第16話 王子ルート、修正不能の気配が出てきました
王子という立場は、たぶん便利なようで便利ではない。
九十九院霊真はそう思ったことを、もちろん本人へそのまま言ったわけではない。だが、アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタインという青年を見ていると、どうしてもその印象が強くなる。
彼は王子らしい。
立ち姿は整い、言葉遣いも洗練され、表情には常にある程度の節度がある。誰と話しても失礼はなく、誰に対しても簡単には崩れない。まるで“王子とはこうあるべきだ”という像を、幼い頃から毎日少しずつ塗り重ねてきたような人物だった。
だが、それだけに分かりやすかった。
今の彼は、明らかに迷っている。
懇親会の夜から数日。
学園の空気は前よりさらに複雑になっていた。
セレスティアへの断罪は止まった。
だが疑念が晴れたわけではない。
リリアーナは空気に流された自分を見つめ直し始め、
ルシアンは面白がるように観察を深め、
ミレーユは霊真を見る目に妙な確信を宿し始めている。
そしてアルフレッドだけが、いちばん大きな立場にいるくせに、いちばん行き場を失っているように見えた。
そんなある日の昼下がり、霊真は一通の短い伝言を受け取った。
中庭の南側、噴水裏の長椅子にて。少し話したい。――アルフレッド
大変まっすぐな呼び出しである。
霊真は時間どおりに中庭へ向かった。
◇
昼の光を受けた学園の中庭は、やはり美しすぎた。
白い石畳。
整えられた芝生。
風に揺れる花壇。
中央の噴水は陽光を弾き、まるで“ここで重要な会話をしてください”と言わんばかりの絵面である。
そして、その噴水裏の長椅子に、アルフレッドはひとりで座っていた。
王子が一人で、である。
それだけでも充分に絵になるが、今日はどこか近寄りがたい気配が薄い。疲れているわけではない。むしろ考え込みすぎて、王子としての完成度が少し下がっているような顔だった。
霊真は近づき、一礼する。
「お呼びでしょうか」
「来てくれたか」
アルフレッドは顔を上げる。
青い瞳の下に、うっすらと寝不足の気配があった。
「お隣へ」
「はい」
霊真が長椅子の端へ腰を下ろす。
王子と転移者賢者が昼下がりの中庭で二人きり。
見つかったら面倒そうだな、と霊真は思った。
そして、実際に面倒そうなことになっていた。
少し離れた花壇の向こう、回廊の柱の陰、図書塔へ続く小径の角――あちこちに「偶然通りかかりました」という顔をした女子生徒たちがいる。
偶然にしては配置がよすぎる。
「あれ、王子殿下じゃない?」
「隣……レイシンさん?」
「二人きり……?」
「何あれ、王子ルートまで入ってるの?」
「しっ、聞こえるって!」
聞こえている。
だがアルフレッドはそれを無視した。
王子としては慣れているのかもしれない。
霊真は慣れていないが、いちいち反応しても仕方がないので従った。
「……君は、やはり気にしないのだな」
「何をでしょう」
「周囲の視線だ」
「多少は気になります」
「そうは見えない」
「皆さま、よくそのようにおっしゃいます」
それが少しだけ可笑しかったのか、アルフレッドはかすかに口元を緩めた。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「単刀直入に聞こう。君は、私をどう見ている」
唐突だが、今のアルフレッドらしい問いだった。
霊真は少し考えた。
王子としてではなく、一人の人としてどう見ているか。
そういう問いなのだろう。
「難しいご質問です」
「答えにくいか」
「はい。ですが、逃げるのも失礼かと」
霊真は言葉を選ぶ。
「殿下は、正しくあろうとしておられる方だと思います」
アルフレッドは目を伏せた。
褒め言葉として受け取れないらしい。
「……その“正しく”が、今は分からない」
ぽつりと、そんな本音が落ちた。
それは王子としての台詞ではない。
年相応の青年の、迷いそのものだった。
「私は王子だ。学園で何か起きれば、ただの一学生ではいられない。場を収めねばならないし、貴族たちの視線も、教師たちの思惑も、王家の威信も考えねばならない」
「はい」
「庶民に寄り添うことも必要だ。王族とは本来そういうものであるべきだと思ってきた。だが……」
アルフレッドの手が、膝の上でわずかに握られる。
「気づけば私は、“庶民に寄り添う”という大義のもとで、一人を切り捨てるところだったのではないかと思う」
風が、中庭を抜ける。
遠くの噴水の音が少しだけ大きく聞こえた。
霊真は王子の横顔を見る。
苦しそうだった。
だが、その苦しさはまだ健全だとも思う。
何も感じずにいた者の顔ではないからだ。
「ローゼンベルクを信じていなかったわけではない」
アルフレッドが続ける。
「だが私は、彼女を見る目が曇っていたのかもしれない」
「曇っていた」
「婚約者として見る目と、王子として見る目と、学園の空気の中で見る目と……そのどれが本当だったのか、自分でも分からなくなっていた」
