第10話 懇親会の前夜、悪役令嬢はもう限界だった
懇親会の招待状は、まるで判決文の前触れのように配られた。
もっとも、それをそのように受け取っていたのは、学園中でもごく一部だけだったのかもしれない。大半の生徒たちにとって、それは華やかな夜会への参加証であり、王子主催の正式な交流の場へ立つための名誉ある一枚だった。
厚みのある紙。
上質な金の縁取り。
王家の紋章。
流麗な筆致で記された日時と会場名。
見た目だけなら、誰がどう見ても美しい招待状である。
だが、セレスティア・フォン・ローゼンベルクの指先は、それを受け取ったときほんのわずかに震えた。
誰にも分からない程度に。
けれど、自分でははっきり分かる程度に。
「お嬢様、こちらを机へ」
侍女ではなく、学園内で付き従っている令嬢の一人がそう言った。
声音は丁寧だが、そこに温かさはない。命じられた役目を果たしているだけの声だ。
「……置いておきなさい」
セレスティアはそう返し、背筋を崩さぬまま席へ着いた。
教室の中では、すでに懇親会の話で持ちきりだった。
「殿下はどなたと最初に踊られるのかしら」
「やっぱりリリアーナさんじゃない?」
「ええっ、そんなまさか」
「でも最近、ずいぶん殿下と親しげですもの」
「ローゼンベルク様が聞いていらしたら……」
「しっ、あまり大きな声で」
その囁きが、“聞こえないと思っている声量”で飛び交う。
セレスティアは顔色一つ変えなかった。
変えないようにしていた。
その程度で表情を崩すようなら、今までとっくに立っていられなかったからだ。公爵家の娘として、王子の婚約者として、そして何より“弱みを見せた瞬間に終わる立場の人間”として生きるには、まず仮面を落とさぬことが必要だった。
だが、内側は違う。
もう、かなり限界に近かった。
◇
セレスティアは完璧主義だ、と周囲は言う。
それは半分だけ正しい。
彼女はたしかに、礼儀も作法も、成績も、立ち居振る舞いも、すべてにおいて高い基準を自分へ課していた。中途半端は許されず、失敗は見逃されず、曖昧なものはすぐに瑕疵になる世界で育ってきたのだから、当然といえば当然だった。
だが、その完璧主義は自発的な美学というより、防具に近い。
完璧でなければ、削られる。
隙を見せれば、踏み込まれる。
弱っていると悟られれば、食い破られる。
その確信が、彼女をずっと支えてきた。
そして今、その支えは軋んでいた。
家からの手紙は冷たい。
そこに書かれているのは体調を気遣う言葉ではなく、体面を守れという命令ばかりだ。
――王家との縁に瑕をつけるな。
――次期王妃として相応しくあれ。
――学園内の風聞に振り回されるな。
――“下”の者と同じ土俵に立つな。
――感情を見せるな。
どの行間にも同じ圧がある。
お前はローゼンベルク家の娘である。
お前個人の苦しみなど、家の重みの前では取るに足らない。
そう言われているのと同じだった。
婚約者としての責務も重い。
アルフレッドは決して愚鈍な王子ではない。誠実さもあるし、王族としての矜持もある。だが彼もまた、この学園の空気と立場の重さの中で身動きが取りづらくなっている。以前ならこちらを見てくれたはずの場面で、今は一拍遅れる。その一拍が、セレスティアには致命的に感じられた。
味方ではなくなったわけではない。
だが、守ってもくれない。
その中途半端さが、かえって苦しかった。
学園内の孤立は、もはや説明するまでもない。
表向きの取り巻きたちは今日も彼女の周囲にいたが、あれは支えではない。形だけの随行だ。こちらの機嫌を窺い、権威の影に身を置き、自分が損をしない位置に立つための存在にすぎない。
誰も、本音では寄り添っていない。
セレスティアも、それを承知している。
だからこそ、余計に弱れない。
孤立している人間は、弱った瞬間に“物語”として消費されるからだ。
◇
