1-1 旅立ち
第一章 異世界
日野勇斗は、近所の森の中を歩いていた。
その森は観光名所というわけではないし、心霊スポットというわけでもない。勇斗が今この森にいる理由は「なんとなく」である。要するにこれといった理由は存在しない。
空は夏の日差しを見せびらかすように澄み渡っているが、幾重にも重なる枝葉によりその日差しはほとんど地面に届いていなかった。そのため、ほかの場所に比べると少し涼しく感じられたが、それでも周囲の気温が高く、空気が湿っていることに変わりはない。
足元も砂利を固めただけの簡素な道で、昨日は雨が降っていた上に、このあたりは太陽の光が地面まで届きにくいせいで道が若干ぬかるんでいる。
(俺は――こんなところで何をしているのだろうか……)
夏の爽やかさが感じられない森の中で、勇斗は何気なく胸中でぼやいた。
これまで勇斗にとって夏という季節は、肌が焼けるような暑さのグラウンドの中で、全身に日差しを存分に浴びながら白球を追い求め、野球に精を出すというものだった。
そんな夏の風習も去年の夏の終わり頃、勇斗の身起きた事件をキッカケに終わりを告げたのだった。
(ま、何をしないということをしているのかもしれないな……)
哲学的なことを考えてみた。こういうふうに、時間を無駄に過ごすというのも悪いことばかりではないと思う。
当時高校二年生だった勇斗は、二度と野球ができなくなるほどの大きな怪我をしたのだ。怪我の部位は右肩であり、そのせいでボールを投げることができない体になってしまった。
それからしばらくは、何もやる気が起きなかった。もともと小さな頃から野球ばかりをやってきたせいで、野球以外のことについての価値を中々見出せなかった。
数ヶ月ほど時間をかけて、ようやく気持ちの整理がついてきたのは年が変わってからだった。
勇斗は野球をやるためだけに親元を離れて高校生にも関わらず一人暮らしをしているのだが、そんな精神状態だったため、年の瀬すら実家に帰ることはなかった。
野球ができなくなったため、一人暮らしをする理由もなくなったはずなのだが、いまさら親元に戻るという選択をする気力は勇斗になく、親もそれを容認してくれたので、今は帰宅部として学校に通っている。
昨日はちょうど終業式が終わり、今日から夏休みということだった。
その暇な時間を利用して、勇斗はこの場所にやって来た。冬には大学受験も控えていたが、今日は家で勉強という気分にはどうしてもなれなかった。
だったら今日一日は勉強のことはすっぱり忘れて、あと半年ほどでお別れになるこの町で面白いスポットでも探そうと家から飛び出したのだ。
そして何も考えずに本能の赴くままに足を動かしていたら、いつの間にかこの場所に来ていたのだ。森の入り口で引き返そうかとも考えたが、それでも勇斗はこれも何かの導きだと考えて、「なんとなく」この森に足を踏み入れた。
(…………)
誰かと一緒に居るわけではないので当然といえば当然だが、勇斗は黙々と砂利道を進んでいく。
太い木々が茂っている林の中は、どんよりとした奇妙な雰囲気があったが、その奇妙さが、自分の心境を現しているようで今の勇斗には心地よく感じられた。
周辺に人の手がかかった様子はなく、地面はデコボコしていており、木々もバラバラに並んでいる。もちろん勇斗以外の人間の気配もなく、聞こえるのは草が擦れ合う音だけだ。
ジメジメしているせいで、汗で肌に張りつくシャツが不快指数を増大させるものの歩みは止めない。
進んでいるうちに、何かが振り切れた勇斗は、妙にテンションが上がってきた。それにしたがって、足が進むペースも徐々に上がってくる。
「うおー!! どんどん進むぜー!!」
周囲に誰も居ないということは、大声を上げても誰かに咎められることもないことだ。謎のテンションとともに前進を続ける。
謎のテンションの副作用か、じめっとした空気感も、肌に張り付いているTシャツも、まったく気にならなくなっていた。
そのテンションのまましばらく進むと、木々が生えていない開けた場所に出た。
「…………」
その場所は地面から生えている芝が綺麗に揃えられ、平地が広がっていた。この森の中で、この空間だけは、何らかの意図を持って人の手がかかった様子が感じられた。
今までと異なるがらっと風景に、勇斗はこの空間に特異性を感じながらこの空間に足を踏み入れた。
「ここだけ、なんか他の場所と違う気が……。ん、あれは……?」
平地の中心に、直径二メートルはあろうかという大きな穴が広がっていた。
「ちょっと、見てみるか……」
異質な雰囲気に危険を感じながらも、危機感よりも好奇心が上回った勇斗はその穴を覗いてみることにした。
地面に膝をつき、恐る恐る穴を覗き込んで見たものの、どれだけ目を凝らしてもまるで底が見えなかった。
もしかしたら、この穴は地球の裏側まで繋がっているのかもしれない、そう錯覚させるほど深い。
(これに落ちたら、どうなっちゃうんだろう……)
――その時だった。
「えっ……!?」
勇斗を飲み込もうとするかのように、大穴に向かって大きな風が吹き荒れた。咄嗟に地面に手をついて耐えようとした勇斗だったが、その抵抗もむなしく、呆気なくバランスを崩して大穴へと吸い込まれていったのだった。
「い、いやああああああああああああーーーーー!!!!!!!!」
上空の空が見えなくなるほどに落下は永遠と続き、いつしか地球の果て、そのさらに果てを超えて落ちていく。
――そのとき、この世界から日野勇斗という存在は消え去った。