第14話 悪役令嬢、看病イベントにまったく向いていない
その朝、九十九院霊真は目を覚ました瞬間に、これは少しまずいかもしれないと思った。
天井が、ほんのわずかに遠い。
いや、天井が遠いのではない。自分の感覚が少し鈍いのだ。瞼が重く、喉が乾き、熱そのものは高くないが、体の芯がじんわりと火照っている。山での修行中にも何度か似た感覚はあった。倒れるほどではない。だが、無理をすれば悪化する類のものだ。
「……」
布団の中で静かに呼吸を整える。
異世界転移そのものの負担。
慣れぬ学園生活。
断罪未遂の夜会。
大勢の感情がぶつかる場で、思った以上に神経を使っていたのだろう。
比叡山では平気だったことでも、世界が変われば勝手が違うらしい。
霊真は体を起こそうとして、少しだけ動きを止めた。
めまいというほどではない。
だが、立ち上がる前に一呼吸挟むべきだと分かる程度には、足元が不安定だった。
そのとき、扉の向こうから気配がした。
「起きているかね」
オルバス・グランディールの声だった。
「はい」
と返したつもりだったが、自分でも少し驚くくらい声が掠れた。
扉が開き、学園長が入ってくる。その後ろには、簡単な盆を持った使用人が控えていた。湯気の立つ薬草茶と、水差し、それに軽い食事らしい。
オルバスは霊真の顔を見るなり、深く息をついた。
「やはりね」
「やはり、でしょうか」
「君は、自分がもう少し頑丈だと思っている節がある」
痛いところを突かれた気がした。
霊真としては、倒れてはいないのだから大したことはないと思っていた。だが、それが大したことのない基準として妥当かどうかは別らしい。
「昨夜から顔色が悪かった。異世界へ来て日も浅い。今日は休みなさい」
「ですが、授業や」
「出なくていい」
きっぱり言い切られる。
「これは命令だ。学園へ滞在している以上、今の君は私の管理下にある。倒れてからでは遅い」
そこまで言われれば従うしかない。
「……承知しました」
霊真が素直に頷くと、オルバスは少しだけ満足そうに眉を緩めた。
「今日は客室から出るな。必要なものはこちらで手配する」
それだけ言って、学園長は使用人へ盆を置かせ、静かに部屋を出ていった。
残された霊真は、薬草茶の湯気を見ながら思う。
休めと言われると、かえって何をしてよいか分からない。
修行の身に長かった人間の困ったところである。
◇
午前が半ばを過ぎたころ、客室の扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
霊真が声をかけると、扉が少しだけ開く。
現れたのは、セレスティア・フォン・ローゼンベルクだった。
「……」
「……」
一瞬、互いに何を言うべきか分からず、妙な沈黙が落ちる。
セレスティアは今日も完璧に整っていた。
髪も、制服も、立ち姿も。
ただ、その完璧さの奥にわずかな落ち着かなさが混じっているのを、霊真は見逃さなかった。
「お加減はいかがですの」
最初に口を開いたのは彼女のほうだった。
声音は冷たい。少なくとも冷たく聞こえるように整えられている。
「少し熱があるようです」
「そう」
そこで終わる。
終わるのかと思ったが、彼女は帰らない。
扉の前に立ったまま、なぜかその場にいる。
霊真は少し考え、それから言った。
「お入りになりますか」
「……は?」
「扉のところでは落ち着かれないかと」
「べ、別に落ち着かないわけではありませんわ!」
なぜか声が一段高くなる。
「ただ、あなたが昨日余計な真似をしたせいで、こちらまで落ち着きませんの。責任を取って早く治しなさい」
その言い方は、いかにもセレスティアらしい命令口調だった。
だが霊真には分かる。
これは完全に、お見舞いに来た人の言い訳である。
「そうですか」
「そうですわ」
「では、ありがとうございます」
「お礼を言われる筋合いでは……」
言いかけて、セレスティアは少しだけ言葉を詰まらせた。
結局、視線を逸らしたまま部屋へ入ってくる。
霊真の客室は簡素だが広く、椅子と小机がある。セレスティアはその椅子へ座るか迷い、結局ちょこんと腰を下ろした。姿勢だけは完璧だが、どう見てもこの手の“看病イベント”には向いていない。
霊真はその様子を、少しぼんやりした頭で見ていた。
熱のせいだろうか。
今日はいつもより思考が柔らかい。
「……何ですの」
セレスティアが睨むように問う。
「いえ」
「こちらを見ていましたわよ」
「はい。来てくださったのだなと」
真顔でそう返すと、セレスティアの耳がうっすら赤くなった。
「だ、だから、そういうことではありません!」
「そうですか」
「そうですわ!」
どうやら違うらしい。
だがその否定の勢いが少し強すぎて、霊真は逆に納得した。
納得した顔をしたらしい。
セレスティアがさらに声を上げる。
「その納得した顔は何ですの!?」
「いえ、来訪の理由はともかく、お気遣いはいただいているのだと」
「べ、別に優しくなんてありませんわ!」
「そうでしょうか」
「お見舞いではありません! 確認です!」
「そうですか」
「その落ち着いた返事、腹が立ちますわね……!」
看病に来た本人のほうが消耗している。
霊真は少し申し訳なくなった。
そのとき、喉がひどく乾いていることに気づく。
水差しは小机の向こうにある。手を伸ばそうとして、少しだけ体が重い。
それを見たセレスティアが、先に立ち上がった。
「……何をしていらっしゃるの」
「水を」
「そのくらい、わたくしが」
そこまで言って、彼女はまた少しだけ止まる。
