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第19話 悪役令嬢ルート、個別イベントが急に濃くなる

 公爵家からの書簡は、いつも質が高い。


 紙も、封蝋も、筆跡も、文面の整い方も、非の打ちどころがない。

 だからこそ、セレスティア・フォン・ローゼンベルクはそれが嫌いだった。


 美しいものは時に残酷だ。


 粗雑な言葉で罵られるより、整えられた文面で逃げ道なく追い詰められるほうが、よほど息が詰まることがある。上質な紙に書かれた命令は、下品な怒鳴り声よりずっと冷たく、ずっと長く残る。


 その日の放課後、彼女は自室代わりに使っている小部屋で、一通の封を切った。


 読む前から、内容はある程度予想がついていた。

 懇親会の一件は、すでに家にも伝わっているはずだ。

 しかも、ただ伝わったのではない。都合よく、そして最悪の形で伝わったに違いない。


 封を開き、文面を追う。


 案の定だった。


 ――次の場で失点するな。

 ――王子殿下との関係を修復せよ。

 ――庶民娘との競争に負けるな。

 ――感情を見せるな。

 ――家名を穢すな。

 ――お前はローゼンベルクであることを忘れるな。


 そこに娘を気遣う一文はない。

 体調を問う言葉もない。

 あるのは、立場と結果と外聞だけだ。


 セレスティアは最後まで読み切ってから、静かに紙を折りたたんだ。


 手元は震えていない。

 それが、かえって嫌だった。


 怒りであれ悲しみであれ、何かが溢れてくれればまだ楽だ。けれど長いあいだ似たような書簡を受け取り続けてきたせいで、心のほうが先に麻痺している。痛いと分かっているのに、痛みに驚けなくなっているのだ。


「……庶民娘、ですって」


 小さく漏れた声には、自分でも驚くほど感情がなかった。


 リリアーナが悪いわけではない。

 彼女個人に憎しみを向けるには、もう少し事情が見えすぎてしまっている。


 だが家の文面は違う。

 彼女を人格ではなく駒としてしか扱わない。

 そして自分のこともまた、王子妃へと届くための駒としてしか見ていない。


 競争。

 勝つか負けるか。

 関係を修復せよ。

 失点するな。


 人の心を、よくもここまで舞台装置のように言えるものだと、セレスティアは思う。


 けれど、それがローゼンベルク家だった。


 分かっていた。

 ずっと前から。


 だからこそ苦しい。


    ◇


 その夜、セレスティアはまた一人でいた。


 学園の中庭から少し外れた温室。

 夜になると人気が薄れ、昼の華やかさが嘘のように静かになる場所だ。ガラス越しに月の光が入り、夜でも花の輪郭だけは淡く浮かび上がる。湿った土と葉の匂いが、石造りの学園らしくないぬくもりを作っていた。


