第二章「決断」その1
異世界メルタガルドへやって来たフレアとリナウス。
まだまだ学ぶことが多いようで、そんな日常から物語が始まります。
その翌日からフレアの新しい一日が始まった。
朝食を食べ終えた後、フレアはモーリーに連れられて食用キノコを採りに行くことになった。
まるで自宅の庭のように迷うことなく山の奥へと進んでいく老婆を目にして、彼は呆気にとられる。
このままモーリーとはぐれたら帰れなくなってしまうのでは。
幸いにもリナウスが付いてきてくれるため迷うことはないが、それでも彼は心配で仕方なかった。
モーリーは木々の根元にキノコが群生しているのを発見すると、俊敏な動作で距離を詰める。
熟練の動きとはまさにこのことかと彼が感心していると、モーリーは木の下に生えている次から次へとキノコを抱えているカゴの中へと放り込んでいく。
色取り取りのカラフルなキノコぱっと見どれが食べられそうか素人目にはさっぱりわからない。
特に大変なのは香りで判別する方法なのだが、嗅いだこともない独特の臭いに慣れず、彼は何度も嗚咽を覚えた。
それを見て、モーリーはそのうちに慣れるよ、と目でそう語りかけてきた。
その日の昼食は採ってきたキノコが中心のものとなった。
彼はキノコの類は苦手であったが、モーリーの腕がいいのか、それとも今まで食べたキノコよりも味がよかったのか、あっという間に平らげてしまう。
そして、片付けを終えた後、モーリーとリナウスを講師としたクロミア大陸で一般的に使用されている共通言語の勉強が始まった。
日本語と比べると発音が難しく、簡単な挨拶を理解するのも大変ではあったが、モーリーは決して無理に覚え込ませようとはしなかった。
勉強に行き詰まると、空や森を指して、その先にある物を示しながら単語を呟いてくれる。
リナウスもまた思った以上に丁寧なアドバイスをくれるため、彼は学校での勉強よりもリラックスした状態で励むことが出来た。
そんな平和な日々が続き、彼は一週間ほどでどうにか基本的な言葉を身につけ、さらにその約一ヶ月で日常会話の殆どを習得した。
当初は電気も水道もない生活には慣れなかったが、元々彼が人一倍根気強かったせいか、吸い取り紙のように順応していく。
モーリーもまた彼を孫のように可愛がり、日に日に若返っていくかのような印象を受けた。
色々なことに挑戦していく中で、自分にこんなことが出来るとは思ってもいなかった。
フレアはそんな自己肯定感に満足する中、ある時リナウスにこんなことを尋ねてみた。
「リナウス。えっと、何だか凄い技とか教えてくれない?」
「凄い技? 実に曖昧なお願いだね」
小屋の屋根の上で暇そうにしていたリナウスは、そのまま屋根から飛び降りて、綺麗にフレアの隣に着地した。
「私が教えてあげられるのは神魂術かな」
「え? 人間も使えるの!?」
フレアは興味津々な様子でリナウスを見つめる。
「使えるさ。私の神権の一部を君も行使出来るのだよ」
「凄い……。いや、その前にリナウスの神権は教えてくれないの?」
「知らなくても問題ないさ。ただ、人間が神魂術を使うには感情の力が必要なのだよ」
「感情――。うーん、苦手かな」
フレアは感情を表現するのが苦手だった。
怒ったり泣いたりしても、何もいいことがないと幼い頃から理解していたせいかもしれない。
「まあ、そのうち使えるようにはなるさ」
「でも、どうせならすぐに使ってみたいな」
フレアのその言葉にリナウスは小さく肩を竦める。
「一つ、方法はある」
「あるの?」
「先に言っておくが荒療治みたいなものさ。あまりオススメは出来ないし、無理だと思ったら諦めたまえ」
「う、うん」
すると、リナウスは唐突に歌い出した。
可憐な声のように聞こえるも、フレアは妙な違和感を覚える。
虫が這うように寒気が全身をゾワゾワと走り回り、彼は思わずその場に座り込む。
