04 中年の希望
新しい人生というには大げさだが、重症の本体が回復するまで二度目の中学生を始める事になったミラン。
最初の1日目は金髪碧眼の転校生を様子見するクラスメートとの微妙な距離を楽しみ、翌日から昔はできなかった中学時代の欠損を埋めるべく活発に行こうと考えていた。
が、当予定していたストーリーは初日の夕方には王秦シオンというクラッシャーによって壊され、新中学時代の初日は散々な事になっていた。
「2日目からが本番だ」
少しずつ馴染む体と心、気を取り直しクラスに入った2日目の今日。
当然のように嵐に遭遇するこの不幸を、どうしたものかとしかめっ面になって朝のひと時を迎えていた。
「朝から喧嘩はやめなさい!!」
まだ空気の澄んだ時間、朝礼の時間を目前にした教室の中で、ミラン・イーラと王秦シオンは怪獣大決戦のように違いに向き合い構えていた。
その間を割って入った生徒、2-B組の監督生竹石蘭。
それ以外は静まり返って高みの見物をする生徒たちという、ハイテンションな図。
「俺は喧嘩なんか望んでない」
寝不足だったミランは目頭をつまみ、喧嘩をする意思はないとポーズを見せる大げさに。
「私だってないわ、でもあんたが私に話しかけたから……」
不幸だ。
眼前の顔を見てそう思っていた。
昨日の事は昨日で終わり、啀み合ったままは気分が悪い。
そう考えたからこそ、朝一で見つけたシオンに挨拶をしたが、実寸の中学生15歳のシオンには理解ができなかったようだ。
「なんでこいつと同じクラスなんだよ」
昨日自分を問答無用で斬りつけた少女がよりにもよって同じクラスとか、心遣いのない差配はいったい誰のせいなんだとショーン博士の顔を思い浮かべていた。
「化学変化って楽しいよね!!」というセリフとともに。
「あの学者先生よぉ……こいつとぶつかって化学変化ってなんだよ。劇薬すぎるだろ」
何かしら変化や結果を求めるイカれた若き天才科学者の笑みを朝から思い出すという罰ゲームは、目の前で進行中だった。
シオンの激昂とミランの煽り、一触即発の二人の間に監督生である竹石が割って入る今。
「ねぇ、シオンさん。なんで話しかけられたら喧嘩しなきゃいけないの。初めて会った人にそれは失礼でしょ」
「別に初めてじゃあない!!」
正統派美少女、黒髪サラサラストレート。
なのに中身はテンション高くて気の短いシオンを、塞ぐように前に立つ監督生。
立石蘭は肩までの栗色髪は柔らかいカールを持つ、どんぐり眼の彼女は指差確認するようにシオンを注意する。
「あらそうシオンさんは、ミランくんの知り合いなのね。親しいのなら余計に喧嘩なんかしないでほしいものだけど」
「ちっ違う!! 親しいわけじゃない」
「じゃあなんで怒っているの? 一緒に登校できなかったから怒っているとか?」
「蘭さん、そういう事じゃあないから!! 私が怒っているのはこいつが危険な人物だからであって」
「君ほど危険じゃねーよ」
悪態は自然と出てしまうもの、椅子に座ったまま自分を指差し関係を否定するシオンを無視する。
間に入った立石については詳しくしらないので、壁になってくれる分には問題なしと決め込む。
「私は、あんたみたいな危険な中年小僧がクラスの女子に手を出すのを注意しようと……」
「君な、そういう事は言うなよ!!」
「言わないとわからないでしょ、ロリコン中年小僧!!」
「中年いうな!! ロリコンってなんだよ!! 俺は今中学生なんだぞ!!」
機密もへったくれもない。
ミランの魂が正行という中年男である事は秘密よ、なんてメアリーはウィットに言っていたが、シオンは公然とミランの秘密を暴露しようとしている。
言われなくたって中学生に手なんかださない、というかミランという体に入ってから女性に対する価値観がかわったわけでもない。
むしろ、クラスの中でロリコン呼ばわりされる事が許しがたく怒りは冷静さを一気駆逐していた。
「君に女性の好みをとやかく言われる筋合いはないが、あえていうなら俺は気の利いて落ち着いてる30歳代の女性が好みなんだよ!!」
