恋
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「澄子さんは本当に素敵だなぁ」
「あらあら、町岡さんはお上手ね」
「いや、お世辞なんかじゃあなくてね。正直に言っているんですよ」
そう言って白髪頭を撫でてみせるのは、この“ゆうゆう合唱クラブ”でバスをつとめる老人だ。数年前に妻が他界し、現在は独身だと聞いている。澄子たちはここ一か月間、町の小さな合唱コンクールに向けて練習しているのだが、休憩になるたび彼はずっとこの調子だ。
「声も綺麗だし、何よりピアノを弾いているときの表情がとてもゆたかだ」
「町岡さんだって生き生きしたいい笑顔で歌っていますよ。声だって、私には出せないものだわ」
羨ましいですよ、と続けると町岡は苦笑いで応じた。
「どうも、はぐらかされている感じがするなぁ」
「褒められ慣れていないんですよ」
「貴女ほどの女性が?」
「ただの音楽教師ですもの。元、ですけれど。ピアノは遅いし声も出てないって、子どもたちによくからかわれたものだわ」
澄子はほんの数年前を思い出して微笑んだが、町岡はじゃがいものような顔を顰めた。
「先生に向かってなんてことを言うんだ」
今にも説教し出しそうな町岡をやんわりと宥める。
「私たちの時代とは違いますから。子どものうちは正直でいいんですよ」
大人になると色々なことに嘘を吐かなくてはいけなくなるから、そんなことを言外ににじませて言う。
町岡はぎょろ目をさらに飛び出させると、笑って肩をすくめてみせた。
「澄子さんは人が好いんですな」
それがいい意味ばかりでないことはなんとなく分かったが、澄子はありがとうと笑っておいた。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「――吉川先生」
第一音楽室まで向かう途中で不意に呼び止められたので、澄子は足を止めて声のした方を振り返った。
「何かご用ですか、山形先生」
首を傾げてみせると彼は右手に持っていた紙を澄子に差し出した。
「あら、私の楽譜だわ」
「落ちていたので拾っておきました」
山形は出っ歯をのぞかせて微笑んだ。
「ありがとうございます。……ファイルから飛び出してしまったのかしら」
それを受け取ってまじまじ眺め――澄子はまた首を傾げる。
「でも、どうして私のだって分かったんです?名前も書いていないのに」
小中高一貫のこの学園には、澄子を含め音楽教師が4人いる。高等部に一人、中等部に一人、そして初等部に澄子ともう一人、といった具合に。教員室の中のデスクは教科ごとにブロック分けされているので4人とも同じブロックに座っている。だから職員室で落としたにせよ廊下で落としたにせよ、現場を見ていなければ誰が落としたのか咄嗟には分からないはずだった。
「書き込みが」
「はい?」
山形はファイルの上の楽譜を指さした。
「書き込みがね、してあったでしょう。それの端々に」
「ええ、そうですね。今度の授業で使うものですから歌うときのポイントなんかを」
「それでね、分かったんですよ。貴女の字は一度見たら忘れないから」
「……そうですか?」
「ええ。とても綺麗ないい字ですよ」
そう言って山形は丸眼鏡の奥の小さな目を細め、では私は次の授業がありますので、と残して去っていった。
「……綺麗、かしら」
澄子は手元の楽譜を眺めてみた。真面目に書いたわけでもないただの走り書きで、お世辞にも綺麗だとは言えないように見える。そんなに“いい字”だろうか。
国語科担当の彼の方がよほど整った字を書くだろうに、どうして私の字を綺麗だと感じるのだろうと澄子は内心首を傾げた。けれどだからこそ、なんだか少し嬉しいような気もして。
「今日はいい日ね」
小さく微笑んだ瞬間、スピーカーからチャイムが流れはじめた。
「あらいけない、これじゃ遅刻だわ」
澄子は慌てて、古びて軋む廊下をせかせかと歩いていった。
――吉川澄子、25歳の春のことである。
♪
山形孝昭。この学園で現代文を、主に高等部3年の生徒に教えている澄子の同期である。私大付属のこの学園の進学率はほぼ100%で、うち3分の2が内部受験、残りが外部受験といったところだ。その外部受験の生徒に対する補習を毎年受け持っているのが彼だという。それだけ教師陣、及び生徒からの信頼が厚く、かつ実績があるということだろう。
「とてもそうは見えないけれど……」
澄子は正面の国語科ブロックに座る彼の背中を見やって呟いた。
「何がです、吉川先生?」
「あ、いえ。何でもないのよ」
隣に座る同僚に慌ててかぶりを振りつつ、また彼を見やる。今日もいつもと変わらず、ベージュのズボンにワイシャツ、グリーンのベストという格好だ。お世辞にも高いとは言えない身長に小さな背中、病的なまでに白い肌と、一般企業にいればあっという間に窓際へ追いやられそうな雰囲気で、補習を任されているというより押し付けられているのではないだろうかという気さえしてくる。
「山形先生が何か?」
がばっと振り向けば先ほどの同僚が不思議そうな顔を浮かべていた。初等部の高学年を担当している神村だ。澄子の2年後輩にあたる。
「いえ……山形先生の授業ってレベルが高いのかしら、と思って。毎年進学補習を開いていらっしゃるでしょう?」
小声で尋ねると神村はそんなことはないですよ、と首を振った。
「僕、新任の頃に一度先生の授業を見学させていただいたことがありますから。違う教科だからはっきりしたことは言えませんけど、そんなにスパルタということはなかったんじゃないかなぁ。どちらかというと、ひとりひとりに丁寧に教えている感じでした」
「なるほどね……」
彼のイメージに近付いたのでようやく腑に落ちた。想像していた通り優しい先生なんだわ、と微笑む。
「しかし、なぜ急にそんなことを?」
神村が顔を覗き込むので澄子はぎくりとして――ぎくりとした自分に首を傾げた。
「そういえば最近、よく山形先生のことを眺めてらっしゃいますよね。……もしかして」
「……そんな、まさか」
そう言って笑うと神村もそうですよね、と安堵したような笑みを浮かべた。
「山形先生はないよなぁ」
「あら、どうして?」
「だってあんなにひょろひょろして、おまけにあの出っ歯ですよ? 吉川先生ならもっと別の男の方がいいと思うなぁ。例えばほら、僕とか」
そう言ってにやにや笑う同僚に澄子はまたか、と苦笑いを浮かべた。新人の頃に親身に指導してやったのが仇となったのか、妙な方向に懐かれてしまったらしい。
「はいはい、お喋りはここまでよ」
「はーい」
大げさな動作で書類の整理を始めると、神村は素直に返事をして自分の仕事に戻った。
