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第23話 ルシアン、完全に研究対象へ私情を混ぜ始める

 夜の学園は、昼間よりずっと本音に近い。


 九十九院霊真は、王立エーヴェルシュタイン学園へ来てから何度かそう感じていた。昼の学園は明るく、整っていて、誰もがそれぞれに“その人らしい役”を纏っている。王子は王子らしく、令嬢は令嬢らしく、優等生は優等生らしく、善良な少女は善良な少女らしく。


 だが夜になると、その輪郭が少しだけ薄まる。


 石造りの回廊は音を吸い、灯りは必要なぶんだけに絞られ、広い庭や中庭も昼よりいくらか静かだ。誰かの視線に晒される時間が減るせいか、人の気配が少しだけ“役”から外れる。


 そういう意味で、霊真は夜の学園のほうが少し好きだった。


 そして今夜、彼はその夜の学園を、ルシアン・エーデル=クロイツと歩いていた。


「足音をもう少し抑えてください」


 開口一番、それである。


「大きいでしょうか」


「大きいです。私は今、残滓の微妙な偏りを拾おうとしているので」


「申し訳ありません」


 ルシアンは片手に細い銀の杖のようなものを持ち、もう片方の腕には板状の魔術具を抱えていた。見るからに重そうだが、本人はそれよりも測定の精度を気にしているらしい。銀髪は夜の灯りの下でいっそう淡く見え、横顔は相変わらず整っているのに、表情だけは徹夜明けの研究者そのものだった。


