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第2話 中学卒業と同時に比叡山へ――恋より先に修行を選んだ日

 中学の卒業式の日、教室には独特のざわめきがあった。


 泣いている女子がいて、いつもはうるさい男子まで妙に静かで、担任の佐々木先生も最後のホームルームでは何度か言葉を詰まらせた。黒板には寄せ書きがあり、机の上には卒業証書の筒。春が来る直前の、少し冷たい空気。三年間通った校舎の匂いまで、どこか名残惜しく感じる日だった。


 たいていの生徒は、その先の話をしていた。


「おまえ、春休み遊べる?」

「高校入ったら部活どうする?」

「制服かわいいらしいよ」

「絶対メイクばれるって」


 それぞれの未来が、学校名や部活や通学路の話として具体的に見えている。四月から何が始まるのか、だいたい分かっている顔だった。


 その中で立花恒一だけは、やはり少し違う場所に立っていた。


 彼の未来は制服でも校舎でもなかった。


 比叡山である。


 卒業証書を抱えて帰宅した恒一は、靴を脱ぐ前に居間へ向かった。母は台所に立っていて、父は新聞を読んでいた。卒業式らしく、今日は少しだけ夕食が豪華になる予定だった。卓上にはまだ火を入れていないすき焼き鍋が置かれている。


「ただいま帰りました」


「おかえり。卒業おめでとう」


 母がやわらかく笑う。父も新聞をたたみ、「おめでとう」と短く言った。


 恒一は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 このあたりの受け答えが中学生にしては妙に落ち着いているせいで、母は時々「本当にこの子は十代なのかしら」と思っていたらしい。


 ひと息ついたあと、母が湯飲みを置きながら言った。


「先生から、今日も少し話をされたわ。恒一くんの進路のこと」


「はい」


「本当に、いいのね?」


 その問いに、恒一は間を置かなかった。


「はい」


 母は少しだけ寂しそうに、けれどどこか納得したように目を細めた。


「あなたは昔から、山にいる時がいちばん落ち着いていたものね」


 そう言われて、恒一は自分でも少し不思議に思った。


 家が落ち着かないわけではない。両親は穏やかだし、食卓は温かい。だが、それでもなお、御岩の山にいるときに胸の奥で音もなく整っていく感覚は特別だった。あの静けさに向かう気持ちは、成長するごとに強くなっていた。


「たぶん、自分はあちらへ行くべきなのだと思います」


 父が腕を組んだ。


「比叡山へ行って、何をする」


「修行をしたいです」


「なぜだ」


「……うまくは言えません」


 恒一は少し考えた。


「ですが、行かなければならない気がします」


 父はそれ以上すぐには何も言わなかった。厳しい人ではないが、軽々しく賛成も反対もしない人だ。しばらく黙って恒一の顔を見てから、低い声で言った。


「途中で逃げ帰ってきても恥じゃない」


 恒一は黙って聞いた。


「ただし、自分で決めたなら最後まで向き合え」


「……はい」


 その一言は短かったが、ひどく重かった。


 恒一は深く頭を下げた。


 母はその横で、湯飲みの縁に指を添えたまま静かに微笑んでいた。


「体だけは大事にしなさいね」


「はい」


「あと、ちゃんと食べること」


「はい」


「眠ることも」


「はい」


「無理をしすぎないこと」


「……努力します」


「そこは“はい”って言いなさい」


 小さく笑われて、恒一もわずかに口元をやわらげた。


 立花家の送り出しは、騒がしくはなかった。


 けれど静かなぶんだけ、言葉が深く残った。


 卒業からしばらくして、恒一は本当に日立を離れた。


 別れの日、駅まで見送りに来た母は何度も「無理しないで」と言い、父は最後まで「気をつけろ」としか言わなかった。けれどそのぶっきらぼうな一言の中に、言葉にしない気遣いがいくつも詰まっていることくらい、恒一にも分かった。


 電車に乗り込む直前、恒一は一度だけ振り返った。


 故郷の空は高く、春の光が薄く町を照らしていた。


 海の町だ。


 けれど彼の胸に浮かんだのは、やはり山の景色だった。


 御岩の、木々のあいだを通る風の音。


 あの静かな空気を思い出しながら、恒一は新しい道へ向かった。


    ◇


 比叡山は、想像していた以上に厳しかった。


 もちろん、恒一も甘く考えていたわけではない。修行が楽なものだと思って来たのではない。けれど、覚悟していることと、実際に身を置くことのあいだには、やはり大きな隔たりがあった。


 朝は早い。


 いや、早いというより、夜の続きみたいな時間に起きる。


 冷たい水で顔を洗い、眠気を追い払い、決められた所作で身支度を整える。掃除、読経、雑務、作法、山内での仕事。足りないのは気合いではなく、単純に体力と時間だった。


 若い修行僧たちは、皆どこかしらに未熟さを抱えている。


 足腰が弱い者、声が続かない者、眠気に勝てない者、人間関係で躓く者。俗世から持ち込んだ癖が抜けず、叱られる者も多かった。恒一も例外ではない。体は丈夫なほうだったが、所作には不慣れで、最初のころは何度も注意を受けた。


