表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/20

第18話 聖女候補、恋ではないと言い張るには少し無理がある

ミレーユ・セラフィナは、その日ずっと落ち着かなかった。


 朝の祈りを捧げても、昼の講義を受けても、聖女候補として求められる所作を一つ一つ丁寧にこなしても、胸の奥に残るざわめきが消えない。


 原因は分かっている。


 九十九院霊真だ。


 あの転移者。

 異世界から来たというのに、妙に静かで、妙に礼儀正しくて、妙に人を真っ直ぐ見てしまう男。

 しかも祈る姿が、ひどく不思議だった。


 ミレーユは幼いころから祈りと共に育った。


 祈りとは何か。

 信仰とは何か。

 人を癒し、導き、正しき方へ照らすために何を為すべきか。


 そういうことを教えられてきたし、自分でもそれを疑ったことはない。聖女候補として学園へ来てからも、その軸はぶれていないつもりだった。


 だが霊真の祈りを見たとき、ミレーユは初めて、少しだけ自分の足場が揺れるのを感じた。


 祈りとは本来、もっと“向ける”ものだと思っていた。

 神へ。

 人へ。

 あるいは自分の願いへ。


 けれど、霊真のそれは少し違う。


 何かを強く願っているように見えない。

 誰かへ見せようとしているようにも見えない。

 なのに、たしかに深く、祈りとして成立している。


 あれは何なのか。


 理解したい。

 知りたい。

 そして、できることならもう一度、近くで見てみたい。


 ――そう思ってしまっている時点で、もう十分に落ち着いていないのだが、ミレーユ自身はそこをまだ“探究心”の範囲に押し込めようとしていた。


    ◇


 夕刻、礼拝堂には人が少なかった。


 授業の終わったあとの時間帯は、食堂や談話室へ向かう生徒が多い。礼拝堂は朝と夜に人が集まりやすく、その合間は静かなものだ。


 石造りの床。

 高い天井。

 細い窓から差し込むやわらかな橙の光。

 磨かれた長椅子。

 そして、祈りのために整えられた静けさ。


 ミレーユはその空気に少しだけ救われながら、中へ足を踏み入れた。


 すると、すでにそこに人影があった。


 長椅子の一つへ静かに腰かけ、目を閉じている男。

 黒髪。

 無駄のない姿勢。

 華やかさはないのに、なぜか視線を引く静けさ。


 九十九院霊真だった。


 ミレーユの胸が、わずかに跳ねる。


 驚いたからだ。

 たぶんそうだ。

 驚いただけ。


「……レイシン様」


 声をかけると、霊真は静かに目を開けた。


「ミレーユ殿」


「やはり、いらっしゃいましたのね」


「こういう場所は落ち着きますので」


 その返答があまりにも自然で、ミレーユは少しだけ笑ってしまった。


「礼拝堂を“落ち着く場所”と真っ先に言う方は、学園でもそう多くありませんわ」


「そうでしょうか」


「そうです。大抵は、祈る場所、誓う場所、あるいは心を清める場所と申しますもの」


「それらも、落ち着く場所ではありませんか」


「……ええ、たしかに」


 言われてみればその通りだった。


 ミレーユは長椅子の端へ腰を下ろした。

 霊真との距離は近すぎず遠すぎず。礼拝堂という場所にふさわしい、穏やかな間合いだった。


 しばらく、二人のあいだに静かな沈黙が流れる。


 気まずくはない。

 むしろ、その逆だった。

 霊真は無理に会話を埋めようとしない。その沈黙の中に変な圧がないので、隣にいても肩がこらない。


 ミレーユは少しだけ息を整えてから、本題を口にした。


「あなたに、聞きたいことがあったのです」


「はい」


「以前、ここで祈ってくださいましたでしょう」


「ええ」


「あのときから、少し……気になっておりましたの」


 “気になっている”という言い回しに、自分で少しだけ引っかかった。

 だが言い直すほどではないと思い、そのまま続ける。


「あなたの祈りは、誰かに認められるためのものではないのですね」


 霊真は少しだけ首をかしげた。


「認められるため、でしょうか」


「はい。私たちの祈りには、どうしても“正しくあろうとする形”が入ります。神に顔向けできるように。人を導けるように。聖職にふさわしくあるように……」


 そこまで言って、ミレーユは小さく笑った。


「それが悪いわけではありませんのよ。ただ、あなたの祈りには、それが見えなかった」


 霊真はしばらく考えた。


 考えるときの沈黙が長い。

 だがその長さが、いい加減に答えを作っていない証拠のようで、ミレーユは嫌いではなかった。


「祈りは」


 やがて霊真が口を開く。


「見せるものではなく、整えるものかと」


 ミレーユの呼吸が、少しだけ止まった。


「整える……」


「はい。少なくとも、私にとっては」


 霊真は礼拝堂の前方を見たまま続ける。


「心を整える。息を整える。自分の中にある乱れを静める。その先に、ようやく人に向き合う余地ができるのだと思います」


 ミレーユはその横顔を見つめた。


 彼の言葉は、華やかではない。

 説法めいて人を圧倒するでもない。

 けれど、すっと胸へ入ってくる。


「では、人を救うための祈りではないのですか」


「結果として、そうなることはあるかもしれません」


「結果として」


「はい。ですが、最初から“救ってみせる”と力んだ祈りは、どこかで自分のためになる気がしますので」


 それは、ミレーユにとって少し痛い言葉だった。


 彼女は聖女候補として、常に“人を導く者”であろうとしてきた。

 人を癒し、人に祈りを示し、正しきものへ繋ぐ存在であろうとしてきた。


 そのこと自体を間違いとは思わない。

 だが今、霊真の言葉を聞くと、自分の祈りの中に

 “そうあらねばならない自分”