教師を続けている限りこれと付き合っていかなくてはならないのかと思うと気が滅入るけれど、仕方ない。どうせすぐ飽きるだろう。そのうち若い女の子でも見つけてそちらを捕まえにいくのだろうから。
山形もそうなのだろうか――そう考えた瞬間書類を整理する手が止まった。……いや、彼はそんな人ではない。そのはずだ。
ちくりと痛んだ胸には気付かないふりをして、澄子はまた書類整理を再開するのだった。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
出勤して自分のデスクにつくと、隣から神村が心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうかしたんですか、吉川先生? 顔色が悪いですけど」
それに対して長い溜息で応え、澄子は机に突っ伏した。
「……昨日、うちの母から電話があったのだけれど」
「はあ」
「……お見合いが決まったらしいのよ、今月末に」
「へえ」
神村の反応が薄いので澄子は身体を起こした。
「へえ、じゃないでしょう。許可を出した覚えはないしそもそも結婚したいなんて一言も言ってないのよ、私? どうして勝手に話が進んでいるのかしら」
「孫の顔が見たいんじゃないですか?」
「そういうことじゃないでしょう。どうして私の意見を聞いてくれないのかしらってこと。私にだってタイミングというものがあるんだから」
「……そりゃあ」
何か言いかけて神村は口をつぐんだ。
「なに?」
問い詰めれば目を逸らしてぼやく。
「……30になっても恋人のひとりも作ろうとしない娘のタイミングなんて信用できませんし」
ぐうの音も出ない。確かに孫の顔を見せる気があるのか疑われても仕方ない現状なのである。
「恋人なり好きな人なりがいるんなら、そう言って断れたはずでしょう? 吉川先生は本当に結婚するつもりがあるんですか」
ある、とは言い切れなかった。恋人はおろかそれを作る努力さえ怠った結果が今の自分である。子どもは欲しいけれどそのために相手を探すのは何だか違う気がして。『顔だけはいいのにねぇ、私に似て』と母からはことある毎に言われている。
「まったく、だから僕にしておけばよかったのに」
やれやれ、と肩をすくめてみせるので内心むっとしたが言わずにおく。神村は去年、事務の女の子を捕まえて早々に結婚していた。澄子の予想通りである。
実際、一緒にいて気楽なので付き合ってもいいかなと思わないではなかったのだけれど、結局そうはならなかった。
「あなたとはお友達でいた方が楽だわ」
「ちょっと、八つ当たりはやめてくださいよ。ひとの古傷を抉って……」
振ったときと同じセリフを投げつけると、神村は心臓のあたりを押さえて呻いてみせた。
でもやはりそういうことなのだ。人間として好きなのと、異性として好きなのとは違う。
「で、どうするんです?」
「なにが?」
「お見合いですよ。今からならまだ断れるんじゃないですか」
楽観的な神村に、澄子は整った顔を歪めた。
「……出来ると思う?」
それだけで何かを察したらしい。神村は頑張ってくださいね、と爽やかな笑顔だけ残して仕事に戻った。
♪
内心憂鬱になりながらも懸命に授業をこなしていき、昼休みを迎えた。
「いけない、お弁当を忘れたみたいだわ」
鞄を覗き込んで呟いた澄子に、神村は弁当箱を開けようとしていた手を止めた。
「へえ、珍しいですね」
お見合いの件のショックで今朝は心ここにあらずだったものね、と溜息を吐く澄子に、神村は実に幸せそうな顔を向ける。
「僕のはあげませんよ? 愛妻弁当なんで」
「結構よ。――いいわ、どこかで適当に食べてくる」
幸い給料日直後なので余裕がある。たまには贅沢でもしようかしら、と思いかけてやめた。こんな気分の時に豪勢なものを食べても味気ないだけだ。
事務の男性に声をかけて外出する。この辺りにどこか手ごろなお店はあったかしら、と思いつつ通りを歩いていると、後ろから突然声がかかった。
「――吉川先生」
振り返れば出っ歯が微笑んでいた。
「今日は外で?」
「ええ。この年になって恥ずかしいのですけれど、お弁当を忘れてしまって。これじゃ子どもたちのこと言えないわ」
澄子は顔を朱に染めたが、山形はそんな日もありますよと笑った。
「それならどうです、ご一緒に。この先においしい洋食屋があるんですよ」
「先生が構わないのなら」
「とんでもない。独りで食べるよりおいしいですから」
それなら、と厚意に甘えさせてもらうことにして、澄子は山形について歩き出した。
そういえば新任の頃からずっと同じ職場で働いているというのに、こうして山形と並んで歩くのは初めてかもしれないと澄子は気付いた。
ずっと背が低いとは思っていたけれど、並んで歩いてみればやはり澄子と同じくらいだ。ベージュのズボンにグリーンのベストという格好もいつもと変わらず。替えはあるのだろうけれど毎日同じような服装だというのに、彼だとまったく不潔さを感じないのはなぜだろうか――と思っていたらふと彼が足を止めた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
横目でちらちら視線を送っているのがばれたらしい。眼鏡の奥のつぶらな瞳が不思議そうに見つめてくるので、澄子はなんだか気恥ずかしくなって目を逸らした。
「何でもありませんわ」
「そうですか?」
山形は怪訝そうな顔を解いてまた歩き出す。
これじゃまるで恋する乙女じゃないのと自分に突っ込みを入れた瞬間、その突っ込みにはっとした。
――もしかして、私は……。
山形先生はないよなぁ、という神村の声が脳裏をよぎる。神村をたしなめつつも、澄子だって内心あり得ないと思っていたのだ。だというのにこれはいったいどうしたことだろう。
澄子はまた山形に視線を送る。学生時代憧れたアイドルの男の子とは、当たり前だけれども全く違う。神村の方がまだ澄子の好みに近い。なのに、どうしてだろう。
――“とても綺麗ないい字ですよ”
そう語った時の山形の瞳を思い出す。
「……そうね、きっとあのときから」
「はい?」
呟く澄子に山形はまた足を止めた。
「すみません、独り言です」
「はあ」
目が小さくても、背が低くても、歯が出ていても、ひょろひょろと頼りなくても、彼には独特の温かみがある。一緒にいると不思議と落ち着くのだ。今だって、初めて隣を歩くのに全く違和感がない。ずっとともに寄り添って生きてきたかのような――そんな感覚さえ覚えるほど。
初めて会った気がしなかったのよ、とむかし言われたことがある。十年近く前、父が他界してから初めて母とふたりで墓参りに行ったときのことだった。
――“なんだかずっとこの人と一緒にいたような気がしてね。きっとこの先もそうだろうと思ったの。ああ、私は将来この人と結婚するんだなって不思議と分かったのよ”
