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2.追い討ち

 朝の満員電車は文字通り地獄だ。


 ありえないほどの人口密度。そこにぎゅうぎゅうに押し込められ、パーソナルスペースなど何のその、見知らぬ他人と触れあいながら目的の駅へと向かう日々。しかも行先は会社だ。なんのために通うのか分からなくなっている楽しくもなんともない職場に向かうために、朝から連行される奴隷のような自分。


 昨日はあのまま寝付いてしまったリュウのせいでフローリングの床で寝るはめになり、全然疲れがとれていない。揺れる車内と穢れた空気の中にいると、もう仕事になんて行きたくないと痛切に思う。気持ち悪い。少し吐き気もする。朝食は少ししかとれなかった。


 だけど本当のわたしは奴隷なんかじゃない。行きたくないなら一日くらい仮病を使って休んでしまえばいいのだ。目的の駅で降りないことだってできる。会社を辞めることだってできる。わたしには選択肢はいくらでもある。ロボットではないのだし、自分の意志でどうにでもなる。


 なのだが、気づけば毎朝同じ時間、同じ電車に揺られている自分がいる。そして同じ駅で降り、決まった時間に職場に入る自分がいる。


 そうして今日もいつものごとく自席について、パソコンの電源を入れている自分がいた。課長は今日は出張で不在で、それだけで心が穏やかになる。ブイン、と低い音がし、ディスプレイがちかちかと瞬き出す。入社して以来ずっと使っているこのパソコンは、最近少し動きが悪い。なかなかパスワードを入れる画面にたどり着けない。フラッグのはばたくお決まりの画面を見ていると、「おはよー」と言いつつ背後を通りかかった同期の菊池に即刻忠告された。


「そろそろパソコン買い替え時じゃないのか? 早めにIT部に申請しとけよ」

「ああうん、そうだね。そうするよ」


 その申請書一つ作るのすらおっくうになっているのだが。


「そういや、樋口はあれ行くよな?」

「あれ?」


 さて、今夜は飲み会でもあったかと頭をめぐらしかけたところで、「だからあれだよ」と言いつつ菊池がぞんざいに隣の席に座った。


「斉藤の結婚式、行くだろ?」


 言葉を失ったわたしの様子に気づくほどこの男は繊細ではない。でなければいくら隣の席で同期といえども、わたしのような職場で浮いている女に気軽に声を掛けられるわけがない。海外気取りか、カフェで購入した淹れたてのコーヒーを飲みつつ自席のパソコンの電源を入れる仕草はまったくもっていつもどおりだ。


 菊池のパソコンは大した時間もかけずに起動が完了した。長く複雑なパスワードを高速で入力しながら、器用に話を再開させていく。


「斉藤、披露宴で同期のテーブルを一つ作りたいんだってよ。できちゃった婚で急いで式を挙げることになったから、人を集めるのに正直苦労しているんだってさ」


 ちょうどわたしのディスプレイも同じところまで到達したので、正当な理由をもって菊池から顔をそむけることができた。だけど本当はディスプレイの鮮やかさを直視できないほど絶望的な気持ちになっていた。


 できちゃった婚。


 言葉にすると単純だが、その一言で様々な事実と憶測ができてしまう。つまり、斉藤くんはわたし以外の人と肉体関係を持っていて、子供が生まれるということで、もうどんなことがあってもわたしとの関係は修復しない、できないということだ。


 菊池のカタカタとキーボードを打つ音が耳障りだった。そして菊池はまだ話をやめようとしない。


「俺と中田、それに関口と矢代はもう誘われてる」

「……ふうん」

「樋口にも来てほしいみたいだよ」

「なんでわたし?」


 それだけだと言葉が不足している気がして、よくある理由を付け足した。


「男だけの方がよくない?」

「え? だってお前と斉藤、仲いいじゃん。それに同じ課なんだしさ、当然だろ?」

「まあ、それはそうだけど……」


 同期はみんな知らなかったけど、わたしと斉藤くんはつきあっていたのだから、そりゃあ仲がいいに決まっている。文房具を借りるという名目でお互いの席に寄ったりとか、会議でわざと隣に座ってみるとか、誰もいない給湯室でこっそりキスしてみたりとか。そういうオフィスラブの醍醐味ともいえる秘密をずっと楽しみつつ、どうしても隠し切れない二人特有の親密な雰囲気を醸し出していた自覚は正直あった。


