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ドルフィン

 私は遠い誰かの囁きを聞いた。声を押し殺していて、単語一つ聞き取れないくらいだった。日本語ではないのかもしれない。微かな抑揚がそう思わせた。空に電波が飛び交い、うねり、反射する。無線の会話など数えようもないほど大量に聞こえてくる。でもひそひそ話しているのはその周波数だけだった。聞き取れないせいで空気が唇の間をすうすうと頻りに通り抜ける音だけが目立って余計に耳障りだった。

 高く高く、静止衛星軌道くらいまで飛び上がったつもりで地表を見下ろす。電波の出所が北海道の西に見えた。奥尻沖の遠く、海自の哨戒機が拾ったものらしい。でも乗員たちはその囁き声に気付いていない。受信機を別の周波数に合わせているせいだ。

 発信源はもっと西だ。

 ひときわ大きな波が船首にぶつかって弾ける。弾けた飛沫がぼたぼたと落ちて甲板を洗い、舷側を伝って海へ戻ってゆく。船は水の上を進んでいるというより、風や海の神によって水の塊に向かって何度も何度も叩きつけられているようなものだった。波を越える度にほとんど停止するくらいまで減速して、ようやく船足が戻ってきたところでまた波がぶつかる。

 船も、波も、また空も、カビに蝕まれたようなまだらな灰色をしていた。色彩のない世界。錨鎖から滴った赤錆だって鮮やかに見えた。

 ウラジオストク港から南東に四十五キロの沖合、二隻の軍艦が灰色の波に揺れている。青味がかった船体と赤錆色の甲板でロシア海軍だと判別がつく。揚陸艦と、その左後方に護衛の巡洋艦が一隻。他には何も見えない。漁船もカモメもいない。

 巡洋艦は前後に同じくらいの高さの艦橋があり、その間に少し高い角錐形のマストが立って、上に巨大なハエタタキのような対空レーダーを乗せていた。他にも艦砲や対空砲がてんこ盛りで全体的にごてごてした感じだ。

 母艦の方はやや後方寄りに潔い直方体の艦橋が舷側いっぱいまで立ち上がっている。その側面に小さな窓がたくさんついているのが砂場でつくったビルを思わせた。艦橋の前後には平たい甲板があり、ヘリコプターが降りるための目印がひとつずつ描いてある。艦尾は垂直に切り落とされて、そこに檻のような模様がついていた。ウェルドックのランプドアだ。

 それが船底の方を支点に開き始め、やがて完全に水面の下に沈み、ドックの床まで波に浸った。暗いが中の様子がわずかに見える。その薄闇の中から何か背の高いものが現れる。肢闘だ。上体を屈め、その爪先で小さく波を切りながらドックの端へ歩いてくる。脛や膝の形状で照合、F12だ。少なくとも脚部はF12系のプラットフォーム。上半身の形状がデータベースの資料画像と異なる。というか両舷に将棋の駒のような形をした大きな箱をつけているせいでその間に何が挟まっているのかよく見えない。将棋の駒の側面に何かのエンブレム。逆三角形の上に黄色と赤の半円。E・サナエフ記念生命科学研究所。F12はランプドアの傾斜に足をかけ、そのまま前に倒れ込んで脚を後ろへ伸ばしながら頭から海面に突っ込む。

《Дельфин девять в воде (ドルフィン9、進水)》揚陸艦の通信手が言った。

 ドルフィン9と呼ばれたその機体は一度海中に沈み込んで再び浮かび上がってくる。背中を上にしているらしいが上に被った流線型の白いカウルが海面に出ているだけだ。それも波に呑まれたり吐き出されたりしている。ただ図体が小さい分巧く波に乗って上下しているので母艦ほど喫水は変化しない。左右の白い駒から二筋の白い泡を後ろに吐き出す。そして今度は自らの意思で潜っていく。

 その間にもう一機が艦尾の穴から飛び出し、一度海面に背中を見せただけですぐに潜行していく。その様子は水面で甲羅干しをしていたカメが釣り人と目を合わせた瞬間にすっと水の中に消えていくのに似ていた。

 調べてみればサナエフ研はハバロフスクに本拠を置く肢闘とブレイン・マシン・インタフェースの研究所だ。広大な土地、数十機の肢機を所有し、専属のオペレーターを擁している。ロシア版の九木崎といってもいい。ただし完全な国立であるところが九木崎とは異なっていた。

 二機が母艦の指揮所と無線で会話をしていた。それぞれドルフィン8、ドルフィン9と呼ばれていた。声の感じでは乗っているパイロットはどちらも女のようだ。機体の状態をデータリンクで母艦に送っている。パイロットのバイタル、電池残量、機関出力、水温、速力。荒天時の機動力をテストしているらしい。二機の動きは巡洋艦のソナーでも捉えられる。深度は平均して二十メートル程度。海中だと波の影響がないせいか、二隻の動きに比べるとドルフィンの走りはとても滑らかで素早い。母艦を中心に大きな円や8の字を描く。時に母艦の後方に離れ、直進して一気に五十ノットほどまで加速する。

 二機はしばらくの間飛行機が編隊を組むのと同じようにくっついて行動していたが、ドルフィン8が旋回中に外側へ膨らんでそのままドルフィン9から離れていった。母艦はルートに戻るように指示する。しかしドルフィン8は《Руль не работает. Управление приводом не отвечает.(舵が効かない。推進装置の制御系が反応しなくなった)》と返事。

《Как! Мы не видем вашу проблему.(なぜだ、こちらから異常は確認できない)》と母艦。

《Это может неизвестный ущерб. Неконтролируемый.(検知できない損傷かもしれない。操縦不能)》

《Дельфин девять, Вы захватить восемь? (ドルフィン9、8を捕まえられるか)》

《Дельфин девять отслеживаю и захватываю Дельфин восемь.(ドルフィン9はドルフィン8を追跡、確保する)》

 ドルフィン9は救助の命令を復唱、旋回半径を縮めてドルフィン8のコースを追う。8のコースは無秩序な曲線を描いている。深度も深くなる。巡洋艦も母艦の後ろを離れて捜索に向かうが、だんだんソナーの反応が小さくなって、やがてロストする。

《Лиза, Лиза, Подожди. Куда ты плывёшь? (リーザ、リーザ、待って、どこへ行くの)》

 ドルフィン9の反応も次第に小さくなり、その無線を最後に消息を絶ってしまった。滑らかな、けれど不思議と息づかいの判然としない声だった。

 巡洋艦の後部甲板からヘリコプターが飛び立つ。ドルフィンを追いかけてロスト地点で高度を下げてディッピング・ソナーを海面に垂らした。

 しかし反応はない。無線もすでに途絶している。ドルフィンたちは海流に身を任せる。光も届かない、意識すら闇の中に溶け込んでいくような深い水の中へ。

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