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1.死にたい

「死にたい……」


 この言葉が定常文句となってしまったのはなぜだろう。


 死ぬという望みをこんなに簡単に口を出せてしまうわたしはどこかおかしいのかもしれない。だけど自分ではもうどこがおかしいのか分からない。分からないけれど、気づけば同じことばかりが思い浮かび、同じ言葉ばかりが口から漏れるようになっていた。


「ああ……。死にたいなあ……」


 そんなことをつぶやきながら夜道をとぼとぼと一人歩く女、それがわたしという人間だ。



 *



 今日はいつも以上に悲惨だった。


 出社直後に課長に呼び出され、不出来な仕事内容について散々に責められたのだ。しかも朝一からだ、朝一。窓の向こう、きっぱりとした青空を背にした課長に「こっち来い」と呼ばれた瞬間、一気に萎えた。まだ朝で、しかも久しぶりの晴天だというのに、それだけで深夜零時のやるせない気分にまで落とされた。


 のろのろと机に鞄を置き、課長の前に従順に立ってみせた瞬間、恒例となりつつある説教は唐突に始まった。


「お前さあ、この書類誤字が多すぎだろ。それにこの企画書はなんだ。新入社員みたいなものをいつまでも書いているんじゃないよ」


 おはようの挨拶もなしでいきなりこれだ。


 こうなるともう適当に相槌を打ってやり過ごすしかない。何か言おうものならかぶせるように言い含めてこようとするこの上司に、もはや何も反論する気は起こらない。それでも周囲の何とも言えない視線は気分のいいものではなかった。不干渉を貫く様子には仲間に対する最低限の同情の気持ちすら感じられない。ちろちろ。ちらちら。ただ見るだけの同僚たち。だからわたしも彼らに対して何も感じないよう心を閉ざしている。


 話を聞いている間、姿勢を保つので精いっぱいだった。ここ最近の寝不足がたたって貧血気味の体は幾度も傾いてしまいそうになった。苦行そのものの時間、こんな状態ではどんないい話も頭に入るわけがない。


 それでも、課長の言い分にはもっともなところがあった。

 とはいえ、それはいつでも誰でも同じだ。


 だいたい、人の意見のどこかには何かしらの正しさがある。そしてわたしは誰かともめることが苦手だった。それゆえ相手の言うことやることのどこかに何かしらの理屈が通っていると感じれば反論できなくなってしまうのだ。だから言いたいことがあろうが辛かろうが、トイレに行きたくなろうが、ひたすらこの時を耐えしのぶだけだった。


 一時間、こってりと、説教のような憂さ晴らしのような攻撃を受けた後、席に戻ると、ディスプレイに新着メールありのポップアップが表示されていた。クリックすると複数のうちの一つが斉藤くんからのものだった。斉藤くんは同じ課の同期、しかも恋人だ。入社してすぐにつきあいだしたから、この誰にも知られていない、いや知らせるような人もいない秘密の関係も二年近くになる。


 とはいえ、社内メールを利用して連絡してくることはあまりなく、何か業務関連のことかと何の気もなしに開封したところ、それは結婚の報告だった。


 結婚。

 まさかの結婚である。


 もちろん相手はわたしではない。


 タイトルに視線を移すと、『結婚のご報告』とあった。衝撃的なタイトルだが全然気づいていなかった。本文に目をやると、結婚することになったので報告します、二か月後に地元で式を挙げます、これからも今まで以上に仕事にまい進しますのでご指導ご鞭撻をよろしくお願いします……、そういったありきたりな文面が並んでいた。課の全員に一斉配信したもので、それ以上でもそれ以下でもなかった。


 虚ろな気持ちでディスプレイから顔をあげると、向こう側に席のある斉藤くんがぱっと顔を伏せた。その行動はまさに一つの事実を雄弁に物語っていた。つまり、このメールに書いてあることは本当なのだということを――。



