第四話「崩壊の加速」
王太子エドワードの平手打ちが響いた舞踏会場は、まるで時が止まったように静まり返っていた。
リリィは頬を押さえ、怯えたようにエドワードを見上げる。
「エ……エドワード様……?」
彼女の声は震えていた。
(このリリィが王太子に……叩かれた?)
そんなことがあるはずがない。
これまでのエドワードなら、どれほどリリィが愚かであろうと、失態を晒そうと、決して彼女を責めることはなかった。むしろ「可哀想に」と甘やかし、庇い、貴族たちが少しでも彼女を批判しようものなら、怒りをあらわにしていたはず。
だが今、目の前にいるエドワードの瞳には、かつてのような優しさはない。
「……いい加減にしろ、リリィ」
「……え?」
エドワードは深くため息をつくと、彼女を見下ろしながら低く言い放つ。
「私はもう、これ以上お前の失態を庇いきれん」
その一言に、リリィの顔が青ざめる。
(そんな……!)
「わたくしは、聖女です……! 殿下が認めてくださったではありませんか……!」
必死に訴えるが、エドワードは冷ややかに首を振る。
「……お前は聖女として相応しくない」
その言葉は、リリィにとって何よりも残酷だった。
王太子エドワードが彼女を見限るなど、ありえないはずだったのに——
——だが、それこそがエリシアの狙いだった。
エリシアは静かに微笑みながら、その様子を眺めていた。
(ええ、そうよ……お前はもう、不要なの)
リリィの「奇跡」とやらに王太子が惹かれていたのは、彼女が「聖女」としての価値を持っていたからにすぎない。だが、貴族社会での立ち回りに失敗し、支援者を失った今、彼女はただの平民に過ぎない。
しかも、貴族派の支援を失いつつある王太子にとって、彼女の存在は足枷になりつつある。
エリシアはそっと目を伏せ、心の中で静かに呟いた。
(さあ、エドワード。次はあなたの番よ)
エドワードは苛立たしげにリリィを振り払い、アルベルト侯爵の方を向いた。
「アルベルト、今の話……詳しく聞かせてくれ」
その声には、ほんのわずかに焦りが混じっていた。
アルベルト侯爵は静かに頷く。
「では、別室へ……」
彼がエドワードを連れてホールを出ようとしたとき——
「――王太子殿下、少しよろしいでしょうか?」
低く、冷徹な声が響いた。
エリシアの心がわずかにざわめく。
(この声……)
ホールの入り口に佇んでいたのは、一人の男だった。
漆黒の髪と瞳を持つ公爵——クロード・ヴァレンティン。
(……あなた、ここで動くのね)
クロードはゆっくりと歩みを進め、王太子の前に立つと、静かに微笑んだ。
「どうやら、殿下の周囲で色々と問題が起きているようですね」
エドワードは不快げに眉をひそめる。
「……貴様が何の用だ?」
「いえ、些細なことです。ただ、これ以上聖女様のことで混乱が広がるようであれば——」
クロードはわずかに唇の端を上げる。
「王家の権威を守るため、我々貴族も動かねばなりませんね」
その言葉に、エドワードの顔がこわばる。
(……素晴らしいわ、クロード)
エリシアはグラスを傾けながら、そのやり取りを楽しむように眺めた。
クロードはあくまで「貴族として当然の判断をする」と言っているだけだ。
だが、それがエドワードにとってどれほどの脅威か——彼にはよく分かっているはず。
エリシアはゆっくりとホールを後にしながら、小さく笑った。
(これで、王太子はもう詰みね)
王家の権威が揺らぐ中、貴族派の支持を失い、リリィを見限り、側近からの信頼も崩れつつある。
王太子エドワードの孤立は、もはや避けられない。
そして——その時が来たら、最後の一手を打つ。
(エドワード……あなたには、すべてを失ってもらうわ)
エリシアの復讐は、いよいよ完璧な形を迎えようとしていた——
***
エリシアはホールを抜け、廊下を歩きながらそっと息を吐いた。
(これで、もう王太子は終わりね)
貴族派の支援を失い、リリィを見限り、クロードによって追い詰められた。
今のエドワードには、もはや逃げ場などない。
彼がどれほど抗おうと、あとは崩れ落ちるだけ——
「……エリシア様」
後ろから、執事のカイが静かに歩み寄る。
「すべて、予定通り進んでおります」
「そうね。あとは、最後の仕上げをするだけ」
エリシアは微笑んだ。
