第13話 断罪未遂の翌朝、学園の空気はもっと面倒になっていた
翌朝、九十九院霊真は目が覚めた瞬間に、空気の違いを感じた。
いや、正確には“違う気がした”というべきだろうか。
客室の窓から差し込む朝の光は昨日と同じで、石造りの壁も、整えられた寝具も、どこか落ち着かぬ異世界の朝という点では何も変わっていない。けれど、廊下の向こうから聞こえてくる足音と話し声の質が、明らかに昨日までとは違っていた。
落ち着きがない。
それでいて、妙に弾んでいる。
学園全体が、何か巨大な娯楽でも見た翌朝のようなざわめきを抱えていた。
「……」
霊真は布団の上に正座し、少しだけ考えた。
昨夜の懇親会が原因なのだろうとは分かる。
だが、それにしても反応が早すぎる。
比叡山なら、昨夜の出来事がここまで露骨な熱を帯びて山内に広がるまでには、もう少し時間がかかる。少なくとも朝の時点でこれほど空気に出ることはない。皆もっと静かに、だが確実に共有する。
この学園の情報伝達速度は、ある意味で修行僧の行脚より速いかもしれないと、霊真は少しだけどうでもいいことを思った。
身支度を整え、客室を出る。
すると、早速それは始まっていた。
廊下の先で、数人の女子生徒がひそひそと何かを話している。霊真の姿が見えた瞬間、明らかに声量が一段下がった。だが、完全には下がりきらない。
「あの人よ、昨日ローゼンベルク様を……」
「でも最初はリリアーナさんを抱きとめたのよね?」
「つまり両方のルートに入ってるってこと?」
「ルート?」
「しっ、聞こえるって!」
霊真は足を止めた。
意味が分からない。
抱きとめた、は分かる。
実際、中庭でリリアーナを受け止めた。
ローゼンベルク様を、という部分も、昨夜のことを言っているのだろう。
だが、両方のルートとは何だろうか。
道、だろうか。
彼は真面目に少し考えたが、やはり分からなかった。
女子生徒たちは霊真と目が合った瞬間、ぴしりと背筋を伸ばし、何事もなかったように壁際へ避けた。しかも妙に距離がある。恐れているというより、見やすい位置を確保しているような離れ方だ。
霊真はそれを見て、本気で首をかしげた。
「なぜ皆さま、少し離れた場所から見ておられるのでしょう」
近くにいた下級生らしき少年が吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。
どうやら今日の自分は、昨日よりさらに“面白いもの”として扱われているらしい。
◇
朝食の食堂も、普段以上に視線が多かった。
テーブルに着くだけで、あちこちから気配が飛んでくる。あからさまに見てくる者、見ていないふりで見ている者、食器を持ったまま隣の席の者と顔を寄せ合う者。会話の端々に、露骨に聞き覚えのある単語が混じっている。
「昨日の……」
「王子殿下の前で……」
「ローゼンベルク様が……」
「リリアーナさんも……」
噂の系統はだいたい三つに分かれているようだった。
一つ。
転移者が王子の場に割って入った。
二つ。
悪役令嬢があの男に庇われた。
三つ。
リリアーナと悪役令嬢の三角関係に、転移者賢者が乱入した。
三つ目に至っては、霊真には何のことか本当に分からなかった。
朝食のパンを手にしたまま考える。
三角関係とは何だろうか。
三人いるという意味だろうか。
乱入した覚えはある。前に出たのだから、それは事実かもしれない。
だが、関係という部分の意味が曖昧だった。
「おはようございます、レイシンさん」
柔らかな声がして、霊真は顔を上げた。
リリアーナだった。
淡い色の朝の制服姿で、少しだけ緊張したように立っている。普段ならすぐに笑う彼女が、今日は笑顔を作る前に一度息を整えていた。
「おはようございます、リリアーナ殿」
「その“殿”は、もう……」
「失礼しました」
「謝らなくていいんですけど……」
そこから先が続かない。
彼女は霊真の向かいへ座ろうとして、やはり一瞬迷った。
周囲の視線が集まっているせいだろう。
それでも座る。
「昨夜は……その……」
リリアーナは膝の上で手を握りしめた。
「ありがとうございました」
「礼を言われるようなことでは」
「あります」
いつになくはっきりした口調だった。
だが、次の瞬間にはまた少し目を伏せる。
「私、あの場でちゃんと止めなきゃいけなかったのに……結局、何もできなくて」
その言葉には、自責が強く滲んでいた。
霊真はパンを置き、静かに答える。
「止めようとなさっていたことは分かりました」
