6.もういいよ
ようやくフロアにたどり着いたとき、すでにそこには阿鼻叫喚の地獄絵図が出来上がっていた。騒然とした空気、息を飲む気配、いくつもの悲鳴――。
その時。
「うわああああっ!」
野太い声で叫んだのは菊池だった。
頭を掻きむしりこちらを振り向いた顔は――。
「…………え?」
「助けてくれ! 誰か助けてくれえ!」
別の声にそちらを見ると、なんと、リュウがあの課長に飛びついていた。
「ほらどうだ! お前、その顔でしばらく過ごしてみろよ! 嫌なことをされて、それで嫌な顔になって、それで平気なふりして仕事していられるのかやってみろってんだ!」
ぱっとリュウが離れると、課長の顔一面、黒い油性マジックで散々に落書きされていた。さっきの菊池とそっくりの、もはや笑えるとか可哀想といった感想を通り越して、ひたすら恥ずかしいと思わせる顔になってしまっていた。
なにより書いてある言葉や絵がえげつない。くそったれ。なめるな。さいてい。それに準じる言葉、準じる絵。子供の恐ろしさをこのときほど痛感させられたことはなかった。大人には絶対にできない行動だ。あの顔――自分の今の顔のほうがよっぽどましだ。
脱力し床に崩れ落ちた課長の様子にかまけていたら、身軽なリュウはあっという間に次の標的のところまで行き、逃げ腰の彼に同じように飛びついた。
「うわ、やめろ、やめてくれえっ!」
「やだよ、お前が一番悪い!」
被害に遭っているのは――斉藤くんだ。
「あいつらは無自覚でやっていたことだからまだ救いがある。だけどお前は駄目だ! お前は傷つくと分かっていたくせにそれをした! 人を傷つける権利がお前にあるのか! 人を傷つけて幸せになれると本気で思っているのか! 人を傷つけた自覚のあるお前は幸せになれると思うか? 違うよな! もしそうなら、お前はもう人間じゃない。最低だ! 最低だ!」
叫ぶたび、これでもか、これでもかとリュウはマジックペンをふるう。そのたびに斉藤くんは「ああああ」と声をあげたが、課長の時に比べたら抵抗する様子がなぜか弱々しく見えた。制裁を加える神様のごときリュウ、その前で斉藤くんが示す態度は……。
――答えは一つしかない。
だからわたしはためらうことなくリュウに近づくことができた。
課の他のみんながびくついて動けなくなっている中、ヒールを鳴らし、闊歩して歩んでいく。ありったけの注目を浴びて、まるで何かのショーのランナウェイに出演しているかのようだ。だったらこのショーのクライマックスはもちろん、これ。わたしは狂ったように制裁を加え続けるリュウを後ろから抱きしめ、マジックペンを持つ手をそっと押さえた。
「……姉ちゃん?」
「もういいよ。もういいから」
振り向いたリュウはおとなしくなったが、それは一瞬のこと、すぐに噛みつくように訴えかけてきた。
「いいわけないだろう! それで姉ちゃんは笑えるのか? こいつがいてもここで笑って働けるのか? 姉ちゃん、あのお茶が好きなんだろ? だからこの会社に入ったのに、こいつがいたらここにいるのが辛くなって、好きなものもいつしか好きじゃなくなって、そうやってどんどん笑えなくなっちゃうんじゃないのかっ?」
リュウの言葉はとても激しい。遠慮なんか一切ない。傷ついたわたしの心をさらに深くえぐってくる。
だけど……だけどリュウの言葉にはやっぱり真心がこもっていた。本気で怒るのはきっとわたしのことを好きだから。そう言ったのはほかならぬリュウ自身だ。
リュウを挟んで、顔のほとんどを黒く塗られてしまった斉藤くんが、わたしのことをおどおどと見上げている。塗られた黒とのコントラストで、白目ばかりがぎょろぎょろとしている。あの日以来、斉藤くんはこんなふうにしかわたしを見ない。リュウとは全然違う。
だけどわたしは答えを見つけてしまった。