「何をしたの?」
「この子を呼んだだけさ」
いつの間にやらリナウスの腕には一本の縄が巻き付いていた。
フレアが注視してみると、それはミミズのように長細い胴をした奇妙な蟲だった。
紫と黄の毒々しい色合いが特徴で、頭部は三面鏡のようになっていた。
「な、なにこれ――」
「神魂術で創り上げた私のしもべさ。生きとし生ける者が対峙しなければならないものを、強引に形にしたという所かね。やたら生々しいけど生きてはいないよ」
リナウスがそう説明するものの、フレアから見たら現実の生き物との違いがさっぱりわからなかった。
「それで、この蟲で何をするの?」
「この子の頭の鏡を覗きたまえ。ただし、無理だと思ったらすぐに目を逸らしたまえ」
「う、うん……」
フレアは息を殺しながらも、蟲の頭部を覗き込む。
見れば見るほど奇抜で、誰かの悪夢から飛び出てきたような印象すら覚える。
鏡を目にすると、そこには広い海が広がっていた。
青々とした美しい海原――ではなく、豪雨の降り注ぐ陰惨とした海だった。
荒れ果てた海面はこの世の終わりのような光景に思え、彼は恐怖のあまり身体の震えが止まらなくなる。
「リナウス、これは、なんなの――?」
リナウスは何も答えなかった。
ただただフレアの反応を伺っており、どこか機械的なようにも見える。
逃げるという選択肢が彼の脳裏を何度も掠めるが、ここで逃げたらリナウスに何か言われるかもしれない。
フレアはちらりと鏡を覗き見てみると、場面が移り変わって暗がりの中で何かの動く気配があった。
何がいるのだろうかと、彼が鏡を覗き込むとそこには魚に酷似した巨大な生物がいた。
強固な鱗と凶暴な目つきをしており、誰にも邪魔されず悠々と泳ぐその姿は、まさに海を支配する王者という威厳を放っていた。
彼がその様子を眺めていると、その次の瞬間――。
「うわっ!?」
彼は悲鳴を上げて、驚きのあまりその場に尻餅をつく。
その反応を見てか、リナウスは彼にこう告げる。
「やはり君には刺激が強すぎたか。見るのをやめるかい?」
「う、うん……」
「なあに、慌てることはないさ」
リナウスが素早く口を動かすと、その腕に巻き付いていた蟲は煙のように消え失せてしまった。
フレアは安堵しながらも、さっき目にしたものを思い出す。
無敵と思われた生物だったが、突如現れた更なる巨大な生物に一飲みにされてしまったという恐ろしくもあり、どこか儚い光景だった。
一体、あの光景は何だったのだろうか――。
リナウスに尋ねることが出来ないまま、彼はモーリーの家での生活を続けることにした。
会話以外にも数学や歴史の勉強に没頭していく中、気がつけばフレアはモーリーの家で半年程世話になっていた。
キノコの採取にも慣れ、何か不足している物があれば麓の町まで赴いて購入するという生活が続く中、リナウスは彼にこう尋ねた。
「フレア。異世界ライフを満喫中のところ申し訳ないけどさ、冒険はどうするのだい?」
「冒険、か」
リナウスに言われるまで、フレアは冒険のことをすっかりと失念していた。
ずっと前までは冒険をするために言葉の勉強をしていたが、彼にとって危険な生活よりも平穏な日常の方が重要に思えてならなかった。
そして、彼の胸の中では未だに実の両親に虐待されていた悪夢が残っている。
気を抜けば魂の奥底にまで植え付けられたトラウマが芽吹く他にも、自身の名前を呼ぶ幻聴も収まる気配がなかった。
ややあってから、フレアはこう答える。
「別にいいかな」
その答えに、リナウスは目を丸くする。
「折角の異世界ライフだというのに。気ままな冒険や素敵な出会いを求めていたんじゃないのかい?」
「うん。僕はあの酷い生活から抜けられただけで満足だよ」
「そうかい、それならば別にいいんだけどさ。私の手助けも必要ないかな」
