5.怒って、泣いていいんだよ
化粧室には誰もいなかった。だけど手洗い場の正面、三つ並んだ鏡に目を背けたくなるほどにぼろぼろのわたしの姿が映っていた。見た瞬間、驚愕のあまり息が止まるかと思った。
なぜ今まで気づかなかったんだろう。
二年前、入社したばかりの自分とは全然違う姿がそこにはあった。
艶のない髪を無造作に低い位置で結んだだけのわたし。まだ朝だというのにすでに化粧が崩れかけているわたし。口紅もグロスも塗っていないかさついた唇のわたし。適当に塗ったマスカラが涙でにじみだしているわたし。血走った目をしたわたし――。
いてもたってもいられず、最奥の個室に入るや、急いで鍵を閉めた。蓋を閉めた便座にぺたんと座り込んでいたが、実際、もう指一つ動かせない状態に陥っていた。
「もう……いやだあ……」
泣きたい。ここで泣きたくてたまらない。だけど今泣いたら仕事に戻れなくなる。充血した目は簡単には戻らないから。赤くなった鼻は簡単には戻らないから。
気持ちは一気に下降していく。
こうして誰一人いない場所に隠れているのに、なぜか恐怖を感じ始める。自分自身をこうして公の場に晒していること自体が――怖い。
早く家に帰りたい。もうここにはいたくない。仕事なんてしたくない。消えてしまいたい。
でも……どうしたら仕事をせずにいられるのだろう。
仕事をしなくては生活ができない。
仕事をしなくては社会人ではなくなってしまう。
みんな同じ条件で仕事をしている。斉藤くんだって菊池だって、楽しそうに仕事をこなしている。楽しそうに仕事をして、満足して、仕事だけではない人生を謳歌している。
でもわたしは違う。仕事に振り回されて、それ以外の物は何もなくなってしまった。
そして――仕事のできなくなったわたしにはもはや何もない。
からっぽの心にひたひたと闇が沁みていく。
「なんで? なんでわたしだけ……?」
ここから出たい。早く家に帰りたい。
でもできない。こんな醜い顔でどうやって家まで帰れる?
それにまだ仕事がある。仕事があるんだから帰っちゃだめだ。
(帰っちゃ……だめだ)
ならばせめてこの顔をどうにかしたい。
ぐしゃぐしゃの顔を隠してしまいたい。
無様な自分を隠したい。
今だけでも、せめて今だけでも顔を覆ってしまいたい。
だけどもうそれすらできなかった。
腕が上がらない。肩が回らない。本当に指一つすら動かない。
瞼の裏側、体の奥から生ぬるい水が湧き上がってくるのを感じる。
こうなるともう止めることはできない。
水は固まりのように両目から溢れだした。
ぼろん、ぼろんと。大粒の涙が頬を伝い、顎から滴り落ちていく。
しばらくして鼻水が出てきた。
目と鼻は繋がっているという、どうでもいい知識がこんなときだというのに頭に浮かぶ。涙を流すと鼻水が出てしまう。流せば流すほど、鼻からも汚い液体が出てきてしまう。
(泣き顔が美しい人なんて本当にいるのかな……)
そんな人、いるわけがない。
涙が出れば鼻水も出るんだ。
鼻水を出しても美しい人なんているわけがない。
悲しいだけの人なんているわけがない。
悲しいっていうのは、いろんなどろどろしたもの、汚い感情もあるはずなんだ。
美しいだけの悲しみなんてあるわけがないんだ。
「だから……だから嫌なんだよお……」
言葉にしたら、ぼろぼろっと、一気に涙が溢れた。
ずずっと鼻水をすすったのはもう条件反射だ。
「だから泣きたくないのに……」
大人なんだから鼻水を流していたら格好が悪い。
もう最低なほどに格好悪いのに、これ以上格好悪くなったら本当に死ぬしかなくなる。
――生きていくための力がなくなってしまう。
「なあるほど。だから姉ちゃんは悲しみを封印してたんだ」
その声の方を見ると、いつの間にかそこにリュウがいた。
ずっと一人だと思っていたから、突然のリュウの登場に涙がきゅっと止まった。
「……リュウ?」
ここは会社、しかも女子トイレの個室だ。なのに目の前にリュウがいて、一畳ほどの狭い空間はいつしか無限大に広がっていた。ピンクと橙と紫が溶けあう、夕暮れ時に似た不思議な空間に二人だけでいた。その中を黒づくめのリュウがわたしに向かってゆっくりと歩いてきた。
「姉ちゃん、大人だって好きなように心を解放していいんだよ?」
そう言って肩に手を置き、いつものようにわたしの頬をべろりと舐めた。
子供のくせに大きな舌が涙をきれいに拭っていく。ざらついた感触はシルクのような柔らかさで心を拭っていく。
ぺろぺろと、丁寧に涙を舐めながら、リュウは諭すように語っていった。
「悲しいんだったらちゃんと悲しまなきゃだめだよ。ちゃんと悲しいって思って、泣きたいだけきちんと泣いて、鼻水出して顔真っ赤にして。じゃないといつまでたっても苦しいよ? 姉ちゃんはそれを知ってるはずだよ?」
「……うるさい」
子供に八つ当たりするなんて、本当に最低な奴だ。
だけどリュウはそれになぜか嬉しそうに笑った。
