2-18 危険な香り
勇斗は茂みの中で十分ほど、息を隠してバジルの姿が見えるのを待っていた。
(まだ来ないのか。ん……?)
その時だった。道の方からではなく、勇斗がいる場所よりもさらに奥――長い草に囲まれた場所から、ガサゴソと葉がこすれる音が聞こえた。
(バジルしかいない……よな)
この森の中にいる人間といえば、他には誰もいないはずだ。もしかしたら、サラが遊びにきた可能性も考えられるが、わざわざ道のほうを通らずに、茂みの奥を歩く理由はないはずだ。
その音がだんだんと近づいてきていることから、バジルには勇斗の姿が見えているのだろうと思う。
(……どうする?)
どのように対処すべきかと考えた勇斗だが、このまま背中を取られるわけにはいかない。とりあえず相手の姿を確認しようと振り返った瞬間、奥から聞こえてきた音が止んだ。
(あいつ、どうやって俺の後ろに回り込んだんだ……?)
少し考えてみるが、原因がわかったところで背後を取られたという事実が覆るわけではない。今考えるべきは、この状況をどうにかすることだろう。
まずは向こうにこちらの姿が見られているのに、こちらが向こうの姿を見えないのは非常にマズイ。
(クソッ――!!)
本来だったらこっちがそういう立場になる作戦だったのに。
このまま見通しの悪い場所で迎え撃ちのは得策ではない。こうなった以上は仕方がないと腹を括り、勇斗は唇を噛みしめながら、草むらから道へと出てきた。
そして自分が出てきた場所から、勇斗の後に続くように葉が擦れる音が聞こえてきたので、その場所を睨み付けて、竹刀を持つ手に力を込めた。
間もなくして、勇斗を追っていた相手が草むらの中から姿を現した。
「…………えっ」
勇斗は目の前に現れたそれの正体を見て、思わず言葉を失ってしまった。
「ウガガ」
それは、言葉にならないうめき声を上げて、勇斗を睨んでいる。
勇斗と対峙しているコイツの体は勇斗よりも少しだけ小さくて、土気色の体を持ち、口からは狂暴そうな犬歯がちらりと見える。
右手には竹刀よりも遥かに太い棍棒を携えている。
何者かはわからないが、とにかくバジルではないことだけは確かだった。
勇斗は今までの人生でこんな形をした生物を見たことはなかったが、コイツが醸し出す凶悪で、どこまでも黒いオーラなら、以前に感じた覚えがある。
「魔物か――!?」
そして、手にした竹刀でいきなり斬りかかる、などという愚かなことはしない。
「とりあえず逃げるぞッ!!」
踵を返して、勇斗は一目散に森の出口を目指す。幸い、勇斗が背にしていた方が出口へと伸びる道だった。
さらに幸運なことに、コイツはあまり素早くなかった。走っている最中も、コイツが自分の後ろをついて来ているかどうかを確認しながら逃げる余裕があった。
「ウガーーーー!!」
言語も操れていないようなので、知能指数もあまり高くはないだろうと、勇斗は推測した。
「さすがに竹刀一本じゃあ戦えないよな。戦うんだったら、ホープの力を借りないと……」
これは、この間リザードマンと戦っている途中で気づいたことだが、あのバットを握っていると、全身に力がみなぎるような、不思議な感じがするのだ。
戦いに関してはまったくの素人である勇斗は、ホープがいなくては魔物相手にまず勝ち目はないだろう。この魔物を引きつけての時間稼ぎすら難しい。
そのまましばらく走り続け、森の入り口へとたどり着いた。
本来であれば、森の中へと入ってきたバジルとどこかですれ違うはずだったのだが、森を抜けても、彼とはすれ違わなかった。不思議には思ったが、いまはそれどころではない。
木の幹に立てかけられているホープを見つけ、勇斗はそれに向かって手を伸ばした。