だからリュウを抱く両腕に力を込めた。
温かくて小さい体に泣きそうになり、温かくて小さい体に勇気をもらう。そうしてわたしは言うべきことを口に出していった。
「……ありがとう。でももう大丈夫。斉藤くんだけが悪いんじゃないの。わたしにもいけないところがあったの」
「そんなことない! 姉ちゃんは悪くない!」
振り返ろうとする力は思った以上に強くて、わたしはより一層抱きしめる力を強める必要があった。
「いいから……聞いて?」
「姉、ちゃん」
「わたし、自分のことが好きじゃなくて、だからわたしのことを好きになってくれた斉藤くんのことを好きになったの。そりゃあ最後は最低だったけど、それまでは斉藤くんはわたしにとって最高の彼氏だったの。傍にいてくれたのは斉藤くんだけだったの。わたしね、働くようになってから、家族も友達も、面倒になって自分から距離を置いていったんだ。働く辛さを誰も分かってくれなくて、真剣に聞いてくれなくて。それで自分から縁を切ったの。今思うとそういうところも駄目だった。誰だって大変なのに、自分のことばかり理解してもらいたいってわがまま思って、なんで分かってくれないのって一方的に話して怒って。全部全部、自業自得だったの。だからもういいの」
「姉ちゃん……」
「わたし、斉藤くんのことを赦したい。そしたら……そしたら自分のこと、少しは好きになれる気がする」
「……本当か?」
「うん。そうしたら、きっとわたし、自分のことを大切にできるようになると思う。自分の言いたいことを言って、やりたいことをして。好きなことを好きだと言って、嫌なことは嫌だって言って。そして大切な人を大切にする。そういう自分になれると思う。そういう自分になりたいって、今、本当に思えるんだ……」
腕の中の体のこわばりが抜け落ちていき、わたしはリュウの髪に顔をうずめて目を閉じた。
「全部全部リュウのおかげだよ。……ありがとね」
リュウの頭からは陽だまりみたいないい香りがした。さらさらの髪がくすぐったくて、こんな時だというのに不思議と笑みが浮かんだ。
斉藤くんが小さく「ごめん」と言う声が聞こえた。
誰にも聞こえないような、小さな声で。
でも確かに聞こえた。
それでもう十分だった。
「リュウ、あんたって不思議な奴だね」
また泣きそうになるのを誤魔化すように、リュウを背中から抱きなおした。
「言うことは一丁前の大人みたいなのに、やることは子供っぽくて。ほんと不思議な奴……」
少しの間をおいて、リュウが抱きつくわたしの腕に手をのせた。
「それは俺が……だからだよ」
「え? なんて言ったの?」
だがリュウはもう何も言ってくれなかった。ただそっとわたしの腕の中から抜け出し、こちらにゆっくりと振り向いた。まっすぐにこちらを見つめるまなざしはどこまで深く澄んでいた。
リュウの表情がふと和らいだ。
かと思うと、リュウの体が白い靄のように包まれていった。
リュウの輪郭がぼやけていく。リュウの全身が淡い白い靄に溶けていく。
「リュウ……?」
すると十歳の少年の体が縦に緩やかに伸びだした。するすると伸び、わたしの正面を通り過ぎ、最後には成人男性のシルエットにまでなった。
靄の中でリュウにそっくりな青年が――笑った。
笑ったとたん、今度は時を巻き戻すかのようにぐんぐんと青年の体が小さくなっていた。高校生、中学生、小学生、十歳だと言った見慣れた身長もまたあっけなく通り過ぎていった。
そして最後に、生まれたてのような小さな子供の姿で止まった。
床に尻をつけこちらを見上げてくる子供は、確かにリュウの面影があった。
子供はわたしと目が合うとにこっと笑った。
笑みは光を生み出し――やがて子供を中心にして世界のすべてが白光に包まれた。
「リュウっ……!」
叫びながらも、わたしは光の放つ眩しさに目を閉じていた。