置き去りにされた気持ち
レオの婚約者は見境がない。
というのは、異性に対して(同性に対してもだが)気のある素振りをするのがとても上手い。
という意味である。
節操がない。と言ってしまえばそうかもしれないし、人をたらし込む能力に優れているといえば、きっとレオもそれに飲まれてしまった一人である。
せめて、書面を交わした婚約者同士であっても、目の届かぬ所でしてもらえれば、もしかしたら見て見ぬ振りが出来ていたのかもしれない。
けれど、いつも彼はレオの目の届く範囲で平然と甘言を弄している。
(私だって一人の人間)
彼が自分以外の誰かと時間を共にしているのを知る度、レオの心の中は黒く染まる。
(私がいつまでも貴方を想っているとタカをくくられては困ります)
いつもいつも、婚約者に見せつけるように時間まで見計らい、カフェに広場、劇場に図書館に姿を現す。
(私だって冷たくされれば寂しいですし、貴方が他の誰かと一緒にいるところを見たくはない)
心を決めたレオは背筋を伸ばし、父親のいる執務室へ足を運ぶ。
「お父様。こんな時間に申し訳ありません。相談したい事がございます」
***
何処へ行ってみても、彼女の姿が見えなくなった。
彼女、というのはアーネストの婚約者であるレオ・ガデニー・ソラリーユ伯爵令嬢である。
柔らかな陽の光の様な彼女の姿は、何処にいても探し当てる事ができる自信があった。
と、いうのに、ここしばらくアーネスト・ディリヤ・バンスール公爵は、その婚約者の後ろ姿でさえ見つけられずにいた。
いつもならアーネストが見える場所でレオは自身の友人とおしゃべりをしているというのに、今日はいない。
「あら。今日はいろいろな場所を見せてくれるのね」
令嬢がそう言いながらしなだれてくるが、この女に何ら興味はない。
あるのはただ一人だけ。
***
「ソラリーユ伯爵。お久しぶりでございます」
アーネストは婚約者の家のドアをくぐり、彼女の父親の待つ執務室へ通された。
予め、都合を聞き、時間も日取りも調整したというのに、ソラリーユ伯爵は忙しそうだ。
「……」
否。わざとそうしている様にみえるのは、何故だろう。
対面した途端、ピリピリとした空気が部屋を駆け巡る。
「バンスール公爵様。お久しぶりにございます」
レオの父はペンを置き、表面上は笑顔で挨拶をする。
言葉のイントネーションが何となく皮肉めいていると感じたが、それはお茶を運んできた侍女により思考が中断されてしまう。
「本日はどの様な用事でいらしたのでしょうか」
「……」
ソラリーユ伯爵の言葉は平坦で、その眼光は真っ直ぐ娘の婚約者に向けられる。
「あの。レオの体調は……」
普段はどんな相手も手玉に取れるような対応が出来るアーネストであるが、いくら何でもレオの父親相手にそれはしてはならない事だ。
「……」
一方のソラリーユ伯爵は、アーネストが何を聞きたくてここへ来たのか検討がついていた。
相手の方が爵位が上とはいっても、自分は誰よりも娘を愛する父親である。
知らぬ振りをするのが我が子の為。
「レオの体調は大丈夫なのでしょうか?」
数ある聞きたい事柄の中から、アーネストがそれを選んだのは、いつも優しく微笑んでいる婚約者が体調を崩し、寝込んでいる姿を想像してしまったから。
それならいくら待っても手紙がこない事に納得が出来る。
「レオは身体など崩しておらん」
「え?」
予想もしていなかった返答に、アーネストの口から思わず漏れてしまってはいけない感情が吐き出されてしまった。
なら彼女が街へ出てこない理由は?
何故ひと月近くも会えない?