それはたぶん、ずっと王子でありすぎた人間の苦しみだった。
立場が先にある。
役割が先にある。
人としてどう感じるかよりも先に、“王子ならどう見るか”を考え続けてきた。
だからいざ、王子として正しくあろうとしたときに、自分の目がどこに立っているのか分からなくなる。
「君は、あの場で迷わなかったな」
アルフレッドがそう言う。
「迷いはありました」
「そうは見えなかった」
「前に出るべきかどうかは、少し」
「だが、出た」
「はい」
「なぜだ」
その問いに、霊真はしばらく考えた。
答えは単純だが、単純すぎて時々うまく伝わらない。
「……その令嬢に、そこまでの罪があるとは思えなかったからです」
「それだけか」
「はい」
アルフレッドは苦笑するように息を吐いた。
「私には、その“それだけ”が難しい」
霊真は、その言葉を否定しなかった。
王子の立場にいる人間にとって、それが難しいのは当然だ。
たとえば霊真が山道で誰かの荷物を持つかどうかを決めるのと、王子が学園の空気ごと抱えたまま一人を断じるか否かを決めるのとでは、重さが違いすぎる。
だからこそ、霊真は少しだけ言葉を選んでから口を開いた。
「殿下は、間違えかけたのではなく、迷っておられたのだと思います」
アルフレッドが、はっとしたように霊真を見る。
それは彼にとって、厳しい言葉だっただろう。
“間違えた”なら、謝れば済むかもしれない。
だが“迷っていた”というのは、自分の中に決断しきれぬものがあったと認めることだ。
王子としては痛い。
しかし、人としては救いでもある。
「……迷っていた」
アルフレッドが繰り返す。
「はい」
「それは、言い換えれば、王子として未熟だったということではないか」
「そうかもしれません」
霊真は率直に答えた。
「ですが、迷っていたのであれば、まだ修正はできるかと」
アルフレッドは黙る。
霊真は続けた。
「何も感じず、何も見ず、ただ場の流れに従って断じたのであれば、もっと厄介だったように思います」
「……」
「殿下は止まりかけておられた」
それは霊真の見た事実だった。
あの夜、アルフレッドは完全には言い切れなかった。
周囲に押され、空気に寄せられ、それでも最後の一線で何かに引っかかっていた。
だからこそ、霊真が前に出た一言で流れが崩れたのだ。
もし本当に王子が完全に断ずる側へ傾いていたなら、あの一言だけでは止まらなかったかもしれない。
「私は、殿下が最初から冷たい方だとは思っておりません」
霊真がそう言うと、アルフレッドは少しだけ目を伏せた。
「……君は、人を見るときに甘いのか厳しいのか分からんな」
「そうでしょうか」
「そうだ。今のも、慰めではないだろう」
「はい」
「容赦がない」
たしかにそうかもしれない。
霊真は慰めるために言葉を選ぶのが、あまり得意ではない。
その代わり、見えたものをできるだけそのまま置こうとする。
だから優しいようで、時々ひどく容赦がない。
アルフレッドはしばらく空を見た。
青かった。
あまりにも穏やかな昼下がりで、こんな話をするにはふさわしくないほどだった。
少し離れた場所では、また女子生徒たちがざわついている。
「まだ話してる……」
「王子殿下、あんな真面目な顔……」
「何このルート、急に重くない?」
「でも距離感は近いのよね」
「近いのかしら、あれ」
「精神的にでは?」
精神的に近いとは何だろう、と霊真は少しだけ思ったが、今は聞かないことにした。
アルフレッドも、さすがにそのざわめきには気づいているらしい。
眉間にわずかな皺を寄せたあと、諦めたように言った。
「この学園の生徒たちは、人の会話を物語にしすぎる」
「はい」
「否定しないのだな」
「そのように見えます」
「本当に、変なところで率直だ」
王子はそう言って、小さく笑った。
その笑いは、懇親会の前より少しだけ年相応だった。
完成された攻略対象めいた王子の顔ではなく、迷いながらも立ち上がろうとしている若者の顔だと、霊真は思う。
そして、それはたぶん悪い変化ではなかった。
「ありがとう」
アルフレッドが不意にそう言った。
霊真はわずかに目を瞬かせる。
「何に対して、でしょう」
「私にも分からん。だが、たぶん……必要なことを言われた」
それは王子としてではなく、一人の青年としての礼だった。
霊真は静かに頭を下げる。
「お役に立てたなら何よりです」
アルフレッドは苦笑した。
「君は、人の立場を壊すのが上手いな」
その言葉には、責める響きはなかった。
むしろ、少し肩の荷を下ろした者の苦笑に近い。
霊真は本気で首をかしげる。
「壊しているつもりはありません」
「だろうな」
即答された。
「君はいつも、そのつもりなく、前提を壊していく」
それは評でもあり、予言のようでもあった。
中庭の噴水は変わらず水を跳ね上げ、花壇の花は風に揺れている。
学園は今日も美しい。
けれど、その美しい舞台の上で、王子という役に貼りついていた何かが、今たしかに少し剥がれ始めていた。