 が少し強すぎたのではないか、と気づいてしまう。


 整える前に、見せようとしていたのではないか。

 静まる前に、役割へ寄りかかっていたのではないか。


 ミレーユは胸の前で手を組み、ゆっくり息を吐いた。


「あなたは……本当に、不思議な方ですわ」


「そうでしょうか」


「ええ。わたくし、自分の信仰が揺らぐようなことを言われているのに、不思議と嫌な気持ちにはなりませんもの」


「それは、よかったです」


 よかったのだろうか。


 そう思いながらも、ミレーユは少しだけ笑った。

 たぶん、よかったのだ。


    ◇


 礼拝堂の空気は静かで、時間の流れが少し遅い。


 ミレーユはその静けさの中で、普段ならあまり言わないようなことまで口にしていた。


「わたくし、聖女候補としてここへ来てから、ずっと“正しくあること”ばかり考えていた気がします」


「はい」


「皆に安心されること。見本であること。穢れぬこと。そういうものに寄りかかっていたのかもしれません」


「そうかもしれません」


 霊真は否定しない。

 だが責めもしない。

 その受け止め方が、ミレーユには心地よかった。


「あなたは怖くありませんの?」


「何がでしょう」


「そんなふうに、自分の内側を整えるばかりの祈りでは、誰にも評価されないかもしれないことが」


 霊真は一瞬だけ目を瞬いた。

 それから、少し不思議そうに言った。


「評価は、必要でしょうか」


 必要でしょうか。


 その返しは、あまりにも自然だった。


 ミレーユは口をつぐむ。


 必要か不要かで言えば、たぶん人の世では必要だ。

 教会にも学園にも、立場にも役割にも、評価はついて回る。


 だが霊真は、そこを本気で第一には置いていない。


「……あなたは、誰かに認められたいと思ったことがありませんの?」


「あるかもしれません」


 霊真は素直に答えた。


「ですが、認められることを先に置くと、だいたい良くない方向へいきますので」


「経験談みたいにおっしゃいますのね」


「経験談です」


 その返しに、ミレーユは思わずくすりと笑った。


 そしてその拍子に、少しだけ体の向きが霊真のほうへ寄る。


 礼拝堂の長椅子は思ったより幅が狭い。

 加えて、ミレーユの髪は長かった。


 ふわりと、淡い香りと共に金の髪が流れ、霊真の肩へかかった。


「……っ」


 ミレーユの心臓が跳ねる。


 距離が近い。

 近すぎる。

 今まで落ち着いて話していたくせに、こういう物理的な近さだけは別問題だった。


 一方、霊真は肩へかかった髪の感触に気づき、普通に避けようとした。


 礼儀のつもりである。


 女性の髪が自分の肩へかかっているなら、たぶん避けるべきだろう、と考えたのだ。


 だが、その避け方があまりよくなかった。


 逃げようとした方向がミレーユ側へ少し寄る形になってしまい、結果として二人の距離がさっきより微妙に近くなる。


「……」

「……」


 今度は本当に近い。


 ミレーユの髪はまだ肩先に残り、霊真の顔も思ったより近い。

 呼吸がかかるほどではない。

 だが、礼拝堂の静けさの中では十分すぎるほど意識する距離だった。


「も、申し訳ありません」


 先に口を開いたのは霊真だった。

 やはり謝る。


「い、いえ……!」


 ミレーユも慌てて体を戻す。

 頬が熱い。

