第三話「転落の幕開け」
舞踏会の喧騒の中、リリィは王太子エドワードの怒りを受け、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「少しは恥を知れ!」
たったその一言で、空気が一変する。
今までのエドワードなら、どんなにリリィが失敗しても彼女を庇い、優しく慰めていただろう。しかし、彼は今、周囲の貴族たちの笑い声に晒されている。王族としての誇りを踏みにじられた屈辱が、彼の理性を奪っていた。
「エドワード様……」
リリィの瞳には涙が浮かんでいる。
しかし、その涙は今までのように彼の心を揺さぶることはなかった。
(いいえ、むしろ逆効果ね)
エリシアはワインを揺らしながら、静かにその様子を見つめていた。
エドワードはすでに苛立ちを抑えきれず、リリィの手を振り払う。
「貴族の舞踏もまともに踊れないのか?」
その冷たい言葉に、リリィの顔が青ざめる。
(そうよ、エドワード。あなたがリリィを疑い始める、その小さなきっかけを私は作ってあげただけ)
前回のループでは、リリィの聖女としての奇跡が起こり、彼女は「高潔な乙女」として賛美された。だが、今回は彼女が公衆の面前で失態を晒したのだ。
貴族たちは、それを見逃さない。
「王太子殿下が聖女様を叱責なさるなんて……」
「やはり、聖女と言えど平民上がりでは限界があるのでしょう」
「これでは王妃など、とても……」
ひそひそと囁かれる声が、リリィを追い詰める。
彼女は震えながら、視線を上げた。
「ち、違います……! わたくしは、聖女なのです……!」
涙を浮かべながら、訴えるように声を上げる。
「この国を救う神の御使いです! だから、だから——!」
言い訳がましい声が、さらに貴族たちの冷笑を誘う。
「まあ、なんと……」
「聖女様は舞踏が苦手なだけではなく、お言葉遣いも乱れていらっしゃるのね」
「神の御使いなら、もう少し落ち着いて振る舞うべきでは?」
リリィの顔がみるみるうちに紅潮し、涙が頬を伝う。
(ああ、なんて滑稽な劇でしょう)
エリシアは優雅に微笑んだ。
(まだよ、リリィ。あなたの転落は、ここからが本番なのだから)
王太子エドワードは、貴族たちの視線を気にしながらリリィの手を振り払い、一歩離れた。その動作ひとつで貴族たちの間には決定的な空気が流れる。
(エドワードがリリィを見限る日は、そう遠くないわ)
だが、それではまだ足りない。エリシアの復讐は、こんな生ぬるいものではない。
もっと確実に、王太子を破滅させなければならない。
彼が最も信頼する者たちから裏切られ、孤立し、国をも失うように——。
エリシアは静かに、次の駒を進めることを決意する。
(まだ足りないわ……この程度では、前回のループよりも少し早く亀裂が入っただけ)
彼らを破滅させるには、もっと確実な一手が必要だ。
エリシアはゆっくりと視線を移した。
王太子エドワードの側近、アルベルト侯爵。彼は王太子の忠実な家臣であり、リリィを「聖女」として持ち上げた張本人だ。貴族派の中心に立つ彼がエドワードを支持し続ける限り、王太子は簡単には崩れない。
(だから、あなたを動かす必要があるのよ)
エリシアは、ふっと微笑むと、傍に控えていた執事カイに小さく囁いた。
「そろそろ、彼に知らせてちょうだい」
カイは無言で頷くと、静かに舞踏会場を離れた。
彼が動けば、すぐに「ある情報」がアルベルト侯爵の耳に入るはずだ。
——王太子エドワードは、リリィを寵愛するあまり、すでに多額の資金を彼女のために流用している。
リリィが「聖女」として祀り上げられる裏で、どれほどの金が動いたのか。
それを知れば、財政を管理するアルベルト侯爵はどう動くか——
しばらくすると、エリシアの予想通り、アルベルト侯爵の表情が険しく変わるのが見えた。
彼は静かにエドワードへ歩み寄り、低い声で囁いた。
「……殿下、少々よろしいでしょうか?」
「アルベルト? 今は——」
「いいえ、急を要します」
普段ならば王太子に忠実な彼が、強引に話を切り出すことなどあり得ない。
だが、今夜は違う。
王太子は眉をひそめたが、アルベルト侯爵に促され、少し離れた場所へと向かった。
(さあ、どんな言い訳をするのかしら?)
エリシアはグラスを傾けながら、遠巻きにその様子を眺めた。
アルベルト侯爵は低く、しかしはっきりとした声で告げる。
「王太子殿下、最近の財務状況について、お話ししたいことがあります」
「財務……? 何のことだ?」
「——リリィ様のために、殿下が独断で動かした資金のことです」
ピクリと、エドワードの肩がこわばる。
(どうしたの? いつもみたいに『リリィは聖女なのだから問題ない!』と叫べばいいのに)
しかし、今の彼にはそれができない。
舞踏会で失態を晒したリリィ。
周囲の貴族たちの冷たい視線。
王族としての誇りを傷つけられ、リリィに向けていた盲目的な愛が、微かに揺らいでいる。
そこに、彼の最も信頼する側近からの追及——
「……それが、どうした?」
「殿下、すでに多額の資金が動いています。貴族派の支援者たちの不満も高まっています。これ以上続けば——」
「うるさい!」
エドワードは苛立ちをあらわにした。
「リリィは聖女なのだぞ! 彼女に尽くすことが、なぜ問題なのだ!」
「しかし、殿下……」
アルベルト侯爵の声が低くなる。
「このままでは、貴族派も殿下を支えきれなくなります」
エドワードの表情が一瞬、凍りついた。
彼が最も恐れること——
それは、王座を支える貴族たちの支持を失うこと。
「……貴族派が、私を見限ると?」
「その可能性が出てきた、ということです」
ざわ……と、ホールの空気が変わる。
遠くから、貴族たちが彼らのやり取りを気にし始めていた。
エリシアはその様子を見ながら、静かに微笑む。
(いいわ、このまま彼に疑念を植え付けて……)
その時——
「エドワード様!」
リリィが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「わたくし、殿下のお役に立ちたいのです! だから、もう一度、わたくしの奇跡を——」
「うるさい!!」
バチンッ!!!
ホールに響いた、乾いた音。
——王太子の手が、リリィの頬を打っていた。
一瞬、時間が止まる。
「……え?」
リリィが怯えたように、エドワードを見上げた。
貴族たちは息を呑み、ホールの空気は凍りついている。
「リリィ、お前は……恥を知れ!」
「……!」
リリィの瞳が大きく揺れる。
彼女は今、気づいたのだ。
——王太子エドワードの愛が、冷めつつあることに。
その光景を見届けながら、エリシアは静かにワインを飲み干した。
(これで、もう後戻りはできないわ)
王太子と聖女の関係に、決定的な亀裂が入った。
エリシアはゆっくりと立ち上がり、微笑んだ。
「さあ、転落の幕開けよ」