プロローグ
寂しい夜の闇の中から物語は始まります。
その少年はアパートのベランダでうずくまっていた。
既に空には無数の星達が煌びやかに踊り、その下では家々から明かりが一つ、また一つと消えていく。
誰もが寝静まる静かな夜の中で、少年はただただ時間が過ぎるのをじっと待っていた。
少年も好きでベランダにいるわけではなく、言うならばこれは彼への体罰の一環だった。
ただ、どうしてこのような仕打ちをされているのかについては、少年自身もよく理解していなかった。
その理由というのも、彼の両親は事あるごとに理由を付けて彼に罰を与えており、夕食を定められた時刻以内に食べ終えなかっただとか、あるいは家に上がる時に靴をきちんと揃えて脱がなかったといった具合で罰を課せられ、また気分次第によって理不尽な規則が急遽作られることも多々あった。
他の者から見れば単なる虐待に過ぎないのだが、隣家の人々は少年に対して救いの手を差し伸べようとはしなかった。
少年からすればこのベランダへの放置は腹や背を殴られたり、残飯を強引に食べさせられるよりかは幾分かマシだった。
それでも、寂しさだけはごまかしようがなかった。
どこからか流れてくる楽しそうな音楽や派手な電子音を余所に、少年は室外機の影に隠したビニール袋に包まれた本を取り出し、室内から漏れる明りを頼りに読んでいた。
この日も少年は誰にも邪魔されずに読書に勤しんでいたものの、いつもと明らかに点が一つだけあった。
それは季節外れの大寒波の襲来であり、空に薄暗い雲が押し寄せたかと思うと、午前中の暖かかった陽気をねじ伏せ、気温が下がり真冬と間違えてしまうかのような冷たく厳しい風が吹き荒れる。
不運なことに少年は薄着であり、寒さに耐えられる強靭な肉体を持ち合わせているはずもなかった。
少年が今いるのはアパートの二階であり、助けを求めるためには一階へと飛び降りる必要がある。
少年が勇気を振り絞って地面へ飛び降りようと手すり越しに地面を目にすると、眼前にはどこまでも続く奈落が広がっていた。
そのあまりの深さにその心は恐怖に呑まれ、少年は身体を丸くして時間が経つのを待つ他なかった。
震える身体を両手で抱えていると次第にしびれるような寒さが少年へと牙を剥く。
誰かに助けを呼ぼうにも、少年には大きな声を出す体力すら残っていなかった。
仮に出せたとしても、あざ笑うかのように吹きすさぶ風に邪魔されて遠くには届きもしないだろう。
少年は本をひしと抱きしめ、身体を芋虫のように小さく丸めながらも窓ガラス越しにリビングへと目を向ける。
すると、室内には明りこそ点いているものの彼の両親はそこにはいなかった。
いつものように、どこかへ遊びに行ってしまったに違いない。
少年は落胆するも自分自身に何度もこう言い聞かせる。
朝まで耐えればきっと助かる、と。
これまでの人生で耐え続けてばかりの人生を送っている少年にとって、これも一つの苦難にしか過ぎない。
ただ、この苦難を乗り越えたからといって明日が良くなる訳でもないというのが現実であり、そんな少年のあがきを嘲うかのように風はますます勢いを増していく。
体中に入り込んだ寒気が皮膚を食い破るかのように暴れ回り、その小さき命の灯火を吹き消そうともしていた。
もう、このまま何もかもを諦めていいのではないだろうか。
やがて、少年は意識が遠のくのを感じる。
ここで眠ってはいけないことを少年自身も本能的に理解していたが、その小さな身体は既に言うことを聞かなくなっていた。
消え入りそうになる意識の中、少年は誰かが自分の名前を呼ばれた気がした。
助けかと期待するも、それは少年が時折耳にする空耳だった。
幻聴の一種なのかはわからないものの、少年は物心ついた時から消え入りそうな声で名前を呼ばれることがままあった。
誰にも相談することが出来ず、少年は一人で悩む他なかった。
いつもならば鬱陶しい幻聴であったが、この時ばかりは天からの手招きだと少年は考えてしまう。
天国があるとするならば、もうそこで安心して過ごせるのだろうか。
そう考えると耐えることが面倒にさえ思えてしまう。
死ぬことが本当の安らぎとなるか疑問ではあるものの、年に何万もの人が自ら命を絶つことを少年は知っていた。
誰もがいずれ死ぬのだから、それが多少早まるだけなんだ。
そして、そもそも。僕が死んだところで、誰一人悲しまない。
