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第15話 リリアーナ、本来のヒロインなのに負けヒロインみたいになる

 リリアーナ・フェアミントは、その日の朝から何となく落ち着かなかった。


 理由は分かっている。


 昨夜、九十九院霊真の見舞いに行った。

 行ったのだが、そこでセレスティア・フォン・ローゼンベルクと鉢合わせした。

 しかも、どう見ても自分より先に来ていて、どう見ても自分より長く部屋にいて、しかも水差しまで手にしていた。


 あれは別に深い意味などないのだろう。


 ローゼンベルク様はただ“確認”に来ただけだと、本人が何度も言っていたし、レイシンさんもいつものとおり何も分かっていない顔をしていた。

 そう。

 たぶん、本当にそうなのだ。


 なのに、なぜか胸のあたりが少しだけもやもやする。


「……何なの、これ」


 寮の鏡の前で小さく呟いて、リリアーナはすぐに首を振った。


 おかしなことを考えている場合ではない。

 大事なのはそこではないはずだ。


 自分は昨夜、見舞いへ行くタイミングを逃した。

 いや、正確には、行ったけれど“いちばん自然に気遣える立場”にはなれなかった。


 気づくと、もうローゼンベルク様がそこにいたのだ。


 それが少し悔しいと思ってしまった自分に、リリアーナは軽く落ち込んだ。


 看病とか、お見舞いとか、そういうのはもっと……こう、庶民的で、気安くて、親しい側の役目ではないのだろうか。

 本来なら自分のほうが自然にそこへ入れそうなものなのに、なぜか昨夜の空気の中では、自分のほうがよそよそしく見えてしまった。


 そんなふうに感じる理由を、本人はうまく説明できない。


 ただ、何となく、

 「あれ、こういうイベントって私側では?」

 みたいな違和感が胸のどこかに引っかかっていた。


 もちろん、その引っかかりを“イベント”とは言語化していない。

 けれど読者が見れば、どう考えても本来ヒロイン側の看病フラグを悪役令嬢に持っていかれている図だった。


 リリアーナ本人だけが、その妙なズレにまだ気づいていない。


    ◇


 結局その日の昼すぎ、リリアーナは改めて霊真の客室を訪れた。


 昨夜よりは体調も少し戻ったらしいと聞いていたが、それでも完全に平気というわけではないらしい。なら、ちゃんと落ち着いて話せる今のうちに行こうと思ったのだ。


 扉を叩く。


「どうぞ」


 中から返ってきた声は、昨夜よりずっとしっかりしていた。


 リリアーナは少しだけ安心しながら部屋へ入る。


「失礼します」


「いらっしゃいませ」


 霊真はベッドではなく、窓際の椅子に座っていた。顔色はまだ万全ではないが、昨夜ほどの熱っぽさはない。膝の上には本が一冊置かれていて、どうやら休めと言われても完全に何もしないではいられなかったらしい。


