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第12話 その令嬢に、そこまでの罪があるとは思えません

その一歩で、広間の空気が変わった。


 大きな音ではない。

 石床を踏んだ、ごく小さな足音にすぎない。


 けれど、その場にいた全員がなぜかそれを聞いたようだった。


 王子アルフレッドが、言いかけた言葉を止める。

 ガイゼルが腕を組んだまま目を見開く。

 ルシアンの銀の瞳が細くなり、ミレーユは胸の前で組んでいた手に少しだけ力を込めた。

 リリアーナは息を呑み、そしてセレスティアだけが、まるで今見ているものを理解できないという顔で九十九院霊真を見た。


 霊真は広間の中央近くまで進み出ると、誰かを睨みつけるでもなく、誰かへ怒りをぶつけるでもなく、ただ静かに一礼した。


 そして、落ち着いた声で言った。


「……その令嬢に、そこまでの罪があるとは思えません」


 場が凍った。


 本当に、凍ったように見えた。


 楽師の手が一瞬止まり、壁際で様子を窺っていた教師たちも顔を見合わせる。誰かがグラスを取り落としかけ、すぐに持ち直した。ざわめきは生まれかけているのに、まだ声としては形にならない。広間の全員が、今の一言の意味を咀嚼できずにいた。


「……何だと」


 最初に口を開いたのはアルフレッドだった。


 怒りと困惑が、ちょうど半分ずつ混ざったような声だった。

 それも無理はない。今この場で声を上げたのは、学園の力関係から見ればほとんど部外者に近い、転移してきたばかりの男なのだ。


 霊真は王子へ向き直り、礼を崩さず答えた。


「そのままの意味です」


「君は、今この場でローゼンベルクを庇うと?」


「庇う、というより」


 霊真は少しだけ言葉を選んだ。


「断じるには、あまりに早いかと」


 その言い方が、広間の空気をさらにざわつかせる。


「早い?」

「何を言って」

「証言は十分に――」

「転移者のくせに」


 いくつもの声が飛びかける。


 だが霊真は、それらの声を遮るように大きな声を出したりはしなかった。むしろ逆だった。静かなまま、一つひとつを拾うように言葉を置く。


「先ほどから耳にしております証言は、たしかに数がございます」


 誰もが、次の言葉を待つ。


「ですが、その多くが伝聞です」


 広間の一角がぴくりと揺れる。


 誰かが眉をひそめた。

 誰かが扇を動かす手を止めた。

 ルシアンだけが、面白いものを見るように口元をわずかに上げる。


 霊真は続けた。


「“そう見えた”、“きっとそうだ”、“あの方ならありうる”――その種のものが多いように思われます」


「それは……」

「だが、実際に被害が」

「リリアーナさんご本人も――」


 声が割り込む。


 だが、その“ご本人”であるリリアーナは、今この瞬間、明らかに戸惑っていた。


 霊真はそちらを一瞬だけ見た。

 それだけで、リリアーナの肩が小さく震える。


「フェアミント殿」


「は、はい……!」


 名を呼ばれ、リリアーナはほとんど反射で答えた。


「あなたは、この場が望ましいとお思いでしょうか」


「え……」


 その問いは、彼女を追い詰めるものではなかった。

 責任を押しつけるためのものでもない。

 ただ、“今ここで本当にあなたはそれを望んでいるのか”と確認するだけの問いだった。


 リリアーナの唇が揺れる。


「わ、私は……」


 視線が集まる。

 誰もが答えを待つ。

 けれど彼女は、すぐには言えなかった。


 それが何よりの答えだった。


 霊真は静かに言った。


「少なくとも、明快ではないように見受けられます」


 今度こそざわめきが起きた。


「何だそれは!」

「リリアーナさんは優しいから言えないだけだ!」

「だからといってローゼンベルク様の振る舞いが消えるわけでは」


 反論は当然のように飛ぶ。

 だが霊真は動じなかった。


「では、本人の弁明はどこにあるのでしょう」


 その一言で、また空気が切れた。


「……弁明?」


