第1話 御岩の山が好きすぎて、同級生にまったく理解されなかった少年
茨城県日立市には、海がある。
朝になれば水平線の向こうから光が差し、町の屋根という屋根、窓という窓を白く照らし出す。風が吹けば潮の匂いが混じり、晴れた日には空がいやに高く見えた。
けれど、立花恒一にとって、それ以上に大切なものがあった。
山である。
しかも、ただの山ではない。
御岩神社の山だった。
幼いころから、恒一はあの山が好きだった。好き、という言葉で足りるのか自分でもよく分からなかったが、とにかく落ち着くのだ。家の布団の中より、教室の自分の席より、どこよりも落ち着く。山道に足を踏み入れた途端、胸の奥でいつもざわついている何かが、すうっと静まっていく。
木々の間を抜ける風の音。
朝露の残る土の匂い。
岩肌に触れたときの、ひやりとした感触。
苔の湿り気。
朝靄の向こうにぼんやり浮かぶ鳥居。
幼い恒一は、それらを見て「きれいだ」と思う前に、まず「帰ってきた」と感じていた。
それは別に前世の記憶があるとか、神秘体験があったとか、そういう大仰な話ではない。ただ本当に、なぜだか分からないが、そう感じたのである。
だから小学校低学年のころ、両親に連れられて御岩神社へ行った帰り道、母が「楽しかった?」と聞いてきたとき、恒一はたいそう真面目な顔でこう答えた。
「はい。とても静かでした」
七歳の子どもの感想としては、たぶん、かなり渋い。
母は一瞬だけきょとんとしたあと、ふっと笑った。
「そう。恒一は、ああいうところ好きなのね」
「好きです」
短くそう答えた恒一は、その後もやたらと御岩の山に行きたがった。
遊園地に連れていかれても楽しまないわけではない。動物園に行けば動物はかわいいと思う。海に行けばきれいだとも思う。だが、「次はどこへ行きたい?」と聞かれると、必ず答えは同じだった。
「御岩神社です」
両親は最初こそ不思議がったが、すぐに「この子はそういう子なんだろう」と受け入れたらしい。おかげで立花家の休日は、かなりの頻度で山へ向かうことになった。
恒一は喜んだ。
そして小学校に上がるころには、彼はもう完全に「少し変わった子」として完成しつつあった。
その片鱗がはっきり表れたのは、小学三年生の遠足だった。
学校の行事で自然公園へ行き、みんなで弁当を食べ、虫を捕まえ、展望台に登る。ごく普通の遠足である。帰宅後、先生は子どもたちに感想文を書かせた。
翌日、教室の後ろに貼り出された感想文は、だいたい似たような内容だった。
『友だちとおべんとうを食べて楽しかったです』
『とんぼをつかまえられてうれしかったです』
『すべり台がたのしかったです』
大変健全で、すばらしい。
だが、恒一だけは違った。
『山道のとちゅうに大きな岩がありました。あの岩の前では空気が少し変わりました。あそこはよかったです。木の音も、そこだけちがいました。もしまた行けるなら、ぼくはあそこに長くいたいです』
担任の佐々木先生は、その感想文をしばらく眺めたあと、職員室で隣の先生に見せたらしい。
「立花くん、岩が気に入ったみたいで」
「……岩?」
「岩です」
それだけで、ちょっとした話題になった。
もちろん子どもたちにはそんな裏事情は分からない。ただ、教室で感想文の話になったとき、クラスメイトの一人が恒一に言ったのだ。
「おまえ、なんで岩?」
「よかったからです」
「いや、どこが?」
聞かれて、恒一は真剣に考えた。
「空気です」
「空気?」
「あと、音です」
「……分かんねえ」
そのとき、恒一もまた思った。
分からないのか。
それは少し不思議だった。なぜなら、彼にとっては「分からないほうが不思議」だったからである。あの場所に立ったとき、空気がすうっと澄んだことは、あまりに明白だった。木の葉の揺れ方まで違って見えた。あれが分からないというのは、目の前で鐘が鳴っているのに音が聞こえないと言われるくらい、不思議なことだった。
けれど恒一は、そこで「いや、分かるでしょう」と押しつけたりはしない子どもだった。
「そうですか」
とだけ言って、給食の時間には牛乳を丁寧に開けていた。
そういうところもまた、少し変わっていた。