 本当は、ここへ来るつもりではなかった。


 ただ部屋にいても息が詰まる気がして、気づけば足が向いていたのだ。

 呼吸を整えたい。

 少しだけ一人になりたい。

 でも完全に一人では、逆に押し潰されそうでもある。


 そんな矛盾した気分の中で、ふと彼女は思い出した。


 あの男なら、たぶん呼べば来る。


 理由を問うより先に。

 深読みするより先に。

 ただ“少しだけ話がありますの”と言えば、妙にまっすぐ来てしまうだろう。


 その確信があったことに、セレスティアは自分で少し腹が立った。


 だが結局、短い伝言を送ってしまった。


 そして今、彼女は温室の奥の長椅子に座りながら、そのことを少しだけ後悔し始めていた。


 何を話すのか。

 どこまで話すのか。

 そもそも、話す必要があるのか。


 整理のつかない思考の中で、足音がした。


「失礼いたします」


 聞き慣れた、静かな声。


 九十九院霊真が温室へ入ってくる。

 夜の湿った空気の中でも、彼だけは妙に清浄な気配をまとっているように見えるのが少し癪だった。


「お呼び立てしてしまって、失礼しましたわ」


 セレスティアはいつもどおり、形を整えた声音でそう言った。


 霊真は少しだけ首を下げる。


「いいえ。お加減でも悪いのかと」


「……そういう言い方、本当にやめてくださる?」


「違いましたか」


「違わない時もありますけれど」


 言ってから、しまったと思う。


 だが霊真はそこを突かなかった。

 ただ自然な動きで少し距離を保ち、長椅子の端へ腰を下ろす。近すぎず、遠すぎず。こちらが逃げなくて済む位置を、いつのまにか正確に選んでいるのがまた腹立たしい。


 沈黙が落ちる。


 温室の天井越しに月が見える。

 葉の影が床へ揺れている。

 遠くで夜風が木々を鳴らしていた。


「……家から、また書簡が来ましたの」


 先に口を開いたのは、セレスティア自身だった。


 霊真は何も急かさない。

 ただ視線だけを向ける。


「そうでしたか」


「それだけ?」


「おつらそうでしたので」


 淡々としているのに、妙に核心へ触れる。

 セレスティアは思わず少しだけ笑ってしまった。


「あなた、本当にそういうところですわよ」


「よく分かりません」


「でしょうね」


 少しだけ息を吐く。

 それでようやく、続きが口から出た。


「次の場で失点するな、と」

「はい」

「王子との関係を修復しろ、と」

「はい」

「庶民娘との競争に負けるな、と」


 最後の言葉だけ、少し声が固くなった。


 霊真はそこでようやく、ごくわずかに眉を寄せた。

 怒ったというほどではない。

 だが、不快だと感じたことは分かる顔だった。


「競争、でしょうか」


「家にとってはそうなのでしょうね」


 セレスティアはガラス越しの夜を見る。


「わたくしがどう思うかなんて、あちらには関係ありませんの。王子妃に相応しくあれ。家名を穢すな。勝て。失点するな。負けるな。そういうことばかり」


 言葉が滑り出すと、止まらなくなりそうで少し怖かった。


 けれど今夜は、止めたくない気持ちも少しあった。


「婚約者として失敗できない。公爵家の娘として失敗できない。学園の中で弱る姿も見せられない。皆、わたくしが少しでも崩れれば、そこから好きなように物語を作りますもの」