(このループで、完全に終わらせる)
一度目のループでは、リリィの失墜だけでは不十分だった。
王太子はまだ権力を握り、最後は彼女を失った悲しみを利用して自らを正当化した。
だから——二度目は、すべてを奪う。
彼を王太子の座から引きずり落とし、誰からも見捨てられた状態で終わらせる。
そのための「決定打」は、すでに用意していた。
王太子エドワードの汚職の証拠。
リリィを聖女として擁護するために、彼は莫大な資金を横流ししていた。
もちろん、その事実は公にはされていない。
——今までは。
エリシアはカイに目配せし、短く告げた。
「……『告発』を」
カイは静かに頷き、闇に紛れて消える。
***
翌朝、王宮では異例の緊急会議が開かれていた。
国王陛下が重臣たちを集め、ひとつの告発文を前に眉をひそめている。
「王太子エドワード、お前は……この内容に覚えがあるか?」
静かながらも威厳のある国王の声が響く。
エドワードは、蒼白な顔で立っていた。
「こ……これは、何かの間違いです、父上!」
「間違い、とな?」
国王は、手にしていた書状をテーブルの上に置く。
それは、王太子がリリィのために王宮の財産を横領し、それをいくつかの貴族へ秘密裏に分配した証拠だった。
すべて、詳細に記されている。
王宮の帳簿が改ざんされ、資金が流れた先も明らかにされていた。
「この証拠は確かなものだ。関係者の証言も取ってある」
「そ、それは……!」
エドワードの額に汗が滲む。
誰が——誰がこんなことを?
(アルベルトか? いや、あいつはまだ私を……)
そう思った瞬間、彼の視線がひとりの男に向いた。
——クロード・ヴァレンティン。
彼は静かに腕を組み、冷淡にエドワードを見つめていた。
「……お前か……!」
「何の話でしょう?」
クロードは静かに微笑む。
「私は、国のために必要な情報を国王陛下に伝えただけですよ」
「ぐ……!!」
エドワードは拳を握りしめた。
(貴様、最初から俺を陥れるつもりで……!)
だが、どれだけ睨みつけようと、クロードは微塵も動じない。
国王は静かに息を吐き、厳しい目でエドワードを見つめた。
「エドワード。お前は、王太子としての責務を果たせなかった」
「ち、違います! すべてはリリィのために……!」
「そのリリィという娘も、すでに聖女としての信頼を失っている」
国王の言葉に、エドワードは息を呑む。
(そんな……リリィが、もう……?)
思わず視線を泳がせるが、そこにリリィの姿はない。
彼女はすでに王宮から追放され、どこかへと消えていた。
「エドワード」
国王が低い声で告げる。
「お前に、王太子の資格はない」
「っ……!!」
エドワードの視界が歪む。
(そんな……そんなことが……!)
彼は王太子だった。
王になるはずだった。
それなのに——
「本日をもって、お前を王太子の座から廃する」
その瞬間、エドワードの世界が崩れ落ちた。
***
その報せがエリシアの耳に届いたのは、静かな午後のことだった。
「王太子エドワード、廃嫡が決まったそうです」
カイが淡々と告げる。
エリシアは微笑み、紅茶を一口飲んだ。
「ええ……そうなると思っていたわ」
王太子の失脚。
リリィの追放。
貴族派の崩壊。
——これで、すべてが終わった。
(あの男に、王太子の座はもうない)
彼がどれほど足掻こうと、二度と元には戻れない。
——一度目のループでは果たせなかった、本当の復讐を遂げたのだ。
エリシアはゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐く。
(これで……ようやく解放されるのかしら?)
だが——その瞬間だった。
視界が、一瞬歪んだ。
「……え?」
頭がぐらりと揺れ、意識が遠のく。
まるで——何かに引きずり込まれるような感覚。
そして、次に目を開いたとき——
見慣れた天井が目に映った。
胸が痛む。
身体が、ひどく冷たい。
「……嘘……」
目の前には、処刑場の石畳が広がっていた。
(また……また戻ってきた……!?)
エリシアの顔から、血の気が引いていく。
——二度目の復讐を遂げても、終わらなかった。
「……そういうこと、なのね」
彼女は静かに、唇を噛み締めた。
(ならば、次はもっと完璧に)
今度こそ、この終わらない輪廻に終止符を打つために——