 今夜の目的は、学園内の複数地点に残る魔力残滓の測定だった。


 対象となるのは四か所。


 懇親会会場。

 セレスティアの机周辺。

 リリアーナの脅迫文発見場所。

 そして中庭。


 つまり、これまで“歪み”が露骨に表出した主要地点だ。


「本当に夜でないといけないのでしょうか」


 霊真が問うと、ルシアンは歩きながら即答した。


「昼は人が多すぎます。新しい魔力、生活の残り香、雑音、視線、会話。全部が混ざる」


「視線も魔力に影響するのですか」


「厳密には視線そのものではなく、それに伴う意識です」


 そしてルシアンは少しだけ苛立ったように言う。


「人間は、思っている以上に場を汚します」


 その言い方だと自分も人間のように思えないが、と霊真は少しだけ考えた。

 だがたぶん、ルシアンにとっては自分も含めて全部“人間による雑音”なのだろう。


    ◇


 最初の場所は、懇親会の会場となった大広間だった。


 夜のそこは、昼間や夜会のときとはまったく違う顔をしている。

 卓も椅子も片づけられ、中央の空間はだだ広く、灯りも最低限しかない。まるで舞台の上演が終わった後のような、妙な空虚さがあった。


 霊真はその空気に少しだけ既視感を覚えた。

 比叡山で、大きな儀礼のあとに堂内へ残ったことがある。人の熱が去ったあとの広い空間には、似たような静けさが落ちる。


 ルシアンは床へしゃがみ込み、銀の杖をゆっくり動かした。

 杖の先端に嵌め込まれた小さな石が淡く発光し、板状の魔術具に細い線が浮かぶ。


「……やはり、ありますね」


「何がでしょう」


「偏りです」


 ルシアンは床の中央から王子の立ち位置、リリアーナのいた位置、セレスティアの立っていた位置へ順に視線を走らせる。


「ここは人の感情が極端に動きすぎた。普通の夜会ではこうなりません。緊張も羞恥も見栄も多少はあるでしょうが、あの日は“特定方向へ流れる圧”が濃すぎた」


「流れる圧、ですか」


「ええ。たとえば、水路の傾きみたいなものです。水自体は自然に流れているつもりでも、地形が傾いていれば行き先は誘導される」


 それは霊真にも分かりやすい比喩だった。


「そしてその地形を、術式で薄く作っていた可能性があります」


 ルシアンは床の一点を杖で示した。


「ここです。中央の少し左。王子殿下とローゼンベルク嬢のあいだ、空気がもっとも張った位置」


 霊真はその位置へ立った。


 立った瞬間、胸の奥に小さなざらつきが走る。


「……嫌な感じがします」


 ぽつりとそう言うと、ルシアンの動きが止まった。


「どのように」


「整っているようで、何かが少しだけずれている感じです」


「ずれている」


「はい。人の感情が、自分の足で立っていないような……」


 うまく説明できない。


 霊真の感覚は理論ではなく、祈りに近い。

 乱れたものに触れたときに、“嫌だ”と直感する種類のものだ。


 だがルシアンは、その曖昧な言葉に本気で頷いた。


「それです」


 声音が少し上がる。


「それですよ。理論化すると複雑ですが、感覚としてはまさにそれです」


 言ってから、彼自身が少しだけ黙った。


 自分がいま、詳細な解析結果より先に、霊真の直感を補強材料として受け入れてしまったことに気づいたらしい。


「……」


「どうかなさいましたか」


「いえ」


 ルシアンは立ち上がり、少しだけ目を逸らした。


「ただ、私が理論の前にあなたの感覚へ寄ろうとしているのは、研究者として少々不本意です」


「そうでしたか」


「ですが、正しいものは正しいので腹が立ちます」


 よく分からないが、納得しているらしい。


    ◇


 次はセレスティアの机周辺だった。


 教室棟は夜になるとさらに静かだ。

 昼間なら誰かが必ずいるはずの廊下も、今は足音が二人ぶんしか響かない。月明かりと壁灯のあいだを歩きながら、ルシアンは何度も立ち止まって測定具を確認していた。


「ここでも、かなり薄いですが同じ質の残滓があります」


「同じ質」


「ええ。攻撃魔法でも洗脳魔法でもない。もっと補助的で、もっと陰湿な類です」


 ルシアンの表現は辛辣だが、たしかにそういう感じだった。


 セレスティアの机の近くに立つと、霊真は前と似たような違和感を覚える。

 冷たさ、ではない。

 もっと粘る感じだ。

 人の悪意が留まりやすくなるような、薄い膜がある。


「ここも、嫌な感じがします」


「やはり」


 ルシアンの声には、もはや隠しきれない熱があった。


「複数地点に共通する微弱な痕跡。通常の術式なら作用点ごとに癖が変わるのに、これは似すぎている」


「同じ術者が」


「その可能性が高い」


 彼は手早く紙へ書き込む。


「しかも、かなり慎重です。強制力はない。あくまで“感情の方向性だけを傾ける補助術式”。だから検出が難しいし、気づかれにくい」


「人は自分でそう思ったつもりになる」


「そうです」


 ルシアンは振り向いた。


「これです。これが空気を押している」


 その一言は、研究者というより確信した者の声だった。


 霊真は小さく頷く。


「たしかに、押されている感じがします」


「あなた、本当に便利ですね」


「便利」


「ええ。非常に」


 褒められているのか道具扱いされているのか微妙なところだが、ルシアンの目は本気だった。


    ◇


 三つ目は、リリアーナの脅迫文発見場所。


 ここは比較的開けた小回廊で、昼間なら生徒が行き交う。

 だが夜は人気がなく、足を止めて観察するとたしかに“置きやすい場所”ではあった。目立ちすぎず、かといって完全な死角でもない。誰かに“発見される”ための位置として、ちょうどいいのだ。