もしかしたら前世でも夫婦だったのかもしれないわね、と母は笑って墓石を撫でていた。
だとすれば、この感覚もきっと――。
「ここです」
いつの間にか目的の店にたどり着いていたらしい。山形の後に続いてドアをくぐれば、おいしそうな香りが鼻をくすぐった。暗い色調の木材で作られた壁とテーブルはオレンジ色の照明に照らされ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。窓があまり大きくないせいもあり、まるで別の世界に突然迷い込んだかのようだ。
「どれもおいしいけど、僕はいつもあれを食べるんですよ」
角のテーブル席を確保しつつ、山形はカウンターに座る中年の男性を示した。皿の上を見やれば、とろりと光沢を放つブラウンからのぞくややごつごつとした野菜と、柔らかそうな牛肉。ビーフシチューらしい。店に入った時から漂っていた匂いの正体はどうやらあれだ。
促されるまま席について、澄子は山形に微笑んでみせた。
「でしたら、私もそちらをいただこうかしら」
せっかくなので食べてみたいし、山形の好みならなおさら知りたい。
程なくして、店員らしき男性がお冷を運んできた。
「いつものですか、山形さん」
「ええ。彼女にも同じものをお願いします」
店員は頷いて、それから澄子へ物珍しげな視線を投げる。
「しかし他の方とご一緒なんて珍しいですね、ましてや女性なんて。もしかして、お付き合いされてらっしゃる……?」
まさか、と山形は笑った。
「同じ学校で働いているだけですよ。今日はこのお店を紹介しにきたんです」
「へえ、それはどうも。――きっと気に入りますよ。おやじのビーフシチューは絶品ですから」
店員はにっ、と澄子に笑ってみせると厨房へ引っ込んでいった。
「……すみません」
「へ?」
突然謝るので、澄子は素っ頓狂な声をあげてしまった。
「悪気はないんでしょうが……吉川先生が僕なんかとお付き合いしているなんて、失礼なことを」
なるほどそういうことか、と合点がいった。咄嗟に分からなかったのは澄子が店員のセリフを全く気にしておらず、むしろ喜んでさえいたからなのだがそんなことを山形が知る由もない。
「そんな、とんでもない――」
そこで澄子は踏みとどまった。ここで『むしろとても嬉しかったです』などと口にしてしまっていいのだろうか。おそらく山形は澄子の気持ちに気が付くだろう。それはいいけれど、そのあとは。気まずい食事になったりしないだろうか。
そんなことをぐるぐると考えているうちに先ほどの店員が戻ってきた。
「お待ちどうさま。ビーフシチュー2つになります」
「あ、はいありがとうございます……」
邪魔されたような、救われたような、そんな複雑な気分で澄子は目の前の皿を見つめた。が、難しいことはあとで考えればいいかと思うことにする。お腹も空いていることだし。
「いただきます」
山形と同時に手を合わせ、澄子はスプーンを口へ運んで――。
顔を上げると、にこにこと笑みを浮かべた山形と目が合った。
「おいしいでしょう?」
「……ええ、とても」
正直、驚いた。ここまでとは思っていなかったのだ。
口の中でとろけるお肉と、そのあと広がるほどよい酸味と。上手く言える気はしないけれど、とにかく今まで食べたどのビーフシチューよりもおいしいということは断言できる。
やがて笑みが漏れた。
「……ほっぺたが落ちそうって、こういうことを言うのかしら」
澄子は頬に左手を添える。
「ついつい笑顔になってしまって、頬がゆるんでしまうもの」
ふふ、と笑うと山形も微笑んだ。
「たくさん頬張って重くなるからだとか、頬まで蕩けそうなほどおいしいということを表しただとか、語源は諸説ありますが……僕は吉川先生の考えがいちばん好きだな」
「そうですか?」
「ええ。だってそれがいちばん、しあわせそうな感じがしませんか」
「……そうかもしれませんね」
そう言われるとそんな気もしてくる。それがいちばん、しあわせ。確かにそうだ。
「――そういえば」
ふたくち目を口に入れた瞬間、山形がふと思い出したように尋ねた。
「吉川先生は、結婚のご予定はあるんですか?」
思わぬ爆弾に噴き出しかけて、寸でのところで堪える。が、変なところに入ったようで軽く噎せてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて差し出されたコップを受け取り、飲み干す。
「……はあ」
1分ほどかけてなんとか落ち着かせた。まったく心臓に悪い。
「あの、何か失礼なことを……?」
「あ、いえ。昨日ちょうど……お見合いの話をいただいていたものですから」
「はあ、そうですか」
そこで澄子はしまった、と内心頭を抱えた。好きな人を相手にお見合いの話をしてどうする。これでは山形が遠慮してしまって関係が発展しにくくなってしまう。そうなってはこうやって二人で食事をすることも難しくなるだろう。
――いいえ、待って。
もし山形先生も私のことを好きでいてくれたとしたら、と澄子は考える。ひょっとしたら妬いてくれるかしら――という淡い期待を抱きかけて。
「いやぁ、それはよかったですね」
「……へ?」
また素っ頓狂な声を上げてしまうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「おめでたいじゃないですか。素敵な方だといいですね」
そう言って微笑む山形の顔を見た瞬間、澄子の中で何かが切れた。
――ああ、そう。私が結婚してもどうでもいいってことね。
「……ええ。早く母を安心させてあげたいですし」
「そうですねぇ。僕なんかはもうすっかり諦められてしまっていますよ。そんな物好き一生見つからないって」
たった今唯一の物好きが消えましたよ、残念でしたね、と見えない彼の両親に告げる。
「まあ最近は僕もそれでいいかなぁ、なんて思い始めまして」
「人生は人それぞれですものね」
一生そうしていればいいわ、という言葉は胸に仕舞い、澄子は微笑んだ。
「でも、きっといつかいい人が見つかりますよ――山形先生でも」
「はは、そうかなぁ」
さりげなく投げた言葉の槍にはまったく気付く様子もなく、山形は照れたように頬を掻いてみせる。その仕草に思わずきゅんとしかけて、慌てて顔を引き締めた。
――絶対結婚して、幸せになってやるんだから。
そう心に誓う澄子だった。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
第一印象は悪くなかった。
「最上誠一郎と申します」