たぶん、
“わたくしがやる必要はない”
と続けるつもりだったのだろう。
だがもう遅い。
自分から水差しを手に取ってしまっている。
セレスティアは気まずそうに唇を結びながら、コップへ水を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取る。
少しだけ指先が触れた。
それだけで、セレスティアがびくっとする。
霊真は普通に水を飲んだ。
冷たくてありがたい。
「助かります」
「そ、そう」
「お優しいのですね」
熱で少し頭がぼんやりしているせいか、霊真は本心をそのまま言ってしまった。
セレスティアは完全に止まる。
「……は?」
「いえ、水を」
「それはっ……その……!」
言葉が見つからないらしい。
「優しいとか、そういうことではありませんわ!」
「そうですか」
「そうですわ! 確認です!」
「確認」
「病人が勝手に倒れられると困るのです!」
「そうでしたか」
霊真が素直に頷くと、セレスティアはなぜかますます赤くなった。
「そ、その納得した顔は何ですの!?」
さっきと同じことを言っている。
どうやら彼女は本当に混乱すると同じ場所をぐるぐる回るらしい。
◇
しばらくして、客室には静かな時間が流れた。
セレスティアは椅子に座ったまま、霊真が薬草茶を飲むのを見ている。
霊真は布団に半身を預けたまま、彼女の気配を感じていた。
妙な静けさだった。
気まずいわけではない。
落ち着くとも少し違う。
だが、少なくとも悪くはない。
そのとき、セレスティアがふいに身を乗り出した。
「顔色、まだ良くありませんわね」
「そうでしょうか」
「そうですわ」
彼女の手が、少しだけ宙で止まる。
額に触れて熱を確かめようとしたのだろう。
だが途中で、その手が固まった。
触れてよいのか。
触れるのは近すぎるのではないか。
いや、看病なのだから不自然ではないのでは。
けれど近い。
近いのでは。
かなり近いのでは。
そういう混乱が、手先だけでよく分かる。
霊真は少し首をかしげた。
「どうかなさいましたか」
「な、何でもありません!」
手が引っ込む。
それがあまりにも勢いよくて、逆に霊真は理解した。
額に触れようとしてくださったのだろう、と。
「お気遣いなく」
「気遣ってなど!」
「はい」
「その“はい”は本当に納得している“はい”ではありませんわよね!?」
今日のセレスティアはずっと忙しい。
だがその慌ただしさが、今の霊真には少しだけ心地よかった。
熱でぼんやりした頭には、彼女の鋭ささえ柔らかく響く。
そのとき、不意にまた扉が叩かれた。
「レイシンさん、あの……」
リリアーナの声だった。
「お見舞いに来たんですけど……」
扉が少し開く。
そして中を見たリリアーナが止まる。
セレスティアも止まる。
「えっ」
「えっ」
完全に同時だった。
部屋の中には、
熱で少しぼんやりしている霊真と、
その横に座るセレスティアと、
入り口で固まったリリアーナ。
絵面だけ見れば、非常に説明の難しい状況である。
「り、リリアーナさん……」
「ろ、ローゼンベルク様……」
沈黙。
霊真だけが状況をそこまで深刻に捉えていない。
「お二方とも、ありがとうございます」
「ありがとうじゃありませんわ!」
「ち、違うんですレイシンさん、私そういう意味で驚いたんじゃなくて!」
リリアーナが慌て、
セレスティアがなぜか対抗意識をにじませる。
「別にわたくしは長居するつもりではありませんでしたし」
「わ、私だってお見舞いに来ただけです!」
「そうでしょうね」
「その言い方、絶対違う意味がありますよね!?」
「気のせいでは?」
なぜか微妙に火花が散る。
霊真は布団の中で思った。
――お二人は、やはり少し相性が難しいのかもしれません。
だが、その緊張も長くは続かなかった。
リリアーナは持ってきた果物籠を置き、
セレスティアは「では、私はこれで」と立ち上がる。
けれどそのタイミングがなぜか重なり、またしても二人の目が合う。
「……」
「……」
互いに何か言いたそうで、結局言わない。
その空気だけで、昨日までとは少し違うと分かった。
リリアーナももう、セレスティアを単純な“悪役”としては見きれなくなっている。
セレスティアのほうも、リリアーナを完全に敵役へ押し込めきれてはいない。
そのあいだで、霊真だけが少し熱っぽい顔で座っている。
やがてセレスティアが先に扉へ向かう。
「とにかく、安静になさい」
「はい」
「本当に分かっていますの?」
「おそらく」
「おそらくでは困りますわ!」
最後まで忙しい。
彼女はそう言い捨てるようにして部屋を出る。
だが扉を閉める直前、ほんの少しだけ振り返った。
その声は小さかった。
「……無茶は、なさらないで」
とても小さい。
けれど、はっきり本音だった。
霊真は自然に答える。
「ご心配をおかけしました」
その返答に、セレスティアは目を見開く。
それから、耳まで真っ赤になった。
「だ、だから心配では……っ」
最後まで言い切る前に、扉が閉まる。
廊下の向こうへ、早足の気配が遠ざかっていった。
残されたリリアーナは扉を見つめ、それから霊真を見た。
「……レイシンさん」
「はい」
「今の、すごいですね」
「何がでしょうか」
「何がって……」
リリアーナは少しだけ困ったように笑った。
「やっぱり、分かってないんですね」
霊真は本気で分からなかった。
ただ一つ確かなのは、ローゼンベルク嬢は看病イベントにまったく向いていないということだけだった。