てっきり引き留められると思ったが、リナウスはあっさりと了解したことにフレアもまた驚く。
リナウスには何かの目的があり、自分を利用しているのではないだろうか。
彼はそんなことを考え、リナウスを疑っていた時期もあった。
「リナウス、その、今までありがとう……」
自身を恥ずかしく思いつつも、フレアはおじぎしながらもお礼の言葉を述べる。
「いやいや、君と一緒にいた時間は実に楽しかったよ。でもさ、もしこの私の力が必要ならば、いつでも呼んでくれたまえ」
「わかったよ。じゃあね」
「風邪を引かないよう気をつけてくれたまえ。それではこれにて失礼しよう」
リナウスはフレアに対して手を振りながらも足早にその場から離れ、あっという間に彼の視界外へと消え去ってしまった。
まるで何もかもが幻だったかのようにすら思え、彼の心の奥底にぽっかりと穴が開いた気がした。
怪しい所は多々あったが、彼の味方であることには違いなかった。
しかし、フレアはリナウスに頼ってばかりいてはいけないということも実感していた。
これから本当の意味で新しい人生が始まるのだろう。
彼は小さくため息をこぼしてから、モーリーの所へと戻った。
どうやら彼女は洗濯物を干していたようで、フレアを見かけると開口一番にこんなことを尋ねる。
「あの方はどうなされたの?」
あの方とは当然リナウスのことだ。
モーリーは表面上リナウスとは普通に接していたが、どこか恐れていることをフレアは知っていた。
「えっと、どこかに去って行きました」
「そう……」
モーリーはどこか安心したかのように肩を落としている。
「フレアや、あたしにもわからないけど、あのお方は本当に恐ろしい存在さね」
「ええ。あれでも一応神だそうですし」
フレアのその言葉に対し、モーリーは小さくかぶりを振る。
「おとぎ話に出てきた神様とは大分違うね」
「え、どんな神様なの?」
「岩石と障壁の神様と呼ばれて、貯水池を作って下さったんですって」
「オースミム以外にも神様がいるんだ」
「亜人達がそれぞれ信仰している神がいるそうさね。オースミム戦役の際には、オースミム様は他の神とも戦ったらしいの」
「そうだったんだ……」
初めて耳にした話にフレアは首を傾げていると、モーリーはため息交じりにこう言った。
恐ろしく小さく、何かを恐れている声だったが、彼の耳にはしっかりとその言葉を捉えていた。
「私も最初は心配だったんだよ」
「でも、僕を助けてくれました」
「そうさね。私も怖がっていたのが恥ずかしいくらいだよ」
モーリーはにこやかに笑ってはいるが、フレアはどこか作り笑いに思えてならなかった。
もしやモーリーはリナウスから恐ろしい力を授かっていないか心配していたのだろうか。
そして、敢えて亜人と神の関連についてリナウスに話さなかったのかもしれない。
フレアが察したのを感じ取ってか、モーリーは大きく咳払いをする。
「さあ、そろそろ昼食の準備をするから、手伝って貰おうかね」
「は、はい!」
準備中の間、フレアはずっとリナウスのことについて考えていた。
リナウスはどんな神なのだろうか。
言動からすると、復讐に関することなのかもしれないが、それならばもう少し復讐を唆してきてもいいはずだ。
結局答えは見つからず、その日はお腹一杯山の幸を味わうと、リナウスのことをすっかりと忘れてしまっていた。
これから冒険が始まるかと思いきや、まさかフレア自身がそれを拒否する流れに――。
ええっと、これからもまだまだ物語は続きます!
きっと、そのうち、リナウスもひょっこりと顔を出してくれるかもしれません!
それなので、皆さま期待してお待ちいただければと思います。
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それでは今後ともフレアと――リナウスはまた来てくれるかどうか不安ですが、活躍をお楽しみに。