昼過ぎ、セレスティアは人気の少ない控室でひとり息を吐いた。
控室といっても、公爵令嬢である彼女のために用意された特別な部屋ではない。ただ使う者の少ない空き部屋だ。窓から中庭が少し見える。机と椅子があり、鏡があり、花瓶だけがやたら豪華だった。
ドアを閉めた瞬間、背筋から力が抜けた。
壁に指先をつく。
胸の奥が重い。
心臓が速い。
呼吸が浅い。
薬を取り出す。
飲む。
けれど、今日ばかりはいつもほど効いている気がしない。
「……最悪ですわ」
誰もいない部屋で、小さく吐き捨てる。
声がかすかに震えたのが悔しかった。
泣きたいわけではない。
泣く理由など、あってはならない。
これはただの学園内の噂で、多少風当たりが強くなっているだけで、王家との縁談が完全に崩れたわけでもない。表面だけ見れば、まだ立て直せる範囲だ。少なくとも家はそう判断するだろう。
だが人は、表面だけで潰れるわけではない。
じわじわと積み上がる呼吸のしづらさ。
視線。
陰口。
王子の沈黙。
取り巻きの薄さ。
そして何より、学園中が自分を“悪役令嬢”として見ているあの感覚。
自分が何かを言う前に、
もう皆の中で答えが決まっている。
それが、恐ろしいほど息苦しかった。
そのとき、不意に扉の向こうから話し声がした。
「……リリアーナさん、本当に来るのかしら」
「来るでしょう。招待されてるもの」
「でも、またローゼンベルク様が何か」
「さすがに懇親会で露骨なことはなさらないんじゃ」
「どうかしら。だってあの方、最近本当に余裕がなさそうよ」
「そこを殿下に見られたら、いよいよ……」
会話は遠ざかっていった。
セレスティアは目を閉じる。
吐き気がした。
何も知らないくせに、と思う。
勝手なことばかり、と思う。
だが言い返せない。言い返せば、また“怖い悪役令嬢”として補強されるだけだ。
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは、あの妙な青年の顔だった。
九十九院霊真。
転移者で、賢者めいた力を持ち、女の扱いに致命的に不慣れで、そして――自分を“悪役令嬢”ではなく、“疲れている人間”として見た男。
「……なぜ、あなたなの」
思わず漏れた独り言に、自分で少し驚いた。
彼のことを考えていた。
それ自体が、セレスティアにとってはあまりに不慣れだった。
普通なら警戒すべき相手だ。
得体が知れず、常識もずれ、異質な力を持っている。
なのに、不思議と彼の前では、少しだけ呼吸がしやすかった。
それが悔しい。
そして少し、救いでもあった。
◇
一方で、リリアーナもまた息苦しさの中にいた。
彼女は善人である。
少なくとも、自分が誰かを蹴落として上へ行きたいと思う種類の人間ではなかった。庶民出身の奨学生としてこの学園へ入り、努力で居場所を作り、周囲の親切にも恵まれてきた。王子や上位貴族たちと接点ができたのも、本人の素直さや頑張りがあったからだ。
だが今、彼女は自分が“構図の中心”にいることに気づき始めていた。
自分が何かをしたわけではない。
むしろ避けようとしてきたつもりだ。
なのに、周囲は勝手に
“リリアーナ対セレスティア”
という図式を整えていく。
殿下が誰を見た。
誰がどちらの味方をした。
セレスティアが何か言った。
リリアーナが困った顔をした。
それだけで、物語ができあがる。
「……私、何をしたらいいんだろう」
夕方、寮の自室で、リリアーナはそう呟いた。
机の上には懇親会の招待状。
窓の外は夕焼け。
室内には自分しかいない。
自分が招待を辞退すればいいのか。
でも、それでは“やましいから逃げた”と解釈されるかもしれない。
セレスティアに謝ればいいのか。
でも、何をどう謝ればいいのか分からない。
殿下に相談するのか。
それも違う気がする。
ぐるぐる考えても、答えは出ない。
彼女は今日、昼間に見たセレスティアの横顔を思い出していた。
