第31話 柊彩香とファム・ファタール
「本当に良かったの?由芽ちゃんも学校が……」
「朝にも言った通り、午前中は授業に出たので大丈夫です。それに、彩香はわたしの大切な人ですから。傍で心配させてください」
「ううぅ~!由芽ちゃんは、本当にいい子ね!でも、あまり無理はしないでね?」
「はい、彩香のお母さんも行ってらっしゃい」
朝、彩香のお母さんからの電話でわたしは飛び起きた。
それはもう、とてもとても嫌な汗を朝からかきながら。
その内容は、彩香が熱を出したから今日の稽古は休ませたいという事だった。
それを聞いて、わたしは膝から崩れ落ちた。
眠気も相まって、スライムみたいに溶けてしまいそうなくらいに床に寝転んだ。
だけれど、彩香が熱を出したのはわたしにも責任がある。
どんな形であれ、わたしが彩香をこの世界に引きずり込んだ。そして、わたしは彩香の演技の師匠でもある。
ここ最近、わたしは舞台の事と凛の事で頭がいっぱいで、ちゃんと彩香の事を見る事が出来てなかった。
わたしには彩香を見る義務があるはずなのに、それを忙しいからと後回しにした。
彩香は傍目から見てしっかり稽古で周囲に馴染めているからと、大丈夫だとたかを括って。
彩香のお母さんを仕事に送って、彩香の部屋に入った。
泊まった時以来に入ったけど、彩香の良い匂いがする。
そしてこの部屋の主は、ベッドで静かに寝息を立てていて。その規則正しい寝息に、少しだけ心が軽くなった。
「由芽ちゃん……」
「あや……!……あはは、寝言って」
寝言でわたしの事を言うなんて、もしかして恨み言だったりするのかな。
でも、それも仕方がないか。
彩香が初めての舞台稽古で精神をすり減らしているのも気づけず、彩香を守るっていう自分の中の誓いすら中途半端で。
「ごめんなさい、ダメな後輩で」
寝ている彩香の手を握って、許しを請うよう彩香の寝顔に語り掛ける。
わたしの失態で、彩香に熱を出させてしまった。そうじゃないと本人は言うだろうけど、これは明確にわたしが彩香を見誤ったせいだ。
自分の事を観察眼に長けているなんて勘違いして、恩人さえこんな目に合わせて。
わたしは本当に、何も学んでいない。
優先順位を誤ったせいで、また大事な人を辛い目に合わせている。
「ごめ、なさ…………」
ダメだ、睡眠不足が今になって聞いてくるなんて。
彩香の看病のついでに、凛との約束の勉強をしなきゃなのに。
やらなきゃいけないこと、たくさん……。
△
今日は朝から熱があって、碌に思考が出来なかった。
ぼーっとしたまま、お母さんが電話を掛けるところを見ていて。
それでもなんとか夕方までには治さないと、舞台の稽古に参加できないからと学校を休んで睡眠をとることにした。
そうして次に起きた時には、私の左手を大事そうに握りながら、由芽ちゃんが私のベッドにもたれかかるように寝ていた。
…………これ、まだ夢を見てるのかな?
うんうん、これは夢だよ。だって今日は平日で学校があるのに、まだ14時の段階で由芽ちゃんが私の部屋にいるなんておかしいし!
「んむぅ……」
そんな夢の中で、私は由芽ちゃんの顔を見る。
誰よりも端正な顔のパーツは整っている、私の大好きな子の顔。そういえば、この前のお泊りの時は一緒のベッドで寝たんだよね。
……夢なら、キス、とか。しても、いいのかな?
そんな考えが頭に浮かんで、ごくりと喉を鳴らす。
自然と視線は由芽ちゃんの唇に向かって、一際強く胸が高鳴り始める。
由芽ちゃんが過去に女の子と付き合っていたからといって、同性愛者とは限らないじゃん!
でもでもこれは夢なんだし、ちょっとくらい欲望を開放しちゃってもいいじゃん!