「そうそう。それでいいんだ。そうやって怒りな?」
「い、いやだ。わたしは怒りたくなんてない」
「どうして?」
「どうしてって……。だって、だってわたしは怒りたいわけじゃない」
「じゃあどうしたいの?」
「どう、したい……?」
問われたことを理解しきれず、絶句してしまった。
どうしたいか。そんなこと、大人になってから訊かれたことはほとんどなかった。やるべきことは決まっていて、わたしはレールの上に乗る電車のようにおとなしく従っていたから。それが一番安全で安心で、正しい目的地に連れて行ってくれると信じていたから。
少しして、素直な気持ちが言葉になって出てきた。
「……自分に自信がないのよ、きっと」
リュウが座るわたしをそっと抱きしめた。リュウの胸に顔をうずめ、ぐちゃぐちゃの顔を隠し、それでわたしはよりいっそう素直な自分になれた。
「うん……そう。きっとそう。わたし自分のことが好きじゃないの。だから自分では何も決められないのよ。誰かがいいって言ったことをして、それだけを選んで、そうやってわたしは大人になった。だから今もそれをやめることができないんだと思う。自分が正しいと思うことが正しいとは思えないし、自分が決めたことを選んでいいのかも分からないし……」
そこまで話して、はっと我に返った。
あわててリュウから離れる。
「ごめんごめん。子供にこんなことを言ってもしょうがないよね」
するとリュウは眉間にしわを寄せ、わたしに鋭い視線をくれた。
「ちゃんと分かる」
「えー、本当に?」
背伸びする様子が可愛くて、こんな時だというのについ笑ってしまった。
「ああ、やっぱその方がいいよ」
「え?」
「いくら泣いても怒っていい。だけど最後はそうやって笑ってよ。誰だって、頑張るのは笑っていたいからなんじゃないか? 辛くても最後には笑いたいから頑張るんじゃないか? 笑えないような生き方ばかりしてたら、そりゃあ死にたい死にたい言いたくなるってもんだよ。違うか?」
昨日も一昨日も同じようなことをこの子に言われた記憶がある。だけど今は不思議と反発心は湧かなかった。それどころか、リュウの言葉はすうっと私の頭と心に沁みわたっていった。
「……そうだね。うん、本当にそうだね。笑いたくて頑張るんだよねえ……」
長年の悩みがリュウによってあっという間に解決されていく。あちらこちらと揺れ動き疲弊しきった心が癒されていく。それはまるで、夏場の密閉した部屋に、清涼感のある風が流れ込んできたようだった。
(もう十分かもなあ……)
人はそう簡単には変わらないし、わたしには今の職場や会社を変える気力どころか、意志を貫くための正義も理屈もない。だから逃げることなく一日一日を耐えしのぶように生きてきたのだ。もうこの心が軽くなる方法なんてどこにもないと、胸の内を固く閉ざして。だけど、どうやらそれはわたしの思い込みだったようだ。
道はいくらでもある。
選べないと思っていた道だって、自分次第では選ぶことができる。
(だったら……わたしが笑えるようになるためにはどうすればいいんだろう……?)
だけどリュウはその斜め上を行く展開を問答無用で選んだ。
「よし、それじゃあ最後にやり返しに行くぞ!」
「え? ええっ?」
バン、と勢いよく、リュウが目には見えない扉を開けた。
その音で目が覚めるように、わたしとリュウは気づけばトイレの個室から出ていた。
正面には三面の鏡。どれだけ不細工なんだと、今度こそ本当に死にたくなるような自分の顔が三つ並んでいる。真っ赤な目、真っ赤な鼻、どろどろに化粧の崩れた泣き顔。
見慣れた場所に戻り見慣れた最低な顔を直視したせいで、わたしの動きは一瞬遅れた。その隙に、なんとリュウは化粧室から出て行ってしまった。
「ちょ、ちょっと! リュウ!」
こんなところに子供がいたら非常にまずい。いや、女子トイレにいたという事実も非常にまずいのだが、この社員しか入れないはずのビルで子供が堂々と動き回るのはもっとまずい。
だけどリュウは構うことなく、一直線にわたしの課のあるフロアへと駆けて行った。なぜ知っているのか。
「戻って! 行ったらまずいって!」
リュウはまだ子供だが、態度や口調は大人のようにしっかりとしている。そんなリュウだから、さっきなんてことのないように述べた『やり返す』という言葉には、直接的な、力による報復しか想像できなかった。
わたしはリュウに具体的なことを何も説明していない。ただ仕事が辛いと泣いただけだ。
となると、リュウの報復の対象は課のメンバー全員になってしまわないか?
それは――非常にまずい。
リュウに罪を負わせてはいけない。
無関係な人を傷つけさせてもいけない。
足にフィットしないパンプスではあっという間に距離が離されてしまう。だけど可能な限り全速力で走った。本気で何かをするなんてずいぶん久しぶりのことだったが、それに気づく余裕は当然なかった。