遠目だったが、あの人は本当に疲れて見えた。
怖いし、冷たいし、苦手だ。
けれど、それだけで片づけてはいけない何かがある気がする。
そして、もう一人思い浮かぶ。
九十九院霊真。
変で、丁寧すぎて、でも妙にまっすぐな人。
彼ならこの状況をどう見るのだろう、とリリアーナは考えた。
たぶん、“誰が悪いか”より先に、“誰が苦しんでいるか”を見るのだろう。
それが、少し羨ましかった。
◇
夜。
霊真は学園の礼拝堂に近い静かな一角で、ひとり考えていた。
祈りの場は、異世界でも祈りの場だった。
石の床の冷たさ。
息を吸ったときの静けさ。
人の願いが染みついているような空気。
そういう場所にいると、頭の中が少しずつ整っていく。
懇親会が近い。
学園の空気は張りつめている。
セレスティアは明らかに追い詰められている。
リリアーナもまた、自分の立ち位置に苦しみ始めている。
アルフレッド、ガイゼル、ルシアン、ミレーユ――あの人たちもそれぞれに揺れていた。
そして何より、霊真の脳裏には、比叡山で祈祷の最中に見た断片が何度も蘇っていた。
見知らぬ石造りの学舎。
大勢の視線。
糾弾の気配。
泣きそうな目をした、ひとりの金髪の令嬢。
あれは、今の状況と繋がっている。
ほぼ間違いなく。
学園という舞台。
悪役令嬢という役割。
懇親会という大きな場。
そして、最初から誰かを悪者にするように整った空気。
「……」
霊真は静かに息を吐いた。
ここへ来たばかりのころは、ただ“困っている誰か”がいるのだろうと思っていた。
だが今は、もう少し輪郭がある。
自分が招かれた理由。
それは、おそらく――
「自分がここへ招かれたのは、この方のためなのかもしれない」
ぽつりと、そう口に出た。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
悪役令嬢と呼ばれるあの人を、ただ救えばいい、という単純な話ではないのだろう。
彼女一人の問題ではなく、その周囲の空気ごと歪んでいる。
それでも、始まりはあの人なのだ。
あの人が、最初に届いた“助けてほしい”の気配と重なる。
霊真は目を閉じた。
胸の奥には、比叡山で世界が反転する直前の感覚がまだ少し残っている。
御岩の山で感じた澄んだ気配も、遠く根のほうで繋がっている気がする。
偶然ではない。
ここへ来たのは、たぶん偶然ではない。
そう確信し始めている自分に、霊真は驚かなかった。
◇
翌日。
懇親会の招待状が、全学年・全関係者へ正式に行き渡った。
大講堂へ続く通路には花が飾られ、会場となる広間では使用人たちが準備に追われている。白いクロス。磨かれた燭台。豪奢なカーテン。舞踏用に広く取られた中央の空間。壁際に整然と並ぶ椅子。
何もかもが、美しい。
そして何もかもが、あまりに整いすぎていた。
まるで“ここで何かが起こる”ことを、最初から前提にしているように。
ただの交流の場ではない。
ただの夜会ではない。
これは舞台だ。
誰かが中央に立たされ、
誰かがそれを見つめ、
誰かが言葉を投げ、
誰かが役を与えられる。
そんな気配が、会場そのものに染みついていた。
霊真はその広間を見て、静かに思った。
――あまりにも、舞台らしすぎる。
遠くでは、セレスティアが取り巻きに囲まれていた。
こちらから見ても分かるほど、張りつめている。
別の場所ではリリアーナが招待状を握りしめたまま、不安そうに広間を見ている。
王子アルフレッドは使用人と短く言葉を交わしながら、何度も中央の空間へ視線を送っていた。
ルシアンは壁際から全体を観察している。
ミレーユは祈るように手を組み、
ガイゼルは居心地悪そうに首の後ろを掻いていた。
皆が、それぞれの立場でこの舞台へ立たされようとしている。
そして明日、その幕が上がる。
霊真はゆっくりと息を吸い、吐いた。
不穏な気配は、もう隠しようがなかった。