そんな天使と悪魔が私の脳内で激しく暴れまわって、熱で思考が難しくなっている私は欲望に負けて悪魔を解き放とうと思い至ってしまった。
「そ、それにしても顔がいいっ!」
はっ、ダメだ!思わず声に出しちゃうくらいには、由芽ちゃんを至近距離で見る事は劇薬なのに!
でも、仕方ないよっ!夢とはいえ、クレオパトラ顔負けの美しさなんだし!
「……おきたんですか?」
「うっひゃあ!?」
そんな私の思考を裂くように、由芽ちゃんはむくりと顔をあげる。
というか、起きてる!?もしかして、私が起こしちゃった!?
そもそも、これってもしかして……。
「夢じゃ、ない……!?」
「なんだ、血色はわたしが寝る前よりいいじゃないですか。これなら、明日にはちゃんと熱が下がりきってますね」
由芽ちゃんはまだ眠いのかあくびをしながら、私の手を放して精いっぱいの伸びをする。
そんな由芽ちゃんを見て、私の思考は一気に覚醒した。
「が、学校は!?」
「午前は出て、午後はサボりです。これでも優等生で通っているので、一度程度なら何にも問題ありません」
「て、ていうか、どうして私が学校休みなの知ってるの?」
「今朝、彩香のお母さんから連絡が来たんです。彩香が熱を出したから、今日の舞台稽古は休ませるって。あ、ちなみにお母さんはお仕事に行きましたよ」
「お、お母さんっ!」
そ、それじゃあ、由芽ちゃんは私の看病の為に態々学校を休んだの!?
というかお母さんも、どうして由芽ちゃんに連絡しちゃったのかな!?由芽ちゃんには心配かけさせたくないのに、こんな特級の迷惑ごと……!
「ゆ、由芽ちゃん!私はもう大丈夫だよ!今日の稽古だって、一番へたっぴな私が休んでちゃ皆先に進めないし!」
事実、私は自分の中の課題を全然達成できてない。
そんなのじゃ、この先この業界でやっていけるはずなんかない!
「だから由芽ちゃんも、自分の事だけ──」
考えていて。
そう言おうとした私の言葉は、由芽ちゃんにベッドに押し倒されて虚空に消える。
「ゆ、めちゃん……?」
「そうやって、明るく振舞おうとしないでください」
そう言いながら、由芽ちゃんの赤い真剣な瞳は私を睨みつける。
「まずは、すみませんでした。最近のわたしは、他の人や舞台の事ばかりで。あまり、彩香の事を見れていなかったと思います」
「そ、そんなこと……」
「その結果、彩香が熱を出すまでわたしは気づけなかった。だから、ごめんなさい」
自身を酷く罰するような、由芽ちゃんの後悔に塗れた謝罪。
由芽ちゃんが忙しいのは当然で、そんな中で私に構う余裕なんてほとんどないはずなのに。由芽ちゃんは、私の失態すら自分で背負おうとしている。
「ち、ちがう……!由芽ちゃんは、悪くなんかっ……!」
「そう言ってくれて、ありがとうございます」
そのありがとうに中身は全くない。その証拠に、由芽ちゃんの表情は自罰感情で塗れていた。
私の、せいだ。
私のせいで、由芽ちゃんはここまで自分を責めてしまっている。
天城先生にも由芽ちゃんにも体調管理の重要性は何度も説かれていたのに、それを私が怠ってしまったせいで。
目の前にいる私の大好きな子が、今にも泣きだしそうにしてしまっている。
「わた、私こそごめんなさい……。こんな、私っ……!」
ダメだ、言葉が纏まらない。
由芽ちゃんは悪くないって、私が悪いんだよって言いたいのに。涙が流れて、その影響で喉がどんどん使い物にならなくなっていく。
泣いたらダメだって、由芽ちゃんに迷惑をかけるだけって知っているのに……!
私は役者なのに、感情が思う通りにならない……!
