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3.人は馬鹿だ

「だからさあ」


 二日ぶりだというのに今日も課長は絶好調だ。


「人よりも仕事が遅いくせして残業できないってどういうことなのかって聞いてるんだよ」


 課長は正しい。そのとおり。わたしもそう思う。だけど全身が痛みで悲鳴をあげている今日のような朝には、その正論こそがこたえた。昨日課長が一日不在だっただけで、どれだけ楽ができていたのかをあらためて実感する。


「で?」

「は?」


 訝しげな顔を上げたところ、課長はいつものごとく生気に満ちた表情をしていた。この顔を見ていると、自分の中にある生命エネルギーが搾取されていくような気分になるのはなぜだろう。


 課長が諭すように繰り返した。


「理由だよ、理由。なんで残業できないんだ。昨日も残業しなかったんだろ?」

「そ、それはですね。甥の面倒をしばらくみないといけなくなりまして」


 母さんの兄さんの、などと詳しく説明するのも気がひけ、かといって遠い親戚と端的に説明するとわたしが面倒をみる必要性が薄くなってしまう気がしたのでこう言ってみた。とはいえ、『甥』というワードでは、課長への説明責任は果たせなかったようだ。


「甥? もっとうまい言い訳考えろよ」

「いえ、言い訳なんかではないです」


 リュウは確かに甥ではない。だが正確性には欠けていようが言い訳なんかではない。実際、今日もリュウはあの狭い1LDKのアパートに一人でいるのだから。


 十歳の子供がたった一人でわざわざ上京してきたのだ。四月あたま、本当ならば春休みのこの時期に、たった一人で。知り合って間もないが、話す言葉の端々から、リュウが賢い子供だということは疑いようがない。であれば何か目的があってやってきたに決まっている。


 なのにリュウはなぜか出かけようとしない。一切外に出ようとしない。合鍵を貸すといってもいらないと言うし、お金を貸そうかと提案しても「ここにいられればいいんだ」、それだけを言い、今日も一人部屋に居座っている。まるで何かを待っているかのように。


 昼ごはんにはおにぎりを作って置いてきている。エアコンもヒーターもいらない陽気だから、健康面では留守番させてもそれほど不安はない。誰かが来てもドアを開けたらいけないよ、とは言ってあり、それを理解できる知能はあるようだから大丈夫だとは思っている。十歳なら一人で留守番くらいできる。それくらいは独身のわたしでも知っている。


 とはいえ、やはり子供を一人で置いておくのは不安だった。定時に退社して早足で帰宅しても、家に着くのは十九時になってしまう。朝は七時には家を出るから、半日を小学生一人で放置していることになる。これが西欧とかなら、たぶん虐待で逮捕されるのではないだろうか。


 無駄だとは思いつつ、わたしは数値的な事実を端的に課長に説明した。つまり、十歳の子供一人を十二時間放置しているのだ、と。するとさすがに課長もこれ以上は強く言えなくなったらしく、苦い顔をして黙ってしまった。


「……で、いつまでなんだ」

「それは兄の、あ、甥の親が退院するまでで、たぶん一週間くらいです」

「おいおい、お前は馬鹿か? 仕事に『たぶん』はない。はっきりさせろよ」

「とは申しましても……」

「でももくそもない。お前がやらない仕事を誰が肩代わりしていると思っているんだよ。そいつらにだって自分の生活があるんだよ。それをお前の都合だけで迷惑かけていいわけがないだろう」


 ぐうの音もでなかった。


 だからその夜、直接リュウに訊ねた。


「いつまでいるかって?」


 ペロリと焼きそばをたいらげたリュウは、なんてことのないように単純明快に答えた。


「明日まで」

「そっかあ」


 正直、それを聞いてほっとした。明日、もう一回定時帰りを許してもらえたら、それで面倒なことからは解放されるのだ。


 そう思うと急に食欲がわいてきて、目の前に置いたままだった自分の皿、豚肉と野菜をたっぷりといれた焼きそばがごちそうに見えてきた。実際口に入れると、スパイシーな味ととろけるようなバラ肉、しゃきしゃきとしたキャベツのハーモニーは最高だった。そういえば、何かを美味しいと思ったのは随分久しぶりだ。