「立花、盆の置き方が浅い」

「すみません」

「謝る前に直せ」

「はい」


 そういう日々が続く。


 だが恒一は、弱音を吐かなかった。


 吐かなかった、というより、あまり頭に浮かばなかったのかもしれない。きついことはきつい。眠いし、足も痛い。だが「だからやめたい」という思考にあまりならないのだ。目の前にやるべきことがあるなら、それをやる。その積み重ねが恒一の基本だった。


 もちろん、周囲には俗世への未練を口にする者もいた。


 ある夜、若い修行仲間たちが休憩のあいだに床へ座り込み、ぼやき合っていた。


「街のラーメン食いてえ……」

「分かる。油っこいやつ」

「俺は焼肉」

「いや彼女だろ、彼女。高校のとき付き合っときゃよかった」

「あー、それはある」


 青春の未練がいささか俗っぽい。


 みな疲れているので本音が出やすいのだろう。そこで一人が恒一に振った。


「立花はないのかよ。恋しいもんとか」


 恒一は少し考えた。


 真剣に考えた末、静かに答える。


「御岩の山の朝霧は、たしかに少し恋しいですね」


 一同、沈黙。


「そこかよ」

「いや、まあ立花ならそうか」

「ぶれねえなこいつ」

「彼女とかねえの?」

「ありません」

「言い切った!」


 恒一はなぜ笑われているのか分からなかったが、実際に恋しかったのだから仕方がない。秋から冬へ移るころの御岩の朝は、空気が澄み、吐く息まで静かに見える。木立のあいだから差す薄い光も美しかった。あれは、たしかに少し恋しかった。


「食べ物は恋しくないのか」

「食事は大事です」

「そうじゃなくて、なんかこう、ジャンクなやつとか」

「……納豆汁は、少し」

「地元すぎるだろ!」


 また笑いが起きる。


 その輪の中で、恒一だけはきょとんとしていた。


 だがこういうやりとりが、かえって彼を周囲に馴染ませてもいた。変わってはいるが、嫌味がない。真面目なのに妙に天然。そんな認識が少しずつ広がっていく。


 一方で、女性との距離はさらに開いていった。


 比叡山に入れば、当然ながら若い女性と接する機会は激減する。もともと恋愛とは無縁だった恒一にとって、それは自然な環境でもあった。だが時折、行事や面会、参拝の際に女性と接する場面があると、彼の挙動は少しおかしくなった。


 ある日、団体参拝に来ていた年配の女性が、道を尋ねてきたことがあった。


「あの、こちらはどちらへ行けば……」


 恒一は即座に向き直り、背筋を伸ばした。


「ご案内いたします」


 声は落ち着いている。対応も丁寧だ。問題は、そのあとである。


 礼が深すぎた。


 必要以上に。


 中腰というより、ほとんど正式な謝意を示す角度で頭を下げたものだから、女性のほうが慌てた。


「あ、いえ、そんな……」

「失礼のないよう努めます」

「えっ、あ、はい……?」


 ただ道を尋ねただけなのに、なぜか自分が大変な人物になったような空気になる。


 あとで先輩から言われた。


「立花、おまえな」

「はい」

「礼が重い」

「重い、ですか」

「重い」

「失礼のないようにと思ったのですが」

「気持ちは分かるが、相手が緊張する」

「……難しいですね」


 本当に難しいと思っていた。


 恒一にとって、女性とは気安く接してよい相手ではなかった。中学時代からそうだったが、修行に入ってからその感覚はさらに強くなった。若さゆえの浮ついた感情とは逆方向に、彼の中では「女性とは敬意をもって距離を置くべきもの」という認識が固まっていったのである。


 だから視線の置き方にも困る。


 近づきすぎるのも無礼に思え、かといって不自然に避けるのもよくない気がする。結果として、礼儀は正しいが妙にぎこちない青年が出来上がる。


 本人は真面目に悩んでいた。


 あるとき先輩に半ば呆れたように言われたことがある。


「立花、おまえ女の人が苦手なのか」

「苦手、というより」

「というより?」

「神聖なものとして扱うべきかと」

「話が重い」


 先輩は額を押さえて笑った。


「いや、間違ってはないんだろうが」

「はい」

「たぶんおまえ、もっと普通でいいぞ」

「普通、とは」

「そこから説明しなきゃならんのか……」


 その“普通”が最後までよく分からなかったのだから、恒一の今後はだいたいこの時点で決まっていたのかもしれない。


 比叡山での生活は厳しく、日々は単調で、それでいて少しも同じではなかった。


 季節が巡る。


 夏は汗が流れ、冬は骨まで冷える。足の裏は痛み、肩はこわばる。眠気は敵で、慢心はもっと敵だった。だが不思議なことに、恒一はここへ来てから一度も「間違えた」と思わなかった。