「ご気分はいかがですか?」


「少し楽になりました」


「よかった……」


 ほっとした声が自然に漏れた。


 その反応に、霊真が少しだけ首をかしげる。


「ご心配をおかけしております」


「それは……その、心配しますよ」


 リリアーナは小さく笑ってから、近くの椅子へ腰を下ろした。


 今日は昨日のような鉢合わせもない。

 静かだ。

 昼のやわらかい光が差し込んでいて、客室の中には穏やかな空気が流れている。


 こういうとき、リリアーナは少しだけ話しやすい。


 昨夜はセレスティアがいたせいもあって、どうしても言えなかったことがある。


「レイシンさん」


「はい」


「私、ちゃんと謝りたくて」


 霊真が本を閉じ、静かに彼女を見る。


 その視線はいつもどおりまっすぐで、変に急かしたり、構えたりするものではない。だからこそ、リリアーナは余計に言葉を誤魔化せなくなる。


「私、あの場でちゃんと止めなきゃいけなかったのに……」


 思っていたより、声が弱かった。


 情けないと思う。

 でも本音だった。


「殿下が言いかけた時も、皆がセレスティア様を見てる時も、私……違うって言いたかったのに、すぐに言えなくて」


 膝の上で、指先がぎゅっと絡まる。


「私が泣いたり困った顔をしたりするだけで、勝手に話が進んでいくの、分かってたんです。でも、分かってたのに、ちゃんと止められなかった」


 霊真は何も挟まなかった。


 ただ聞いている。


 その聞き方が、リリアーナにはありがたかった。

 変に励まされるより、まず言葉を最後まで出せることのほうが、今は必要だった。


「私、セレスティア様が怖いです。今でもちょっと怖いです」


 そこは正直に言う。


「でも、怖いからって、あの場で黙っててよかったわけじゃない。私、あの時、自分が“かわいそうな側”にいるみたいな空気に流されてた気がするんです」


 言ってしまうと、胸が少し痛んだ。


 善人でありたいと思っている自分が、結果として誰かを追い詰める側の空気を止められなかった。

 それを認めるのは苦しい。


「……私、嫌な子ですよね」


 ぽつりとそう漏らすと、霊真はすぐに否定しなかった。


 否定してもらえないことに一瞬だけ胸がひやりとする。


 けれど次の言葉は、リリアーナの予想とは少し違った。


「止めようとなさっていたことは分かりました」


 リリアーナが顔を上げる。


「え……」


「間に合わぬことと、思っていないことは違います」


 その声は静かだった。

 慰めるために柔らかくしているのではなく、ただ事実としてそう言っている声。


「あなたは、あの場が正しいとは思っておられなかった」


「……」


「ただ、間に合わなかった」

「……はい」

「それは、今後の反省にはなっても、今この場でご自分を全て悪いと決める理由にはならないかと」


 リリアーナの喉がつまる。


 目の奥が熱くなる。


 ずっと、自分の中でごちゃごちゃになっていたものが、その言葉で少しほどけた気がした。


 “止められなかった”と、“そう思っていた”は違う。


 そんなふうに分けて考えたことがなかった。

 失敗したなら全部自分の弱さで、弱かった自分は結局ダメなのだと思いかけていた。


 だが霊真は、そこを違うと言った。


 それは甘やかしではない。

 たぶん、もっと先へ進むための言葉だ。


「……ずるいです」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


「何がでしょう」


「レイシンさん、そういうふうに言うから……」


 泣きそうになるのを誤魔化すように、リリアーナは笑おうとした。

 だが、少しだけ失敗した。

 目元が熱いままなので、たぶんうまく笑えていない。


 霊真は少しだけ困ったように、それでも静かに言う。


「泣いても構いません」


「……そういうこと、平然と言いますよね」


「そうでしょうか」


「そうです」


 リリアーナはとうとう目元を押さえた。


 声を上げて泣くほどではない。

 けれど、少しだけ肩の力が抜ける。


 客室の窓から入る風はやわらかく、霊真は何も急かさない。

 その静けさの中で、リリアーナはようやく、自分の中に溜まっていた息を少しだけ吐けた気がした。


    ◇


 しばらくして、話題は少しずつ別の方向へ流れた。


 セレスティアのこと。

 学園の空気のこと。

 アルフレッドの迷いのこと。


 リリアーナは自分の考えを、今度は前より落ち着いて口にした。


「私、セレスティア様のこと、ちゃんと見てなかったと思います」


「はい」


「……そこ、否定してくれないんですね」


「今は、そう思われているのですよね」