恒一は子どもらしく騒ぐことが苦手だったわけではない。走れと言われれば走れたし、鬼ごっこをすれば逃げるのも速かった。けれど、わざわざ大声を出したり、意味もなく誰かをからかったり、そういうことにはあまり心が動かなかった。
代わりに、泣いている子がいればそっとハンカチを差し出し、転んだ子がいれば土を払ってやる。机の中がぐちゃぐちゃな子がいれば、何も言わずに一緒に整える。
優しい、というより、自然にそうしてしまうのである。
小学校高学年になるころには、女子たちのあいだでこんな噂が立った。
「立花くんって怒ることあるのかな」
「見たことない」
「なんか、おじいちゃんみたい」
最後の一言は小学生に向ける評価としてどうなのかと思うが、恒一本人は知らないので気にしていない。
そんなふうに、少しずつ周囲とずれながらも穏やかに育った恒一だったが、そのズレは中学に入って一気に際立ち始めた。
思春期である。
周囲の男子たちは、いきなり妙な生き物になる。
昨日までゲームの話しかしなかった者が急に女子の話をするようになり、昨日までサッカー部の先輩がすごいと言っていた者が、今度は二年の誰それがかわいいと言い始める。男子同士で「好きなタイプ」がどうこう、「あの子と目が合った」がどうこう、妙に生々しい情報が飛び交い、教室の空気自体が落ち着きなく変わっていった。
恒一は、その変化を少し離れた場所から見ていた。
理解できないわけではない。みんなが関心を寄せている対象が変わったのだろう、ということくらいは分かる。だが、自分の中にその熱がまったくないのである。
ある日の昼休み、男子数名が机を寄せ合って、例によって女子の話をしていた。
「いや、だからやっぱ三組の牧野だって」
「分かる。でも二年なら先輩のほうがやばい」
「おまえ、背の高い人好きだもんな」
大変にぎやかである。
そこへ、友人の一人が弁当を持ったまま恒一の机にやってきた。
「なあ立花、おまえはどうなんだよ」
「どう、とは」
「好きな女子とか」
恒一は箸を止めた。
真剣に考えている。
考えたうえで、率直に答えた。
「山で一番静かな時間帯は、早朝五時前後です」
一瞬、教室が静まった。
「いや、何の話?」
「好きなものの話かと」
「違う違う違う」
「そうなのですか」
「好きな“タイプ”だよ!」
友人はやや大きな身振りで訴えた。だが恒一は、ますます分からなくなったようだった。
「静かな方は好きです」
「人の話をしろ!」
「人……」
そこで恒一は少し考え、慎重に答えた。
「礼儀のある方は、よいと思います」
あまりにも誠実な返答だったため、男子たちは笑うしかなかった。
「なんだそれ、面接かよ!」
「立花、将来絶対モテないぞ」
「いや逆に変なとこでモテるかもしれん」
笑われても、恒一は別に傷つかない。自分がおかしなことを言ったのかどうかも、実はあまり分かっていないからである。
別の日、帰り道に同級生から「好きなタイプは?」と改めて聞かれたことがあった。たぶん、今度こそまともな答えを引き出してやろう、くらいの軽い気持ちだったのだろう。
恒一は立ち止まり、少しもふざけずに答えた。
「御岩の山です」
「人間じゃねえ!」
「えっ」
「えっ、じゃないんだよ!」
その場にいた三人が腹を抱えて笑ったせいで、恒一はしばらく「タイプが御岩神社の山のやつ」として認識されることになった。
しかし本人は不服でも何でもなく、むしろ心外そうだった。
「好きなものを聞かれたのでは」
「おまえ、人と山を同列にするなよ……!」
「同列にしているわけではありません。山は山です」
「そういう話じゃねえ!」
会話が成立しているようでしていない。だが恒一は、からかわれていることにもほとんど気づかず、ただ実直に答えているだけだった。
そして二月になり、男子たちの落ち着きのなさはさらに悪化した。
バレンタインデーが近づいたのである。
教室の空気は、もはや妙な祭りの前日だった。普段は女子に話しかけない連中まで、なぜか意味もなく姿勢を正している。廊下に出るたびにそわそわと鏡を見て、机の中を無意味に片づける者までいた。
「明日、やばくね?」
「いや別に期待してないし?」
「でもゼロは避けたい」
「分かる」
男子とは本当に大変だな、と恒一は思った。
