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第17話 天才魔術師、観察対象に私情が混じり始める

 ルシアン・エーデル=クロイツという少年は、たぶん寝不足でも顔がいい。


 九十九院霊真は、図書塔の上階へ足を踏み入れた瞬間にそう思った。


 それが第一印象として正しいのかどうかは分からない。だが、銀髪の天才魔術師が本の山に埋もれながら、明らかに昨夜あまり眠っていない顔で書き物をしている様子を見れば、普通の人間なら「大丈夫だろうか」と思う前に「どうして寝不足でもそんなに整っているのだろう」と一瞬くらい考えても許される気がした。


 もっとも、霊真の場合、それを本人へ言うつもりはなかった。


 図書塔の上階は静かだった。


 高い天井。

 壁を埋める本棚。

 細い窓から射し込む午後の光。

 紙と革と、少しだけ古いインクの匂い。


 人の気配も少ない。学園の中でもここは比較的、霊真の好きな空気だった。礼拝堂とは違うが、言葉が静かに積もっている場所には似たような落ち着きがある。


 その一角で、ルシアンは机に紙を広げ、何やら複雑な記号を書きつけていた。


「来ましたか」


 こちらを見もしないまま、そう言う。


「お呼びと伺いましたので」


「ええ。呼びました」


 やはり寝不足らしい。

 だが目だけは異様に冴えていた。


 机の周囲には何冊もの本が開かれており、紙には魔法陣めいた図、波形のような線、見慣れぬ文字列が乱雑に書かれている。一般人なら近づくだけで頭が痛くなりそうだが、ルシアン本人は極めて真剣そのものだった。


 霊真は一歩近づき、机の上を見た。


「これは何でしょう」


「あなたのせいで増えた問題です」


 大変理不尽な言い方だった。


「私のせい、でしょうか」


「少なくとも加速はしました」


 ルシアンはようやく顔を上げる。

 銀色の瞳の下に、やはり薄い疲労の影がある。


「以前もお話ししましたが、学園内の空気には妙な偏りがあります。特定の人物に悪感情が集中し、些細な噂が異様な速度で増幅され、誰かが“その役”に押し込められるような流れができる」


 霊真は静かに聞く。


「ローゼンベルク嬢の件ですか」


「それだけではありません。ですが、今もっとも露骨なのは彼女です」


 ルシアンは一本の紙を取り上げた。

 そこには日付と、簡単な出来事、それに何か数値のようなものが並んでいる。


「中庭での転移騒動」

「懇親会前の噂の増幅」

「断罪未遂」

「その翌朝の感情の偏り」


 彼は紙の一つを指先で叩いた。


「普通、人の噂はもう少しばらつきます。好意、反感、無関心、嘲笑、同情。そういうものが混じる。ところが今回は、ある種の感情だけが不自然に増幅されている」


「悪感情、でしょうか」


「ええ。もっと言えば、“誰かを悪役として見たい感情”です」


 その言い方は、妙にしっくりきた。


 霊真も同じものを感じていた。

 この学園には、最初から誰かをその役へ押し込めて、物語として消費したがるような空気がある。


 だがルシアンが見ているのは、空気の比喩ではなく、もっと実際的なものらしい。


「これはただの人間関係のこじれじゃないかもしれない」


 彼は低くそう言った。


 その一言で、図書塔の静けさが少しだけ深くなる。


「……と、申しますと」


 霊真が促すと、ルシアンは一枚の羊皮紙を見せた。

 そこには学園の簡略図と、いくつか印がついている。


「私は魔力の流れを観測しています」


「魔力」


「ええ。魔法は使われて初めて現れるものではありません。人の感情、意思、空気、場の偏り……そういったものにも微細な影響が出る。特に学園のように若い術者が多い場所では、それが顕著です」


