息苦しくて前も見えない
プールに潜っている人がいる。光の反射と屈折で、少し歪んで小さく見える。
それは、水面より上にいる人から見える景色だ。
潜っている人から、水面より上にいる人は、同じように光の反射と屈折のせいでよく見えない。
それは、本当はプールの中に限ったことじゃない。
日常とプールはよく似ている。
空気だってそうだ。
水面より上の人にとっては、あるのが当たり前。苦しくなることなんてない。
でも、水面より下の人にとっては?
空気なんかない。いつだって息苦しい。
息苦しいから、水面を越えて空気を吸おうとする。
そのために、体を動かさなくちゃいけない。
水面下にいる人たちは、ただ生きていくためだけに努力しないといけない。
ただ息をするためだけに、必死にもがく。
そうしている間に、水面より上にいる人たちはもっと別のことをする。
そうして、水面は徐々に上がっていく。
最初から諦めている。
首から耳にかけてある、大きなあざ。まるで、首を絞められたみたい。
生まれつきあるこのあざは、幼い私を水面下に押しとどめるには十分な重さだった。
「ねね!中高時代なんかスポーツやってたでしょ?」
「バイオリン弾いたことある?」
「一緒に文化祭を盛り上げませんか?」
たくさんの人の声がする。どれも、「私」に向けられたものではなく、「新入生」に向けられたものだ。
だから、予想してた「新入生」とは違う「私」が立ち止まると、きっと相手も戸惑ってしまうだろう。
そうしてきっと、後でその人の話題にほんの2、3分だけ出てくる。
「新歓で気味の悪い女に会ってさ。」
なんて、言うんだろうか。もう慣れているけど。でもやっぱり、慣れていても人の悪意は心に刺さる。
悪意だけだったら、マシな方。
本当に一番傷つくのは、悪意よりも、何か気持ち悪いものを見たときの、無意識の恐怖。
そんな顔をされると、まるで、自分が存在することも許されないような、そんな絶望感に駆られる。
だから私は、今日も小さく見えるように、必死に努力をする。顔もわからないように、髪も長い。
あざは隠しきれないけど、でも、目にも入らないだろう。
ただの暗い女が通るだけ。
そうして、喧騒から離れる。中学でも、高校でも、仲のいい友達はできなかった。作らなかった。
いざ仲良くなってから、それから離れていかれたら、きっとすごく傷つくから。
きっと、大学でも友達はできないのだろう。サークルにも入る気はない。
ただ、ぼうっと生きて、そのままひっそりと死んでいく。
誰にも気付かれなくていい。
「それ、綺麗だね。」
体が硬直する。
自分に向けられた言葉があるという事実に、体が動かなくなる。
何も言えず、ただ相手が飽きて立ち去るのを待つ。
どうせ、悪意。からかって、笑い者にするだけ。そんなのは慣れてる。一番短く済むのは、一切反応しないこと。
「もっとよく見たい。いい?」
言葉は出てこない。硬直した体を、さらにこわばらせる。身振りで、拒否を示そうとする。
ふわっと、髪が持ち上げられる。泣きそうになりながら、ただじっと耐えている。泣いたらきっと、面白がられてもっと長い時間、私の心は踏みにじられる。
「ねえ、なんで何にも言わないの。」
今日、初めて会った人に、髪をかき上げられながら、聞かれる。
怒りと情けなさと悲しさと、いろいろな感情がぐしゃぐしゃになって、それでも泣くのを堪えたまま、真っ赤な顔をした。
「・・・何も言うことがないですから。」
どうして、解放してくれないのか。
一刻も早くこの場所から消えたい。
私の髪をかきあげたのは、細くて背の高い男の子だった。
年齢は、同じくらいだろうか。
いたずらっぽい目をしている。悪意を感じる目ではないけど。整った顔だ。いわゆる美少年。
もう少し時間が経つと、この美しさは増すのか、減るのか。そんな、どうでもいいことを考えてしまうほどに、彼の顔は綺麗だった。
それでも私にとっては、痴漢と変わらない。ただ、去っていくのを待っているだけ。
「お腹空いてない?」
「え?」
あまりにも唐突に話が変わったので、驚いて声がうわずる。
「ご飯食べようよ。俺、お腹空いちゃったから。」
そう言って、私の手を掴もうとする。とっさに手を引いた。
「あの、困ります。」
「何が?」
何が、と言われても。今、この状況そのものに困っている。
まず、この人は誰なんだろう。なんで私に話しかけているのだろう。何がしたいのか。いろいろな疑問が湧いてくる。
怖い。
得体の知れない怖さだ。
「私、帰らないといけないので。」
それだけ、声を振り絞って、全力でその場を離れた。
彼も、追ってくる気配はなかったし、うまく逃げられたんだろう。ホッとした。
新入生と声をかける上級生であふれた空間を、一人俯いて駅の方へ向かう。
賑やかな場所は苦手。でも、慣れるしかないんだろう。
一番賑やかなのはこの時期だろうし。
駅のホームにはまだ、人が少なかった。
きっと、新歓で忙しいのだろう。
やってきた電車にそのまま乗って、家路につく。
まだ昼間だからか、座れた。一息ついて、カバンの中から本を出して読む。
本は好き。私が誰でも、私じゃない誰かが活躍してくれるから。そうすると、私はその間だけ、私じゃない誰かになれる。
時には魔法使いで、時にはいたずらっ子で。
私がなりたくてもなれなかったものに、たくさんなることができる。
でも、本を読み終わってしまうと、いやでも自分のあざのことを考えてしまう。
これがなかったら、もっと主人公のような人生を送れていたのかな。
そこまでじゃなくてもいい。せめて、明るいクラスメイトくらいにはなれていたんだろうか。
それでも、私は本を読む。そうしている間だけ、私じゃなくなれるなら。我に返った時、また痛みを受けるとしても、その一瞬の安心のために読む。まるで、息継ぎのように。
そんなことを考えていると、乗り換えの駅に着いた。
席を立って、電車を降りる。ここでは同じ動きをしているのに、みんな、私とは違う生き方をしているんだ、なんて、当たり前のことを考えながら歩いて、電車を待つ。
大学生活に夢を見ることはなかった。高校よりも人間関係が希薄になるということだけを希望に進学した。
もともと友達なんていない私は、家から近くも遠くもない、電車で1時間くらいの大学を選んだ。お金は本くらいにしか使わないから、バイトもしなくていい。
電車に乗りながら本を読むのは、部屋で読むのとはまた違った趣があるから好き。そんなことのために選ばれた大学は不名誉かもしれない。
毎日が、少しずつ、少しずつ、終わっていく。
そのままひっそりと死んでいきたい。もしも贅沢を言ってもいいなら、何か素敵な本を読んでいる途中に。
時間はまだ昼下がりくらいで、電車はなかなか来ない。
スマホは持っていても使わないから、ガラケーのまま。だから、立っている時にできることはあまりない。
時間があると、余計な考え事ばかりしてしまう。そうすると、大概気持ちは落ち込んでしまう。
明日から授業が始まる。そういえば、さっきの変な人は大学にいるんだろうか。
でも。あんな人ならどこのサークルも勧誘するだろうから、きっと一年生ではないだろう。
電車が来た。昼下がりの電車はやっぱり空いてて、明るいところと暗いところがはっきりと分かれている。
光は窓のないところからは入れない。だから、窓から溢れる光が届かない部分はずっと暗いまま。電車が揺れると、少しだけ光が照らす場所が動くけど、それでもずっと照らされない場所もある。
私は端の席に座って、さっきまで読んでいた本を開いた。