彼は窓の外を見ていた。空がどんよりしている。天気予報では夜から雪だと言っていた。
「明日は雪らしいですね」
ぽつりとそう言うと、近くの男子が振り向いた。
「は?」
「朝のうち、山道が滑るかもしれません」
「いや明日はバレンタインだぞ?」
「はい」
「はい、じゃなくて!」
恒一は首をかしげた。
「雪道は危ないでしょう」
「おまえの頭の中どうなってんだよ!」
周囲で聞いていた男子たちがまた笑い出す。女子の中にも吹き出している者がいた。
だが翌朝、本当に雪が積もったので、登校してきた恒一は開口一番こう言った。
「今日は足元にお気をつけください」
それを女子に向かって深々と頭を下げながら言うものだから、言われた女子は「え、あ、うん……」と妙に赤くなった。
恒一には分からない。
ただ事実として、雪道は危ない。
なら注意喚起すべきである。
彼の世界はいつだって、そういう順番でできていた。
もちろん、そんな恒一がまったく浮いていたかといえば、そうでもない。
むしろ教師受けは非常によかった。
騒がない。怒鳴らない。宿題は忘れない。掃除も黙々とやる。荒れている生徒にも必要以上に反発せず、しかし怯みもせずに接する。授業中に騒ぐ連中がいても、注意するわけではないが、静かにノートを取り続ける。その姿が逆に周囲を落ち着かせることさえあった。
一度、体育の時間に同級生が足をひねって座り込んだことがある。みんなが「大丈夫か」と集まる中、恒一は真っ先にしゃがみ込み、顔色と呼吸を見てから、教員に保健室搬送を提案した。しかも本人が歩けないと分かると、自然な手つきで肩を貸している。
そのとき保健室の先生が感心したように言った。
「立花くん、落ち着いてるねえ」
「転倒直後は無理をしないほうがよいかと」
「将来、看護師さんとか向いてるかもね」
すると恒一は真面目に考えたあと、こう答えた。
「山にいたいので、たぶん違います」
保健室の先生は「そっかあ」と言いながら笑った。
また、少し不良っぽい男子が廊下で教師と揉めていたときもそうだった。
「うるせえな、別にいいだろ」
「だめなものはだめだ!」
空気がぴりつき、周囲が見て見ぬふりをする中、恒一だけが通りかかった。そしてごく自然に言った。
「先生、そのプリント、風で飛びそうです」
「え?」
教師が思わず足元を見る。その一瞬で不良生徒の肩から力が抜けた。
恒一は続けた。
「こちらで拾います。ですので、少し落ち着いてお話しされたほうがよいかと」
別に仲裁のテクニックを学んだわけではない。ただ本当に、プリントが飛びそうだったし、どちらも落ち着いていなかったからそう言っただけである。
結果として場は収まり、あとで担任に「立花、おまえはなんなんだ」と半ば呆れられた。
「生徒ですが」
「そういう意味じゃない」
「そうですか」
会話の結び方まで独特だった。
その一方で、女子たちとの距離はなかなか縮まらなかった。
嫌われているわけではない。むしろ「いい人」「真面目」「怖くはない」という評価だった。しかし、いざ話しかけようとすると、なぜか少し緊張する。なぜなら、恒一の礼儀正しさが中学生の気軽な距離感を超えていたからである。
ある日、学級委員の女子が配布プリントを持ってきた。
「立花くん、これ後ろに回してくれる?」
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」
そう言って、恒一はきちんと両手で受け取り、軽く頭まで下げた。
女子は固まった。
「え、あ、うん……」
ただプリントを渡しただけなのに、まるで大事な書類を正式に受理されたかのような空気になる。後ろで見ていた男子が吹き出し、女子は「なんか変に緊張するんだけど」と小声でこぼした。
また別の日、女子が消しゴムを落としたときもそうだ。
恒一は素早く拾い上げ、手渡しながら言った。
「どうぞ。机の脚に入る前でよかったです」
「……ありがと」
「いえ。お気をつけください」
“お気をつけください”である。
何に気をつけるのか女子本人もよく分からず、しかしなぜか丁寧に「うん」と返してしまう。そういう妙な空気を生み出す男だった。
だから女子の間では、こんな評価が定着していった。
