今の生活
空に月の浮かばない暗い夜中。
社交場の喧騒から離れた桜の木の下。
それは気紛れに現れるという。
ある令嬢が叶わぬ恋に身を焦がし、ぽつりと漏らした独り言。
「あの人は私なんかより、あの方がお好きなのかしら」
そろそろ咲く時期の終わる、薄紫色した一輪のリナリアをその場に残し、彼女は去ってしまう。
花言葉は『この恋に気付いて』
彼女がいなくなった後に、その背中を追う影は、その小さな気持ちを掬い上げた。
翌日。
その令嬢の元へ意中の子息から赤いチューリップの花が一本贈られたという。
花言葉は『愛の告白』
一輪の花に秘めていた気持ちを込め、互いにそれを確認し合った二人は結ばれた。
そんな話が、言えない想いを胸に抱える人たちの間で広がった。しかしながら、ふたりの架け橋となってくれたその正体は誰にも分からないまま。
噂だけが一人歩きを始める。
桜の木に住まう妖精に花を贈ると恋の橋渡しをしてもらえる。と。
***
「もしもし。こんな場所でどうされましたか?」
こんな暗がりでうずくまっていては、不審者だと思われてもおかしくはない。
「……」
リヤンは咄嗟に身を強張らせた。
人気のない死角で崩れる様に膝を抱えていては、具合が悪いか、はたまた怪しく見られてしまうことくらい、彼女にも分かっている。
しかし、理解していても身体も動いてくれないし、口からするりと言い訳も出てこない。
恐らく、社交界が開かれている間、巡回警護している騎士が声を掛けてきたのであろう。
招待された身分ある子爵などが、わざわざこんな場所に一人でいる女に声を掛ける筈もない。そういった男性たちが興味をそそられるのは、輝く光をその身に受け眩しく咲く令嬢たちだ。
彼女はそこに該当しない。
だから今。
このタイミングで声を掛けて欲しくなかった。
今は皆がお楽しみの真っ只中。
人が知られたくない噂話に華を咲かせるご婦人方。
誰かいい結婚相手はいないかと目を光らせる令嬢に子爵たち。
誰よりも自分が注目されないと気が済まず、妖艶な身体をくねらせ人々の注目を集めようとする御令嬢。
そんな喧騒から離れ、人気の無い庭に一人でうずくまっていては、逆に怪しまれて然るべきかもしれないが、今の彼女はそれを望んでなどいなかった。
「いえ。なんでもありません」
一応、かつて爵位のある令嬢であったリヤンは、掛けられた声の方へは向かず、言葉だけで返事をする。
こんな顔をしている時に声を掛けないでもらいたかった。
振り向かないのだから、察して欲しい。
彼女はなかなか立ち去ろうとしない人の気配に、身動きが取れずに、顔も上げられない。
一体誰が化粧の崩れた女性の顔を見たいと思うのか。
こちらとしてもオバケのような形相を見せない様に気遣っているのだから、早く立ち去ってもらいたいという思いを汲み取ってもらいたい。
「……」
膝を抱えたまま、早く一人にして欲しいと、この場から立ち去る足音を聞きたくても、人の気配は中々消えてくれない。
「具合が悪いのであれば、これをお使い下さい」
ようやく気持ちを察してくれたのか。
顔を見ない様にしながら後ろから差し出されたハンカチーフを視界に入れたリヤンは、そおっと受け取った。
自分でも持ってはいるが、折角の好意を無下にする事などできない。
「ありがとうございます」
失礼なのは重々承知。
それでも彼女は顔を見ないまま、お礼を述べる。
自分でも溢れる涙を止められない。
それを誰かに抱き締めて欲しかったり、拭ってもらいたいなどという夢をみられる程の容姿を持ち合わせてはいないから、自分の力で止めるしかない。
「もし、何かある様でしたら、わたくし……に、お声掛けくださいね」
優しい声はそう述べてから遠ざかる。
多分、彼は名乗った……と思うのだが、その部分だけ何故か声が小さくなり、このハンカチーフをくれた人の名は分からずじまい。
もう一度、人が来る前に動かなくては。
そう思いはするものの、足の力が抜けてしまい、立ち上がる事がかなわない。
涙も拭かなくては、視界が滲んで何もできなくなってしまう。
分かってはいるものの、その時の事を思うと感情が昂ってしまって、止めた筈の涙がまた溢れそうになってくる。
人様のハンカチーフを汚してしまう事はしたくなかったが、好意に甘えることにした。
あまり化粧するのが好きではないが、薄っすらと叩いてはいる。もしこの白いハンカチーフが汚れてしまったら、新しい物を買って返せばいい。
溢れてくる涙を早く止めなければ。
リヤンは軽く目元を押さえ、軽く息を吐くと、手に持った一輪の花を手に立ち上がった。
視界の隅に、騎士隊の後ろ姿。
このままその背を追えば、彼の顔を見て礼を言う事ができた。
しかし彼女は彼が向かう方とは反対へつま先を向ける。
人の動く気配を感じた彼が、自分の方へ振り返った事も知らないまま、リヤンは花を届けに向かった。
もう何年も前。
かの人が自分以外の誰かに向ける笑顔を見続ける事が辛くなり、自ら逃げたのは、心の弱い自分。
それが嫉妬という名前のついた感情であると実感したのは、あれが初めてで。
こうして時折、想いを寄せる相手に同じ気持ちを向けて欲しいと願う人間が、かつての彼女の苦い記憶を穿り出す。
(みっともなく縋り付くよりも、きっぱり諦める事を選んだのは自分)
(後悔なんてしていない筈なのに、時折チクリと、誰かの純粋な恋心が古傷を抉る)
いつの頃だったか。
片想いで苦しんでいる女性の力になれたら、と、少しお節介をしてしまったのが、ことの始まり。
桜の妖精だなんてロマンチックな名前を付けられてしまったが、実物は恋を諦めてしまったというのに。
けれど、何も持たない自分でも、誰かの背中を押せるのかと周りの噂に煽てられ、今日も気紛れに姿を現してしまった。
この人の恋も叶えばいい。
誰よりもそう希う。