「はい」


 霊真はセレスティアを見た。

 ただ一度、まっすぐに。


「この令嬢は、まだ何も申しておられません」


 セレスティアの目が大きく見開かれる。


 それは怒りではない。

 驚愕だった。


 今、この場で最も見落とされていることを、他でもない自分以外の誰かが口にした。その事実に対する驚き。


「皆さまはすでに結論へ向かっておられるようですが、その前に、この令嬢の言葉をまともに聞こうとした方がおられましたか」


 誰もすぐには答えなかった。


 教師も。

 貴族の子弟も。

 取り巻きたちも。

 王子でさえも。


 皆、どこかで“彼女が悪役であること”を前提に動いていた。だからこそ、本人の言葉は聞かれる前から意味を失っていたのだ。


 霊真はその沈黙を見て、さらに言葉を重ねた。


「断じるための空気が、あまりにも整いすぎております」


「空気、だと?」


 アルフレッドの眉が寄る。


「はい。まるで、この令嬢をここで断じるために、最初から場が用意されていたかのようです」


「君は何を言いたい」


「申し上げたとおりです」


 霊真の声は静かだった。


「これは懇親会のはずです。歓談の場であるはずです。にもかかわらず、いつのまにか一人の令嬢が中央へ立たされ、伝聞を積み上げられ、弁明の余地もなく裁かれようとしている」


 一拍置く。


「それが、健全なことでしょうか」


 その問いは、広間の全員へ向けられていた。


 王子へ。

 教師へ。

 リリアーナへ。

 そして、噂を面白がってきたすべての者へ。


「……」


 アルフレッドの表情が揺れる。


 怒っている。

 だが、その怒りの向かう先が定まっていない。

 霊真に対してか、自分自身に対してか、それともこの場全体に対してか。


 霊真はさらに一歩、前へ出た。


「私はこの学園へ来て日が浅く、事情のすべてを存じません」


 それは事実だ。

 だからこそ、断言には慎重であるべきだった。


「ですので、この令嬢が全く非のない方だと申し上げるつもりはありません」


 その言葉に、セレスティアのまつげがかすかに動く。


 庇うための嘘はつかない。

 白と決めつけもしない。


 ただ、今この瞬間だけは“黒と断じるには足りない”と告げる。


 それが霊真のやり方だった。


「しかし」


 広間に、霊真の声だけがまっすぐ落ちる。


「たった一人の人間をここまで追い詰めるだけの正当性が、この場にあるとは思えません」


 言い切った。


 その瞬間、セレスティアの目から、完全に力が抜けたわけではない。

 だが、張りつめていた何かがわずかに揺らいだ。


 初めてだった。


 この場で、彼女を“断罪されるべき役”としてではなく、“追い詰められている一人の人間”として扱った声があったのは。


    ◇


「……レイシン」


 アルフレッドが低く名を呼ぶ。


「君は、自分が何に口を出しているのか分かっているのか」


「完全には」


 霊真は正直に答えた。


「ですが、分からぬまま流されてよい場ではないと感じました」


 王子の顔がわずかに歪む。


 その表情を見て、ガイゼルが小さく息を吐いた。

 彼は、まるで誰かに殴られたような顔をしていた。おそらく霊真の言葉に、ではなく、自分もまたこの空気の一部として立っていたことに気づかされたからだろう。


 ルシアンは完全に目を細めている。

 あの銀髪の少年の中で、興味はもう明らかに別の段階へ進んでいた。ただ珍しい力を持つ転移者というだけではない。場の筋書きを壊す存在として、霊真を見始めている。


 ミレーユは、胸の前で祈るように手を組んだまま、ほとんど涙ぐみそうな目で霊真を見ていた。彼女の中ではすでに、信仰に近い確信が育ちつつあるのかもしれない。


 そしてリリアーナは、青ざめたまま、しかしはっきりと変わっていた。


 彼女は自分が何も言わずにいたことが、この空気を後押ししていたのだと初めて気づいたのだろう。善意だけでは流れは止まらない。戸惑いながら黙っていることもまた、時に誰かを追い詰める側へ回るのだと。


