1-15 はじめての戦い
「ふう、なんとか間に合った」
サラとリザードマンの間に立った勇斗は、金属バット越しに異形の生物を睨みながら呟いた。
「あの……、勇斗さん?」
勇斗の背後で、サラがどこか申し訳なさそうな様子で声を掛けてくるが、現状その言葉に返答している余裕はない。
「話はあとだっ! サラちゃんは、とりあえず早くこの場を離れるんだ!」
「私、勇斗さんにひどいこといったのに……」
「その話はあとにして! いいから、この場は俺に任せて、誰か人を呼んできて!」
「でも、勇斗さん――」
「俺の心配はしなくて良いから、早くっ――」
「うん!」
サラはようやくその場から立ち上がり、勇斗に背中を向け走り出そうとするが、当然、その前にはリザードマンが立ちはだかる。
「せっかく見つけた獲物を、そう簡単に逃してたまるかよ!」
リザードマンは勇斗のバットを弾き、勇斗の横を通り過ぎて、サラの背中を追いかけようとする。
バットを弾かれた勇斗は、一瞬で体制を立て直してすぐさまリザードマンの前に回り込んだ。
「ここは、ぜったいに通さないからな」
自分を奮い立たせるための言葉を吐いた勇斗は、体の前でバットを両手で握りしめて、リザードマンと対峙する。
(コイツの言ってた嫌な予感ってのは、こういうことかよ。こりゃあいよいよもって、異世界らしくなってきたじゃねえか)
リザードマンの醸し出す異様な雰囲気に当てられて、全身の脈が大きな鼓動をしている。
口が震える。
腕が震える。
体が震えている。
街中でのチンピラ相手の喧嘩だったら、勇斗にも多少は経験がある。肩を壊して自暴自棄になっていた頃は、何かで発散しないと気が済まなかった。
返り討ちに遭うことも多かったが、多少傷を負うくらいで大怪我をすることはなかった。
しかし、今自分が置かれているのは命のやりとりだ。相手から感じる殺気は、街の喧嘩とは比にならない。
それでも、逃げるわけにはいかない。
背中越しにサラの走る音が少しずつ遠くなっていくのを感じ取り、勇斗は少しだけ安堵の息を漏らした。
リザードマンもサラのほうは諦めたようで、こちらに注意を向けている。
「最近じゃめっきり見なくなっちまったが、乱闘だって野球の一部だからな。さすがにバットを持って乱闘に行く選手はいないけどな」
この非日常的な状況を、少しだけ身近なものに置き換えることで、勇斗は緊張をほぐそうと試みた。
バットのグリップを絞るように握りしめて、大地を蹴り上げてリザードマンへと向かっていく。
「……リャアッ!」
気合いの一声とともに、勇斗は力任せに、リザードマンの脳天目がけてバットを振り下ろした。
反動で右肩の傷が痛んだが、今はそれに構っていられる状況ではない。
力んだ勇斗の攻撃とは裏腹に、リザードマンは最小限に身体を捻って、勇斗の攻撃を軽々とかわした。
「シシシ、そんなの当たらねえよ」
攻撃の反動で勇斗に隙が生じているうちに、リザードマンは勇斗の左に回り、そのまま勇斗の脇腹に棍棒を叩き込む。
「……ごふっ!」
思い切り棍棒をジャストミートされた勇斗は、二メートルほど吹き飛んで地面に転がった。
すぐさま起き上がろうとするが、激痛が全身を支配して、思うように身体が動かない。
「――ぐっ!」
それでも、その痛みをなんとかこらえて起き上がる。
身体の前でバットを構えて、リザードマンを見据える。
異形の生物たるリザードマンの表情は、イマイチ読み取れないが、余裕を持って見下ろしていることだけは伝わってくる。
「くっ、なめやがって」
(しっかりと相手を見ろ。大丈夫だ、まだまだいける)
と、自分に暗示をかけ、握る力をさらに強める。
そのまま数秒が過ぎ、互いに相手の出方をうかがっていた。
「キシャーー!!」
先に動いたのはリザードマンだった。甲高い不快な叫び声をあげて、棍棒を振り上げながら、勇斗へと突っ込んできた。
勇斗はリザードマンの右手にある棍棒に意識を集中させる。
――しかし。
「――えっ!」
リザードマンを迎え撃とうとしていた勇斗だったが、リザードマンは棍棒の間合いのはるか外で足を止めた。
勇斗が戸惑いの表情を浮かべていると、リザードマンは大きく息を吸い込むと、深呼吸するかのようにその息を吐き出した。
リザードマンから発せられたその息は、炎を纏って勇斗に襲い掛かる。
棍棒に神経を向けていた勇斗は反応が一瞬遅れたが、その息によって、服の裾を漕がされながらも、右方向に転がるように逃げた。
「シャッシャー!! ビンゴ!!」
「…………!!」
勇斗の逃げ込んだ先でリザードマンが棍棒を構えていた。そのまま、リザードマンは野球のスイングのように勇斗の頭めがけて振りぬく。
勇斗はリザードマンの棍棒から逃れようと、咄嗟に屈んだのたが、眼前まで迫っていた棍棒からは逃れられなかった。
棍棒と勇斗の頭部が衝突すると、鈍い響きとともに、勇斗は一回転、二回転して、うつぶせに倒れた。
「ちょっと! 勇斗、大丈夫!?」
手にしている金属バットが叫んでいるのが聞こえたが、それに答える余裕はない。
地面に伏している勇斗は、脳みそがシェイクされているかのような、最悪な気分だった。
平衡感覚が失われて、自分が今地面を向いているのか、天空を仰いでいるのかさえも曖昧だった。