 絶対に赤くなっている。


 霊真は何が起きたのか理解しきれていない顔で、

「髪が」

 とだけ言った。


「は、はい、髪ですね」

「はい」

「……そうですわね」


 会話が変である。


 だがミレーユには、それ以上まともな言葉が出てこなかった。

 霊真のほうはたぶん、礼儀のつもりで避けただけだ。

 下心など欠片もない。

 だからこそ、この近さが妙にまずい。


 礼拝堂の前方で灯る小さな明かりだけが、静かに揺れていた。


    ◇


 ようやく呼吸を整え直してから、ミレーユは少しだけ強引に話題を戻した。


「……あなたは、人を救うことについても同じようにお考えですの?」


「同じ、でしょうか」


「見せるためではなく、整えることの延長だという意味で」


 霊真は今度はすぐに答えた。


「はい。たぶん、そうです」


「たぶん」


「人を救う、などと大きく申すのは少々おこがましい気がしますので」


 それも、ミレーユには意外だった。


 中庭で魔物を鎮め、

 断罪の場に割って入り、

 誰も見ようとしない苦しみを見抜く。


 そういうことをしておいて、この人はまだ“人を救うなどとは大きく言えない”と考えているのか。


「……あなたは、ご自分がしていることを分かっていらっしゃらないのですね」


「そうでしょうか」


「そうです」


 今度ははっきり言った。


 霊真は少し困ったように目を伏せる。

 その顔すら、なぜかミレーユにはやわらかく映った。


 この人は、誰かに褒められるためにも、崇められるためにも動いていない。

 だからこそ、こういう静かな言葉に妙な力が宿るのだろう。


 ミレーユは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 尊敬だ。

 たぶん、そう。

 まずは。


 ……まずは?


 そこで自分の思考に引っかかり、ミレーユは慌てて意識を逸らした。


    ◇


 礼拝堂を出るころには、外はだいぶ暗くなっていた。


 石畳の上に夕方の名残が薄く落ち、学園の窓にはぽつぽつと灯りがつき始めている。


「今日は、ありがとうございました」


 ミレーユがそう言うと、霊真は静かに頭を下げた。


「こちらこそ」


「……また、お話ししてもよろしいですか」


「もちろんです」


 あまりにも自然な返答だった。


 そこに特別な意味は、たぶんない。

 誰に対してもそう答えるのだろう。

 それが分かっているのに、ミレーユの胸は少しだけ軽くなった。


「では、また」


「はい。お気をつけて」


 その言葉を背に、ミレーユは回廊を歩き出す。


 途中で一度だけ振り返ったが、霊真はもう礼拝堂の静けさのほうへ意識を戻しているようだった。

 そこがまた、らしい。


    ◇


 自室へ戻ったあと、ミレーユは鏡の前で立ち止まった。


 自分の頬がまだ少し赤い。

 礼拝堂での近さを思い出しただけで、胸が変に落ち着かない。


「これは……」


 鏡の向こうの自分へ、小さく言い聞かせる。


「これは尊敬です……ええ、たぶん」


 たぶん。


 そこで言い切れない時点で、もう少し無理がある気もした。


 だがミレーユは、その先の言葉をまだ口にしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