二人だけの夏
「雪国」の冒頭の一文から短編を書いてみました。
トンネルを抜けるとそこは雪国だった。早朝、細雪がちらつく寒空の下を列車は黙々と走っていく。窓から見える通行人は皆一様に白い息を吐きだしながら、雪かきや身支度に追われているようだった。
「なあ兄ちゃん、駅に着いたらどうする?」
ボックス席に座った少年の一人がうきうきした声を出した。赤いまだら模様のTシャツに白のハーフパンツという軽装。灰色の瞳の前でストレートの黒髪がつやつやと揺れる。
「三鷹屋でうどん食べたらバス乗って早めにおばあちゃん家に行く。あんまりのんびりしてる時間ないよ、明夫」
向かいに座ったもう一人の少年が文庫本から顔を上げ、利発そうに答える。チェックシャツの肩から短いデニムパンツをサスペンダーで吊り下げている。
明夫と呼ばれた少年は「うどん二杯食うつもりだったのに……」としょげかえっている。
「ほら、食うとか言わない。食べる、な。おばあちゃんの家にはしばらく泊まることになるから山菜食べ放題だし、山で遊び放題だよ。良かったな」
「うん。忠輝兄ちゃん、おれ海行きたい!」
「温泉と山しかないよ、諦めろ」
「ちぇ。でも温泉なら泳げるよね!」
「迷惑だろやめとけ」
「ちぇー」
呆れた顔でふっと息をつき、忠輝と呼ばれた少年は窓の外を眺める。どんよりと曇った空が割れていき一筋の光が彼方の山を照らした。その瞬間、列車はトンネルに突入する。窓はいちめん暗いガラスのようになり、人気のない列車の内部を映した。
そこに一人の女性が映りこんだ。キャスター付きのスーツケースをひいた小太りの中年女性が二人の目の前に現れ、不機嫌な様子で忠輝の真横にどかりと腰掛けると、高級そうな手提げかばんを肩から下ろし無造作に忠輝の膝へ投げた。
「何だこのおばさん、無礼だなあ」明夫は唇をとがらせる。
「構わないよ、僕は」忠輝は文庫本から目を離さずに言う。
「いーや、俺が構う!」
明夫は立ち上がって女性に顔を近づけ、「おい、無礼だぞ!どっか行け!」と居丈高に言った。
彼女は迷惑そうに明夫を一瞥すると「えっ!」と驚いた表情になり、怯えたようにそそくさと忠輝の膝から鞄を回収し、毛皮のコートを翻して別の車両へ行ってしまった。
「へへ、どんなもんだい」明夫は得意そうに鼻の下をなでる。
「ああ」忠輝は上の空で暗い窓を見つめていた。
『次は越後湯沢。越後湯沢』トンネルを出た頃、車内アナウンスが告げた。
「よし、目的地にとうちゃーく」
明夫は興奮した様子でお菓子やペットボトルを鞄にしまい込んでいる。
「どうしたの? 早く行こうよ!」
明夫が通路に出て忠輝を急かした。忠輝は文庫本を開いたまま、時が止まったように窓を見つめている。
「なあ、明夫」ふい、と忠輝は明夫に目を向ける。「このまま、もっとずっと遠くまで行ってみないか」
その声音は今にも消え入りそうに儚い響きを帯びていた。りん、と風鈴のような音がどこかで鳴った。
「そう……だね。じゃあ、このまま新潟まで行っちゃおうか!」
明夫は一瞬表情をこわばらせたが、すぐにいつもの快活な調子を取り戻した。
「ふふ、新潟までは行かないよ。上越線は長岡までさ」
穏やかに忠輝は笑って答える。明夫はまたジュースとお菓子を取り出している。
「長岡まで行ったらさ、何匹セミ獲れるか競争しようよ! あと海も入りたい!」
「ああ、約束な。でもいくら夏真っ盛りだからって海は入れないよ。長岡は内陸なんだから」
「ええ! でもプールはあるよね!」
「それならあるよ。おばあちゃんの家はすごくお金持ちだからね」
雪は止み、柔らかい日差しが雪原に反射して車内に差し込み、席面を、通路を、天井を淡く照らしている。そんな景色にはまるで無頓着に二人は話し続けている。
その時、コツコツと足音が聞こえてきた。列車がまたトンネルに入る。窓ガラスが無人の車内を暗く映している。そこに制帽をかぶった乗務員が現れた。その手には小さな花束が二つ握られている。乗務員はしゃがみこんで窓際の二席に花束をそっと置き、ほんの数秒間、手を合わせた。通路側の席には「使用禁止」の立て札が置かれた。
ぴしゃりと戸が閉まり、再び車両は無人となった。ごうごうとすさまじい音が暗い車内を前から後ろへ流れていく。
半年前の夏だった。
二人は目もくらむような陽光を浴び、空の果てに入道雲を見、セミの鳴き声を聞いていた。しゅわしゅわのサイダーを飲み、『夏の靴』を読みながら越後湯沢に住む祖父母の家に向かう途中だった。ふいに飛んできた銃弾が窓を割り、明夫の胸に突き刺さった。猟銃の暴発だった。乗務員が駆け付けた時、首から血を流した忠輝が明夫に覆いかぶさるようにして倒れていたという。明夫は十二歳、忠輝は十四歳だった。
それから二人はずっとその車両にいる。そこでは「少年の幽霊を見た」という証言が絶えない。目撃者が出るたびに二人が座っていた席に花が置かれる。
列車はトンネルを抜けた。晴れ渡った冬空を一陣の風が通り過ぎる。太陽は雲に隠されては隙間から顔を出し、黄金色の光を降らせている。それは二人にとって半年後の未来の景色だった。
誰もいない車内で、花束がかさりと音を立てる。
「あ、なんかいい匂いがする!」
「うん。とても……いい匂いだ」
どこからかそんな声が聞こえた気がした。
彼らは今でもそこにいる。懐かしく眩しい夏に囚われたまま──。