びしっとスーツを着こなして写真に収まったいかにも生真面目そうなその男は、実際に会ってみればもう本当に生真面目そのものといった雰囲気だった。顔は結構整っているのだけれど、きゅっと結ばれた唇とやや吊り上がった眉でなんとも気難しそうに見える。自分より2つ年下だという事前情報がなおさら澄子を気後れさせた。
「……ええと、ご趣味は」
何を話したらいいか分からなかったのでとりあえず当たり障りのないところを聞いてみる。向こうから話しかけてくださるからそれに合わせていればいいのよ、という母の助言は彼に対しては役に立たないらしい。
「恥ずかしながら無趣味なものでして……」
誠一郎は白いハンカチを取り出してこめかみの汗を拭った。
「そうですね、たまの休みにクラシックを聴くくらいでしょうか」
それなら少しは話が合うかもしれない、と澄子はいくぶんほっとした。澄子だって音楽教師の端くれである。クラシックには相応に詳しい。
「澄子さんは?」
「はい?」
「失礼。ご趣味をお聞きしたいのですが」
「あっ、そうですね。ええと……」
そういえば、趣味なんてあっただろうか。確かにクラシックは分かるけれど、趣味として好んで聴いているかといえばそんなことはない。休みの日にしていることといえば――と思考を巡らせてみて。
「……特にありません」
はあ、と誠一郎は目をぱちくりさせた。可愛い反応をするのね、と少しだけ緊張が和らぐ。
「趣味らしい趣味はありませんけれど」
澄子は微笑んで続けた。
「仕事をしているときが一番好きなんです、私。子どもたちとお話しするのが好きで、一緒に歌を唄うのが好きで。お休みの日も、次はどんな歌を唄おうかしら、どうしたらみんなが楽しんでくれるかしらって考えているうちに一日が終わってしまうくらいです。『あっ、しまった』って思うんですけれど、でもその時間が決して嫌いではなくて」
「子どもたちのことをとても大切に想っていらっしゃるんですね」
「もちろん、大事な教え子ですから」
ひとりひとりの顔を思い浮かべると、自然と笑みが零れる。
「素敵ですね」
そう言って誠一郎も微笑んで。
「……ありがとうございます」
こんなふうに笑える方なのね、と澄子は驚いて――もっと話してみたいと思い始めている自分に気付いた。
お見合いのあと母づてにその旨を伝えると、向こうからも好感触な反応が返ってきた。
誠一郎が『好きです。お付き合いしてください』というだけの内容を、まるで得意先へ出す挨拶文書のような回りくどく堅苦しい言葉をつらつらと並べた手紙で寄越したのは、3回目のデートのあとのことだった。澄子の方はといえば恥ずかしい話だけれどその真っ直ぐさにほだされてしまい、その上『この人は私が支えてあげなくてはダメだわ』などという妙な義務感まで生まれ――気が付けば仕事を辞めてそのまま結婚してしまっていた。
♪
結婚して3年。
「誠一郎さん、今度の日曜はお休みなんですね」
「ええ。ですから、その、もし差支えなければご一緒に、ええと――」
「ふふっ、分かりました。ではどこか連れて行ってください」
「……はい!」
滅多に表情を崩さない夫が嬉しそうに笑うのを見て、澄子も思わず笑みが零れた。
誠一郎は国内外問わず出張が非常に多く、週末になっても家にいないことがほとんどだった。だからこういう機会が持てるのは本当に珍しい。澄子の方はといえばこうしてたまに一緒に過ごせるのはかえって待つ楽しみが増えていいと思っていたし、そんな夫に何の不満も持っていなかった。
そう、夫には何ら問題はないのだけれど。
誠一郎の母、君江はおしゃべり好きな明るい女性だった。性格も生き方もそっくりな父子を支える身として互いに相談に乗ったりもして、嫁姑というよりは友人のような関係を築くことが出来ている。
ただ、だからこそ申し訳ない部分があって。
「早く元気な赤ちゃんが出来るといいわねぇ、澄ちゃん」
誠一郎の実家にお邪魔すると、最近決まって言われるのがこの台詞である。
「ええ……そうですね」
夫にも、姑にも何ら問題はない。関係は良好だ。問題があるとすれば――澄子の方だった。
お子さんを授かる可能性は極めて低いです、皆無と言ってもいいでしょう――そう言った医師の顔がちらりと脳裏を掠める。まだ3年。夫が忙しいのも手伝ってなんとかごまかせる時期だ。けれど、あと2、3年も経てば。
母も義父母も孫の誕生を心待ちにしている。誠一郎も顔には出さないけれど、ふたりで街に出かけたときに子連れの家族をちらっと目で追いかけることがある。まして、当の澄子は子どもが好きで教師になったような人間だ。『できません』と言われてはいそうですか、と受け入れられるはずがない。
「でも、子供好きな夫婦ほどかえって出来ないなんて話、よく聞くしねぇ」
君江がふいにそんなことを言うので肝が冷えた。
「いやですよお義母さん、縁起でもないこと言わないでください」
「そうよね、ごめん」
君江は微笑んで澄子の肩をそっと叩いた。
「――もし孫が出来なくても、澄ちゃんはずっとうちのお嫁さんだからね」
「……ありがとうございます」
目頭が熱くなって慌てて押さえた。時々、彼女はすべて分かっているんじゃないかという気がしてくる。だが澄子はまだ自分の身体のことを打ち明けられずにいた。絶対に無理だと分かって自分の中で諦めがつくまでは言いたくなかったのだ。けれどそれも時間の問題だということも――なんとなく分かり始めていた。
♪
もう諦めてください、と医師から宣告されたのはそれから4年後のことだった。
これ以上は隠していられない。澄子はようやく、誠一郎に真実を打ち明けた。
「――ごめんなさい、誠一郎さん」
「そうですか……。いや、何と言ったらいいか」
ショックを受けているのは彼も同じだろうに、まず澄子にかける言葉を探してくれるのが嬉しかった。
「その、澄子さん」
しばしの沈黙の後、誠一郎は声を絞り出すようにして言った。
「僕はあなたを生涯の伴侶と決めました。初めてお会いして、お話ししたそのときにです」
「ええ。そう仰っていましたね」
「素敵な方だと思いました。教え子の皆さんをとても大切に想ってらっしゃって……きっとこの方なら子どもを大切に育ててくれるだろう、この方となら幸せな家庭を築けるだろうと」
「……そうですか」
それは初めて聞く誠一郎の想いだった。けれど澄子では、彼が夢見た家庭を築くことはできない。
ああ、これで終わりになってしまうのだろうかと思ったそのとき、夫の力強い腕が澄子を包み込んだ。
「――その気持ちは今も変わりません」
「誠一郎さん……」
「僕は母さんやあなたの言う通り、バカがつくほど真面目な男です。一度決めたことは絶対に変えない。変えられないんです」
「……ええ、そうですね」
そういうところに惹かれたんですもの、と澄子は夫の胸に額を預ける。
「僕はあなたが好きです。これからもずっとあなたが好きです。たとえ何があっても」
「……はい」