 自嘲気味に笑う。


「高慢な令嬢が焦っている、でも構いませんし。悪役令嬢が落ちぶれた、でも構いません。どう転んでも、わたくしは誰かの見たい役にされる」


 そこまで言って、セレスティアは小さく息を吸った。


「……疲れますわよ、さすがに」


 その本音は、今までで一番小さかったかもしれない。


 だが霊真には十分届いたらしい。

 彼はただ静かに、次の言葉を待つようにそこにいた。


「わたくし、失敗できませんの」


 セレスティアは続ける。


「王子に見限られても終わり。家に見限られても終わり。学園で弱った姿を見せても終わり。だから、いつも立っていなくてはならない」


「はい」


「そうやって立っているうちに、いつのまにか自分が何のために立っているのか分からなくなることもありますわ」


 そこでようやく、彼女は霊真のほうを見た。


「……でも、あなたの前では少しだけ、疲れたと言えてしまう」


 その言葉を言った瞬間、自分で自分に驚いた。


 ここまで言うつもりはなかったのに。

 ここまで言ってはいけないと思っていたのに。


 霊真は表情を変えなかった。

 けれど、だからこそ逃げたくならなかった。


「そうでしたか」


「そうですわ」


「それは、よかったです」


「よかった?」


「はい。少なくとも、無理を隠し続けるよりは」


 その返しがまた腹立たしいほどまっすぐで、セレスティアは笑うしかなかった。


「あなたは本当に……」


「はい」


「いえ、いいですわ。どうせ自覚はないのでしょうし」


「たぶん」


 また“たぶん”だ。

 その曖昧な返答に、セレスティアは少しだけ肩の力を抜いた。


 夜の温室に二人きり。

 花の匂い。

 静かな月明かり。

 これは普通なら、もっと違う意味を持つ空気なのかもしれない。


 だが霊真は、たぶん本当に何も考えていない。

 ただ話を聞いているだけだ。

 それなのに、どうしてこうも胸が落ち着かないのか。


「あなたは」


 セレスティアがふいに言う。


「わたくしが嫌いではないの」


 聞いた瞬間、自分でしまったと思った。

 何を訊いているのか。

 そんなことを、なぜ今わざわざ。


 だが口から出た言葉は戻らない。


 霊真は少しも迷わなかった。


「はい」


 即答だった。


 セレスティアの呼吸が止まる。


「……即答ですのね」


「はい」


「どうして」


「嫌う理由が見当たりませんので」


 また、そういうことを言う。


 打算も飾りもなく、当たり前のことみたいに。


 セレスティアはしばらく声が出なかった。


 嫌う理由が見当たらない。

 そんな言葉を、自分は今までどれだけ聞いたことがあっただろう。


 高慢だと言われたことはある。

 怖いと言われたこともある。

 近寄りがたい、冷たい、完璧すぎる、疲れる――そういう評価ならいくらでもある。


 だが“嫌う理由が見当たらない”は初めてだった。


 そこには弁護も同情もない。

 ただ、相手の見た事実としてそれがある。


 胸の奥で何かが大きく跳ねる。


 自分でも分かるほど、好感度が一気に跳ね上がった。

 もちろん本人は“好感度”などという言葉では認識していない。

 だがもう、そうとしか言いようがない。


「……困りますわ」


 やっと絞り出した言葉は、それだった。


「何がでしょう」


「そういうふうに言われると」


 その続きは飲み込む。


 霊真はそれ以上追及しなかった。

 追及されたらたぶん終わっていたので、セレスティアとしては助かった。


 少しだけ沈黙が戻る。


 しかしその沈黙は、最初のものとは違う。

 重くない。

 少しだけ温度がある。


「あなた、家というものがどれほど面倒かご存じなくて?」


 セレスティアが少し意地悪く言う。


「完全には」


「でしょうね。あなたはそういうところの外から来た顔をしていますもの」


「そうかもしれません」


「でも」


 セレスティアは小さく息をつく。


「そういう外からの目で見てもらえるのは、少し……楽ですわ」


 それは本音だった。


 家の娘としてでもなく。

 婚約者としてでもなく。

 悪役令嬢としてでもなく。

 ただ、一人の疲れた人として見られること。


 それが、こんなにも息がしやすいものだとは思っていなかった。


「では、必要なときはまたお呼びください」


 霊真がさらりと言う。


 また、そういうことを。


 セレスティアは夜の空気をごまかすように視線を逸らした。


「気軽に申しますのね」


「はい」


「自分がどういうことを言っているか、分かっていらして?」


「お呼びいただければ参る、という意味ですが」


「……そういうところですわ」


 もう何度目か分からない台詞を呟く。


 そして、そのたびに本当にそうだと思う。


    ◇


 二人が気づかぬまま、温室の外の木陰には別の気配があった。


 黒い外套をまとった細身の影。

 学園の使用人にも、生徒にも見えない位置で、じっと温室の中を窺っている。


 距離があるため、会話の細部までは聞こえない。

 だが十分だった。


 セレスティアが警戒を解いていること。

 あの転移者を自分から呼んだこと。

 しかも二人きりで話していること。


 それだけで、計画の修正は必要だと分かる。


 影は音もなく身を引いた。


 夜の回廊を通り抜け、人気のない区画へ消える。

 その先で待っていたもう一つの気配へ、低い声で告げる。


「ローゼンベルク嬢、やはり転移者と接触を続けています」


「どの程度だ」


「想定以上に近いかと」


 沈黙。


 それから、冷えた声が返る。


「ならば追加だ」


「……はい」


「ローゼンベルク失脚計画に、転移者排除を加える」


 その言葉には、迷いがなかった。


「場を壊しただけの異物と思っていたが、違う。あれは駒ではなく、筋書きそのものを歪める」


「承知しました」


「次は、二つ同時に崩す」


 夜の闇の中で、計画だけが静かに形を変える。


    ◇


 一方その頃、温室の中ではまだ二人の会話が続いていた。


 霊真は相変わらず、遠くで何かが動き始めていることに気づいていない。

 ただ、目の前の令嬢の呼吸が少し楽になっていることだけを見ていた。


 セレスティアもまた、今この時間がどれだけ危ういものへ繋がりつつあるか知らない。


 ただ、自分が少しだけ素に近い声で話せていることに驚いていた。


 それで十分だと思ってしまうくらいには、彼女はもう、この転移者に救われ始めていた。

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