 しばらく無心で食べていると、ちりちりと正面のほうから視線を感じた。顔をあげると、向かい側に胡坐をかいて座るリュウが、じっとわたしのことを見つめていた。


「な、なによ」

「……いや」


 ぷいっと顔を背けた理由が想像ついて、さすがに申し訳なくなった。


「ごめんね、リュウのことが迷惑ってわけじゃないの。ただ、あんまり仕事を休めないのよ」

「昨日も今日も仕事にでかけていたじゃないか」

「いやいや、そうじゃなくて。社会人にとってはね、定時過ぎてからが本番なわけよ」

「本番? じゃあその定時ってやつが来るまでは何をしているんだ」


 相変わらず痛いところをつくガキだな、と思いつつ、これも明日までのことと、心が軽くなった分、大人の世界というものを懇切丁寧に説明してやることにした。


「あのね、会社には始業時間っていうのがあるの。うちの会社はそれが八時四十分なのよ」

「八時四十分? 細かいなあ。九時じゃだめなの?」


 いちいちうるさい。

 だがスルーして話を続ける。


「会社員っていうのはね、始業時間までに会社に行くのよ。そしてまずはメールをチェックするの。それからスケジュール確認。それから朝礼」


 メール、スケジュール、朝礼。そういった単語が出るたびに何か尋ねたそうな顔をしている。だがそれらもすべてスルーしていく。


「それから、まずは前日までの残件処理をしていくんだけど、今は国際社会だから、夜の間も仕事はどんどんたまるのよね。リュウは時差って分かる?」


 聞くだけ聞いて、返答を待たずにどんどん話を進めていく。


「そんな感じでさ、会社員ってのは朝からずっと忙しいのよ。しかもその間も電話が出たらとらなくちゃいけないし、メールが来たら早めに返信しないといけないし、もうすごく忙しいんだから。で、だいたいここまでで午前は終了しちゃうんだよね。その日の仕事にようやく取りかかれるのは昼休みが終わってから。でも午後も打ち合わせが必ず一つは入るし、そのための準備や後片付け、議事録の作成を若手がしなくちゃいけないし。だから自分の仕事ができるのは定時過ぎてからになるってわけ。これで分かった? 定時に帰ることのまずさと気まずさが。あ、定時ってのはうちの会社では十七時四十分ね」


 くりくりと大きな目を動かす様が、知りたいことだらけなのだろうとよく分かる。いくら賢いといってもリュウはまだ十歳なのだから、こうも一気に説明しても分かるわけがないのだ。


「姉ちゃんってどんな仕事をしているの?」

「ようやくそれを聞いたか」


 ごくりと麦茶を飲み、コップを置き、もったいぶって答えてやった。


「お茶を売る仕事。たとえばこれね」


 指差したペットボトルは、実際うちの会社で販売しているもので、民放でコマーシャルもばんばん流れている国民的商品だ。


 だがリュウは期待したような反応を示すことをしなかった。それどころか、何ら反応しない。感情を動かさない。さすがにこのお茶のことを知らないわけはないのだから、どうでもいいと思っているのだろう。


 そう思うと少なからずいらっとした。自分のことを否定されたような気がしたのもあるし、自社製品の価値を損なわれたような気がしたのだ。入社して二年、ロングセラーのこのお茶を売ることにのみ心血注いできたわたし。なのにこのお茶なんかどうとでもいいとでも言うような態度をとるとは。