この人についてきてよかった。あのときほだされて本当によかった。そう思うのに。
――私はどうして、この人の子どもを産むことが出来ないのかしら。
悔しくてたまらなかった。この人の子どもが欲しいと心の底からそう願っているのに、それは叶わない夢。
「ごめんなさい……」
「謝らないでください。あなたは悪くないんですから」
「ごめん、なさい……」
声を詰まらせて涙を流す澄子を、誠一郎は一晩中ずっと抱きしめていた――ぎゅっと唇を噛み締めて。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
それから数年して、澄子は教職に復帰した。誠一郎も君江も『子どもたちと接していたい』という澄子を止めはしなかった。かつての教え子たちはもう中等部や高等部へ進んでしまったけれど、新たに入学してきた子どもたちとまた一緒に歌を唄えるようになったことは、澄子をこの上なく幸福にした。
とはいえ、結婚する前と全く同じと言うわけにはいかない。
「ふぅ、久しぶりに授業をすると疲れるわね……」
どっこいしょ、と椅子に腰かけると、かつての同僚は大げさに溜息を吐いてみせた。
「どうしたの?」
「いやぁ、学園のマドンナも年齢には勝てないんだなぁとあいたっ」
頭をファイルでぺし、と叩いてやると神村はおおげさに呻く。
「いてて、これだもんなぁ。まったく、どうして女ってのはみんなこうなっちまうんだか……」
「あら、可愛い奥さんはどうしたの?」
茶化してやると神村はおもむろに鞄を取り出して言う。
「……見てくださいよ、これ」
中から取り出したのは見覚えのある大きな弁当箱。ふたを開ければ、少々質素な印象ではあるもののちゃんとした愛妻弁当だった。
「子どもには手間暇かけてかわいい弁当を作るくせに、僕にはこれなんですよ? 最近好物も滅多に入れてくれやしないし」
確か神村の好物はトンカツとか、ハンバーグとかだったように思う。澄子は弁当の中身と神村の腹とを見比べて、大きくうなずいた。
「……いい奥さんじゃないの」
「ええ、どこがですか?」
ぶつくさ言いつつもちゃんと弁当を平らげる神村を見て、私もたまには誠一郎さんに作ってみようかしら、とあれこれ中身を考え始める澄子であった。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「よしかわせんせー」
5時間目の授業が終わってさて職員室へ戻ろう、とピアノから腰を上げたその時、くいっと澄子のカーディガンの裾が引っ張られた。
「どうしたの、加奈ちゃん?」
振り返ってみれば、先ほどまで授業をしていた1年2組の生徒だった。みんなと楽しそうに歌っていた彼女が、今はなんだか浮かない顔だ。
「あのね、加奈、せんせーに聞きたいことがあるの」
「なぁに?」
なにやら深刻そうなので、澄子はかがんで目線を合わせた。すると彼女はやや頬を赤くして尋ねる。
「どうやったら、せんせーみたいに歌が上手になるの?」
澄子は首を傾げた。
「どうして? 加奈ちゃんはとっても上手よ」
しかし彼女はかぶりを振る。
「ちがうの。せんせーみたいになりたいの」
「先生みたいに?」
「うん。ヒロくんがね、せんせーが好きだって言うから……」
そこまで言ったところで彼女ははっとしたように口をつぐむ。物静かな、眼鏡をかけたあの子のことだろう。澄子はなんとなく大体の事情を察した。
「広樹くんが、なんて?」
「あ、ううん! なんでもない」
「そう?」
とりあえずそちらのほうは聞こえなかったふりをしておく。子どもなりに言ってはいけないと気付いたのだろう。
「……うーん、そうねぇ。先生はたくさん練習したかな」
「どのくらい?」
「毎日よ。先生子どもの時から歌が好きだったから、暇なときはいつも歌を唄ってたの」
「じゃあ、加奈もまいにち歌ったらせんせーみたいになる?」
澄子は微笑んで彼女の頭を撫でた。
「ええ。加奈ちゃんは唄うときの声がすごくきれいだから、大きくなったら先生よりもうまくなるかもしれないわね」
「じゃあいっぱい練習する!」
「そう。頑張ってね」
「うん!」
彼女は大きく頷いて、今日教えた歌を口ずさみながら音楽室を出ていった。
加奈は裏声を使うのがとても上手で、まだ地声が抜けない周りの子どもたちより少しだけお姉さんな歌声をしている。きっとすぐに自分を追い抜いていくだろうと澄子は微笑んだ。
――とはいえ、どうしたものかしら。
溜息をつきつつ廊下に出ると、隣の第二音楽室から神村が顔を出した。
「あれ、どうしたんです? そんな深刻そうな顔してるとますます小皺が増えてあいたっ」
「一言余計よ。……なにもなければいいんだけれど」
また溜息を吐く澄子に、神村はファイルではたかれた頭をさすりつつ心配そうな顔を向けた。
「何かあったんですか?」
「まあね」
職員室で話すわ、と澄子は神村を促した。
「――はあ。それはまた面倒なことになりましたね」
神村は眉根を寄せた。
「しかし、物好きな小学生もいたもんですね。四捨五入したら50になる女を好きになるだなんていてっ」
「いちいち余計なことを言わない。それともさらに禿げたいのかしら」
「さ、さらにとか言わないでくださいよ! まだ禿げてませんから!」
そう言って神村は若干薄くなってきた頭頂部を押さえる。
「なら口を慎みなさい。その方が頭皮のためよ」
「心得ておきます……」
しかしまあ分からなくもないですよ、と神村は頷いた。
「相変わらずお綺麗ですもんね、先生。まだ30代前半でも通るんじゃないですか?」
「それは言い過ぎよ。……まあでも、一応気は遣っているけれど」
子どもがいないことと顔を合わせる機会が少ないことが相まって、澄子と誠一郎はまだ新婚のような初々しさを保っていた。夫から綺麗に見られたいという思いは40代になっても変わらない。
「というか今までなかったんですか、こういうこと。僕なんかほら、イケメンですし? 教え子たちからモテモテでしたけど」
「若い頃は、でしょう」
「それを言わないでくださいよ……」
下腹の方は妻の努力の甲斐あってかいくぶんましになったものの、髪の方はどうしようもない。最近では教え子たちがひそかに、神を髪と引っ掛けて“ハゲ村”と呼んでいるのを澄子は知っていた。もちろん本人には内緒である。
「……まあでも、そういうことはなかったわ」
「へえ、意外ですね。生徒たちから大人気だったのに。4年になって担当が僕になると決まって文句を言うやつがいましたよ、吉川先生がよかったーって」
「あら、それは光栄ね」
けれど、それが色恋沙汰に結びつくことはなかった。好かれている自覚があったからこそ、それが一定のラインを越えないように澄子自身が牽制していたのだ。今こういう事態に陥っているのは油断していたからとしかいいようがない。まさかこの年齢になってそういう風に見られるだなんて思いもしなかったのだ。