 こんなことなら、さっさと二人の関係をオープンにしていればよかった。いや、秘密にしていた最大の理由は、もしも別れたときにお互い会社にいづらくなるようなことがあったら困るからだったのだが。でもそんな話題を口に乗せつつ、当時のわたしたちは笑っていた。どちらも、いや、少なくともわたしは信じていたのだ。二人の関係はいつまでも続き、最終的には彼と結婚するのだろう、と。


 というか、『仲がいい』とは具体的にはどういう関係をさすのだろうか。週末はどちらかの家でまったりと過ごすのが定番だったのだが、そんなわたしと斉藤くんは、いったいどういう関係だったのだろうか?


 哲学的な思索に耽りだしたわたしに、菊池はやはりかまうことなく妨害するように声を掛けてきた。


「いいじゃん、行こうぜ。飛行機代あっちもちで、有休付け足して堂々と遊びに行けるんだぜ? お前、温泉と日本酒好きじゃん」

「好きだよ? だけどそれとこれとは」

「はい、それじゃ決まりっと」


 ばしん。

 叩きつけるようにエンターキーを打つのは菊池の癖だ。


 だけど今日の打ち方はいつも以上に強くて、わたしは思わず菊池のほうを見てしまった。

 菊池もわたしの方を見ていた。ずず、とコーヒーを啜りながら。


 その目の色、表情の微妙な違いに嫌な予感がしたのは、この二年という短くもない期間を同じ課、隣の席で過ごしてきたからだ。


 ディスプレイに、新着メールの到着を告げるポップアップが現れた。



 *



「死にたい……」


 はああっと、魂もろとも吐き出すような深いため息に、そばで分厚い漫画を読んでいたリュウが胡乱気に顔を上げた。それは朝起き抜けにコンビニに行って買ってきた少年向けのもので、もちろんわたしの趣味ではない。今日、これ一冊でリュウに留守番をさせたのだ。どうやらリュウは今どき珍しい厳格な家庭で育てられているようで、朝これを渡した時は「どうするものなんだ?」と、なんとも言えない難しい顔をしていたが、帰宅してみれば、「漫画って面白いもんだな!」と目を輝かせて感謝された。


 その漫画を閉じ「どうしたんだ?」と、十歳の子供に本当に心配そうに訊ねられたものだから、大人としてとても申し訳ない気持ちになった。


「ああ、ごめんね。これ癖みたいなものだから気にしないでいいよ」

「癖?」

「うん、そう。死にたいってつい言っちゃうんだよね」

「なんだよそれ」


 リュウが眉をしかめた。


「なんでそんな物騒なことを言うのが癖になるんだ」

「しょうがないでしょ。毎日嫌なことばっかりでしんどいんだもん」

「嫌なことばっかりって何だよ」

「……子供には分からない」


 馬鹿な菊池のせいで斉藤くんの披露宴に出席することになってしまったわたし。でもそんなわたしが一番の馬鹿だ。だから今日も斉藤くんに問いただすことができなかった。


『結婚するって本当なの?』

『できちゃった婚って本当なの?』


『わたしのことは好きじゃなくなったの?』

『相手の子がそんなに好きなの?』


『なんでわたしを棄てたの?』


『ねえ、なんで?』


『どうして?』


 こんなことになった理由は今でも分からない。だが思い当たらない自分こそ馬鹿で愚かなのだろう。こういうときこそ一人でじっくりと考える時間が必要なのに、リュウはわたしの心境などかまうことなく訊ねてくるばかりだった。