「なんで姉ちゃんは怒ってるの?」

「さあねえ。なんでだろうねえ」


 棒読み口調で答えてしまったのは、我ながら子供っぽいと思う。


「……ふうん。そっか」

「何が、そっかだ」


 そう答える自分の唇がつんと尖っていることも自覚している。対するリュウは、余裕ぶった表情でにやりと笑った。


「いや? 姉ちゃん、仕事が好きなんだな」

「は?」

「自分以外のことのために怒ることができるって、好きってことだろ?」

「いやいやいや」


 そこは強く否定したい。


「確かにこのお茶は好きだよ? だからこの会社に入ったんだし。だけど仕事が好きかといったらそれは違うわ」

「え? てことは嫌いなの?」


 嫌いなのか? そう真っ直ぐに問うリュウの表情は、大人をからかっているクソガキのものではなかった。だからすぐに答えを返すことができなかった。


「……仕事って、好きか嫌いかでするものじゃないのよ」

「そうなのか?」

「そう。みんながみんなそんなことを言っていたら、この社会が成り立たないんだから」

「社会が成り立つってそんなに大事なことなのか?」


 一瞬口ごもりかけたが、大人の意地で言い返した。


「そりゃそうよ。大事よ。じゃないと人間は生きていけないんだから。歴史的にもそういうものなのよ。リュウには難しい話だろうけどね。さ、ごちそうさま!」


 空になった皿を持って立ち上がろうとしたとき、リュウがぐっとわたしの手を引っ張った。リュウはすぐに口や手が出る。それはこの数日で理解していたはずなのに、不意打ちで、不覚にも体勢を崩してよろめいてしまった。


「ちょっと! 危ないでしょ!」

「死にたい死にたい言いながら、そこまでして働く必要が本当にあるのか?」

「なっ……」


 今度こそ本当に言葉を失ってしまった。

 追い打ちをかけるようにリュウが言い募る。


「社会って、つまり人間にとっての土なんだろ? 土がないと植物は育たない、そういうことだろ? だけどさ、土を守るために植物は苦しんだりなんかいないよ。そこに土があって、植物がある。それだけだよ?」

「あんたって……」


 馬鹿みたいにいら立ちが募って、気づけば、手にしていた皿を投げるように机に放り出していた。


「あんたみたいな子供に分かるわけがないんだから黙ってなさいっ!」


 皿と机がぶつかった瞬間、部屋中に甲高い音が鳴った。投げつけた当の本人であるわたしの心臓が跳ねあがるほどの嫌な音がした。だけど十歳のリュウは怯えもせず、ただじっとわたしを見つめ続けるだけだった。


「いいや。分かる」

「分かるわけがないっ!」


「いいや、分かる。人間は馬鹿だ。自分で勝手に複雑に物事を見て、自分で自分を苦しめている。なんでそのことに気づかないんだ。早く気づけよ?」


「なっ、何を偉そうに! あんただって人間でしょう? それにあんたは子供で、働いたこともなくて、ただ守られて生きているだけじゃない! ご飯だってそう、わたしが用意しなくちゃ食べることだってできないくせに! あんた、ここに住んでいる間に食べた物、誰が稼いだお金で買ったものか分かってるの? あんたが好きだっていうその漫画、誰のお金で買ったものか分かってるのっ?」


 言い過ぎた、と気づいたのは、わたしを見つめるリュウの瞳が揺らいだからだ。二日前、突然この家に現れてから、リュウはいつでも冷静で、ふてぶてしいくらいに悠然とふるまっていた。子供ながらの横柄さもあるだろうが、純粋でまっすぐで、血縁だということを抜きにしても、こんなふうに責めるほどに嫌ってはいなかった。


 だけど今、リュウの大きな瞳に悲しみを見つけてしまった。


(自分が子供だったら絶対に大人には言われたくないこと、言ってしまった……)


 後悔はしたものの何も言えないでいるうちに、リュウは黙って立ち上がるやベッドに行ってしまった。布団をかぶり丸くなり微動だにしない。


「リュウ、ご……」


 ごめんね。そう言いたかったけれど、その一言は喉の奥につまって最後まで出てこなかった。


 しんとした部屋の中、いつまでたっても丸い布団の中から寝息は聞こえてこなくて、重苦しい空気はいつまでもたっても消えなかった。

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