――でも広樹くん、本当に私のことが好きなのかしら。
「まあ、本人から直接言ってこなければ特に問題はないでしょう。知らないふりをしていればいいんですよ」
神村は笑って自分の仕事に戻った。
「……そうね」
それもそうだ。何事もなく終わればそれでいい。けれど――。
「問題はそれだけじゃないのよね……」
もうひとつの小さな恋のことを思い、澄子はまた溜息を吐くのだった。
♪
それから一週間。また1年2組の授業がまわってきた。
「よしかわせんせー、今日の加奈どうだった?」
授業が終わった後、加奈がピアノへ駆け寄ってきた。
「すっごく上手になってたわよ、先生びっくりしちゃった。たくさん練習したのね」
うん、と誇らしげに笑う加奈に、澄子も顔を綻ばせた。
「それでね、もうひとつ、お話があるんだけど……」
「何か相談ごと?」
こくっと頷く。
「分かった。じゃあHRが終わったらここへいらっしゃい」
澄子は加奈の肩をそっと叩いた。
「――加奈、ヒロくんのことがすきなの」
約束通り音楽室へやってきた加奈は、そう言って頬を赤く染めた。
「……そうなの」
「ヒロくん、せんせ……歌が上手なひとがすきって言うから、たくさん練習したの」
やはりそういうことか、と澄子は頭を抱えた。多分、澄子のようになれば自分を好きになってもらえると思ったのだろう。
「加奈、本当に上手になった? ヒロくんが加奈をすきになってくれるくらい、うまくなった?」
なんとも微妙な質問に澄子は内心うっとつまった。
「そうね……それだけじゃ、だめかもしれないわ」
「えっ……」
不安そうな顔をする加奈に澄子は大丈夫よ、と微笑んだ。
「歌が上手になっても、広樹くんの好きなひとと同じになるだけでしょう? もっとすきになってもらうんだったら、もうひとつ何かなくちゃ」
「……もうひとつ?」
「そう。たとえば、広樹くんにうんと優しくするとかね。歌が上手で、しかも優しかったら、加奈ちゃんの方がいいと思わない?」
そうしてそのまま加奈と仲良くなってくれれば、と思ったのだが、加奈は首を振った。
「それじゃあダメだよ」
「あら、どうして?」
「……せんせーもやさしいもん」
もはや答えを言ってしまっているようなものだけれど、澄子はまた気付かないふりをしてやった。
澄子自身そういう経験が少ないのだから、変にアドバイスをしようとしても役に立たない。
ならば。
「ねえ、加奈ちゃん。自己紹介の時、先生は結婚してるって言ったわよね」
「うん」
「旦那さんと初めて会ったとき『素敵だな』とは思ったけど、好きだとまでは思わなかったの」
お互い緊張していて、うまく話せなくて。最後はなんとか話せたけれど、結婚しようだなんて全く考えていなかった。
「でも今は大好き。どうしてだと思う?」
「いっぱい優しくされたから?」
「ううん。それもあるけど、もうひとつ」
ほだされて始まる恋もある。
「――『好き』って言ってくれたからよ」
加奈は不思議そうな目で澄子を見つめた。
「それだけ?」
「そう、それだけ。『好き』って言ってもらえるのってね、すごく嬉しいの。今まで全然そんなこと思ってなかったのに、その人のことを好きになっちゃうくらい」
「……それってほんとうにすきなの?」
訝しむような視線に、澄子は頷く。
「『好き』って気持ちをたくさんもらうとね、すごく心が温かくなるの。だからいっぱい『好き』を返したくなるの。それはもう、好きってことなんだって先生は思っているわ」
誠一郎が好きだ。真っ直ぐに愛情を注いでくれるあの人が好きだ。そんな気持ちが今の澄子を満たしていた。
「ねえ、加奈ちゃんは広樹くんのどんなところが好き?」
尋ねると加奈は顔をぱあっと輝かせた。
「カッコいいところ!」
「あら、どんなふうに?」
「前におうちへ遊びに行ったとき、ピアノを弾いてくれたの。すっごく上手なんだ!」
「素敵ね」
「あとね、優しいところも好き!」
「優しいところ?」
「歌が上手になりたいって言ったらね、一緒に練習してくれたの。昨日は加奈に楽譜の読み方を教えてくれたんだ」
「それはすごいわね」
「でしょ?」
誇らしげな加奈に、澄子は何だか微笑ましくなった。
大丈夫。この恋はきっと、加奈が思っているほど難しくはない。
「じゃあ、広樹くんにその『好き』を伝えてあげて。そうしたら広樹くんも、『好き』を返してくれるかもしれないわ」
そうしなければ何も始まらない。加奈の小さな恋心を澄子は応援したかった。
「……うん。加奈、頑張ってみる」
「その意気よ」
加奈はにっこりと頷くと、澄子に手を振って駆けていった。
「――さて」
澄子は窓の方へ向かって声を掛けた。
「どうする、広樹くん?」
もぞもぞと音がして、カーテンの裏側から顔を真っ赤にした少年が顔を出した。
「今のお話、聞いてた?」
広樹はこくっと頷いた。加奈には悪いと思ったのだけれど、あらかじめ彼をここに呼び出しておいたのだ。
「カナちゃん、ぼくのことが好きだって……」
「それを聞いてどう思った?」
「……う、うれしいです」
「そう。よかったわね」
広樹はぽつり、ぽつりと事情を話し始める。
「前にカナちゃんが、『どんなひとがすきなの?』って聞いてきたことがあったんです。なまえを言うのが恥ずかしくて、『歌が上手いひとが好き』って答えて……」
「加奈ちゃん、クラスでいちばん歌が上手だものね」
広樹は頷いた。やはり、彼が好きなのは澄子ではなかったようだ。
「そしたらカナちゃん、吉川先生のことだと思ったみたいで。でもぼく、『ちがう』って言えなかったんです」
「『じゃあ誰がすきなの?』って、聞かれちゃうものね」
そうしたら今度こそ名前を言わなくてはならなくなる。それが恥ずかしかったのだろう。
「加奈ちゃんに『好き』って言われたらどうするの? それでも、黙ってるの?」
広樹は顔をさらに赤くして、それから首を振った。
「いいえ。……ぼくも、カナちゃんに『好き』を返したいから」
「そう。頑張ってね」
「はい」
汗で滑る眼鏡を一生懸命にずり上げて、広樹は音楽室を出ていった。
「あれならきっと大丈夫ね」
とても真剣な目をしていた。今度は恥ずかしがらずにちゃんと言えるだろう。彼が本当に好きな人の名前を。
「……どうしようかしら」
あの二人を見ていたらなんだか無性に、誠一郎に会いたくなってきた。
「夕方に出張から帰ってくるんだったわね」
今日は早く上がって、駅まで迎えに行こう。そうしたらどんな顔をするかしら――そんなことを想像して、澄子は小さく微笑んだ。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「――来月、久しぶりに長い休みがとれそうなんですよ」