違いが頭突きをできる距離でのにらみ合いの中で大暴露
「あら年上が好み……な……の」
「歳下だって言っているだ……ろぅ……う」
ぶつかる寸前で止まる投げ言葉、互いの顔が情報として踏み込んではいけないところに土足で入り込んでいた事に気まずく顔が歪む。
二人を止めようと間に入っていた竹石の顔も、言いようのない笑み。
クラスの空気も異様な雰囲気を失笑とも困惑ともとれぬもので満喫している。
「ちょっと落ち着こう……」
固まってしまった場で最初に声をかけたのはミランだった。
中身が中年の魂は燃え上がるのも一気にくるが、状況判断における鎮火も徹底的に早い。
変な噂が飛び交うのは、せっかく若返りをした人生の無駄遣いと目線でシオンをなだめる。
一方飛び出したはいいが、戻り方さえ未熟なシオンはフラフラしながら距離を取り始めていた。
「えーと、そういうの私、わからないし、まあ、いいんじゃないでしょうか……」
棒かお前は。
突発的にぶつかってきたシオンの収拾力のなさに泣ける。
年相応て言えばそうなのだが、手を前に首を振るという滑稽な首振り人形の姿を前に呆れ、この少女とクラスが一緒なのが一番危険だと再確認した。
「なるほど、ミランくんは年上の人が好みなのね……シオンさんはそれが気に入らない、つまりミランくんが好きだから年上の女性より自分を見てほしい、それで喧嘩してたのね。いいわ私が二人を認めてあげる。お似合いのカップルよ」
賽は投げられた。
間に入っていた立石蘭からのサイコロは感情という柔らかな部分を一気に炎症させる起爆剤になっていた。
空間に亀裂……ミランとシオンの間になんとも言えない空気が黒くとぐろを巻く。
「なんでその結論に……」
ミランからしてみたら、自分の言い分は通っているので良いのだが、好みの対象にシオンを絡める事のみならず、似合いのカップルとまで言われては逃げ場がない。
期せずしてショーン博士の望む爆発的な科学変化が起こるところに来てしまっていた。
「誓いの言葉を言ってもいいのよ」
火に油ならぬニトロを追加、自らを協会の神父にでも見せたかのように胸を張る立石の姿が霞む
「なんて事を言うんだ……」
満面の笑みである立石とは別に絶句のミラン、そして小刻みに震えていたシオンは期待を裏切らなかった
「私はミランなんて中年小僧は大嫌いなのよ!!」
大爆発。
「おま……それは……」
セント・ヘレンズもびっくりの真っ赤に燃え上がった顔面からの大噴火。
「変態変態!! 若返ったからって中学生漁りしないでよ!!」
「お前な!! 俺は普通なの!! 漁るってなんだよ、いいがかりにもほどがある!!」
「あんたのそのいやらしいゲテモノ的な中身が問題を起こすのよ!!」
「馬鹿野郎男は中身で勝負だ!! 俺は大人でまともな人間だ!!」
互いに力が入っていた。
怒りで支離滅裂に怒るシオンは教室という公共の場で右手を大きく上げていた。
その袖に光る「神度剣」の火先。
ミランの方は絶頂の焦りに入っていた。
こんなところで、昨日の夜のような破壊が行われたら学校生活はデッドエンド。
せっかく若返り2度目の中学生活を楽しもうと気持ちを切り替えてきたのに行き場がなくなったら「研究室で24時間僕と楽しもう」と、目を輝かせて待ち構えるマッド博士ショーンの拷問部屋送りになってしまう。
「よせ!! 落ち着け!! ここは教室だ!!」
シオンを止めるため相対する左手を前に、そこでミランの思考は昨日の夜に聞かされた言葉を思い出していた。
「気をつけてね、君は普通の人間の何倍も強い力を持っているから」
ミランの体、殉葬体と呼ばれるものが持っている力。
それは現代を生きる人類ではあり得ない力だと、物理的な筋力も、視力も膂力も。
目の間に迫る危機で脳裏に映り込む注意、嫌な言い方をすれば走馬灯というものもこういうものなのかもしれない。
頭脳にはそれだけの事を考える余裕はあった。
忠告を受けたのは昨日の夜だった。
「殉葬というのは貴人の死に際し共に死ぬ儀式の事をいいます」