少年は前々からそのことをわかっていた。
いざ受け入れてしまうと、全てを投げ出すという行動が如何に簡単であるかと思い知らされる。
少年は潔く目をつぶり睡魔に身を託す。
暗闇がすべてを覆い、自身の存在が希薄になる。
――元々僕は存在していなかった――。
沈黙を続けている深淵を覗いていると、どの答えも肯定してくれているようだった。
少年が深淵と交わる、まさにその一歩手前のその瞬間だった――。
「おいおい、君はまだ死ぬべきではないよ」
ふと、少年の耳に聞き覚えのない声が聞こえた。
今度は空耳ではない、きちんとした現実の声だ。
驚きで瞬時に目が覚める。
弱った意識の中、少年は視界内に奇妙な姿を捉える。
目の焦点を合わせると、そこには見たことのない少女が立っていた。
見た目で判断できる範囲では背丈は少年と同じくらいで、年齢は少し離れているようだ。
浅葱色のワンピースを着ており、首に巻いた赤いスカーフが風に揺れている。
いつの間に現れたのか、少なくとも一階からわざわざよじ登って来たようには思えなかった。
「君は、誰?」
安堵の気持ちが込み上げるはずなのだが、それよりも不思議な恐怖があった。
少年は恐る恐る尋ねると、少女は快活な口調でこう返す。
「おっと、自己紹介が遅くなってしまったかな。とりあえずはリナウスとでも呼んでくれたまえ」
おしとやかな姿とはまるで不釣り合いな声に、少年は面食らってしまう。
困惑するも質問が多すぎるせいもあってか、少年は様子を見るという行動を取らざるを得なかった。
「まったく、君の両親はとんでもないね。いつかは改心するかと様子を見ていたが、もうそれも不可能のようだ。これならばもう少し早く助けるべきだったか……。いずれにせよ、私は君を助けに来たのさ」
「え?」
少女が何を言っているのか理解できず、少年は小さく首を傾げる。
その様子が滑稽だったのか、リナウスはクスリと笑う。
「ん。助かりたくないのかい?」
見た目からするにあまり年には差がないというのに、あからさまに上から目線な言葉に少年は目を丸くする。
本来ならば不快な気分になるはずなのだが、リナウスの全身から放たれる奇妙な気迫のせいか自然と納得してしまう。
「えっと、助かりたい、です」
「ふふ、素直でよろしい。えっと、君の名前は確か――」
「僕は、その、新島陽炎――陽炎と書いて、フレアと読みます」
「ではフレアと呼ばせて貰おう」
「う、うん。その、リナウスさん」
寒さに耐えつつも、少年――フレアは震える唇で言葉を発すると、リナウスはようやく気がついた、と言わんばかりに目を見開いた。
「すまない、寒いのだったか。生憎私は寒暖とは無縁でね。今開けるよ」
リナウスがガラス戸を開けようとするも、フレアはとっさに制止した。
「あの、その」
「何だい? 実は寒いのが好き、というのは今更なしにしてくれたまえ」
「鍵が――」
「何だ。鍵がかかっているだけかい」
鍵がかかっているため開くはずもないのだが、内鍵の壊れるような音と共にガラス戸が強引に開け放たれる。
その衝撃でガラスが周囲に割れて飛び散らかるも、リナウスは素知らぬ顔をしている。
「これでいいだろう。さ、遠慮せず中に入りたまえ」
「え、うん」
この光景を両親が目にしたら激怒するのは言うまでもない。
フレアは不安に苛まれるも、この何もかもが驚異的なリナウスを思うと、その不安が些細なもののようにしか感じられなかった。
彼とリナウスが室内に入ると、暖房は消されているが外よりもほんのりと暖かい。
外から吹き込んでくる風が入ってこない場所に移動してから、フレアは電気ストーブの電源を付けて暖を取る。
まだ意識が朦朧としており、身体の震えもまるで収まらない。
電気ストーブから発せられる熱風を全身に浴び、何とか体温を上げようとフレアが身体を強張らせていると、リナウスが彼に何かを差し出す。
「飲みたまえ。言っておくが熱いと思う」
リナウスが差し出してくれたのは液体の入ったコップだった。
湯気が立ち昇っており、どうやら牛乳を温めたものらしい。
フレアは本を小脇に抱えた状態で、慎重に息で少しずつ冷ましてから、ゆっくりと胃へと流し込む。
段々と身体が温まり、がくがくと震えていた身体も落ち着いてから、フレアは恐る恐るリナウスへと話しかける。
「えっと、リナウスさん?」