仕事から帰ってくるなり誠一郎はそう言って、右手に下げていた袋から観光雑誌を取り出した。
「ですからその、旅行にでもいきませんか」
「旅行?」
「はい。ほら、結婚して今年でちょうど20年になりますし、いい機会ではと」
相変わらず仕事が忙しい夫からの思わぬサプライズに、澄子は年甲斐もなく胸をときめかせた。
「……嬉しい。それなら、行きたいところがあるんだけれど――」
♪
「20年ぶりですね、この駅も」
「そうですね。懐かしい」
旅行先にと澄子が選んだのは、新婚旅行のときと同じ温泉地だった。
「本当に良かったんですか、ここで?」
ここが新婚旅行先となったのは、ただ単に東京から近くて誠一郎の負担が少ないからだった。けれど今再びこうしてここを選んだのにはちゃんとわけがある。
「あの頃はまだお互い緊張していて観光にならなかったでしょう? ですから今度はふたりでゆっくり、ちゃんとこの場所を見たいと思ったんです」
きっとあの頃とはまた違った景色が見えるはずだから。そう言うと誠一郎はそうですね、と口元のしわを深くして微笑んだ。
一日目は早々に旅館に入ってのんびりすることにした。
温泉につかって、おいしい食事を食べて、この20年間にあった出来事をひとつひとつ思い出してはふたりで笑って、並んで眠りについて。
やわらかな光に目を覚ますと、窓辺に立っていた誠一郎はこちらを振り返って目を細めた。
「おはようございます」
「……何か見ていたんですか?」
「ええ。朝日がちょうど昇ったところで、向こうの山の紅葉がとても綺麗に見えるんです」
「そういえば、20年前は入りませんでしたね。そこの露天風呂」
部屋についているそれを指さすと、誠一郎はせっかくですから入りましょうか、と浴衣の帯を解いた。
「――そういえば聞いたことがありませんでしたけど、澄子さんはどうして僕と結婚しようと?」
ふたりで湯船につかって橙や赤に彩られた山々を眺めていると、ふいにそんなことを尋ねられた。
澄子は少し黙って、それから本当のことを話しはじめた。
「……最初は、お見合いする気もなかったんです。でも母が勝手に話を進めてしまって」
「そうだったんですか?」
「ええ。それに……好きな人も、いました」
そんな話が出てくるとは思わなかったのか、誠一郎は目をぱちくりさせた。
「でもその人、私がお見合いするって聞いて『よかったですね』って言ったんです」
「……それはまた、見事に振られましたね」
他人事のように言うので澄子はおかしくなってくすくすと笑った。
「それでやけになってそのままお見合いして、そこで出会ったのがあなたでした。それからあなたの真っ直ぐな気持ちを知って、結婚しようと思ったんです」
「そうでしたか」
「がっかりしましたか?」
誠一郎は首を振った。
「いいえ。むしろそのお相手には感謝せねばならないところです。おかげであなたと出会うことが出来たのですから」
「そうですね……誠一郎さんと出会えて、本当に良かった」
彼の方は、親の予想通りまだ独身だと聞いている。澄子は仕事に復帰してからろくに話せていない小柄な彼に心の中でありがとう、と呟いて、夫に寄り添った。
こんなふうに素直に感謝の気持ちがあふれてくるのは、多分誠一郎と過ごした20年の賜物なのだろうと思いながら。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「――それでは行ってきます」
「はい。気を付けてくださいね」
旅行から戻ると、誠一郎はさっそく仕事に戻った。アメリカへ行くそうで1週間は家に戻らないらしい。まあ、その分一週間一緒に過ごせたのだからよしとしましょうか、と澄子は笑って夫を送り出した。
♪
「あ、吉川センセー」
「あら、加奈ちゃん」
放課後、職員室から出るとちょうどかつての教え子と出くわした。幼かった彼女ももう6年生。随分と綺麗になった。
「音楽室行くの?」
「少しピアノの練習をしようと思って」
年齢のせいなのか、最近曲のテンポが速くなると指が追い付かないことが増えてきた。子どもたちが歌いにくそうにしているのでなんとかしなくてはと思っていたのだ。
「あっ、じゃあ伴奏してくれない? あたしも歌の練習したくて」
加奈は今でも歌の練習を続けていた。合唱部の活動に精を出す一方で、時々音楽室を借りにきては広樹のピアノで一緒に歌っている。
「ええ、いいわよ」
第一音楽室へ着き、ピアノのふたを開けたところで澄子はふと尋ねた。
「そういえば、広樹くんはどうしたの?」
「今日はレッスンがあるからって帰っちゃった。最近回数増やしたみたいでなかなか付き合ってくれないの」
表情をやや曇らせてぼやく。
「そう、寂しいわね」
「うん……でも、頑張ってるから邪魔はしたくなくて」
「ピアニストになりたいんですって?」
加奈は笑って頷いた。ピアノが上手な彼は今でも彼女の誇りだ。
「……ね、先生。笑わないで聞いてくれる?」
「どうしたの、いきなり?」
しばしの沈黙ののち、加奈は口を開いた。
「――あたしね、歌手になりたいの」
「歌手?」
「そう、ソプラノ歌手。それでいつかクラシックのコンサートに出て、ヒロのピアノで唄えたらなぁって」
「……素敵じゃない。広樹くんには言ったの?」
「言ったよ。っていうか、ヒロがレッスン増やしたのはたぶんそのためなんだ。『カナは絶対歌手になるから、ぼくも一緒のステージに立てるように頑張る』って」
「じゃあ、加奈ちゃんも頑張らなくちゃね」
「うん。さ、今は練習、練習」
加奈は寂しそうな顔を振り払って笑った。
「そうね。じゃあまずは発声から」
ゆっくりと始まった澄子のピアノに合わせて、加奈は伸びやかに唄いはじめた。
「じゃあね、先生。さよならー」
「はい、また明日ね」
加奈と別れて職員室へ戻ると、神村がデスクの上を指さして言った。
「あ、先生。なんかさっきから携帯が鳴ってますよ」
「あら、置き忘れてたのね。何かしら……」
履歴に表示されていたのはすべて誠一郎の名前だった。何か急用かしら、と一件目から順にメッセージを聞いていって――その手から携帯が滑り落ちた。
「ちょっと、何やってるんですか――先生?」
神村の声も耳に入らず、澄子は呆然とその場に立ち尽くしていた。
♪
――脳卒中だった。
アメリカから戻った空港で突然倒れ、病院に搬送されている途中でそのまま息を引き取ったらしい。夫からの着信は最初の一件を除いて、救急隊員や看護師が彼の死を告げたものだった。
『――もしもし、誠一郎です。今空港に着きました。たぶん家に帰るのは20時頃になると思います。何か買ってきてほしいものがあったら連絡してください』