検査機のチップを貼りまくったミランに、ショーン博士は完結に答えた。
「集団で殉死するってやつですか?」
天然水を入れたグラスを口にミランは想像していた。
現在の風習とは異なる、古代にあった葬式に付属する珍妙な儀式。
偉い人が死ぬとそれを悲嘆して一緒に死ぬという、世にも意味不明な忠誠心を示す方法。
「そうだね、偉大な主人に殉じあの世でも共をする。そのために共にこの世を離れる人たちって感じかな」
「感じ……、つまりこの体はお偉い様と一緒に死んだ奴のものって事ですか」
「飲み込みが早いね、で? 聞きたいのはそれだけなの?」
研究室でスキップ。
コードやせリードやらを引っ張り回していた足が止まる。
「いや、聞きたいのは色々あるのだけど」
「なんでも聞いてよ」
はっきり言って3人いる博士の中で一番あてにならなそうなショーン博士。
精神44歳のミランの中では二十歳そこそこで博士号を持つ若造の評価は低かった。
だが色々な事を語り合うには丁度よかったのかもしれない、白髪の老博士であるエヌムと話せばその年齢から難しい言葉のオンパレードは免れないという危惧がある。
一方で色っぽすぎる女博士であるメアリーとは、積極的に話しをしたいという気分にもなれず別の方向に目線を泳がせてしまいそう。
目の前のニキビ面を卒業したてのショーン博士なら、かつて使っていた若造との会話レベルで話ができそうという安心感だけがあった。
「……この体って本当に人間のものなの?」
ミランは不明瞭なこの身の真実を知るためにもっとも大きな疑問をまっすぐにぶつけていた。
この体、古代シュメール人の体とされるクローンは通常の人間とは違いすぎた。
それはこの3日間でそれは嫌という程味わった。
最初にこの体に入った時は、疑問を持つ事もなかったが思い起こせば超常能力すぎるこの身。
テロリスト襲撃の時苦もなく銃弾を避けた。
目にはしっかり弾の軌道が写っており、スローモーションを見るように世界は滑らかにして柔らかく弾丸という狂気はただの石ころ以下に見えていた。
次は王秦シオンによる突然の強襲を受けた時、彼女の動きもその体の頑丈さも驚くべきものだったが、それを凌駕するミラン本人の動き。
飛来するデスクのかけらを避け、シオンの刃である神度剣の回転をかいくぐった逆転劇。
もっとも不可思議だったのはシオンから受けた剣の一撃、その怪我の治りにあった。
「あの変な剣で斬られた、なのにもう治ってる。いくら皮一枚を斬る程度だとはいえ、こんな回復普通の人間じゃありえない」
経験した不可思議を全て吐き出しショーン博士の答えを待つ。
計測の機械音が静かに床を這う部屋の中で。
「答えよう。その体は現代人よりはるかに強く作られた体。女神ティアマトを守り戦う衛士という戦闘特化型のボディー。治癒回復はそれに付随する超能力みたいだね」
「戦闘特化型?」
「そっ、だから精神である君の考えが瞬時に体のを動かせるようにできている。もっと簡単に言うと殴ろうと思った時には殴っているてやつ」
覚えがあった。
弾は飛ぶ風切り音から危機を感じ避けたいと願った。
同時に自分を撃つものに腹が立った、それが怒りと防御、そして攻撃へと直結した。
シオンと戦った時もそうだった。
剣の間合いの中へ、思った時には実行し彼女を蹴倒していた。
「普通の人間は脳が考え行動を移すのに多少のタイムラグがある、日常生活にあればそれは少なく、敏捷さを求める非常事態の中でそれは大きくなるが、君にはそれがない。危機的状況、命の取引が行われる余談を許さない時になればなるほどタイムラグはなくなる。それどころかさらに先を見越して動けるようにできている」
「完全に普通の人間じゃないじゃない!!」
思わず即答。
ボクサーだって色々な駆け引きをする戦闘を、ただの少年の体で先読みして動けるなんて。少し前まで体の言うことが効きにくくなった中年には理解を超えた現象だ。
鈍った中年になったこそ実感したスピードに納得せざる得ない。