「ふふ、私のことは呼び捨てで構わないよ」
「じゃあ、リナウス。僕を助けに来た、ってどういうこと?」
「そのままの意味さ。君の悲惨な人生をこの私が救ってあげよう」
「え?」
フレアはリナウスの言っている意味が理解できなかった。
クレーマー気質の両親のせいで学校の教師達はこぞってフレアを腫れ物扱いし、ことあるごとにクラスメイトからはのけ者にされ、誰一人として味方がいない人生を歩んでいた。
どうして急にこんな怪しげな少女が助けてくれるのか。
フレアにはまるで覚えがなく、素直に助けてもらっていいのかすらわからなかった。
「心配する必要はない。私は弱者の味方さ」
「本当に、味方なの?」
リナウスは何から何まで胡散臭かったが、少なくとも自己保身に走ってばかりいる大人達よりは信頼できそうだった。
「まあ、疑うのは私の力を見てからでもいいんじゃないかな? とりあえず、君の願いを叶えてあげよう」
「え?」
リナウスの言葉にフレアは言葉を失う。
急に現れた不可思議な少女にそんなことが出来るとは思ってもいなかったからだ。
「と、ほんの少し格好つけて言ってみたが、何でも叶えてあげることはできない。私のできる範囲だけさ」
「ど、どんなことができるの?」
「そうだね、例えば復讐はどうかな?」
リナウスはあっけらかんと恐ろしげなことを口にする。
日常会話では滅多に使うことのない単語を、表情一つ変えずに口にしたことに、フレアは背中がぞわりとする恐怖を感じた。
「ふ、ふ、復讐?」
「君は許せないだろう? 君の両親はまるで家畜のように君を叩き、苛め、理不尽に責め立てたこともあったね。小学校では君の身につけている服が薄汚れているというだけの理由で除け者にしたこともあったかな」
リナウスは早口で少年の過去を語り出す。
その顔はやはり無表情であり、ありのままの事実を淡々と述べていた。
誰にも喋ったことはないのに、どうしてここまで詳しく知っているのだろうか。
フレアは半ば失神したような心持ちでその話を聞き流していると、リナウスはきょとんとした顔をする。
「おっと、しゃべりすぎたかな。いずれにせよ、君がそんな社会に対して復讐しても何ら問題はないだろうに」
「えっと、その、その……」
これは単なる冗談ではない。正真正銘の悪魔の取引だ。
根拠は何もないが、フレアは自身の直感に従うことにした。
「質問があるならば自由にどうぞ。答えるかどうかは私の気分次第だがね」
フレアは早鐘を打つ自分の心音に気づかれないよう、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「リナウス、君は何者なの?」
「何者? さっきも言ったとおり、私は弱者の味方さ。まあ、わかりやすい総称で言うと――神、という奴かな」
「神、様?」
フレアはあっけにとられてしまうが、自然と納得してしまう。
神がどういう存在なのかはわからないが、人智を超えた力を持つだということは何となく理解できる。
唐突に現れるだけでなく、とんでもない怪力を持っているのも神だから成せる業なのだろう。
しかし、リナウスが復讐を唆してくる以上、フレアは素直に喜べなかった。
「様付けしなくても大丈夫さ。正しくは異法神と呼ばれる、人間とは異なる法則が適用されている高次元の超存在、という認識でいいかな。最も、異法神は私だけでなく他にも存在している。そして、それぞれ得意分野があることを予め言っておこう」
超存在と言う割には、その外見にはまるで説得力がない。
しかし、人間の皮を被った『何か』であるということをフレアは直観で理解した。
「私は君に強要はしない。全ては君の自由さ」
「自由?」
フレアの脳裏に悲惨な過去が蘇る。
誰からも愛されず、人間扱いされず、そしていたぶられ――。
心がある以上、誰だって痛いことをされたら嫌がるはずなのに、どうしてそれが理解できないのだろうか。
そう思うだけで、フレアの心の奥底から怒りがふつふつと湧いてくる。
フレアはリナウスの顔を見つめながらもじっと考える。
ずっと負け犬のままの人生でいいのだろうか、ここで立ち上がらなかったら、一生負け犬じゃないのか……。
彼が悩みに悩んでいると、またあの幻聴が聞こえてくる。
――フレア、フレア。という呼び掛ける小さな声。
