4.悟り、絶望
翌朝、課長にはすぐに報告した。明日からは残業ができると。
少しは褒めてもらえるかと期待していたものの、まったくそんなことはなく、逆に『当たり前だ』と言わんばかりの表情をされただけだった。ああもう、何もかもが自業自得だ。しかも「今日も定時で帰宅させてほしい」とあらためて願い出たとたん、思いきり眉をひそめられてしまった。
「じゃ、明日からしばらくは終電まで働けよ。お前、今月はまだたくさん働けるだろ?」
その一言で一気に脱力した。
今この国では政府主導で働き方改革が推進されていて、わたしの会社でも残業は月六十時間以内とするように定められている。これを一分でも超過すると本人以上に上長が指導の対象となる鉄壁の規則なのだが、言い換えれば、月に六十時間までは残業をしてもいいということだった。課長が言ったのはこのことで、つまりは計六十時間になるまで汗水たらして働け、と暗に命令してきたのである。
六十時間というと大したことがないように思う人もいるかもしれない。土日休みがあって就業日が月二十日としたら、均等割りで一日三時間の残業で済む。
だがそれはまやかしだ。
ここ都会では通勤に片道一時間、二時間はざらで、昼休み含めて基本の九時間に残業三時間、トータル十二時間を会社に拘束されると、家を出て帰宅するまでに十五、六時間を消費することになる。家で睡眠に六時間、さらに食事と入浴で一時間ちょっと、少しは家事もして、すると残るは一、二時間程度しかない。
しかも、だ。うちの会社では週に一日、定時で帰宅するノー残業デーなるものがある。それにこうして定時で帰宅せざるを得ないときは誰にでもある。半強制の職場主催の飲み会なんかもこれに当てはまる。すると、計六十時間の残業ノルマをこなすためには、残業できる日の意味付けを『終電近くまで残業しなくてはいけない日』としなくてはいけなくなる。
もちろん、終電まで働けば、その日は泥のように眠るしかない。すきっ腹にちまちまとスナックやコーヒーを流し入れながら仕事をするせいで、帰宅するともう食事をとる気にはなれない。湯船をはって疲れをとる気にもなれず、シャワーで適当にすませて、本当に泥のように眠るしかなくなる。
そして、そういう翌日はなかなか起きれず、疲れはとれず、仕事に集中などできない。不規則な平日は休日をも駄目にする。そう、すべては悪循環していた。
だけど、そんなことはこの会社の誰もがやっている。時短勤務や一般職の社員、それに入社したての社員以外は誰もが、だ。ちなみに総合職の女性は大半が入社して三年で辞めていく。わたしの同期も、女はもうわたし一人しか残っていない。理由は語られないが想像はつく。この働き方は、子供を育てながらでは絶対に無理だ。リュウと過ごしたここ数日でも実感している。
「ほら、もう行け。無駄話をしている暇なんてないからな」
邪険に片手をふるう課長に不愉快ながらも頭を下げ自席まで戻ると、待ってましたとばかりに菊池が近づいてきた。椅子に座ったままでキャスターを滑らせ、一直線に。
「なあ、もうちょっと要領よくやれないの?」
「なにそれ」
何もわからないくせに。
むっとしたところで、菊池は相も変わらず自分勝手にしゃべっていくだけだった。
「課長に反抗したっていいことなんて何もないだろ?」
「わたしは別に反抗しているわけじゃないから」
「だけどさあ、ただでさえ仕事が遅いのに定時で帰ってばかりいたら、もう何を言おうがだめじゃん」
「だめってなんなのよ、だめって!」
かっとなったわたしを、菊池は適当な動きでまあまあとなだめた。人を小馬鹿にするような態度はきっと課長直伝だ。
「仕事が遅いなら残業するしかないだろ? 今は成果主義の時代だぜ? 同じ結果を出さなければ同じ給料はもらえないってこと。時間が勝負じゃないんだ。結果だよ、結果」
「……別にたくさん稼ぎたいわけじゃない」
それはわたしの正直な気持ちだった。
菊池はああ言ったが、まだ若いわたしたちはホワイトカラーでもないし、成果主義による給与体系で働いてもいない。だから、残業をする分、同世代の平均よりもかなり多くの収入を得ていたりする。
だけどわたしは無理してまで稼ぎたいとは思ったことがない。この会社に入社したいと思ったのは、単純にここのお茶が好きだったから。それだけだった。好きなもののためなら頑張れる、そう思ったのだ。しかし現状の労働時間は『頑張る』という単語の意味を軽々と飛び越えて無価値にしてしまっている。もう精神論だけではやっていけないところまで追いつめられている。
第一、いくら稼いでも意味がないのだ。購買意欲すらわかないのだから。最初のころは社会人らしい服やアクセサリー、時計なんかをこつこつと買い集めていた。だが今は本当にもうどうでもよくなってしまった。少しくらい古臭いものでもかまわない。だって、こんなふうに始終目の下にくまのある女がいくら着飾ったって無駄ではないか。ブランド物が逆に痛々しく見える容貌というものがあるのだと痛感したのは、ここ最近のことだ。
定時帰宅の日や休日は、とにかく癒されることにのみ利用したかった。家で一人のんびりとしたり、斉藤くんとまったりと過ごしたり。美容院を予約することすら面倒でしなくなったのに。
(……あ、だからなんだ)
斉藤くんがわたしに愛想をつかした理由。
それがこんなときだというのに分かってしまった。
唐突に――分かってしまった。
(わたしが女を……恋人であることを棄ててしまったからなんだ)
それは外見のことだけではない。
わたしを構成するすべてについてのことだった。
週末にどこにでもでかけず家に引きこもっていたいと訴えたのは半年前のわたしだった。疲れているから、と。ゆっくり休みたいから、と。そしてこの数か月、二人でいることを楽しむようなことを敬遠するような最低な奴にまで成り下がっていた。それを今さらながら自覚してしまった。
同じ音楽、同じ映画。
たわいもないおしゃべり、ベッドでの触れ合い――。
貴重な休日、斉藤くんにつきあうのが面倒で、最後のころは同じ部屋にいるのに別々に過ごすようになっていた。ほとんどの時間をわたしはぼんやりと過ごし、「死にたい」「死にたい」とボヤいていた。たまに癒しがほしくなった時だけ、自分勝手にすり寄って頭をなでてもらっていた。だけどわたしの方は近寄りがたい雰囲気を醸し出し、斉藤くんを一度も甘えさせてあげたことなんてなかった。
でも――わたしは本当に疲れていたのだ。
恋人をないがしろにしてしまうほど疲れていたのだ。
でもきっと――きっと斉藤くんだってそんなわたしに疲れていたんだ。だから他の人のところに行ってしまったんだ。死にたいと言わない人のところへ。癒しを与え合える人のところへ。愛をささやき合える人のところへ……。
(わたし、斉藤くんのことちゃんと愛してあげてなかった。愛を欲しがってばかりいて、斉藤くんには愛をあげてなかった……)
そう思ったら途端に目が潤んできて、気づけば席を立っていた。下を向き、小走りで逃げるように化粧室へと直行していた。背後から聞こえた、「早く戻って仕事しろよー」という菊池ののんきな声は、わたしをこれでもかと絶望へと追い込むだけだった。