「だからねっ普通じゃないよ、その体は肉体の機能の全てが強化されている。筋肉も骨も神経も人と同じ並びにはなっているけど、材料が全く別のものと言っていいだろう。君は人とは似て非なるものなんだ」
あくまで朗らか、ショーン博士の笑う口にミランの気力は怒りに達することなく凹んでいた。
「筋肉も骨も人と違うって……だったらこの子はいったい何のクローンなんです。ひょっとして人造人間?」
古めかしい言葉が飛び出る、子どもの頃見た超人はに先天的に強い者もたくさんいたが中には後天的な要素、薬やある種のショックを受ける、または体をサイボーグ化することで超人となった者も多くいた。
人造人間やサイボーグのたぐいなのかという質問に、ショーン博士は手を打つ
「それだ!! それに近いと僕は推測しているよ。 君の体は女神を守るために人とは違う工程で作られ戦士の体。人ではない、人を超えて強いるもの。かもね」
質問に爽やかに答える博士、ミランには少しの混乱があり眉間にしわを走らせる。
科学技術の進んだ今、クローン医療や義肢テクノロジーは進み事故や病気で体の部位を損壊させた人が再生や装着を増やしているのはよく聞いていた。
事実前の職場でも右手を失った上司がいた、クローン医療は別途高額だが義肢装着は国保負担でできた。
それでもだ、全身クローンは未だ倫理問題を抱えており、全身義体というものも成功例は少ない。
理由は色々とあり倫理感も一つでもあるが、要はそれで肉体が強くなるという事はないからだ。
欠損を補うために構築された部品が、人間そのものをそれ以上の存在に変える事はない。
なのに古代人には人間以上の存在を作る事ができたと言われてもピンとこない上に、学のないミラン(正行)には石器人しか浮かばない年代に高度技術があった事自体が信じられなかった。
「人間じゃい、人造人間、なんなんだ?」
古代であれば人間より前は猿だろうという安直な考えのミランを前にショーンは人差し指を揺らして言う
「バビロニア神話では現代型人間を作ったのはマルドゥークという神様なんだけど、その人間の製作の大元となったのは女神ティアマトの軍司令官キングーって神様の体遺体を解析して作ったらしい。君はティアマトの衛士である事を考えれば現代人以前の神代型人間ってやつだね」
「さっぱりわからないよ、どうしてそんなのがわかるの?」
「君の体の元となった遺体はエリドゥの遺丘で見つかったんだよ」
「エリドゥって?」
「イラク。ペルシャ湾に沿った海っ縁、ウルとは別の場所にあった古代都市。ウルより古い時代のジグラッドがあった場所の地名。発見された時の遺跡の写真見る? 僕も発掘研究チームで半年ほどいたけど、ご飯の時間がおそくてねー」
「あの、その話はまた今度で……」
専門用語が出てはきた事でミランは話を断ち切った。
ショーン博士の目がデータを取る以上に輝き始め、これ以上会話に乗れば睡眠時間を失う危機を感じたからだ。
研究室はプラスティク製なのかやけにのっぺりした白かべ、外の景色は一切見えない場所。
こんなところに若造と缶詰にされるのはいやだと。
それよりもせっかく若返った今を楽しみたいという気持ちが膨らみ始めていた。
今自分が入っている体が何人だろうと、今の生活がなくなるわけじゃない。
考えてみればラッキーな話だった。
事件に巻き込まれて精神が転移した、元の体のままだったら仕事もできない体になって借金の返済に頭を悩まし、禿げたりしたうえに精神疾患を患う羽目になっていたかもしれない。
最悪のパターンからの回避としては上出来すぎる金髪碧眼の美少年への一時避難。
鏡で見た自分の顔は、洋画によく出てくる名子役にも匹敵した。
「あれだ……T2の子。エドワードなんとかってのに似てる気もしなくない……」
晩年までお騒がせだった美少年子役、大人になってスタイルも顔も持ち崩したが当時は付き合っていた彼女が懐かしい映画特集の中から見つけてのぼせ上がっていたのを思い出した。
元の体が治る間は考えようによっては自由だ、少しの実験に付き合いながら学園生活を楽しむのも悪くはない。
