたあと、率直に返した。
「忘れてはいけないのでは」
「……そういうところです」
ミレーユは額へ手を当てた。
「はい?」
「いえ、何でもありません」
何でもないはずがない。
だが説明しようがない。
彼は正しい。
正しすぎる。
正しすぎて、時々こちらの心の逃げ道を奪う。
けれど、その不器用な正しさに惹かれ始めている自分も、もう否定しづらかった。
「ともかく」
ミレーユは話を進める。
「あなたが来たことは、たぶん偶然ではありません。そして、この歪みは思っていたより長く続いている。そこまでは、今日の時点でかなり確かです」
「大きな進展です」
「ええ」
ミレーユはやわらかく笑った。
「お役に立てたならよかったです」
「立っておられます」
霊真がすぐに言う。
そこに嘘がないのが分かる。
「あなたは、こういうときも真っ直ぐですのね」
「そうでしょうか」
「ええ。良い意味で」
ミレーユはそう付け足した。
霊真は少しだけ困ったように、それでも静かに頭を下げた。
◇
記録庫を出るころには、外は夕暮れに変わっていた。
図書塔の回廊を並んで歩く。
人は少ない。
石壁に夕日の色がうっすら映り、窓の外には中庭の木々が静かに揺れている。
「今日はありがとうございました」
ミレーユが言う。
「こちらこそ」
「また、必要ならお呼びしますわ」
「はい。喜んで」
その返答があまりに自然で、ミレーユは少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。
礼拝堂でも、記録庫でも、彼は変わらない。
誰かに認められるためではなく、整えるために祈る人。
そして今、自分の中の何かまで少しずつ整え直してしまう人。
別れ際、ミレーユは一度だけ彼の横顔を見た。
霊真はすでに、次の調査や皆との共有を考えているようだった。
そういうところもまた、この人らしい。
ミレーユは小さく息を吐き、心の中で思う。
――これは、たぶんもう尊敬だけではありませんわね。
だがその先の言葉は、まだ自分でもうまく認めたくなかった。




