1-13 日常と非日常の境
(今日一日、ホントに楽しかったな……)
勇斗の隣を歩いているサラは胸中で呟いた。
勇斗に村を案内している間、サラは誰よりもその時間を楽しんでいた。勇斗に案内した村の風景は、いつも見ているものとまったく変わらなかったはずなのに、その風景、そして村の匂いすら違ったものに感じるくらいに浮かれていた。
勇斗と一緒に歩いていると、毎日歩いていた廃墟へと続く道すら、なんだか新鮮なものに感じるから不思議なものだ。
そんな胸の高鳴りを感じて、こんな日がいつまでも続けばいいのに、と願わずにはいられない一日だった。
「勇斗さん、今日は楽しかったね――ん、勇斗さん?」
サラが隣を歩く勇斗の顔をのぞき込みながら話しかけるが、当の勇斗はサラの言葉に反応することもなく、道の端に並んでいる木々の奥の方を見つめていた。
「何かあったの?」
勇斗の様子を不審に思ったサラが、勇斗の視線の先を探ろうと勇斗の視線の先を見つめようとした瞬間、視界が真っ黒になった。
「――――!!」
自分の身に何が起きたかすぐには理解できなかったサラだが、間もなくしてサラの視界を勇斗の左手が塞ぎ、彼の右腕がサラを抱き寄せているという状況であることに気がついた。
勇斗の顔が自分のすぐ上にあり、彼の息遣いが直接肌で感じられるほどに接近している。
(えっ、えっ、勇斗さん――!?)
突然の状況に脳内の整理が追いつかないサラだが、突然、この小さな森の中に勇斗と自分しかいないことを意識した。
このとき、サラは最近読んだ男女の恋愛の物語を思い出していた。
その本に描かれていた女性の行動を思い返しながら、こんな時、自分は取るべき最善の行動はなんなのだろうか、と思考を巡らせようとするが、心臓の高鳴りがサラの思考を阻害する。
「勇斗さん、私……」
サラが頬を赤く染めて、恥じらい交じりの声を出した。
――このとき、一点を見つめていた勇斗は、そんなサラの心境など知る由もなく、彼は視界に映っていた「それ」に思考を奪われていた。
勇斗がサラを抱き寄せる少しだけ前のこと。
ふと、視界の隅に不自然な赤い色が映った。
葉の緑色や、木の幹の茶色が一面に広がっている風景の中では、赤という色はまさしく異色となっており、道から外れた草むらの奥で存在感を放っていた。
眼球だけを動かして、視線をその赤色に向けてみる。視線で捉えると、少々距離が離れていることがわかったが、元々視力には自信があったので、その赤色の正体にもすぐ気がつくことができた。
(――――っ!!)
しかし脳がその正体に気がついても、勇斗の理性とか常識とか言った感情がその正体を否定しようとしている。
見間違いかもしれないと思い、サラに気がつかれないように小さく息を呑んで、もう一度その赤を見つめてみる。しかし視線の先に映っている赤色に対して、勇斗の脳みそは先ほどとまったく同じ判断を下した。
――赤色の正体は、人間の髪の毛だった。
単純に赤い髪の毛がその場に落ちていただけだったら、勇斗が驚くこともなかっただろう。赤い髪の毛の根元には人間の頭部があり、そいつはこちらに顔を向けて横たわっていたのだ。
――首から下がない状態で。
「勇斗さん、今日は楽しかったね――ん、勇斗さん?」
サラの声が耳に届いてはいるものの、その言葉に反応するだけの余裕を持ち合わせていなかった。
赤い髪の毛から連想して、勇斗が最初に思い浮かべたのは、日昼食をいっしょに食べたロッドだった。
眠っているかのように目を瞑っている顔は、紛れもなく勇斗が思い浮かべた彼女だった。
地面にはおびただしい量の血だまりができていて、ロッドの生首はそれ浮かんでいるように見える。
(間違いない、ロッドさんだ……! ロッドさんが死んでる……? どうして? なんで?)