彼は目を閉じ、じっと考えてから、やがて自身の答えをリナウスへと告げた。
「復讐は、しなくてもいいかな」
「え」
「その、復讐はしなくていいって」
「え、復讐しないの!?」
余程驚いたのか、リナウスは素っ頓狂な声を上げる。
「いやいや、君をゴミ同然に扱った連中を片っ端から縛り首にも出来るんだがね。さぞかしすっきりすると思うよ」
「うん、しない」
フレア自身にも何故かわからなかった。
怒りや憎しみを覚えたことも数えきれないぐらいにあったのだが、それでも彼は自身の本心に従い選択をした。
「そうか、君達、いや人間というのは本当に不思議なものだ」
リナウスは困った顔をするも、すぐさま調子を取り戻してフレアへと尋ねる。
「それじゃあ、どうするんだい? 頼むから壊れた窓を修復してくれ、という願いだけは勘弁してくれたまえ。壊したものを直したり、人を治すというのは私の苦手な分野さ」
「えっと、それじゃあ――」
ふと、フレアはあることに気がつく。
今まで生きていた中で、彼は誰かにお願いをしたことがなかった。
わがままを口にすれば足蹴にされ、泣き言も口に出来ない。
ただ歯を食いしばり、耐え続けるだけの日々を思うとフレアは胸が締め付けられそうになる。
生きてさえいければそれで十分なんだ、と自分に言い聞かせるだけでなんとか心の不満をごまかしてもいた。
フレアはそんな思いを振り切るかのように喋り出す。
「僕は、その、自由になりたい。でも、他にも僕自身強くなりたいし、あと僕を好きになってくれる人とかにも出会いたくて――」
フレアはたどたどしく語る。
叶えてくれるというよりもリナウスに話を聞いて貰いたかった。
元来人を向き合って話すのは苦手で、たどたどしい喋り方ではあるが、そんな彼の言葉に対し、リナウスは真剣に耳を傾ける。
「なるほど。そいつは中々難しい注文だね」
「無理、ですよね?」
「いや、出来るよ」
「出来るの!?」
フレアの興奮した口調に反し、リナウスの声は冷たかった。
「要は君がこの地球を征服すれば済む話さ」
「征服? リナウスにそんな力があるの?」
フレアは顔を引きつらせながらも強引に笑う。
趣味の悪い冗談なのだろう、そう心の中で信じて。
「あるよ」
リナウスは真顔で断言した。
出来て当たり前のような反応にフレアは身を強張らせる。
「私の力を見てみたいかい? まあ、百聞は何とやらと言うからね」
「え、あ、いや……」
「君が望むのならば、この世界にいる生きとし生ける者全てに罰を与えよう。君が願うならば、君を侮辱した輩共の目を抉り出し、足を削ぎ、怯えながら君を讃えるだけの存在にもしよう」
リナウスは歌うように告げてくる。
その無慈悲な声色は物悲しく、人間という存在そのものを否定しているかのようだった。
冷酷な神の黒い瞳にはフレアの姿が映る。
狼狽し、震えるフレアを前にし、かの神はさらに問いかける。
「いるんじゃないかな。復讐したい相手がさ」
彼の心の隅の隅まで覗き込んでいるようで、隠している彼の本心を見抜いていた。
復讐したい相手がいない訳ではなく、自分をコケにした相手を簡単に許したくもない。
思わずリナウスの誘いに乗ってしまいそうになるが、フレアが静かに首を横に振ると、リナウスはつまらなそうな顔をする。
「今時の子は健気なものなのかね。そう言えば、さっきから君が手にしているその本はなんだい?」
「これ? これは僕の本で……」
フレアは先程から後生大事に抱えていた本を示す。
傲慢なフレアの両親はお小遣い等一銭も彼に渡したことはなかった。
彼が物を入手する手段は、ゴミ捨て場に落ちてある物を回収したり、町内会で開かれたフリーマーケットでの売れ残りを譲って貰うかのどちらかであった。
リナウスは表紙を見ると、何やら興味深そうにうなずいている。
「ほうほう、異世界転生ものの小説か。最近流行っているそうだね」
「知っているの?」
「需要と供給に応えるのも神の仕事さ」
「えっと、異世界に行ってみたりとかって、出来ないですか……?」
フレアはあくまでも冗談で言ってみたのが、思わぬ答えが返って来る。
「え。それで、いいのかい?」
リナウスは面食らった顔をする。
「出来るんですか?」
「まあ、何とか出来るさ。うーん、でもね……」
リナウスの言葉に対し、フレアは口をあんぐりと開ける。
フレアは辛い現実から逃れようと、何度も何度も異世界に行けないものかと考えたこともあった。