「なら一目」
「ここにはいない」
「……え?」
ここにはいない。
ココにはイナイ。
レオは……ここに……いない。
言葉の意味をしっかり咀嚼し、飲み込もうと努力をしても、身体全体が拒否反応を起こす。
「美しく咲く花も、水も肥料も愛情もなしに美しく咲き続けられる訳ではない」
放心状態になってしまったレオの婚約者に、ソラリーユ伯爵は追い討ちをかける。
「貴殿の目で確かめてみるといい」
アーネストは冷たく突き放され、案内されるがまま、伯爵家の侍女の後ろについて行く。
(早く)
(もっと早く)
(もっと)
想像だにしていなかった展開に彼の心臓は周りの音が聞こえぬ程に鼓動を早くし、彼の頭は今まで起きた事全てを否定する。
(嘘だ。レオがいないだなんて)
(きっといつものように、本を読んだり刺繍をしたり手紙を書いているに違いない)
アーネストは扉を開けた後のことを想像する。
幾ら自分の前に姿を見せなくても、手紙の返事が来なくても。
彼女の姿を一目見てしまえば、心の中の寂しさなど一瞬で消えてしまう。
(だから)
侍女がひとつの扉の前で足を止め、アーネストに場所を譲る。
(いないだなんて)
ーートントンーー
扉を叩く彼の手が緊張で震えてる事は誰も気付かない。
(そんな嘘。いらない)
「レオ」
カチャリ、と、中からの返事を待つのももどかしく、令嬢の部屋だというにも関わらず、開けてしまう。
「……レオ」
(レオ)
「レオ」
まだ一度も足を踏み入れた事のない婚約者の部屋は、彼女の性格故か、とてもシンプルにまとめられている。
余計なものがない、というより、自分が気に入った物しか置いていないのだろう。
「レオ」
だが、初めて入る婚約者の部屋を堪能し、また余韻に浸る余裕は彼にはなく、人の気配の全くしない部屋の中にアーネストの声だけが響く。
「レオは?」
部屋の外に待機している侍女に聞いても無論答えはない。
その代わり一通の手紙が手渡され、彼女がチラッと視線を向けた先は、見覚えのある箱の数々。
アーネストの足は吸い寄せられる様にそちらへ向かい、積み上げられたそれらの一つを手に取った。
それは、アーネストが贈った時の状態のまま。
その中のどれを手に取ってみても、一度中を改めて綺麗に元に戻した跡も見当たらなければ、それ以前に開けられた形跡すらない。
当の贈り主は、箱を見ただけで、どの小箱にサファイアの首飾りがあり、どの包み紙の中に冴えた青色の靴が入っているか覚えているというのに。
婚約者は開封さえもしていない。
空虚な部屋の中。何よりも目立つのはアーネストが贈ったプレゼントの山。
言い換えてしまえば、これらの全ては彼の山ほどの気持ち。
想いはそれだけでも伝えきれていないのに、それが伝わっていないどころか、置き去りにされ、捨てられた。
身体を支える力が抜け、その場に倒れ込んでしまいたかった。
屋敷中を駆け回り「アーネスト」と柔らかく自分に笑い掛けるレオが何処かにいる筈だ。と、思いたかった。
だが、寸でのところで踏み止まる事が出来たのは、自らの立場があるから。
体制を立て直し、アーネストは再び自分の元へ顔を出すだろうとたかを括っている婚約者の父親の元へ向かう。
「あれは一体どういうことでしょうか」
「見た通り……伝えた通りだと思うが?」
ソラリーユ伯爵はゆっくりと一語一語言葉を発し、彼が持つ一通の封に視線を移す。
「君はまだ娘からの手紙を読んでいない?」
相手の視線の行方を追い、指摘されて初めてアーネストは今自分が持っているのがレオからの物であると気付く。
「ええ。あの……今。読んでみても」
「ああ。構わない」
『アーネスト・ディリヤ・バンスール公爵様』
慣れ親しみ、まるでお手本の様な筆跡で綴られた自身の名。
自分では毎日、幾度となくサインしているというのに、彼女のペンで綴られると、尚、愛おしさが増してしまうから、不思議なものだ。
けれど、それも今は嫌な予感しかしない。
そして、アーネストのそういった胸騒ぎは大抵、当たってしまう。
レオが綴った自身の名を指でゆっくりと撫で、彼は丁寧に押された封蝋を外した。
「……」
カサカサと。
紙を取り出す音だけが部屋に響き、ソラリーユ伯爵はそんな彼の一挙手一投足を食い入る様に見つめている。