「殿下」


 と、リリアーナが震える声で言った。


「私……私は、こんなことを望んでいません」


 その一言が、さらに場を動かした。


 アルフレッドがはっと顔を上げる。

 周囲の貴族子弟たちも息を呑む。


「フェアミント嬢……」


「セレスティア様が怖いと思ったことはあります。苦手です。冷たいとも思いました……でも、だからって、こんなふうに皆で……」


 言葉は最後まで強くない。

 けれど弱くても、本音だった。


 そしてそれは、先ほどまでこの場を支配していた“わかりやすい被害者”の役割から、リリアーナ自身が一歩出た瞬間でもあった。


 アルフレッドは長く沈黙した。


 その沈黙は苦しかった。

 王子として、婚約者として、主催者として、自分が何を見落としていたのかを今この瞬間に突きつけられているような沈黙だった。


 やがて彼は、強くではなく、重く息を吐いた。


「……この場でのこれ以上の追及は、いったん止める」


 広間がざわつく。


「しかし殿下!」

「それでは」

「ローゼンベルク様の件は――」


「止めると言った」


 今度の声音には王族としての力があった。


 完全な決着ではない。

 何も解決していない。


 だが少なくとも、この場で“悪役令嬢は断罪されるべきだ”という流れは止まった。


 それだけで、世界の歯車が少しだけ噛み違ったように、霊真には感じられた。


    ◇


 セレスティアは何も言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。


 広間の中央で、ただ霊真を見ていた。

 信じられないものを見るように。

 いや、たぶん本当に信じられなかったのだろう。


 自分を救おうとする者などいないと思っていた。

 いたとしても、それは打算か、同情か、家のためか、別の何かと引き換えだと思っていた。

 なのに、この男はそうではない。


 役割のためではなく。

 恋情のためでもなく。

 見返りのためでもなく。


 ただ“そこまでの罪があるとは思えない”という理由だけで前へ出た。


 それは、セレスティアの人生において初めて触れる種類の救いだった。


 霊真はその視線を受け止めたが、そこに特別な意味を見出してはいなかった。

 ただ、本当に少し不思議そうに思っただけだ。


 なぜ皆、こんなにも驚いているのだろう、と。


 やがて広間は騒然とし始める。


「どういうことだ」

「殿下が止めた?」

「転移者のせいで流れが……」

「いや、でも今のは……」

「ローゼンベルク様、助かったの?」

「助けたっていうか、あの人が割って入ったせいで……」


 声が入り乱れる。


 教師たちは収拾を図ろうと動き出し、使用人たちは空気を取り戻そうと楽団へ合図を送る。だが一度崩れた流れは、もう元には戻らない。誰もが、さっきまでとは違う目で誰かを見始めていた。


 アルフレッドは自分の立ち位置を見失いかけていた。

 リリアーナは、霊真とセレスティアを見比べながら、自分の中の“正しさ”が揺らぐのを感じていた。

 ガイゼルは「この男、本物だ」と、もうほとんど認めかけていた。

 ルシアンは興味を越えた、執着に近い眼差しを霊真へ向けている。

 ミレーユはほとんど祈るような顔で目を伏せた。


 そしてセレスティアは、立っている。

 立ったまま、ようやく少しだけ呼吸ができている。


 そのすべてを前にして、霊真は本気で首をかしげた。


「私は、当然のことを申しただけなのですが……」


 その呟きが、近くにいた者たちへ確かに届いた。


 ガイゼルが思わず吹き出しかけ、リリアーナが呆然とし、ルシアンは完全に笑みを隠さなくなり、ミレーユは「やはり……」とでも言いたげに目を閉じる。


 そしてセレスティアだけが、ほんの一瞬、泣きそうな顔をした。


 誰にも見せぬほど小さく。

 だが霊真には分かる程度に。


 その表情はすぐ消えた。

 けれど、消えたからこそ、確かにそこにあったのだと分かった。


    ◇


 その夜遅く。


 懇親会の余韻がまだ学園の廊下に残る中、人気のない一室で二つの影が向かい合っていた。


「失敗だな」


 低い声が言う。


「いえ、完全な失敗では……」

「甘い。あの場で決め切れなかった以上、失敗だ」


 片方は若い声で、もう片方は年齢の読めぬ冷たい声だった。

 明かりは少なく、顔まではよく見えない。


「ですが、まさかあの転移者が割って入るとは」

「想定外、という言葉は好かん」

「申し訳ありません」


 沈黙。


 やがて、冷たい声が静かに言った。


「ローゼンベルクを落とす流れは、まだ死んでいない。むしろ崩れかけた今だからこそ、次はより確実に組み直せ」

「……承知しました」

「それと」


 一拍置く。


「あの男を調べろ」


 若い声が息を呑む。


「九十九院霊真、でしたか」

「ただの転移者ではない。力も厄介だが、それ以上に場を壊す。筋書きに従わぬ駒は、もっとも面倒だ」


 その言葉と共に、気配がすっと薄れる。

 片方の影が去ったのだろう。


 残されたほうは、しばらく動けなかった。


 そして遠くでは、何も知らぬまま霊真が夜の風に当たりながら、懇親会で出された菓子はずいぶん甘かったな、などと少しずれた感想を抱いていた。


 だが物語のほうは、もう確実に動き始めている。


 悪役令嬢を断罪するはずだった筋書きは、初めて綻びた。


 その綻びの中心にいるのは、女心にも権力闘争にも疎い、史上最年少の阿闍梨。


 そしてその一歩は、学園中の“様子がおかしくなる”始まりでもあった。

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