「露骨ですね」


 霊真が言うと、ルシアンも同意した。


「ええ。前回よりもだいぶ雑です」


「雑」


「犯人が焦っているのか、あるいはもう“ローゼンベルク嬢が疑われる土台”ができたと見て大胆になっているのか」


 どちらにせよ、よいことではない。


 ここにもまた、同じ質の残滓がある。

 薄く、しかし共通した嫌なざらつき。


 霊真は眉を寄せた。


「前よりも、近い感じがします」


「近い?」


「はい。仕掛けた者の気配が」


 ルシアンが目を細める。


「面白いですね」


「面白いでしょうか」


「研究上は」


 この人はやはり少し変だ、と霊真は思う。

 もっとも自分も似たようなことを言われているので、人のことは言えないのかもしれない。


    ◇


 最後に向かったのは中庭だった。


 夜の中庭は昼より広く見える。

 噴水の音だけがくっきりしていて、花壇の色も闇に沈み、石畳の白さだけが月に浮いている。


「ここは最初の異変の起点です」

 とルシアン。


「私が来た場所でもあります」


「ええ。そしてあなたがリリアーナさんを受け止め、魔物を浄化した場所でもある」


 言われてみれば、ここからすべてが始まったのだ。


 霊真は噴水の近くへ歩み寄る。

 そこは、まだ少しだけ世界が薄い気がした。

 異世界へ招かれたときの感覚の残り香、とでも言うべきか。学園の歪みとは別に、自分自身の異物感がここに染みついているように思える。


 ルシアンは測定具を構えたまま、ふいに言った。


「あなたが来たせいで、たぶん一つ歯車が狂ったんでしょうね」


「そうでしょうか」


「ええ。ローゼンベルク嬢の件だけでなく、学園の観測そのものがずれた」


 それは責める言い方ではない。

 むしろ、評価に近かった。


「……歯車が狂うのは、悪いことですか」


 霊真が問うと、ルシアンは少し考えてから答えた。


「予定されていた結末にとっては悪いことです」


「では、よいことかもしれません」


 そう言うと、ルシアンが一瞬だけ笑った。


「その返し、嫌いではありません」


    ◇


 測定を終えたあと、二人は図書塔の脇にある細い通路へ入った。


 ここは風が通り、夜になるとほとんど人が来ない。ルシアンは「最後に確認したいことがある」と言って、懐から小さな銀色の輪を取り出した。


「これは?」


「簡易の共鳴測定具です。残滓に似た波長を持つ魔力へ近づけると反応します」


「どのように使うのでしょう」


「こうです」


 ルシアンは霊真の手を取った。


 あまりにも自然だったので、霊真は一瞬遅れて少しだけ目を瞬いた。


 ルシアンの指が、霊真の手へ測定具を重ねるように添えられる。

 銀の輪は手のひらの上で微かに光り、二人の指先がかなり近い。


「この角度で、ゆっくり前へ」


 ルシアンの声が近い。

 夜の空気は冷たいのに、指先のあたりだけ妙に意識しやすい。


「こうでしょうか」


「ええ、そのまま」


 彼は完全に測定へ集中している。

 だが、集中しすぎて距離感が少しおかしくなっていることに、本人は気づいていないらしい。


 その様子を、ちょうど女子寮の窓から二人の女子生徒が見ていた。


「……え?」

「待って、今」

「クロイツ様とレイシンさん、手」

「何あれ、共同作業っぽい」

「夜の図書塔脇で?」

「これ、絶対また明日ひどいことになるやつ……」


 小声は当然届かない。

 だが、誤解の種はまたしても撒かれた。


 測定具は数秒だけ淡く震え、それからぴたりと静まった。


「……やはり」


 ルシアンが低く言う。


「どうかしましたか」


「共鳴しました。しかも、かなり近い質で」


 彼はようやく手を離した。

 離してから少しだけ間があき、何かを言いかけてやめる。


「この術式、学園内部の人間じゃないと仕込めません」


 その断言は、今までで一番強かった。


「内部の」


「ええ。少なくとも、学園の構造、動線、会場配置、教師と生徒の行動傾向、そのすべてを知っている者です。外部の者がこれほど自然に噂と術式を重ねるのは難しい」


 ルシアンの銀の瞳が、夜の中で鋭く光る。


「黒幕は、かなり近い」


 図書塔の石壁が、その言葉を静かに受け止める。


 学園の歪みは、もう外から眺めるだけのものではない。

 内部にいる誰かが、見えないところで人の役割を押し、感情の流れを傾けている。


 そしてその“誰か”は、霊真たちのすぐ近くで、まだ平然と息をしているのだ。

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