「うぅ……」


 またその返しだ。


 だが、嫌ではない。

 霊真は相手の気持ちを雑に軽くしない。

 そのかわり、ちゃんとその先へ進めるように言葉を置く。


 リリアーナは少しだけ頬をふくらませたあと、やがて小さく笑った。


「でも、たぶんそうなんです。私、セレスティア様のこと、怖いって思う気持ちばっかりで……その向こうを見ようとしてなかった」


「これから見ればよろしいのでは」


 簡単に言う。


 でもその“簡単に”が、妙に救いになる。


「……はい」


 リリアーナは今度こそしっかり頷いた。


 話し終えて立ち上がるころには、最初に部屋へ入ってきたときよりずっと表情が柔らかくなっていた。


「お休みのところ、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「もう少し休んでいてくださいね」


「努力します」


「“努力します”は、ちょっと信用できないです」


「そうでしょうか」


「そうです」


 そんな軽いやりとりを交わしながら、リリアーナは部屋を出ようとした。


 そのときだった。


 客室の前の廊下には、わずかな段差がある。

 入るときには気づいていたはずなのに、帰るときは少し考え事をしていたせいだろう。リリアーナの足先がその段差へ引っかかり、体がふらりと前へ傾いた。


「あっ」


 と声が漏れた瞬間には、霊真の手が伸びていた。


 反射だった。


 彼女の手首ではなく、手のひらを取る。

 引き寄せるほどではない、倒れぬよう支える程度の力で。


 リリアーナの体勢が戻る。


「大丈夫ですか」


 霊真がそう問う。


「だ、大丈夫……です……」


 だが、返事をしたあともリリアーナは動けなかった。


 なぜなら、まだ手をつないだ形のままだったからだ。


「……」


「……」


 霊真は転倒防止としか思っていない。

 だから確認のためにそのまま数秒、支えたままでいる。


 一方のリリアーナは、頭の中が真っ白だった。


 温かい。

 指先が近い。

 しかも自然すぎる。

 何の下心もなさそうなのが余計にひどい。


「り、レイシンさん」


「はい」


「その……手……」


「……あ」


 ようやく霊真が気づいた。

 静かに離す。


「申し訳ありません」


「い、いえ、転びそうだったのは私なので!」


 声が少し裏返る。

 顔が熱い。

 絶対に赤くなっている。


 よりにもよって、その瞬間だった。


 廊下の向こうを通りがかった女子生徒二人が、ぴたりと足を止めたのである。


「……え」

「今、見た?」

「見た」

「リリアーナさん……」

「手、つないでた……よね?」

「完全にそうだった」

「やっぱりヒロインルート本命じゃ……」

「でもローゼンベルク様は!?」

「いや、両立ルート……?」


 小声のつもりだろうが、静かな廊下には驚くほどよく響く。


 リリアーナは耳まで真っ赤になった。


「ち、違っ……!」

 と否定しようとしたが、

 その声が余計に肯定っぽく響いてしまう。


 女子生徒たちは「ごめんなさい、何も見てません!」という顔をして、でも明らかに全部見た者の速さで去っていった。


「……」


「……」


 また沈黙である。


 霊真は少しだけ困った顔で言った。


「今のは、転倒防止です」


「わ、分かってます!」


 分かっている。

 分かっているから余計に困るのだ。


 リリアーナは自分の胸の鼓動をごまかすように、手を胸元でぎゅっと握った。

 さっきまであった温かさが、そこだけ妙に残っている気がする。


「それでは……また」


「はい。お気をつけて」


「うぅ……はい」


 今“お気をつけて”と言われると、さっきの段差を思い出して余計に恥ずかしい。


 それでもリリアーナは、扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返った。


「レイシンさん」


「はい」


「私、ちゃんと見ようと思います」


「何を、でしょう」


「セレスティア様のことも、自分のことも」


 その言葉は、先ほどよりもずっと芯があった。


 怖いから逃げない。

 優しいだけで誤魔化さない。

 自分がどんな役に置かれていても、まず自分の目で見る。


 そう決めた顔だった。


 霊真は静かに頷く。


「それがよろしいかと」


 リリアーナは少しだけ笑った。


「はい」


 そして今度こそ、彼女は廊下を歩いていった。


 足元には、ちゃんと気をつけながら。

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