「……」
周りの音は消え、自身の鼓動だけが痛い程に鳴り響く。
『アーネスト様と過ごした時間は夢のようでした。レオ・ガデニー・ソラリーユ』
たった一言。
一体何を言いたいのか、頭の中で彼女の文字だけが巡り、心がそれを理解する事を拒む。
(僕は君に嫌われてしまったのだろうか)
「既に婚約解消についての書類はここにある。勿論、娘のサインもな」
そう言いながらソラリーユ伯爵は机に置いていたものを前にかざす。
アーネストは気付いていた。
自分につきまとう人間の存在を。
だが、それでも何のアクションも起こさず放っておいたのは、ソラリーユ伯爵が自分の娘可愛さに彼女の周りを監視していると思っていたから。
レオの父親がアーネストに差し出したのは、一枚の書類と、恐らく自身の素行調査。
「こんなにも君の不貞の証拠が揃っているというのに、何故か王宮が認めてくれなくてな。確かに貴殿と比べると我が家は劣ってしまうが、それでも君が娘を無下に扱っている事に代わりあるまい。レオが次第に心を失っていく姿を見ているのは父として辛い」
淡々と述べられるそれらの言葉は、アーネストの耳に届きはするが、上滑りをし流れていく。
それらを否定するだけの理由はあるのに、アーネストは自身が抱えるものの為、口を割ることはできない。
「レオに毎日手紙やら贈り物を寄越す程に娘を気に掛けているのであれば、何故一人だけに気持ちを贈ってあげられぬ。姿が見えなくなって一ヶ月も経たないと姿を見せぬとは、色々矛盾しているのではないか?」
(レオだけ)
(僕はレオだけしか愛していない)
今直ぐにそう言ってしまいたい。
だが、その一言を口にすれば、「なら何故他の人間と逢瀬を重ねる」と必ず追求される。
何にしても口を噤むしかアーネストにはないのだ。
「君は数多くの人の心を虜にしてしまう何かがあるみたいだが、レオには難しかった様だ。まだ一度しか婚約解消の書類を送ってはいないが、今度は教会に直接届けるとしよう」
「それは」
口を挟もうとするアーネストを、伯爵はギロリと睨む。
立場的にはアーネストの方が上ではあるが、ソラリーユ伯爵はそれを重視せぬ程、娘を大切にしていた。
我が子が蔑ろにされる位であれば、この繋がりを断ち切っても構わない、と決断してしまう程に。
確かに今の伯爵家が維持できているのは、目の前にいる男のお陰である。
そして、レオとの婚約を望んできたのも彼の方である。
当時から引く手数多な男が、何故娘を、と、思わずにはいられなかったが、あの、娘がとても嬉しそうにアーネストの隣に立つ姿を見てしまえば、父として、娘の幸せを願う事しかできない。
「君の手を煩わせる様な事はしない」
俯いていたアーネストは、その言葉でパッとソラリーユ伯爵を捉える。
「これらの全ては私の方で進めていく」
伯爵はアーネストに見せた書類を纏めると、机の上でトントンと端を整えた。
「だから君は君の事に集中したまえ。今までとても世話になった」
その強い拒絶の言葉は、「もう何も手出しするな」「ここへは来るな」という無言の圧力。
「あの」
「何だ」
「レ……オは、どこに?せめて一目」
「何を言う。ここに姿を見せないのが全てだとは思わないか?頭の回転の早い貴殿であれば答えを導くのは容易いだろうに」
公爵が机の上をコンコンと力強く叩くと、アーネストの背後の扉が開いた。
「バンスール公爵様との用事は済んだ」
側に控える従者に言葉少なに言い放つとその彼は「お帰りはこちらでございます」とアーネストが動き始めるのを静かに待つ。
何か言いたくても、既に相手は扉を閉ざしてしまっている。
言い訳をしたい訳ではない。
だが、アーネストが何を言葉にしようとも、それは全て自分にとって都合の良い言葉。
「それでは失礼致します」
アーネストは既に視線の合わない伯爵に深く頭を下げると、全ての言葉を飲み込み、その場を後にした。
そして、扉が閉じるや否や、駆け足に見えぬ程の足の速さで前へ進む。
(伯爵があれを直接教会に渡さずにいてくれて良かった。ひとまず城に行かなければ)
彼の頭の中は、いかなる時もレオしかいない。
誤解がある。
と、声を大にして言いたくとも、それらの報告は全て事実。
これから彼は悪あがきをしようと、ひたすら頭を働かせていた。