「立花くんって、なんかすごく丁寧」
「悪い人じゃないんだけどね」
「近いようで遠い感じする」
「神社の人っぽい」
「まだ中学生だよ?」
最後の一言はわりと正論である。
そんな恒一にも、中学三年の冬がやってきた。
受験の季節だ。
教室には進路希望調査の紙が配られ、皆がそれぞれ志望校を書き込んでいく。進学校、工業高校、商業高校、家から近い学校、部活の強い学校。現実的で、具体的で、当たり前の未来が紙の上に並んでいく。
恒一も、机に向かってペンを握った。
特に迷いはなかった。
彼は静かに書いた。
――比叡山に行きたいです。
翌日、担任の佐々木先生は、その紙を見て固まった。
放課後、職員室に呼ばれた恒一は、椅子に座るなり進路調査票を差し出された。
「立花」
「はい」
「いや、進学先を……」
「はい。比叡山です」
「高校名をだな……」
「比叡山に入るには、どうすればよいでしょうか」
佐々木先生は眼鏡を外して目頭を押さえた。
「本気なのか立花」
「はい」
迷いがなさすぎる。
「いや、ええと、その、比叡山っておまえ……修行の、あれか?」
「はい」
「坊さんの?」
「はい」
「……本気なのか」
「はい」
二回聞いても答えは変わらなかった。
結局その話は、先生だけでは抱えきれず、教室でもちょっとした騒ぎになった。
「え、坊さんになるの?」
「マジで?」
「高校行かないの?」
「どういうこと?」
「恋愛とかどうすんの?」
男子も女子もざわつく中、恒一だけが本気で首をかしげた。
「恋愛は、進路と関係があるのですか?」
教室が一瞬、しんと静まったあと、爆笑が起きた。
「立花らしい!」
「関係あるだろ普通!」
「いや、でもこいつなら本当に関係ないのかも」
「そういうとこだぞ立花!」
笑い声の中で、恒一はなおも分かっていなかった。
なぜそこで笑うのか。
なぜ“恋愛”が進路の話に割り込んでくるのか。
彼にとって将来とは、自分がどこで、どう生きるかの話だった。そしてその答えが、自分の中ではもうかなりはっきりしていた。
山のほうへ行く。
もっと深く、もっと静かな場所へ。
それだけだった。
放課後、職員室を出た恒一は、その足で御岩のほうへ向かった。
冬の夕暮れは早い。空はすでに薄い群青へ変わり始めており、山道には昼の残り香のような冷えた空気が満ちていた。人の声は遠く、鳥の鳴き声も少ない。落ち葉を踏む音だけが、自分の歩みに合わせて静かに続く。
恒一はひとりで山道を歩いた。
何度も歩いた道だ。
けれど、この日は少しだけ違って見えた。
幼いころからこの山に来るたび、心が整った。つらいことがあっても、うまく言葉にできない違和感があっても、ここへ来れば静かになれた。自分の輪郭がはっきりするような感覚があった。
そして今、恒一は初めてはっきりと理解していた。
自分は、ここから先へ行きたいのだと。
ただ山が好きなだけではない。
ただ静かな場所が落ち着くだけでもない。
もっと深いところへ。
もっと厳しいところへ。
もっと自分を削り、磨き、整える場所へ。
夕暮れの木々のあいだを抜ける風が、頬を撫でた。
恒一は立ち止まり、細く長く息を吐く。
「……自分は、ここからもっと深い場所へ行くべきなのかもしれない」
その言葉は独り言でありながら、不思議と胸に落ちた。
誰に言われたわけでもない。
誰に認められたわけでもない。
だが、そうだった。
教室のざわめきも、同級生たちの笑い声も、未来の形を競うような空気も、嫌いではない。けれど自分の行く道は、たぶんあちらではない。
木立の向こうに、見慣れた岩があった。
小さなころから好きだった場所だ。
あの前に立つと、いつも空気が変わる気がした。
恒一はその前で静かに目を閉じた。
何かを願うでもなく、祈るでもなく、ただそこに立つ。
しばらくして目を開けると、山はもう夕闇に沈みかけていた。だが不思議と、心は少しも迷っていなかった。
中学卒業後、自分は俗世のただ中ではなく、修行の道へ進む。
それがどれだけ厳しいか、このときの恒一はまだ知らない。
知らなかったが、それでもよかった。
山道を下りる彼の足取りは、冬の冷え込みの中でも不思議なくらい静かで、まっすぐだった。