 *



「死にたい……」


 今日はいつも以上にこの言葉が出てくる。


 むくんだ足をローヒールのパンプスがきゅうきゅうと締めつけてくる。早く帰宅して脱いでしまいたい。だが足は一向に進まない。ぽつぽつと立つ街灯の下、夜道を一人、ずるずると足をひきずるように歩くわたしは相当みじめだ。重い鞄が肩に食い込んで痛い。


「ほんと、死にたいなあ……」


 普段はそれでもためらいがちに出てくるフレーズだというのに、今日はどれだけ発しても罪悪感がまったくわいてこなかった。


(……ああそうか。わたし、もう死ぬことに罪を感じもしないんだ)


 腑に落ちると、すとんと気持ちだけは定まった。


(この人生、この命を捨てることになんの罪悪感もなくなってしまったのかあ……)


 こういうとき、真っ先に思い浮かぶのは斉藤くんのことだった。斉藤くんの笑顔や抱擁、頭をそっとなでてくれる手のひらの温かさを思い浮かべれば、それで大抵は気持ちが落ち着いた。


 だけどもうわたしには恋人はいない。

 唯一の人はいなくなってしまった。


 こういうとき、疎遠となっている家族の顔は思い浮かばない。

 仲の良い友達もいない。就職を機に上京し、これまた疎遠になってしまっている。


 わたしには生を繋ぎとめたいと思うほどに執着するものが他に何もなかった。


 趣味はない。特技もない。やりたいことも行きたいところもない。遊びたいことも観たい映画もアニメも、読みたい小説も漫画も何もない。もともと、一日の大半を占める労働に嫌気がさしているのだ。死ぬことでこの労苦から逃れられる、そう思うと逆に心が軽くなるくらいだった。


「死にたい……」


 ふらふらとした状態で、それでも一人暮らしのアパートにたどり着いたものの、わたしはただ虚ろだった。朝、あのメールを読んでからずっとこんな調子だ。死ぬ前にやりたいことすらない。だけど死ぬのも面倒だ。ここに帰ってきたのも惰性のようなもので、蹴りつけるようにパンプスを脱ぎ捨て、鞄とジャケットを放り投げるやベッドに倒れ伏した。


「どうしよっかな……」


 大きくため息をつくとともに、盛大にお腹が鳴った。


 ぐううううう。


 やけに長くてみっともない音だ。死にたい死にたいと言いながらも、おなかはしっかりと減っている。いつまでもぐるぐると動く腸の感触がそのことをわたしに告げてくる。体は正直で無遠慮だ。食べろ食べろとしつこく命令してくる。


 でも。


(たしか……本当に心がまいったときはおなかがすいたなんて思わないはずだよなあ)


 と、いうことは。

 わたしはまだまだ限界に達していないということなのだろうか。


 そう思うと、途端に目の前が真っ暗になった。


(……これ以上のことがあるの?)


 これだけ疲れて絶望して。

 大切な人を失って。

 これ以上、他にどんな苦しみがあるというのだろうか。


 考え出すと頭がきーんと痛み、自然と涙がにじんできた。それに伴い吐き気がしそうなほどの強烈な空腹感が、腹の奥底へと吸い込まれかき消えていった。


 頭の中、何かがぐるぐる回り出す。まるで遊園地のティーカップでぐるんぐるんに脳内を攪拌されているかのように。これが本物の遊園地なら、数分もすればカップは止まり、揺れることのない地面に足を付けられる。だけどわたしは遊具には乗っていない。ただベッドに突っ伏し、先の見えない今に絶望しただけのことだ。


 なのにいつまでたっても揺れは収まらなかった。


 ぐるぐるぐるぐる。


 痛い。苦しい。何も見えない。何もつかめない。

 救いもない。

 でもたとえ救われてもやりたいことが何一つないのだ。


 お腹は空いた。だけど食べたくはない。

 疲れた。けど目をつぶってもきちんと眠れるかどうかすら分からない。


 自分のことなのに分からない。


 もう生きていること自体が辛い。

 何もしたくない。


 どうすればいいのか――もう本当に分からない。


 入社して二年、耐えに耐えてきた何かが心のダムを決壊させようとしている。


(もう……、もう耐えられそうにないよ……)


 ぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛んだ、その時。


 ピンポーン、という、今の心境にしては軽い音が玄関の方から聴こえた。

 その音とともにドアが勝手に開けられた。


 そして現れたのがリュウだった。



 *



「姉ちゃん、ほんとうに俺のこと覚えていないの?」


 まだ十歳だというその男の子は、ずかずかとわたしの領域に侵入してきてそう偉そうにのたまった。その口には今、冷蔵庫を勝手に開けて獲得したアイスバーが咥えられている。黒のパーカー、黒のパンツ。さらさらとした艶のいい髪。冷めた表情に冷めた口調。一見すると高校生、いや大人に見えなくもない空気をまとっているくせに、口の端に垂れるバニラの乳白色が、この子――リュウをガキにしか見せない。


「覚えてないって言ってるでしょ」

「またまたあ。俺だよ、リュウだって。姉ちゃんの母さん、それに兄ちゃんの」

「それはさっきも聞いた」


 どうやらわたしとリュウは遠い親戚関係なのだと言いたいらしい。だけど母さんの兄さんの、と聞いても頭が回らないのだから理解できない。空腹はピークを通り過ぎ、今はただただ疲労困憊していた。強い倦怠感は抗いがたいほどだ。こうして見知らぬガキの相手をしているよりも、さっさと布団をかぶって寝てしまいたい。寝たい、と素直に思えるだけでも今のわたしにとっては随分な進歩だ。さっきはもう本当に危なかったから……。


 それにリュウの言うことが事実かどうかを確かめるすべはない。親とは完全に縁を切っているし、唯一の兄弟、兄は海外を放浪中だし、交流のある親戚も一人もいない。


 とはいえ、その理由をこの初対面のガキに言う理由も必要性もなかった。だからなぜまったく接点のないわたしの元に来たのか、その理由すらいまだに問えないでいる。問えば、血縁に対するみじめでうすら寒い思いが露見してしまう気がした。


「それにしても」


 寝転がっていたベッドから飛び降り、あらためてリュウに向かい合った。


「いきなりこんな時間に、しかも断りもなく突然来るっていうのはどういうことなのよ?」

「どういうことって?」


 くりんと、リュウの大きな瞳が動くさまは無邪気そのもので、わたしは大げさにため息をついてみせた。


「だからさあ。普通、まずは電話してくるなりして、事前に行ってもいいかどうか確認して、それから来るものでしょ?」

「そうなのか?」


 心底ふしぎそうに首をかしげられて、だからわたしは怒るべきか説教するべきか、はてさて口をつぐむべきか分からなくなってしまった。


 リュウはわたしをじっと見つめるだけだった。


「俺は姉ちゃんに会いたかった。会う必要があった。だから来た、それだけだよ」


 瞬き一つせず見つめられ、胸がざわついた。


「……なんで?」


 ようやくそれだけを訊くと、リュウはわたしに近寄り、肩に手を置き、自然なことのように顔を近づけてきた。


 キス――されるのか?


 十歳相手に本気でどきどきしはじめた自分を愚かだと思いつつ、いまだ見つめてくるリュウから視線をそらせずにいると、あと十センチで触れるという距離で、リュウの顔が動く方向を変えた。そのまま、そっと頬に唇が触れそうになって――。


 べろりとなめられた。


 茫然とするわたしから離れたリュウは、なぜか満足げに笑っていた。

 そして「おやすみ」と言うや、リュウはわたしのベッドに入り、わたしの布団にもぐってしまった。


 クソガキの甘い刺激に、わたしは頬を押さえたまましばらく悶絶した。頬のなめられた部分からは、ほのかなバニラの香りがいつまでもふわふわと漂っていた。

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