「なによ、勇斗。もう終わっちゃったの? 少しは健闘すると思ってたのに、期待したアタシが馬鹿だったわ」
呆れたようにホープはため息を吐いて呟いた。
「今はそれどころじゃない。緊急事態なんだ」
勇斗は素早くバットケースから中身を取りだして、両手でホープを握りしめて、そいつと向かい合う。
「なるほど。とりあえず状況はわかったわ。あいつの正体はゴブリンよ。この前勇斗が戦ったリザードマンと比べると低級の魔物だけど、油断したら駄目よ。アンタは戦いに関しては丸っきり素人なんだから」
真剣みを帯びた声色で、ホープは忠告をした。
「わかってるよ。油断したら足元掬われるってことくらい、今までの人生で散々学んできてるんだからな」
「だったら問題ないわ。それに、アンタにはアタシがついてる。油断はしたら絶対にダメだけど、不安に感じる必要はまったくないわ」
勇斗は手に力を込め、両手でグリップを絞るように握る。
「ハッ――!!」
数瞬後、気合いを入れるために、呼気を吐きながら一直線に相手に向かっていく。
そのとき、ふわっと浮かぶように身体が軽く感じた。まるで体重という概念をこの世から消し去ってしまったかのような身軽さを覚えた。
「グギッ……?」
向かってくる勇斗に対して、ゴブリンが戸惑いの声を上げた瞬間、勇斗のバットとゴブリンの棍棒が交錯し、力負けしたゴブリンの棍棒はあっさりと弾かれた。
その隙を逃さず、勇斗は無防備になったゴブリンの胴体めがけてフルスイングする。
「ゴブッ!?」
勇斗のフルスイングをまともに食らったゴブリンは、あっさりと上半身と下半身に分断され、塵となって空気中にかき消えた。
「ふうっ~」
ゴブリンが消失したのを見送って、勇斗は額の汗を拭って一息ついた。
「ふむ、中々に上出来ね」
「ああ、だけど、森の中にいるバジルが心配だ。様子を見に行こう」
勇斗はホープを手にしたまま、森の中へと引き返した。
道に沿って進んでいた勇斗は、茂みの向こうにも目を凝らしながら進むが、やはりバジルの姿は見当たらなかった。
「くそっ! あいつどこにいきやがったんだ」
あれだけ図体がでかいバジルのことだから、いくら森の中が入り組んでいようと、そう簡単に身を隠せるはずがない。
「クソッ、もう魔物なんていないよな……」
根拠のない願望を呟いた勇斗の脳裏に、生首姿のロッドが頭をよぎった。
あの姿は幻影だったということで落ち着いたが、それでも衝撃的すぎて、そう簡単に忘れられる出来事でなく、今でもあの映像はぼんやりと記憶に残っている。
「あそこよっ!」
ホープ唐突に叫んだ。
しかし、「あそこ」と言われても、ホープには場所を指し示す術がないので、その場所ははっきりしない。
立ち止まってあたりを見回してみるが、バジルの姿は見当たらない。
「あそこって、どこだよ!」
「アンタの右側! 皮が剥げまくってる木があるのよ。あそこ見て!」
色んな障害物が視界を遮っているが、ホープの言うとおりに目を凝らすと、バジル姿を視界に捉えることができた。
竹刀を片手に持っているバジルは、豚の形をしたモノと対峙していた。
豚の形をしたものは明らかに邪悪な空気を醸し出しており、勇斗は一目見てその生物が魔物であることを確信した。
豚とはいっても、そいつは二本足で立っており、本来は前足として使うはずだった部位には、大きな斧が握られていた。
豚がバジルの脳天目がけて斧を振り下ろすが、バジルが頭上に竹刀を構えて、その一撃を防いだ。
「あれはオークよ! 頭の中身はゴブリンよりも残念なまものだけれど、その代わり腕力はピカイチよ! 急いだ方がいいわ」
「おいっ! あれ――」