リリアーナが顔を上げる。
「え……」
「間に合わぬことと、思っていないことは違います」
彼女の喉が小さく動いた。
たぶん、あの場で自分の迷いも沈黙も、すべて“見ていなかったこと”になるのではと恐れていたのだろう。善人ほど、そういうところで自分を責める。
「でも……」
「次にどうなさるかが大事かと」
リリアーナはしばらく霊真を見つめ、それから小さく頷いた。
「……はい」
そのやり取りを、周囲の生徒たちは見逃さない。
もう明らかに距離を取って見物している。
ひそひそ声がまた増えた。
「やっぱり朝から一緒……」
「リリアーナさん、完全にヒロイン側じゃない?」
「でもローゼンベルク様の件もあるし……」
「修羅場の予感しかしないんだけど」
霊真は耳に入ってはいるが、半分も理解していない。
ただ、どうも自分の行動が必要以上に面白く解釈されているらしい、ということだけは分かった。
◇
同じ頃、アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタインは、自室で珍しく長い沈黙の中にいた。
机の上には昨夜の懇親会で使われた進行表がある。
細かな段取り、挨拶の順番、歓談の時間配分。すべてが整っていたはずだった。王族として、主催者として、失敗のない夜会にする準備は十分だった。
にもかかわらず、実際に起きたのは、整いきった舞台が中央から崩れるような一夜だった。
「……」
アルフレッドは自分の手を見た。
昨夜、自分は何を言いかけていたのか。
そして、それをなぜあの場で止められなかったのか。
婚約者であるセレスティアへの信頼がなかったわけではない。
だが、周囲の空気に押された。
“正しい王子”として振る舞うために必要な言葉が、いつのまにか“その場が求める言葉”へすり替わっていた。
そのことが、今になって重くのしかかる。
王子としての面子もあった。
転移者に場を止められたことは、本来なら屈辱ですらある。
だがそれ以上に、胸に残るのは別の感覚だった。
――自分は、最も大事なものを見落としていたのではないか。
その問いが、何度も頭の中を回っていた。
◇
セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、その朝いつも以上に冷たかった。
少なくとも、周囲からはそう見えただろう。
廊下ですれ違った下級生が目を合わせる前に俯く。
取り巻きたちも、必要以上に機嫌を損ねぬよう神経を尖らせている。
彼女自身、表情の硬さも姿勢の緊張も、普段の倍ほどに張りつめていた。
それは、昨日救われたから柔らかくなった、などという簡単な話ではない。
むしろ逆だ。
一度でも救われたと感じてしまったからこそ、その事実を周囲に知られたくなかった。弱みになる。隙になる。何より、自分自身の中で処理しきれない。
だから冷たくする。
だから完璧を装う。
だから、霊真と目が合えばなおさら、何もなかったかのように振る舞う。
……そのはずだった。
だが現実には、少しも上手くいかない。
廊下の向こうで霊真と目が合った瞬間、セレスティアの呼吸が一拍乱れる。
言葉をかけるでもなく、ただ視線が触れただけなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
「おはようございます」
霊真が静かに頭を下げた。
ごく普通の挨拶だ。
昨日の夜のことを匂わせるわけでもなく、妙な親しさを出すわけでもなく、ただいつもどおり礼儀正しい。
それがまた、セレスティアを困らせる。
「……お、おはようございます」
少し詰まった。
ほんの一瞬だが、確かに詰まった。
取り巻きの一人が目を丸くし、近くにいた女子生徒が小さく息を呑む。
セレスティアはすぐに表情を戻し、氷のような顔で歩き去ったが、もう遅い。
その“一瞬の間”だけで、また新しい噂の種が生まれるのだと分かってしまう。
彼女は内心で歯噛みした。
最悪だった。
◇
「あなたのせいで、学園の観測結果がめちゃくちゃです」
昼過ぎ、図書塔の前でルシアン・エーデル=クロイツは平然とそう言った。
銀髪の天才魔術師は今日も涼しい顔をしている。
だが目の奥だけは妙に鋭く、徹夜明けの研究者のような光を宿していた。
「観測結果、ですか」
「はい。これまでの人間関係の推移、感情の偏り、噂の収束先、全部です」
「全部」
「全部です」
ルシアンは本気だった。