 霊真には専門的な部分までは分からない。

 だが、ルシアンが本気で何かを追っていることは分かった。


「ローゼンベルク嬢に関する噂が広がる地点、感情の波が大きく揺れる場所、そして懇親会前後で魔力の残滓が偏った箇所を拾っていくと……どうにも、人為的な匂いがする」


「誰かが、意図していると」


「断言はまだしません」


 ルシアンは眉間を押さえた。


「ですが、違和感は多い。些細な噂の増幅速度。空気の偏り方。特定人物への悪感情の集中。まるで、そこへ人の心が流れやすくなるように、見えない坂が作られているみたいだ」


 その表現は、霊真にも分かりやすかった。


 坂があれば、水は自然にそちらへ流れる。

 人の感情も同じなのかもしれない。


「それは魔法なのでしょうか」


「魔法、というより……術式と心理誘導の中間かもしれません」


「そのようなことが可能なのですか」


「理論上は」


 ルシアンは少しだけ悔しそうに唇を歪めた。


「だから厄介なんです。明確な洗脳ではない。命令でもない。ただ、人が“そう感じやすくなる”だけ。だから発動者の痕跡が薄いし、被害者も自分の感情だと思い込む」


 それは確かに厄介だった。


 誰かに操られていると分かれば、人はまだ抵抗できる。

 だが、自分の感情だと思っているものが実は流されていたのだとしたら、気づくこと自体が難しい。


 霊真は少し考えた。


「では、ローゼンベルク殿に向いている悪感情のすべてが、自然なものではない可能性がある」


「そうです」


 ルシアンは即答した。


「もちろん、彼女自身にも人を苛立たせる要素はあるでしょう。あの性格ですし、物言いもきつい。ですが、それにしても偏りすぎている」


 そこは容赦ない。


 だが事実でもあるのだろう。

 セレスティアの気位の高さは本物だ。優しく誤解されるタイプではない。


 それでも、あそこまで一方的に“悪役令嬢”として機能しすぎるのは不自然だと、霊真も思う。


「それで、私に何を」


「あなたの力を借りたい」


 ルシアンはきっぱり言った。


「私は理論と観測で追えます。ですが、あなたは“乱れたものを静める”のでしょう?」


「たぶん」


「たぶんで返さないでください」


「申し訳ありません」


「本当に厄介な人だ」


 そう言いながら、ルシアンの声音にはもうかなり私情が混じっていた。

 観察対象に対する乾いた興味だけではない。自分の観測を裏づけてくれるかもしれない相手に対する、期待と執着が見える。


 彼は完全に、この件を他人事ではなく“自分が解きたい謎”として抱え始めていた。


    ◇


「……上の棚にある赤い背表紙、取っていただけますか」


 不意にルシアンがそう言った。


 霊真が見上げると、たしかに高い本棚の上段に、それらしき分厚い本が挟まっている。ルシアンは小さな脚立を引き寄せ、そこへ乗ろうとしていた。


「私が取りましょうか」


「いえ、位置が分かっているのは私です」


「そうですか」


 ルシアンは脚立へ軽やかに上る。

 細身だが、動きに無駄はない。だが霊真の目から見ると、その脚立は少し古く、床とのかみ合わせも微妙だった。


「お気をつけて」


「誰に言っているんですか」

「あなたにです」

「分かっていますよ」


 そう言いながら、ルシアンが上段へ手を伸ばす。


 その瞬間だった。


 脚立の脚が、ほんのわずかに滑った。


「っ」


 ルシアンの表情が崩れる。

 片手が本棚へつくが、体勢が足りない。


 霊真の体は、またしても考えるより早く動いた。


 一歩踏み込み、脚立ごと倒れぬ角度で支え、同時にルシアンの腰と肩を軽く受ける。落下を止めるというより、体勢を戻すための支点を作る感じだ。


 結果として、距離が近くなった。


 かなり近い。


 ルシアンが驚いた顔のまま霊真の肩口のあたりを見ている。

 霊真は霊真で、支えたはいいが顔が近いことにあとから気づく。


「……大丈夫ですか」


「それは、こちらの台詞です」


 ルシアンの声が少しだけ掠れていた。


 脚立は倒れていない。

 だが二人の位置は明らかに近すぎる。

 図書塔の静けさの中で、それは妙に強い絵面だった。


