倉木の事情
なぜ、彼女のことが気になるのかは、わからない。
スラリと背が高く、顔立ちは整っていて、だけど、全体的に控えめな女性。
入社試験の会場で、初めて出会った。
第一印象は、『ふつう』だった。
だけど、なぜだか、その立ち居振る舞いから目が離せなかった。
真っ直ぐに前を見つめる眼差しや、ぴんと背を伸ばした姿勢、時折見せる遠慮がちの微笑みに、訳もなく惹きつけられた。
入社式で、彼女の姿を見つけたときには、運命に感謝した。
これまで付き合った女性は何人かいたけれど、長続きしたことはない。
好きだと告白されて、何となく付き合っているうちに、相手から別れを切り出されることが多くて、何が悪いのか分からなくて悩んでいた。
相談した友人や姉貴からは、お子様だとか奥手だとか揶揄われたり、生暖かい眼で見られたりして、女性と恋人関係になることに、苦手意識が植え付けられた。
だけど、彼女に関しては、何もかもが違った。
いつまでも、彼女を見つめていたいと感じた。
傍に行って、声を聴きたいと思った。
運命の赤い糸なんてファンタジーさえ、信じそうになった。
だけど、彼女には、既に恋人が居た。
赤い糸が何本も存在するなんて、聞いたことはない。
幸せそうに恋人の話をする彼女を、遠くから見つめていることしかできない。
「倉木?なに静かに飲んでる?」
「んー、自分の不甲斐なさについて反省している」
同期の原田と佐藤とは、ときどき居酒屋でアルコール付きの食事をする仲。
「何だ、それ」
「先輩のお誘いを断ったのを、後悔してるとか?」
佐藤が珍しく突っ込んでくる。
「それこそ、何だ、それ」
「さっき、誘われてたじゃん。今度食事にでもって」
研修の講師も務めた女性の先輩からは、時々話しかけられたり、食事に誘われたりするが、正直言って、苦手だ。
姉貴に似たタイプで、ぐいぐい押してくる。
姉貴だから大人しく言いなりになっているが、他人だったら避けて通りたい。
「先輩と二人きりで食事するのは気詰まりだろ。何を話していいんだか」
だから、断った。
面倒だから。
女性からの好意には、気づいてないという訳じゃない。
分かってはいるけれど、それに対応するのが面倒なだけだ。
だから、わざと話をそらせているんだけれど、それも限界かな。
同期の山本には、見破られた。
『彼女が出席する飲み会には、絶対に参加するよね』
『なるべく彼女の傍に行こうとしているし』
『興味があるのは、彼女だけでしょ』
痛いところを突いてくる。
山本が原田と付き合い出して、ほっとしたが、今度は二人して、こちらに絡んでくるのは、何とかならないものか。
彼女が、彼氏と別れたと、教えてくれたのも、山本。
一瞬喜んでしまったけれど、辛そうな顔をしている彼女を見て、すぐに彼女に交際を申し込むことはできなかった。
傷心の彼女に付け込むような真似はしたくない。
でも、彼女に好意を持っている男性は沢山いる。
彼女の指導をしている先輩だって、彼女の事を気にしているようだし。
そんな中、山本がメールをくれた。
彼女が、別れた彼と新しい彼女とに、顔を合わせるイベントが発生したと。
その場に乗り込んで、彼氏の振りをして、いちゃいちゃを見せつけなさいと。
これは、チャンス?
その後、山本と原田から、詳しい説明をするからと、呼び出された。
「今度の休みの日に、芽唯が母校で、就活の苦労とか今の仕事の話とかをすることになってるのよ。その場に、彼女を振った浮気男と横取女がいるので、支えになってあげて欲しいということよ」
山本が説明すると、
「助けてって言っても、部外者だぞ。学校の中まで付いていけないだろう」
原田が心配する。
「彼らは、芽唯に嫌がらせをするために、話かけてくると思うの。外で待っていて、芽唯が困った事になりそうだったら、助け出して。白馬に乗った王子様のように。俺の彼女に何をするって言って、抱きしめて攫って行って」
「最後のは却下だけど、彼女の傍で力になる事はできると思う」
「あ、それから、彼らが暴言を吐く可能性もあるから、録音しておくと良いかも」
山本が思いついたように言った。
「ICレコーダーなら持っている」
昔、姉貴に貰ったものが、机の引き出しに入っている。
女性と二人きりになる時には、気をつけろと言われて、持たされていた。
半分冗談だと思うけれど、使う場面は、これまではなかった。
「それは好都合。もし、芽唯に酷い言葉をかけるようだったら、録音して。それを大学関係者に聞かせて、彼らを追い詰めてあげましょう」
「でも、彼らが接触して来ない可能性もあるだろう」
「その時は、彼女を誘って飲みに行けばいいでしょ。それこそ、チャンス」
山本が少し暴走している気もする。
押さえの立場の原田は、ただ笑って見ているだけだ。
「山本が暴走しかけているぞ」
「いいんだ。暴走した後に落ち込む所も、可愛いから」
「何だ、それ」
その時は、山本が、ただ暴走しているだけのような気がしていたが、確かにそれは、僕にとってのチャンスだった。