「本来なら、ローゼンベルク嬢への悪感情は昨夜で決定的になるはずでした。ところがあなたが前へ出たせいで、空気が分散した。王子殿下は揺らぎ、リリアーナさんは沈黙を選ばず、ミレーユは祈り始め、ガイゼルは露骨に面白がっている」
「面白がっているのですか」
「そこじゃありません」
ぴしゃりと返される。
霊真は少し考えた。
「それは、良いことではないのでしょうか」
「研究対象としては最悪で、個人的には非常に興味深いです」
「はあ」
「あなた、本当に自覚がないんですね」
「ございません」
「でしょうね」
ルシアンは眼鏡もないのに眼鏡を押し上げそうな顔で息をついた。
だが、その困り方は明らかに怒っている者のそれではない。
むしろ、予想外の盤上が面白くて仕方がない者の困り方だった。
「あなたは、人間関係を壊しているわけではありません」
「はい」
「ただ、今まで固定されていたものを揺らしている」
「そうでしょうか」
「ええ。そしてそれが一番厄介です」
厄介、と言いながら、その口元はわずかに笑っていた。
◇
ミレーユ・セラフィナの変化は、もっと静かだった。
彼女は昼の礼拝堂で霊真を見かけると、以前よりも少し深く礼をするようになっていた。敬意というより、確信に近いものが混じっている。
「お疲れではありませんか」
ミレーユがそう言う。
柔らかな声音だが、以前のような“見極めようとする響き”が薄れている。
「皆さまがお疲れのように見えます」
霊真がそう返すと、ミレーユは静かに頷いた。
「あなたは、本当にそういう方なのですね」
「どういう、でしょうか」
「人を裁く前に、苦しみを見る方です」
その言葉に、霊真は少しだけ目を瞬かせた。
大げさに言われている気がして、少し落ち着かない。
「大したことではありません」
「そう思っているところが、なおさらです」
ミレーユはそれ以上言わなかった。
ただ、彼を見る目の温度だけは確かに変わっていた。
異端か聖者かを測ろうとしていた視線ではない。
すでに“導く者”として見始めている者の眼差しだった。
◇
放課後、学園長オルバス・グランディールは霊真を執務室へ呼んだ。
書斎じみたその部屋は、いつ来ても整いすぎている。だが今日は、整いの中に少しだけ苦味が混じっているように感じられた。おそらく学園長自身も、昨夜から今日にかけての余波に追われているのだろう。
「座りなさい」
「はい」
霊真が座ると、オルバスはしばらく書類を置いたままこちらを見た。
老賢者の目には疲れがある。だが、疲れていてもなお鋭い。
「君は、自分がどれほど目立っているか理解しているかね」
「少しは」
「少しか」
オルバスは小さく笑った。
「それなら、その“少し”を三倍にしなさい」
「三倍」
「しばらく君は目立つ。覚悟しなさい」
それは忠告だった。
叱責ではない。
だが軽くもない。
「昨夜、君がしたことは一つの場を止めただけに見えるだろう。だが実際には違う。学園内の力関係に楔を打ち込んだ」
オルバスは指先で机を軽く叩く。
「王子は揺らいだ。リリアーナ嬢は沈黙のままではいられなくなった。ローゼンベルク嬢は昨日までと同じ悪役ではいられなくなった。そして、君自身は外から来た観測不能な要素として、完全に中心へ入った」
「そのつもりはなかったのですが」
「知っている」
学園長は即答した。
「だが、つもりがあるかどうかで事態は動かん」
その言葉は重かった。
霊真は黙って聞く。
「よいかね、レイシン君。ここから先、君に近づく者は増える。善意も、好奇心も、敵意もな」
「はい」
「君はたぶん、誰が善人で誰が悪人かという見方をしないのだろう」
「そのほうが誤りが少ないかと」
「それは美徳だ。だが同時に危うい」
オルバスは目を細めた。
「この学園は今、表に見える人間関係だけで動いているわけではない」
その一言が、部屋の空気を少しだけ冷やした。
霊真は顔を上げる。
だがオルバスは、そこで先を言わなかった。
「今はまだ、それだけ覚えておきなさい。目立つ者は、見られるだけでは済まぬ」
忠告はそれで終わった。
霊真は静かに一礼し、学園長室を辞した。
廊下に出ると、夕方の光が石壁を長く照らしていた。遠くで生徒たちの笑い声がする。中庭の噴水の音も聞こえる。見た目だけなら、今日も変わらず美しい学園だった。
けれどその内側では、たしかに何かが揺れている。
自分はその揺れの中心に立たされつつある。
そのことだけは、霊真にもようやく少しずつ理解でき始めていた。




