第18話 聖女候補、恋ではないと言い張るには少し無理がある
ミレーユ・セラフィナは、その日ずっと落ち着かなかった。
朝の祈りを捧げても、昼の講義を受けても、聖女候補として求められる所作を一つ一つ丁寧にこなしても、胸の奥に残るざわめきが消えない。
原因は分かっている。
九十九院霊真だ。
あの転移者。
異世界から来たというのに、妙に静かで、妙に礼儀正しくて、妙に人を真っ直ぐ見てしまう男。
しかも祈る姿が、ひどく不思議だった。
ミレーユは幼いころから祈りと共に育った。
祈りとは何か。
信仰とは何か。
人を癒し、導き、正しき方へ照らすために何を為すべきか。
そういうことを教えられてきたし、自分でもそれを疑ったことはない。聖女候補として学園へ来てからも、その軸はぶれていないつもりだった。
だが霊真の祈りを見たとき、ミレーユは初めて、少しだけ自分の足場が揺れるのを感じた。
祈りとは本来、もっと“向ける”ものだと思っていた。
神へ。
人へ。
あるいは自分の願いへ。
けれど、霊真のそれは少し違う。
何かを強く願っているように見えない。
誰かへ見せようとしているようにも見えない。
なのに、たしかに深く、祈りとして成立している。
あれは何なのか。
理解したい。
知りたい。
そして、できることならもう一度、近くで見てみたい。
――そう思ってしまっている時点で、もう十分に落ち着いていないのだが、ミレーユ自身はそこをまだ“探究心”の範囲に押し込めようとしていた。
◇
夕刻、礼拝堂には人が少なかった。
授業の終わったあとの時間帯は、食堂や談話室へ向かう生徒が多い。礼拝堂は朝と夜に人が集まりやすく、その合間は静かなものだ。
石造りの床。
高い天井。
細い窓から差し込むやわらかな橙の光。
磨かれた長椅子。
そして、祈りのために整えられた静けさ。
ミレーユはその空気に少しだけ救われながら、中へ足を踏み入れた。
すると、すでにそこに人影があった。
長椅子の一つへ静かに腰かけ、目を閉じている男。
黒髪。
無駄のない姿勢。
華やかさはないのに、なぜか視線を引く静けさ。
九十九院霊真だった。
ミレーユの胸が、わずかに跳ねる。
驚いたからだ。
たぶんそうだ。
驚いただけ。
「……レイシン様」
声をかけると、霊真は静かに目を開けた。
「ミレーユ殿」
「やはり、いらっしゃいましたのね」
「こういう場所は落ち着きますので」
その返答があまりにも自然で、ミレーユは少しだけ笑ってしまった。
「礼拝堂を“落ち着く場所”と真っ先に言う方は、学園でもそう多くありませんわ」
「そうでしょうか」
「そうです。大抵は、祈る場所、誓う場所、あるいは心を清める場所と申しますもの」
「それらも、落ち着く場所ではありませんか」
「……ええ、たしかに」
言われてみればその通りだった。
ミレーユは長椅子の端へ腰を下ろした。
霊真との距離は近すぎず遠すぎず。礼拝堂という場所にふさわしい、穏やかな間合いだった。
しばらく、二人のあいだに静かな沈黙が流れる。
気まずくはない。
むしろ、その逆だった。
霊真は無理に会話を埋めようとしない。その沈黙の中に変な圧がないので、隣にいても肩がこらない。
ミレーユは少しだけ息を整えてから、本題を口にした。
「あなたに、聞きたいことがあったのです」
「はい」
「以前、ここで祈ってくださいましたでしょう」
「ええ」
「あのときから、少し……気になっておりましたの」
“気になっている”という言い回しに、自分で少しだけ引っかかった。
だが言い直すほどではないと思い、そのまま続ける。
「あなたの祈りは、誰かに認められるためのものではないのですね」
霊真は少しだけ首をかしげた。
「認められるため、でしょうか」
「はい。私たちの祈りには、どうしても“正しくあろうとする形”が入ります。神に顔向けできるように。人を導けるように。聖職にふさわしくあるように……」