「とりあえず日常生活に支障をきたすような事はないんですよね。明日からは気持ち切り替えて若さを満喫したいんですよ」
「ないよ、でも1つだけ」
パネルに映し出したデータ、何が嬉しいのか笑顔で書き物を続けるショーン博士は背中を向けたまま大事な注意をした。
「君の体は人間以上の力を持っている、だから学園にいるうちは無用な暴力や喧嘩はしないようにね」と
絶対に重大だったはずの注意、今はそれを噛み締めていた。
「熱すぎてぇ先生めまい起こしそうですぅ」
教室に響き渡った打撃音、その後に続いたのは緩い声だった。
クラス全体がこの騒動をどうしていいかわからず、音に驚き沈黙を守っていたところに小石を投げ込んだような小さな声は担任教師のものだった。
ミランの左手はシオン右手を捕まえると自分の机に当てる形で強制的に降ろさせていた。
迎え撃てば乱闘必死、逃げれば超人的回避をクラスメイトに見せる事になるし、飛び出しかかっている神度剣を晒せば、それこそ二人揃ってラボ行き決定。
若さに任せて楽しもうと気持ちを切り替えた学園生活を失ってしまう。
苦肉の索は、相手の手を捕まえそのまま机の前で止める事だったが、シオンの打撃を全部消す事はできず音は響き渡った。
瞬間仲裁に入っていた立石は飛び上がるほどに。
一瞬光った剣の光を二人が息で吹き消すほどの近くで、目と目で冷静になれとサインを送っているそこに、担任教師の水崎が入ってきていた。
「お二人さん、先生ぇ教室にはいてもいぃい?」
猛獣にリラックス、例の「ドウドウ」スタイルのミランは瞬時に作り上げた笑顔で答えた。
とりあえずでも金髪碧眼、笑って見せれば爽やかな美少年。
「もちろんです、おはようございます水崎先生」
「そうですよ先生、ちょっとしてコミュニケーション能力腕相撲なんだよねミランくんシオンちゃん」
監督生である立石は咄嗟に機転を利かすと二人の重なった手に手を当て「試合終了」のポーズを取って見せた。
ミランはそれに乗った、これ以上の騒ぎはごめんだと。
「相撲です……本当、日本の女の子強いなーって……」
しかし笑顔の下には一直線のクラック、分厚いデスクの天板を割った跡。
目の前には状況に飲まれ汗だくになっているシオン
「いいか、落ち着いて。君も席に着く……」
「うん……」
凄まじい音はシオンの耳にも届いており、それで正気に戻ったようだが余裕を持つには至れずの様子で大量の汗が顔を全体を濡らしたまま自分の席へと戻っていった。
「そうなのぉ、そうなのねぇ、先生は朝からみなさんが元気でとってもぉ、とっても嬉しいですぅ。でもぉ喧嘩はしないでねぇ」
甘ったるい声、耳にガムシロップを流すような教師らしからぬ水崎はゆっくりと教卓に立つと、廊下に向かって手招きした。
「昨日はぁミランくんがクラスメイトになってくれましたがぁ、なんと嬉しい事にぃ今日も新しいお友達を紹介しますよぉ」
小さな歩幅、軽い足音。
栗色の髪をなびかせた彼女は水崎の招きに応じクラスへと入ってきた。
まるで春風がゆっくりと香りを届けるような光景だった。
涼やかな翠の目が、日本人とは違う事を示していた。
「初めまして、イタリアからやってきました。クラウディア・マディスと申します。クレアと呼び、仲良くしてくださいませ」
実に流暢な日本語だった。
艶やかな唇を持つ少女は、朝の喧騒を塗り替えるのに絶大な美しさを発揮していた。
その美しさにミランは見取れて、焦りを隠せないシオンは俯いたままだった。
「かわいい……中学生万歳だな……」
喧騒の荒波を優しく吹き消した風、新しい転校生を見てミランは思いを改めていた。
「30代も捨てがたかったが、今の俺は中学生。第二の青春を楽しむ相手として不足なし」と。
不純物の多い心は、新しいトキメキを喜んでいた。
この先ハードな青春の日々がくるなど夢にも思わずに。
エドワード・ファーロングが晩年とありますが、実際には現在も存命です。
作品が近未来である事を示すためのフェイクです。
身近なようで遠い未来、そんなふうに感じていただけたら幸いです。