「いいから言ってみろって。どうしたんだよ」


 何度も聞かれ、ぐらぐらと煮詰められていたわたしの怒りはとうとう沸点に達した。


「うるさいっ! 黙ってなさい!」


 これ以上この子と会話をしたくない。せっかく芽生え始めていたリュウへの親近感は、自分勝手な怒りによってあっという間に霧散してしまった。


 昨日までなら一人部屋にこもって好きなだけ『死にたい』と口に出せたのに。好きなだけ落ち込んだり腹をたてたり、暴飲暴食したり、なんでもできたのに。――なのに今はリュウがいる。「しばらくここにいるから」と意味の分からないことを言って、わたしのアパートに居座ってしまったリュウが。


 リュウがいると自分だけの城に自由がなくなってしまう。誰の目にも触れなくてすむ自分だけの城、自分だけの領域が、リュウによって崩壊してしまった。遠い親戚、どうでもいい子供一人。取り繕う必要性などかけらもないのに、普段のように無様で適当な、ちょっとしたことで腹を立てるような、そういう正直な自分をさらすことができない。それがすごく面倒で……すごくしんどい。


 今日だって本当は残業しなくてはいけないところを逃げるように退社して、一日ずっと家にいたリュウのため、あわてて冷や飯を炒めてオムライスを作ったのだ。成長期の子供の食事を作るとなると適当にはできないと思ったから。ある程度は栄養バランスを考えて、レタスをちぎってサラダを作って、コーン缶をあけてスープを作って。疲れていようがやりたくなかろうがやるしかなかった。自分自身は口にするものの味がこのところ分からなくなっているというのに、だ。


 でもそういうのも含めて全部自分の問題だということは分かっている。


 もう一度、今度は小さくため息をついたところで、リュウが閉じた漫画を脇に置いてわたしに正面から向き合ってきた。


「あのさあ。疲れない?」

「……なにが」


 小さなテーブルの上、空になった二人分の食器を片づけるわたしの手に、リュウがその小さな手を重ねてきた。


 そしてそのまま――頬を、ぺろん。


 またもなめられた。昨日に引き続き、またも。


「な、なんなのよ一体!」


 本気で振り抜けば、小さな手からは簡単に解放される。だけどリュウが精いっぱいの力でわたしの手を握っていたことは伝わっていた。だから、その事実だけでわたしの胸は十分なくらいにざわついてしまった。


 シンクへと逃げたわたしの背に向かって、リュウが懲りずに声を掛けてきた。


「大人ってそんなに疲れなくちゃいけないものなの? 死にたいって、疲れてるってことじゃないの? だけどそれって本当に死にたいってことじゃないんだろ?」


 無視を決め込み蛇口いっぱいに水を出す。じゃーじゃーと音をたてながら大皿を洗う。ケチャップと脂でべとついていて、いくら洗剤を泡立てても水では簡単に汚れが落ちない。かといってお湯を出すのもおっくうだった。。少し手をあげて給湯のボタンを押す、それ一つにすごく強い意志が必要になっている。それに早く終わらせて他にやりたいこともない。リュウのそばに戻りたくもない。だから冷水で惰性のまま洗い続けた。


「……死ぬってさ、生きるよりも辛いことかもよ?」


 心にとどめをさしたのは、きっと流れる水の冷たさのせいだ。だけど洗い続けた。だって他に方法を知らないから。どうすればいいか分からないから。


 リュウはもう何も言わなかった。


 かちゃかちゃという食器の音と、流水の気配は、この狭いアパートの中で王様のようにしばらく居座り続けた。


 だいぶ時間をかけて片づけを終えて振り向くと、リュウはベッドの上で丸まって健やかな寝息をたてていた。そういう姿はまるで黒猫のように見える。全身黒づくめの服を着て、小動物のように健やかな寝顔で。疲れも苦しみも知らなそうな寝顔だ――。そう思った瞬間いらっとして、そんな自分にすぐに嫌気がさした。


 そして二日連続でベッドを占領されたわたしは、今日も固い床で寝るはめになった。


 すべては自業自得だ。

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