そこまで言って、ミレーユは小さく笑った。
「それが悪いわけではありませんのよ。ただ、あなたの祈りには、それが見えなかった」
霊真はしばらく考えた。
考えるときの沈黙が長い。
だがその長さが、いい加減に答えを作っていない証拠のようで、ミレーユは嫌いではなかった。
「祈りは」
やがて霊真が口を開く。
「見せるものではなく、整えるものかと」
ミレーユの呼吸が、少しだけ止まった。
「整える……」
「はい。少なくとも、私にとっては」
霊真は礼拝堂の前方を見たまま続ける。
「心を整える。息を整える。自分の中にある乱れを静める。その先に、ようやく人に向き合う余地ができるのだと思います」
ミレーユはその横顔を見つめた。
彼の言葉は、華やかではない。
説法めいて人を圧倒するでもない。
けれど、すっと胸へ入ってくる。
「では、人を救うための祈りではないのですか」
「結果として、そうなることはあるかもしれません」
「結果として」
「はい。ですが、最初から“救ってみせる”と力んだ祈りは、どこかで自分のためになる気がしますので」
それは、ミレーユにとって少し痛い言葉だった。
彼女は聖女候補として、常に“人を導く者”であろうとしてきた。
人を癒し、人に祈りを示し、正しきものへ繋ぐ存在であろうとしてきた。
そのこと自体を間違いとは思わない。
だが今、霊真の言葉を聞くと、自分の祈りの中に
“そうあらねばならない自分”
が少し強すぎたのではないか、と気づいてしまう。
整える前に、見せようとしていたのではないか。
静まる前に、役割へ寄りかかっていたのではないか。
ミレーユは胸の前で手を組み、ゆっくり息を吐いた。
「あなたは……本当に、不思議な方ですわ」
「そうでしょうか」
「ええ。わたくし、自分の信仰が揺らぐようなことを言われているのに、不思議と嫌な気持ちにはなりませんもの」
「それは、よかったです」
よかったのだろうか。
そう思いながらも、ミレーユは少しだけ笑った。
たぶん、よかったのだ。
◇
礼拝堂の空気は静かで、時間の流れが少し遅い。
ミレーユはその静けさの中で、普段ならあまり言わないようなことまで口にしていた。
「わたくし、聖女候補としてここへ来てから、ずっと“正しくあること”ばかり考えていた気がします」
「はい」
「皆に安心されること。見本であること。穢れぬこと。そういうものに寄りかかっていたのかもしれません」
「そうかもしれません」
霊真は否定しない。
だが責めもしない。
その受け止め方が、ミレーユには心地よかった。
「あなたは怖くありませんの?」
「何がでしょう」
「そんなふうに、自分の内側を整えるばかりの祈りでは、誰にも評価されないかもしれないことが」
霊真は一瞬だけ目を瞬いた。
それから、少し不思議そうに言った。
「評価は、必要でしょうか」
必要でしょうか。
その返しは、あまりにも自然だった。
ミレーユは口をつぐむ。
必要か不要かで言えば、たぶん人の世では必要だ。
教会にも学園にも、立場にも役割にも、評価はついて回る。
だが霊真は、そこを本気で第一には置いていない。
「……あなたは、誰かに認められたいと思ったことがありませんの?」
「あるかもしれません」
霊真は素直に答えた。
「ですが、認められることを先に置くと、だいたい良くない方向へいきますので」
「経験談みたいにおっしゃいますのね」
「経験談です」
その返しに、ミレーユは思わずくすりと笑った。
そしてその拍子に、少しだけ体の向きが霊真のほうへ寄る。
礼拝堂の長椅子は思ったより幅が狭い。
加えて、ミレーユの髪は長かった。
ふわりと、淡い香りと共に金の髪が流れ、霊真の肩へかかった。
「……っ」
ミレーユの心臓が跳ねる。
距離が近い。
近すぎる。