それでも、なんとか地に足をつけて、バットを杖にして立ち上がる。
「人間にしては中々にタフみたいだな。それとも、これが迷い人の力ってやつなのか?」
「ふざけんなよ。こんなもん一五〇キロの硬球が顔面にぶつかることに比べたらたいしたことねえよ」
勇斗は、自分を鼓舞するために、喉から声を絞り出して精一杯の強がりを言った。
額から滴り落ちた血液が、勇斗の立っている地面を赤く染める。
口の中にも血の味が充満していて気持ち悪い。
(大丈夫だ。まだ大丈夫。サラちゃんが人を呼んでくるまで耐えろ。そうすれば、きっと誰かがなんとかしてくれる)
勇斗ひとりでは、どうにもならない。
もちろん抵抗は続けるつもりだが、こういった戦闘経験が皆無の勇斗には、おそらくリザードマンに攻撃が通用しない。
だからこそ、サラが助けを呼んでくるまで、相手の攻撃を耐え忍び、なんとかやり過ごすしかないのだ。
しかし、かといって、逃げるわけにはいかない。
勇斗が逃げてしまえば、こいつを村に近づけさせることになるし、みんなを呼びに行ったサラに追いついてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けないといけない。
ぼーっとする脳みそをフル回転させて、勇斗は距離をとりつつ相手の攻撃をかわすことだけに専念することにした。
「キシャー!!」
リザードマンが棍棒を振り下ろしてくるが、それに対して、勇斗は大きく横にステップしてかわす。
今度は間合いの外から炎を吐いてくるが、相手が大きく息をのみこんだ瞬間に炎が来ないところまで全力で逃げた。
無様に逃げ回っている勇斗の姿は、周囲から観察したら、さぞ滑稽で無様に見えることだろう。
その証拠にさっきから左手のしゃべるバットが、何やら勇斗に対して捲し立てているが、勇斗は試合中によく耳にする野次程度と思って、聞き流していた。
ただ勇斗の作戦は、はっきり言って、相手にとってもわかりやすい。
リザードマンの知能がどれほどかはわからないが、言語を操るだけの知能を持っているのは明らかだ。
(コイツも俺の作戦には気づいているかもしれないな……)
勇斗としてはリザードマンに気づかれても構わないつもりでいた。時間稼ぎに焦れて攻撃が単調になってくれれば儲けもの、と考えていたからだ。
しかし、しばらく鬼ごっこのようなやりとりが続いた後、リザードマンが見せた表情は勇斗が期待していたものとは別のものだった。
逃げ回る勇斗に対して、リザードマンは相手をあざ笑うかのように、口元をニィッとつり上げて笑った。
「キキキ、時間稼ぎか? 狡い真似を」
「…………」
「シシシシ、だんまりか。まあいい。ここらでおまえに絶望を味合わせてやる。まず言っておくが、おまえがしてる時間稼ぎなどにはなんの意味もない。あのガキはこの森から出られないんだからな。残念ながら、おまえが期待してる援軍は絶対にここまで来ない」
「……なんだと?」
「シシシシ、いいねえ~、その表情。俺はその驚いた阿呆みたいな面が一番好きなんだぜ。この森一帯には結界が張ってあるのさ。人間がよく使うのは俺たち魔物の侵入を防ぐ結界だろうが、俺が今使っているのはそれとは正反対の結界。人間を外に逃がさないようにするための結界だ」
「ふんっ! そんなのはハッタリさ」
南進の動揺を隠しつつ、勇斗はリザードマンの言葉が嘘であって欲しいという願いを込めてその言葉を否定した。
「まあ、信じないのなら、それはそれで構わねえさ。だったら俺と永遠におっかけっこの真似ごとをするか? さて、それじゃあ、おまえのその体力がいつまでもつかな?」
唇を噛みしめた勇斗は、脳をフル回転させて、リザードマンの真意を探る。
「結界を解く手っ取り早い方法は、とてもシンプルだが、おまえには無理だろうな。なんといっても、俺を倒すことなんだからな」
「…………」
勇斗は眉をしかめて、リザードマンを睨み付ける。
「俺の首からぶら下がってるこのペンダントがこの結界を発動させているキーになってるのさ。コイツを壊さない限り、おまえはこの結界を解くことができない。すなわち、あのガキともどもこの森から逃げられないのさ」
勇斗はじっとそのペンダントを見つめる。
薄く、鈍く、濁った青い光を発していた。
信じられない話だが、それでも、リザードマンの話――勇斗たちがこの森の中に閉じ込められているという話――を嘘だと切って捨てるのは、ただの現実逃避だろう。
勇斗がそんなことを考えていると、左手のバットが小さな声で注意を促してきた。
「あいつの言ってること、たぶん本当よ。この森全体が甘ったるいような、どろんとしたような、嫌な感じの雰囲気に支配されてるわ。こいつの言ってる通り、人間を一定の空間から外に出させない結界で間違いないと思う。でも、この結界を使えるのは――」
最後の方はさらに声が小さくなっていたため、勇斗の耳には届いてなかった。
(それじゃあ、あのとき、あっさりサラちゃんを見逃したのはそういうことだったのか。ここから逃げられても、森の中から逃げられないとわかっていたからか……)
「やるしかないんだな……」
勇斗は小声で、静かに、しかし、真っ赤な闘志を燃やして、目の前の生物を排除する決意を固めた。