「……彩香は悪くなんかありません。今は熱のせいで感情の制御が出来ないだけだから、気にしないでください」
そう言いながら、由芽ちゃんはハンカチで私の涙を拭う。
「彩香が自分の事を悪く言うなら、その分わたしが彩香を褒めてあげます。彩香はわたしの恩人で、大切な人ですから」
とても耳障りの良い内容の言葉で、その慈愛に満ちた表情で、由芽ちゃんは私の事を優しく包み込む。
そんな由芽ちゃんを見て、私はようやく理解する。由芽ちゃんは、私にとってのファム・ファタールだったんだと。
そして私はそんな彼女に、取り返しがつかない程に堕とされてしまっているのだと。
―――
そこから、由芽ちゃんと沢山の事を話した。
まずは、最近の私の課題。
これについては由芽ちゃんも少し思う所があったらしく、適切な指導法を知っているらしかった。明日以降で、由芽ちゃんが付きっきりで教えてくれるらしい。
次に、由芽ちゃんが昨日言っていた高崎さんとの話し合い。
流石なところは、由芽ちゃんは昨日ですっかり高崎さんと仲良くなったそうだ。
そのお陰で主演2人の中での舞台の演技方針も決まったようで、今はそれを他の皆に納得してもらえるように勉強をしているそう。
そして最後に、以外にも由芽ちゃんはこの前のデートの事を謝ってくれた。
今思えば、無理に誘うべきではなかったと。
そして私ではなく、せなさんの話ばかりをしていたことも振り返って反省したそうだ。
それに私は笑顔で、そんな事はないよと返した。
だって、今こうやって由芽ちゃんは傍に居てくれる。
だったら、過去の事をいつまでも引きずっても無駄だ。私は由芽ちゃんと、これから先の事を話していきたいんだから。
そうしていると、時間はとっくに17時前になっていた。
「由芽ちゃんは、そろそろ稽古に行かないとだね……」
「それなら、今日は休むって伝えてますよ。かなみちゃんも今日は家の手伝いだそうですし、わたしは彩香の看病を任されてますしね」
そう言いながら、由芽ちゃんは軽くピースをする。
そんな仕草も可愛くて、私はますます由芽ちゃんに心を奪われた。
でも、そっか。由芽ちゃんは、私の事を優先してくれたんだ……。
「ん?すみません、ちょっと電話してきます」
「わかった、行ってらっしゃい!」
由芽ちゃんは着信のあったスマホを持って、私の部屋を出て行った。
そこで改めて、今の自分を少し俯瞰する。
この数時間で、改めて私が由芽ちゃんの事を好きなんだと気が付かされた。
そしてそれは間違いなく、恋愛感情として。あの小さな体を支えて、そして寄りかかっていたい。
由芽ちゃんも、私の事をそう思ってくれてたらいいなぁ。
私もいつまでもせなさんに遠慮するんじゃなく、その大切な思い出を上書きするくらいに近づけたら。
そしたら由芽ちゃんもきっと、私だけを見てくれる。
私の、私だけの由芽ちゃんに。
……それにしても、なんだか電話長い?
足音的に私の部屋の前で電話してるみたいだし、ドアに耳を当てたら聞こえたりしないかな?
そんな打算で、私はドアの前まで音を立てずに歩く。
こ、これは別に、やましい事をしてるわけじゃないよっ!?そう、ちょ~っと由芽ちゃんの電話の内容が気になっただけで……!
あ、ちょっと聞こえるかな?さて、一体どんな話を──
「うん、大丈夫大丈夫。凛こそ、他の仕事あるんだから無理しないでね」
「まぁね!だって、わたし達は2人きりの共犯者だし!」
2人、きり。
きっと、その言葉にさほどの意味はないのかもしれない。
きっと、高崎さんと由芽ちゃんの間に私の邪推のような関係はないのかもしれない。
でも、それでも。
由芽ちゃんの中の特別な席には、私だけが座っていたかった。