今まで落ち着いて話していたくせに、こういう物理的な近さだけは別問題だった。
一方、霊真は肩へかかった髪の感触に気づき、普通に避けようとした。
礼儀のつもりである。
女性の髪が自分の肩へかかっているなら、たぶん避けるべきだろう、と考えたのだ。
だが、その避け方があまりよくなかった。
逃げようとした方向がミレーユ側へ少し寄る形になってしまい、結果として二人の距離がさっきより微妙に近くなる。
「……」
「……」
今度は本当に近い。
ミレーユの髪はまだ肩先に残り、霊真の顔も思ったより近い。
呼吸がかかるほどではない。
だが、礼拝堂の静けさの中では十分すぎるほど意識する距離だった。
「も、申し訳ありません」
先に口を開いたのは霊真だった。
やはり謝る。
「い、いえ……!」
ミレーユも慌てて体を戻す。
頬が熱い。
絶対に赤くなっている。
霊真は何が起きたのか理解しきれていない顔で、
「髪が」
とだけ言った。
「は、はい、髪ですね」
「はい」
「……そうですわね」
会話が変である。
だがミレーユには、それ以上まともな言葉が出てこなかった。
霊真のほうはたぶん、礼儀のつもりで避けただけだ。
下心など欠片もない。
だからこそ、この近さが妙にまずい。
礼拝堂の前方で灯る小さな明かりだけが、静かに揺れていた。
◇
ようやく呼吸を整え直してから、ミレーユは少しだけ強引に話題を戻した。
「……あなたは、人を救うことについても同じようにお考えですの?」
「同じ、でしょうか」
「見せるためではなく、整えることの延長だという意味で」
霊真は今度はすぐに答えた。
「はい。たぶん、そうです」
「たぶん」
「人を救う、などと大きく申すのは少々おこがましい気がしますので」
それも、ミレーユには意外だった。
中庭で魔物を鎮め、
断罪の場に割って入り、
誰も見ようとしない苦しみを見抜く。
そういうことをしておいて、この人はまだ“人を救うなどとは大きく言えない”と考えているのか。
「……あなたは、ご自分がしていることを分かっていらっしゃらないのですね」
「そうでしょうか」
「そうです」
今度ははっきり言った。
霊真は少し困ったように目を伏せる。
その顔すら、なぜかミレーユにはやわらかく映った。
この人は、誰かに褒められるためにも、崇められるためにも動いていない。
だからこそ、こういう静かな言葉に妙な力が宿るのだろう。
ミレーユは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
尊敬だ。
たぶん、そう。
まずは。
……まずは?
そこで自分の思考に引っかかり、ミレーユは慌てて意識を逸らした。
◇
礼拝堂を出るころには、外はだいぶ暗くなっていた。
石畳の上に夕方の名残が薄く落ち、学園の窓にはぽつぽつと灯りがつき始めている。
「今日は、ありがとうございました」
ミレーユがそう言うと、霊真は静かに頭を下げた。
「こちらこそ」
「……また、お話ししてもよろしいですか」
「もちろんです」
あまりにも自然な返答だった。
そこに特別な意味は、たぶんない。
誰に対してもそう答えるのだろう。
それが分かっているのに、ミレーユの胸は少しだけ軽くなった。
「では、また」
「はい。お気をつけて」
その言葉を背に、ミレーユは回廊を歩き出す。
途中で一度だけ振り返ったが、霊真はもう礼拝堂の静けさのほうへ意識を戻しているようだった。
そこがまた、らしい。
◇
自室へ戻ったあと、ミレーユは鏡の前で立ち止まった。
自分の頬がまだ少し赤い。
礼拝堂での近さを思い出しただけで、胸が変に落ち着かない。
「これは……」
鏡の向こうの自分へ、小さく言い聞かせる。
「これは尊敬です……ええ、たぶん」
たぶん。
そこで言い切れない時点で、もう少し無理がある気もした。
だがミレーユは、その先の言葉をまだ口にしなかった。