まさか叶うとは思わず、フレアは自身の頬を強く引っ張ってみるも、鋭い痛みが現実であることを告げる。
「悪いけど夢じゃないよ。それで、本当にいいのかい?」
「お、お、お願いします!」
フレアは深々と頭を下げる。
彼が両親に謝る際には、よくよく土下座をすることがあるが、その時の心境とは違った心の底からの純粋な頼み事だった。
「頭を下げる必要はないさ。それじゃあ、早速出かけるとしよう」
「え? 今から?」
「悪いけれども、窓ガラスを壊してしまったからね。生憎君の両親が帰ってくるまでに修理できる自信がなくてさ」
「あ、そう言えば……」
フレアは前に食事用の皿を割ってしまった時は押し入れに半日程閉じ込められたことがあったが、それよりも恐ろしい罰が下されると思うとフレアは心臓が止まりそうになる。
「決まりだね。じゃあ、上着と靴ぐらいは用意してくれたまえ」
「それだけでいいの?」
「あとは現地調達さ。旅とはそういうものじゃないかな」
「そういうものなのかな?」。
フレアは玄関とタンスを行き来して靴と上着を用意する。
どちらも安物で靴に関しては少々小さくなってきたせいで履き心地が悪かった。
「それじゃあ、早速異世界へ出発だ。何か他にやり残したいことはないかい?」
「やり残したこと?」
フレアは考えて見るも、特段未練はなかった。
家庭や学校のことを一度も好きになれず、何もかもが嫌で溜まらなかった。
本の続きだけが気がかりではあったが、これから始まる新しい世界のことに集中したい気分でもあり置いていくことにした。
「大丈夫。いつでもいいよ」
「いいのかい? 君の両親に罰を与えてもいいんだがね」
冗談のような口調で述べてくるも、その目は氷のように冷たい。
軽く頷いただけでも間違いなく実行するに違いないと、フレアは確信する。
「いや、必要ないよ」
「本当に? サービスとして死んだ後も悶え苦しませる罰も付けるけど?」
「だからいいって。新聞の勧誘じゃないんだから……」
「今時の新聞にはそういうものが付くのかい? 世の中物騒なものだね」
それとこれとは話が違うのだけれどもな、とフレアは心の中で小さく呟く。
「じゃあ、早速異世界に転生だね」
そう言うと、リナウスはやにわにフレアへと腕を伸ばした。
伸ばした、といってもその動きは弾丸のごとく速く、当然ながらフレアが避けられるはずもない。
フレアはしばらく何が起こったかを理解できなかったが、少なくともリナウスの前腕部が自身の胸から背を容易く貫通したということだけは理解できた。
「あ、え?」
しかし、不思議なことに血が吹き出ることもなく、フレアの意識はしっかりとしていたのだが、そのことが却って恐怖を引き起こす。
これから先、何が起こるのだろうか。
フレアが何度も瞬きをしていると、リナウスはにやりと笑う。
「大丈夫、心配しないでくれたまえ。今から君を構成する物質を粒子より細かくするだけさ」
どうして、そんなことをする必要があるのだろう、というよりもそんなことをしたら死んでしまうのでは――。
「全細胞が一時的に消滅するけど、勿論全部再構成させるから安心してくれたまえ。文字通り転生させるさ」
フレアは思わず反論しようとしたが、早速身体が分解され始めているらしく、身体の感覚が徐々に麻痺していくのを実感した。
手足の感覚が既になくなり、まるで意識だけが宙に浮いている、そんな幽霊のような状態に、フレアはただただまごつく。
「そうそう、有機物相手にやるのもかなり久しぶりにやるもんだから、失敗したら、まあ私を恨んでくれて構わないさ」
とんでもない事実を聞かされ、フレアは反論しようとするも、既に口が開かない。
いや、既に顔の下半分がぐにゃりとゆがんでおり、まるで泥のように崩れ始めていた。
視界が暗闇に塗りつぶされ、自分という存在が希薄になっていく中で、フレアは最後に大きく呼吸をした。
もう二度とこの空気を吸うことは出来ないのでは。
そんな思いを抱きながらも、九割以上機能を失った肺は空気を味わわせてくれるが、それはまるで泥水のようにドロリとしていた――。
如何でしたか?
いよいよ次回からフレア少年とリナウスの物語が始まります。
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