第九話
「全く……とんでもない奴だな。あの男は」
浩明が退出した後の会議室で橘教諭は何度目が分からないため息をついて腕を組んだ。
「全くですよ。怪我させておいてあの態度、魔術師でありながら普通科にいる。あんな学生、聞いた事無いですよ」
続いて同意するように明美も背もたれに体重を預けて天を仰いだ。
「姉さん、星野の処分の件だが、もっと厳罰にすべきじゃないのかな。これでは、相手が納得しないぞ」
説明をするのは自分、このまま話を進めれば当然、あの学生二人が納得のいく訳がない。喧嘩両成敗にはとうてい成り立たない話だ。
「明美、どうやら何も分かっていないみたいだな」
眉間を軽く揉みながら言った。そこに疲労感を漂うのは、精神的疲労が肉体に影響を及ぼしていたからだろう。
「あの時、星野が手を出していなかったらどうなっていたか、分からないのか?」
「どうなっていたって?」
預けていた身体を起こして橘教諭の方に向けた。
「攻撃の意思のない人間をよってたかって暴行を加えようとし、あまつさえ止めに入った風紀委員が隠蔽を唆した。そんなのが世間に知られてみろ。世間の非難は免れないぞ」
顔からさぁっと血の気が引いていくのを、明美は感じた。それを、自分が言わんとした事を理解したと考えて続ける。
「もし、あのまま、最初のように避けてまわり済ませていたらどうなっていたか分かったか。星野は間違いなく通報していただろうな。そしたらどうなるか、現行犯逮捕、お前も隠蔽をしようとした件で事情を聞かれるだろうし、下手すればマスコミだって駆け付ける可能性、いや、あの男なら駆け付けさせるだろうな。お前達のやり取りをおさめたレコーダーのデータと食堂の写真を送れば嬉々としてやってくるだろ。そうなれば学校の信用も落ちる、お前達の立場もただではすまないだろうな」
確認するように淡々と語る言葉に、明美はぶるりと全身を震わせた。しかし、ひとつだけ疑問が浮かんだ。
「じゃあ、なんで星野はそうしなかったんだ。そこまで考えての行動ならなんでわざわざ、自分に都合の悪くなるような真似を」
当然の疑問だろう。九割九分勝っているなかでわざわざ自分でそれを駄目にする。到底、理解出来る話ではない。
「おそらくだが」
橘教諭は、腕を組み直して、更に足を組んだ。妹の前だから出来る楽な格好だ。
「星野は、もとから通報する気が無かったんだろうな」
「無かった?」
「激昂させて攻撃するように仕向け、加害者として仕立てあげたうえで反撃をして正当防衛を主張し反論をさせない。言い方は悪いが、相手の常識の無さを引き出して、手玉に取り馬鹿にしていたんだろうな」
「馬鹿にって……」
あくまで憶測であるが、そうであるなら相当な腹黒だ。どう転んでも自分に優位に転がるんだから。
「明美、この一件で間違いなく星野は、魔術専攻科の人間に目を付けられただろ。あの魔法術式は間違いなく魔術師にとっては喉から手が出るほどの技術だ。確実に騒動になるだろうから気を付けろよ」
先程のやり取りを考えれば、今更と思える忠告に明美は頷いた。
態度からかんがえみるに星野浩明は相当な秘密主義者、守る為なら何をしでかすか分からない。
「もし、こちらに何かくるようなら早目に言ってくれよ」
分かったと、明美はもう一度、頷いた。
星野家は一階でケーキ屋を経営する予定の店舗兼用住宅だ。
三人の引っ越しは、開店準備も併用する事になり、未だに引っ越し作業が片付いていても、開店準備が片付いていないのだ。最も、英二も仕事で度々、家を空けたりして作業が遅れる事があるのも原因のひとつだが。
閑話休題
「おかえり、ヒロ」
「只今戻りました」
帰宅して、未だに開店準備中の店内へと入った浩明を、ショーケースを掃除していた英二が迎えた。
「おや、今日は仕事は?」
「今週いっぱいは空いてるよ」
「そうですか」と返すと、「ヒロ君」と厨房の奥からコックコートに身を包んだ女性が出てきた。
「お帰りなさい、ヒロ君」
「あぁ、夕姉さん、今日も試作ですか」
「えぇ、機械の試運転を兼ねてね」
「夕姉さん」と呼ばれた女性こと、雨田夕は遠距離恋愛中だった英二の恋人であり、今回の浩明達の引っ越しをきっかけとなった件の女性だ。
しかし、この夕という女性はケーキよりも日本酒が好きという筋金入りの辛党である。
おまけに自他共に認める酒豪で、酒に関するエピソードは数知れず、大学時代に飲み比べで店の酒を飲み尽くし、近所の居酒屋の店主からは「歩くブラックホール」と揶揄されていたとか、勤めていたケーキ屋の親睦会で従業員全員を飲み潰して、翌日、店を臨時休業にしてしまったなど、酒に関しては凄まじい逸話を数多く持っている。
「そんな人が何故ケーキ職人をやってるんですか?」と言う疑問を、夕にぶつけたところ、
「私って居酒屋とかやったら、自分で飲んで店を潰しそうなのよね。だから、あまりお酒と縁がないケーキ職人になったのよ」と、豪快な答えを返してきた事がある。なんとも末恐ろしい話……と言うかケーキにも酒は使う筈では、という疑問もあったが、本人がそう言っているのだから、そう思っておく事にしている。
「着替えたらいらっしゃい。もうすぐ、ケーキが焼けたからお茶にしましょ」
泡立て器とボウルを見せながら、さながら天使の微笑みに匹敵するような笑顔につられて、照れるように笑みを浮かべて、浩明は「はい」と答えてから部屋へと向かった。