 つらい日もある。


 自分の未熟さに気づく日もある。


 叱られて落ち込むこともある。


 それでも、進むべき場所がここではないと感じたことは一度もなかった。


 そんなある日、山内での厳しい行の途中、若い修行仲間の一人がふらついて倒れた。


 夏の終わりだった。湿気が重く、空気がぬるい。皆が疲れていた。倒れたのは、恒一より少し年上の青年だった。無理を重ねていたのだろう。顔色が悪く、呼吸も浅い。


 周囲はざわついた。


「おい、大丈夫か!」

「水だ、水!」


 だが行の最中である。勝手な動きがすぐ許される状況でもない。ためらいが生まれたその一瞬で、恒一は無言で仲間のそばへ膝をついた。


「立花!」


 誰かが止める声を上げたが、恒一は気にしなかった。


 仲間の肩を支え、呼吸を確かめ、必要な補助だけをして立たせようとする。相手は半分意識が飛んでいて、自分の足で立てない。ならば支えるしかない。恒一自身もすでに余裕がある状態ではなかった。足は重く、喉もからからで、視界の端が少し霞むほどだった。


 それでも離れなかった。


「歩けますか」


 低く問う。


 仲間はかすかにうなずいたが、明らかに無理をしていた。恒一は何も言わず、肩を貸した。そのまま最後まで付き添った。


 行が終わるころには、恒一自身の顔色もだいぶ悪かった。


 あとで師僧に呼ばれた。


 叱られるのかと思ったが、師僧はしばらく黙って恒一を見てから、静かに言った。


「お前は強いというより、逃げないのだな」


 その言葉は、褒め言葉というより見抜かれたという感覚に近かった。


 恒一は少しだけ目を伏せた。


「目の前に倒れている者を放っておくことは、できませんでした」


「そうだろうな」


 師僧は短く息をついた。


「無茶をするなとは言わん。お前はたぶん、そういう場面で引けぬ性分だ。だが、自分が倒れては意味がないことも覚えておけ」


「はい」


「それでも行ったのは、お前なりに必要だと判断したからか」


「はい」


「ならよい。覚えておけ。お前のその性分は、いずれ人を救うことにも、人を困らせることにもなる」


 そのときの恒一には、その意味がまだよく分からなかった。


 ただ、心のどこかに静かに残った。


 逃げない。


 たしかに、それは昔からそうだったのかもしれない。


 山の静けさに惹かれたのも、そこに“逃げ場”ではなく“向き合う場所”を見ていたからなのだろう。


 年月は流れた。


 春が過ぎ、夏が来て、また冬が来る。


 新しく入ってきた者が去り、去ると思われた者が残る。恒一は少しずつ、だが確実に山内で名を知られるようになっていった。若いのに落ち着いている。無駄口が少ない。作法を疎かにしない。人が倒れれば支え、雑務を頼まれれば黙ってやる。何より、苦しい顔を見せない。


 もちろん本当に苦しくないわけではない。


 だが恒一は、苦しさを人に見せることに意味を見出していなかった。


 そうして数年が経つころには、周囲の見る目が少しずつ変わっていた。


「あの立花って子、若いのに大したもんだ」

「妙なやつだがな」

「妙ではある」

「だが筋がいい」

「……まじめすぎるのが少し心配だ」


 最後の評価はたぶん正しい。


 そんなある日、恒一は師僧のもとへ呼ばれた。


 部屋は静かで、窓の外の風の音だけが聞こえる。恒一は座して待ち、やがて師僧の言葉を聞いた。


「お前を、次の段階へ進ませる話が出ている」


「次の段階、ですか」


「そうだ」


 師僧の声音は重かった。


「軽々しく口にできるものではない。常人には到底耐えられぬ。心身ともに削る道だ」


 恒一は自然と背筋を伸ばした。


「……はい」


 師僧はまっすぐに彼を見た。


「千日回峰行」


 その名が告げられた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。


 比叡山に身を置く者にとって、それがどれほどの意味を持つかは、恒一も十分に知っている。口で簡単に言えるものではない。誰もが憧れるような華やかなものではなく、むしろ人をふるい落とすためにあるような、厳しすぎる道だ。


 それでも、恒一の中には不思議と恐怖より先に、静かな納得があった。


 ああ、ここへ来たのか、と。


 御岩の山から始まった道が、今ここへ繋がっている。


 師僧が問うた。


「覚悟はあるか」


 恒一は迷わなかった。


「はい」


 その返事は小さかったが、揺らがなかった。


 窓の外では、山の風が木々を揺らしていた。


 少年のころ、日立の山で聞いた音とどこか似ている気がした。

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