 しかもタイミングの悪いことに、ちょうど本を返却しに来た女子生徒二人がその場面を見た。


「……え」

「ちょっと待って」

「今、何を」

「クロイツ様が……」

「レイシンさんと……近……」


 ひそひそ声が生まれる。


 ルシアンはゆっくり霊真の腕から離れ、降り立った。

 耳の先がほんの少しだけ赤い。


「助かりました」


「いえ、転倒は危険ですので」


「そういう意味ではなく」


「はい?」


「……いえ、今はいいです」


 ルシアンは本を抱え直し、なぜか少しだけ不機嫌そうな顔をした。

 だがその不機嫌の中身は、霊真には分からない。


 女子生徒たちはすでに「何も見ていません」という顔で、でも確実にすべてを見た者の速度で階下へ消えていった。今日中に別方向の妙な噂が増えるのだろうなと、霊真は静かに思う。


「この学園の生徒たちは、人の接触を必要以上に意味づけしすぎではありませんか」


 霊真が率直にそう言うと、ルシアンはこめかみを押さえた。


「あなたがそれを言いますか」


「何か間違っておりましたら」


「間違ってはいません。ですが、あなたが一番無自覚に燃料を投下しています」


 燃料とは何だろうか。

 火を起こすときの薪のようなものだろうか。

 比喩だとは分かるが、霊真には少し難しかった。


    ◇


 日が傾きかけたころ、図書塔の窓から差す光はだいぶ柔らかくなっていた。


 机の上には本が増えている。

 ルシアンの紙の束も増えている。

 にもかかわらず、彼の思考は妙に冴えているように見えた。


「ローゼンベルク嬢の件が終わったあとも」


 ふいにルシアンが言った。


 霊真は本から顔を上げる。


「はい」


「あなた、学園に残ってください」


 それはかなり本気の声だった。


「残る、でしょうか」


「ええ。少なくとも、しばらく」


 ルシアンは銀の目でまっすぐ霊真を見る。


「あなたの力は、この件だけに使って終わるには惜しい。理論としても、人間関係への影響としても、観測対象としても、あまりに貴重です」


「観測対象」


「言い方が悪かったですね」


「少々」


「ですが本音です」


 全然取り繕わない。


 霊真は少しだけ考える。

 学園に残るかどうかは、自分一人で即断してよい話でもない。元の世界へ戻る方法も分かっていないし、自分がここへ来た理由すらまだ完全には見えていない。


「それは、研究のためにでしょうか」


「主に」


 ルシアンは言う。


 そして、ほんの一拍おいてから付け足した。


「……それだけではないかもしれません」


 その声音が少しだけ低くなったことを、霊真は聞き逃さなかった。

 だが意味のすべてまでは分からない。


 一方、その会話の最後の部分だけを、またしても近くにいた女子生徒が拾っていた。


「え、今……」

「“残ってください”って……」

「クロイツ様、そんな顔するの……?」

「完全に違う意味に聞こえるんだけど」

「待って、王子殿下とリリアーナさんとローゼンベルク様だけでも大変なのに……」


 学園は今日も騒がしい。


 ルシアンは女子生徒たちのざわめきに気づいたらしく、深々と息をついた。


「……だからこの学園は嫌なんです」


「皆さまが観察なさるからでしょうか」


「それもあります」


 ルシアンは本を閉じた。


「ですが、今はそれでいい。どうせ隠しようもない」


 何を隠しようもないのか、霊真にはいま一つ分からなかった。

 ただ少なくとも、この天才魔術師がもう単なる“面白い観察対象”としてではなく、自分を必要な存在として見始めていることだけは、はっきり分かった。


 そしてそれは、たぶんセレスティアの件が学園内の噂や恋愛騒動だけでは済まないと、彼の中で確信が深まっている証でもあった。


 図書塔の窓の外では、夕暮れの光が学園を斜めに照らしている。


 美しく整ったその景色のどこかに、見えない歪みが潜んでいる。


 ルシアンはそれを理知で追い、

 霊真はそれを違和感として感じ取り、

 そして学園の誰かが、その歪みを意図して使っている。


 物語は静かに、次の段階へ進み始めていた。

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