勇斗は声に出さず自問するが、当然のごとく答えなんてものは出てこない。
何が起きているのか理解できない勇斗は、その生首を見つめることだけが限界だった。
その場から逃が出すことも、声をあげることもできないでいる。
「何かあったの?」
横から掛けられたサラの声で、勇斗の意識が現実に呼び戻される。
事態を自分の中で、自分なりの整理するとともに、勇斗はようやくこの場所は自分が住んでいる世界とは別の世界であることを実感した。
それと同時に、まだ年端もいかない上にロッドと仲良くしていたサラに、ロッドの無残な姿を見せるまいと、勇斗はサラの目を塞いで、身体を抱き寄せた。
「勇斗さん、私……」
どうしてロッドがあんなことになっているかは、勇斗には思いもつかない。
だけど、どうせ考えたところで答えを導けるはずなんてないのだから、そんなことを考えることに大して意味がないことは知っている。
とりあえず、今一番するべき事は、サラを混乱させないことだ。
冷静に、普段と変わらない態度を心がけて、この場を去ることだけを考える。
(あとで、アイナさんに相談するとして、何があるかわからないし、今日のところはさっさと帰った方がよさそうだな)
「ねえサラちゃん、やっぱ今日は帰らない? けっこう暗くなってきたし、また明日にでも出直してきた方が良いと思うんだ」
勇斗はサラの目からゆっくりと手をどけで、体を離した。両手をサラの肩の上に乗せて、しゃがみ込み、視線をサラと同じ高さまで下げる。
「あ、あの~、私、ちょっと恥ずかしいけど、勇斗さんなら――」
勇斗の提案が聞こえていなかったのか、なぜか、サラは何かを覚悟したかのように目を瞑っている。ほんのりと頬が朱色に染まっている彼女の表情に、勇斗は自分がとてもイケないことをしているような気分になった。
「や、やっぱりさ、今日はもう帰らない? 一日中歩き回って疲れちゃったし、俺は家で休みたい気分なんだよね。お腹すいてきちゃったしさ。それにアイナさんも待ってるかもよ」
「ん、え、えっ? なんで? でも、もうすぐ着くよ?」
勇斗の突然の提案にサラは目を丸くして、驚いた表情をしている。
「いや、それでもさ……。とりあえず、今日はもう帰ろうかなあって」
上手い言い訳の言葉が思い浮かばない勇斗は、言葉を探すように視線を宙に彷徨わせていた。
「どういうこと? ひょっとして私、なんかいけないこと言っちゃった?」
勇斗が態度を変えた責任は自分にあると思っているのか、サラは落ち込んだ様子で、力ない語尾とともに視線が下がっていく。
「ち、違うんだよ。ほら、だんだんと暗くなってきたし、仮にあの廃墟に何か手がかりあったとしても見落としちゃうかもしれないと思ってさ。それに暗くなってきているのにサラちゃんを連れ回していたら、俺がアイナさんに叱られちゃうかもしれないしさ」
後半は冗談で言ったつもりだったのだが、その冗談がサラの心に突き刺さった。
「そうやって、お姉ちゃんお姉ちゃんって……。当たり前だよね。お姉ちゃんは大人っぽいし、私と違って、女の子って感じだしっ! 勇斗さんもお姉ちゃんのほうがいいに決まってるよね」
サラは目の端に涙を浮かべながら、唇を噛みしめている。
「ちっ、違うっ! そんなこと言いたかったわけじゃ――」
「いいんです、気を使ってくれなくて……!!」
サラは何かをあきらめたような表情になって、勇斗に背を向ける。
「私ひとりで行ってきますね。心配しないでください。ちゃんと、勇斗さんが元の世界に戻れる手がかりは見つけて見せますから。勇斗さんは家に戻ってて大丈夫ですよ。私のことなら心配しないでください。いつもこの時間はここにいましたから、お姉ちゃんも心配していないはずです」
それだけ言い残し、サラは森の奥へと進んでいった。
サラの迫力に怯んでしまった勇斗は、彼女を追いかけることも出来ずにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
そして、サラは勇斗と初めて出会った場所へと、いつもと同じようにひとりで向かったのだった。
結局、勇斗はサラの背中が見えなくなるまで、その場で立ち尽くしていた。
どれくらいの間、そうしていたかは勇斗自身もわからない。
それから、勇斗はちらりとロッドの首があったところに目を向けると、そこにはまったく同じ光景が広がっていた。
ロッドの生首をサラに晒さない、という当初の目的は達成できたのだが、もやもやとした塊が胸の奥を支配している。
「サラちゃん……」
悲嘆に暮れている勇斗が、誰にというわけでもなく呟いた。
「あっ! なんか、ちょっとビビッと嫌な予感がするのだけれど……」
今朝から肩に担いでいたバットケースの中から、金属バットの声が聞こえてきた。
「ちょっと、アンタ! マズイかもしれないわよ。こんなところで、感傷に浸っている場合じゃないわよ。悪いことは言わないから、さっさとあの子を追いかけなさいっ!」
「で、でも……」
サラを追いかけても、拒絶されたらどうしようと思うと、勇斗は二の足を踏んでしまう。
「いいから! 仲直りしなさいとかそういうのじゃないの! なんかね、ものすっごい嫌な予感がするのよ……」
言いにくそうに言葉を濁している様子は伝わってくるものの、肝心なところを濁しているため、イマイチ話の意図が掴めない。
「それってどういう――」
「だから! サラちゃんが、そこに転がってる生首みたいになるかもしれないってことよ――」
「は? それを早く言えよ!」
勇斗は肩に担いでいたバットをしっかりと左手で握りしめ、サラが向かった方向へ全力で追いかけた。
――この森をとりまく異常な空気は、すでに勇斗の知っている日常と乖離しており、勇斗にとってはまさしく異世界と呼ぶに相応しい空間へと成り果てていた。