バジルの背後からもう一匹のオークが現れ、斧を振り上げている。バジルは目の前のオークに集中しているせいで、背後の魔物の存在に気づいていないようだった。
「おい、バジル――!!」
咄嗟に叫ぶ勇斗だが、その声はバジルには届いていなかった。
即座に走り出そうとした勇斗だが、バジルの元へ駆けつけるには距離が離れすぎている。勇斗が駆けつける頃には、バジルの脳天が真っ二つに割られていることだろう。
(まだ諦めるな。まだ手がある。バジルを救え。あのオークを殺す方法を考えろ)
勇斗は脳内をフル回転させて、バジルを救う方法を考えた。
そのとき、地面に落ちていたこぶし大くらいの大きさの石ころが勇斗の目に映った。
(これなら……)
勇斗はすぐに石を拾い上げて、親指、人差し指、中指の三本で、その石を握る。
「――いけッ!!」
すかさずバジルの背後にいるオークに向かって、思い切り石を投げつけた。
指から石が離れる瞬間、体中から力が溢れるような感覚に襲われた。今までにない感覚だったが、それはコントロールを乱す要因にはならなかった。
投げた瞬間、勇斗は確信した。
(これは命中だな……)
石ころは、絶妙に障害物を避けていき、見えない糸に導かれたかのようにバジルの背後にいるオークの頭部へと襲いかかった。
「…………!!」
悲鳴を上げるような暇もなく、オークの頭はべちゃっ、と音を立ててトマトを壁にぶつけたようにはじけ飛び、頭部を失った身体は斧を振り上げたまま地面へと転がった。間もなくしてその死体も、これまでの魔物と同じように、跡形もなく消失した。
バジルの目の前のオークは、仲間がやられたことに動揺したのか、その一瞬に隙を見せた。
バジルはその隙を見逃さすことなく、竹刀を手放して斧を奪い取った。その斧でオークの体を左右に二分割する。
自分の武器によって真っ二つにされたオークの体は徐々に実体を失い、バジルが奪った斧とともにも消えていった。
「大丈夫か?」
勇斗がバジルの元に駆け寄って声をかける。
「ああ助かったよ。背後のオークを倒してくれなかったら、中々危なかった。だけど――」
バジルは地面に落ちている竹刀を拾い上げ、不敵に笑ったかと思うと、勇斗の体を優しくぺしっと叩いた。
「これで一撃を入れたわけだし、俺の勝ちだな」
「くくっ、したたかなやつめ」
完全に勝負のことを忘れていた勇斗は、小さく鼻をならして笑顔を浮かべた。
「とにかく勝負は勝負だからな。勝負に負けた方は勝った方の言うことを聞く。これは世界の常識だろ。ということで、明日から俺の訓練に付き合ってもらうからな」
背の低い草むらまで移動して、ふたりはその場にどさっと並んで寝ころんだ。
気持ちのいい夏風が勇斗とバジルの体をくすぐる。
「ああ、面白そうだ。ははっ、それにしても、この世界の常識ね……。まあそのノリは俺も理解できるけれど、生憎、俺はこの世界に来たばかりなんだけどな……」
勇斗の言葉を聞いて、バジルは目を細め眉間にしわを寄せて、えらく真剣な表情を作った。
「どういう意味だ?」
他人を問い詰めるような、どこまでも低くて冷たいバジルの声。
いつの間にか、周囲を流れていた風が止み、二人の間に沈黙が流れる。
そして、その状況が少し続いた後に、勇斗が答える。
「まあ、あんまり他人には言うな、とは言われているけれど、そこまで秘密にしなきゃいけないわけでもなさそうだし。何より、友人に秘密はよくないよな」
そう前置きをしている間も、バジルは一言一句聞き逃すまいと真剣な瞳で勇斗を見つめている。
「実はさ、俺はこことは別の世界から来たんだ」
「おい、待てよ。まさか、それじゃあ、オマエは……」
バジルが目を丸くして驚いている。
「――――――!!!!」
その時、勇斗は目の前に突然現れた人間に胸倉を掴まれた。