残された、夫からの最後の言葉。いつもと同じ、何の変哲もない普通の用件だった。もし直接電話に出られていたなら――そう考えてしまうのを慌てて押しとどめる。今となってはもうどうしようもないことだ。
「……澄ちゃん」
棺の前に立ったまま動かない澄子を、君江はそっと抱き寄せた。
「お義母さん……私、誠一郎さんに何も」
何もしてあげられなかった、と声と詰まらせると、そんなこと言っちゃダメよと君江はやや口調を厳しくした。
「そう言ったら、あの子の人生は全部無駄だったみたいでしょう。あの子は自分で澄ちゃんを選んだの。澄ちゃんを好きになって、澄ちゃんと生きたいと思ったの。それが叶ったのよ? 幸せでないわけないじゃない。その幸せは、澄ちゃんじゃなきゃあげられなかったものなんだよ」
「そう……でしょうか」
「じゃあ、澄ちゃんは幸せじゃなかった?」
澄子は首を振った。
「……幸せでした。とても、幸せでした。誠一郎さんといられて、本当に」
「あの子も同じだよ。だからね澄ちゃん、泣かないで――」
そして、その彼女も。
君江が亡くなったのはそれから一か月後のことだった。
体調を崩しがちだったのをなんとか持ちこたえていたのだけれど、とうとうそれにも限界がきたらしい。
誠一郎が残してくれたものもあることだし、仕事を辞めてはどうかと母は言った。しかしこんな時だからこそ、子どもたちと一緒にいたくて――澄子は定年まで学園に残ることを決めた。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
そうして、6年が過ぎた春。
「――吉川先生」
第一音楽室をふたりの生徒が訪れた。
「あら、広樹くん。それに加奈ちゃんも」
「久しぶりー、先生」
今日は高等部の卒業式である。すっかり大人びたふたりの胸には、卒業生の証であるコサージュが飾られていた。
「なかなか来られなくてごめんねー。いろいろバタバタしちゃっててさ」
「引っ越しでもするの?」
「ふたりともこれから寮生活ですよ。音大に進むんです、ぼくたち」
「おめでとう」
「へへ、ありがとう。頑張って勉強して、いつかふたりでヨーロッパに留学するつもりなんだ」
「そう。頑張ってね」
着実に夢へと向かっていっているのを感じ、澄子は嬉しくなった。
「いつかコンサートを開いて、先生を招待しますよ」
「あら、ありがとう。じゃあそれまで長生きしなくちゃね」
「その意気だよ。いつまでも元気でいてね、先生」
加奈が皺だらけの手を握って笑う。いつの間にかそんなことを言われる年齢になってしまったのね、となんだかしみじみしてしまった。
「そういえば、私もあと少ししたら定年なのね」
「非常勤講師として戻っては来ないんですか?」
「もう無理よ。今だって正直いっぱいいっぱいだもの」
ずるずると居座るよりは潔く去りたい。唄える場所も、子どもたちと触れ合える場所も、この学園だけではないのだから。
「あともう少しだけ頑張って、それからはゆっくり余生を楽しむことにするわ」
「あー、先生おばあちゃんみたいなこと言ってるー」
「もう十分おばあちゃんよ」
加奈がからかかうので澄子はそう言って笑った。
「――じゃあ先生、またね」
「お元気で」
「ええ。また、」
明日、と言いかけてそれが出来ないことに気付いて――
「――またいつか」
加奈と広樹は頷いて、笑顔で学園を去っていった。
音楽室を出ると、廊下に佇んでいる小さな影を見つけた。
「――山形先生」
声を掛けると彼はゆっくりとこちらを振り向いて、丸眼鏡の奥の小さな目を細めた。
「ああ、吉川先生」
「なんだか、随分と久しぶりのような感じがしますね」
隣に立つと、そこの窓からは校門の様子がうかがえた。
「子どもたちを見ていらっしゃったんですか?」
山形は頷いた。
「ええ。ここからだと生徒が帰っていく様子がよく見えるんです。こうして校門を眺めていると、彼らが大人になっていくのを実感しますね」
「……そうですね」
胸にコサージュをつけて、手には卒業証書を持って。彼らはこの学園を去っていく。けれどこれは終わりではなく、彼らの旅のはじまりなのだ。
「僕たちもあと何年かしたら、あの門をくぐる日が来るんだなぁ」
しみじみと言う山形に、澄子もその日を想像して少し寂しくなった。
「ねえ、山形先生」
「なんですか?」
「――私、先生のことが好きでした」
しばしの沈黙ののち、山形は校門を眺めたままやっぱりそうですか、と呟いた。
「――僕も、あなたが好きでした」
澄子は少し驚いて山形を見つめた。
「気付いたときには、もうあなたは結婚してしまっていましたが。でも今は、それでよかったんじゃないかと思っていますよ」
「……そうですね」
あのとき山形を諦めたことも、誠一郎と結婚したことも、澄子は後悔していない。きっと山形も、そういう生き方をしてきたのだろう。
「吉川先生」
「なんですか?」
「もし定年までお互い独りだったら……一緒に暮らしませんか」
山形は相変わらず窓の外を眺めていた。澄子も同じ校門を見つめる。
「……そうですね。そんな人生もいいかもしれません」
まだ少し冷たい春の風に運ばれて、桜の花びらがひとつ校舎の中へ舞い込んだ。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
そうして、何年かの月日が過ぎ。
ゆうゆう合唱クラブはステージに立っていた。
ソプラノ、アルト、テノール、バス。それぞれ二人ずつ並んでいく。そして最後に、澄子がピアノの前へ。
一礼した後、客席を順番に眺めていく。
澄子の人生で関わってきた人たち、ほぼすべてがそこにいた。町の小さな公民館の、小さなホールに集まっていた。
ピアノに合わせて合唱クラブの面々が一礼する。目の前のこれはピアノのない公民館のために学園が貸し出してくれたものだ。すっかり見慣れてしまった傷を指でなぞり、澄子は微笑んだ。
ふたを開けて、慣れ親しんだその鍵盤に指をかけて――
「いち、にい、さん、はい――」
澄子のゆっくりとしたピアノにのせて、合唱クラブの面々が一斉に唄いはじめる。
車椅子に乗った母。
誠一郎と君江の写真を持った義父。
遠方から駆けつけてくれたかつてのクラスメイト。
留学から戻ってきた加奈と広樹。
今まで関わってきたたくさんの教え子。
長年ともに働いてきた仲間たち。
そして、そこには――これから一緒に人生を歩んでいくことを決めた彼の姿もある。
何十年もかかってようやく叶った恋が、そこにある。
澄子はすっと息を吸い込んで、メンバーと一緒に唄い始めた。
毎週練習して完成させたハーモニーが客席へと響いていく。
さあ、これが私の――集大成。
伴奏が終わった瞬間、小さなホールはたくさんの温かな拍手で包まれた。
終