序章
序章
クリスの視界が、暗闇に覆われていた。
目を瞑っていたのだから、それも当然だろう。
しかし、どうして目を瞑らなければならないのか。
その理由は簡単で、目を瞑ることが目の前の光景から目を逸らすもっとも簡単な手段だからだ。
それでも、いつまでもそうしているわけにはいかない。クリスは意を決して、そーっと目を開けることにした。
――目を閉じる前に、自分が見た光景が幻であることを期待して。
しかし、開けた視界に映った光景は目を瞑る前と、何ひとつも変わることなくそこに広がっていた。
闇が支配する平らな草原。照らす光は、頼りない三日月の明かりのみだが、周囲に遮蔽物がないおかげでかなり遠くまで見渡せる。
小さな風が吹き続け、草の葉がこすれる音だけが響いている。
そんな穏やかな草原において、クリスを中心に六人の人間が倒れていた。
もちろんその六人は、寝そべって睡眠を取っているわけではない。その形状から察するに、すでに睡眠を取れるだけの機能、いやそもそも人間としての機能のすべてが失われているだろう。よって、人間という表現には語弊がある。
心臓部に大きな穴が空いている者、顔の右半分が吹き飛ばされてしまっている者、上半身と下半身が真っ二つになっている者など、とにかくその六つは本来の人間としての形すらも失っている状態だった。
あたりには、まだ生々しい血の臭いが充満しており、バラバラ死体の血の乾き具合から推測すると、それらはつい数分前まで、人間として活動をしていたことが窺える。
そもそも推測するまでもなく、この六つの死体が数分前まで生きていたことは、クリスが誰よりも知っていることなのだ。
(…………)
周囲を分析しているうちに、思考能力が正常に戻りつつあった。
肉を切り裂いた時の生々しい感触は、しっかりとクリスの手に残っている。
クリスの全身には出血をするような傷が一つもないのに、全身を覆うように真っ赤な液体がこびり付いていた。くすみ一つなかった綺麗な銀色の髪は、六人の返り血によって真っ赤に染め上げられてしまった。
そこに至り、この惨状を引き起こした張本人が紛れもなくクリス自身であることを自覚した。それと同時に、自分のしでかした罪の大きさを再確認し、体の底から沸き上がってくる罪悪感や後ろめたさに体を支配される。
(ち、違うっ! こんなこと……)
しかし、誰よりも自分自身がこの現実を認めてしまっている以上は、どれだけ否定の言葉を並べてもその言葉は自分の心の奥までは届かない。
それでも必死に否定を続けるのは、そうしなければ精神を保っていられないからだ。とっくに精神なんて崩壊しているにもかかわらず、僅かに残った理性が抵抗を続けている。
それじゃあ、どうしてこんなことになってしまったのか? この人たちは誰だったか? それすらも思い出せない。思い出すことを拒否している。
「キヒヒヒヒ。ずいぶん派手にやったな」
頭上に浮かぶ真っ黒な夜空から、甲高い笑いが聞こえた。
見上げると、ぱっと見は人間と同じような形状をしているものの、背中には羽根が生えていて、全身が青く染まっている何かがいた。
足元に転がっている六つの死体に比べれば人間に近い容姿をしているかもしれないが、頭上に浮かぶ何かから感じる禍々しい気配は、完全に人間とは別のものだった。
「……これは本当に私がやったのですか?」
訳知り顔の『何か』に向かって訪ねてみると、『何か』は首を縦に振った。
「イヒヒヒ。ああ、その通りだ。ゴミみてえな奴らだったけど、ホントにゴミになっちまったとはなあ。まあよかったじゃねえの。これでおまえも自由の身になるんだからな」
『何か』はニッと笑いながら言った。口元からは八重歯がチラリと見える。
(そっか、これはゴミなのですか……。それならば、自分は何も悪くない。ともかく、これがゴミだというのならば。掃除しないといけないですよね)
自分で自分の騙すのは容易ではないが、自分以外の言葉によってその正当性が認められれば、その言葉に縋りたくなるのは人間として心情だろう。
だから、クリスは『何か』の言葉に従って、足元に落ちている塊を大きなゴミとして認識することで、罪の意識から逃れることに成功した。
認識を改めたところで、この草原に粗大ゴミを放置しておくわけにはいかないと、六つのゴミの中の一つを担ぎあげた。
「うんしょっ……」
そのゴミは、中にいろいろなものが詰まっているかのように重たかった。その重みがなんなのかは、極力考えないようにした。
完全にゴミと割り切ってしまうことによって、徐々に落ち着きを取り戻してきたのに、その重さを意識してしまえば、せっかく手に入れた落ち着きを手放すことになりかねないからだ。
「おいおい、そんなゴミほっとけ。それより早く逃げた方がいいぞ。別の人間がここに来たらいろいろと面倒なことになりかねないからな」
「どうしてですか? 私はゴミ掃除をするのです。見られて困ることはありませんし、逃げる理由はありません」
クリスにとって、ゴミ掃除というのは、身についた習慣のようなものだ。自分の周囲にゴミが落ちている状況そのものに耐えられない。染みついた習慣はそう簡単に抜けるものではなく、ついつい片づけてしまわないと気が済まない。
「俺は親切で言っているんだぜ。おまえを救ってやりてえんだ」
「救う? 私をですか?」
――救い。
その言葉自体には、大した意味がないのかもしれない。だけど、「救い」という言葉の響きが、クリスの心に深く突き刺さった。
(救い? ずっとそれを求めていた気がする……)
救いを求めていた理由は忘れてしまったが、この場においてそんなことはどうでもいい。
とにかく頭上に浮かぶ『何か』は自分を救ってくれる存在なのだ。その事実だけで、クリスには十分すぎる理由だった。
「あなたは私を救ってくれる神様ですか?」
「ヒヒヒ、そういうことにしておいて構わない。だから、俺についてこい」
「やっと、やっと、私を救ってくれる存在に出会えた……!」
祈るように両手を組んで、頭上の神様を仰ぎ見る。
「その前にひとついいですか?」
「なんだ?」
「名前を――私に名前をつけていただけませんか?」
「ん? ああ、いいぜ。とっておきのやつをつけてやるよ。そうだな……」
神様は首を捻って少し思案した後、思いついたように新しい名前を呟いた。
そして神様に新しい名前を付けてもらい、その場をあとにしたのだった。
草原に広がる六つのゴミを放置して、真っ赤な髪、真っ赤な服、真っ赤な体のままで、頭上の神様に導かれた。
目から零れた液体が顔に付着している血と混じり、赤い色となって地面に落ちた。
このとき、どうして目から液体が零れたのか、クリスがその意味を考えたりすることはなかった。
なぜならばこの時には、六人の人間を無残に殺害したクリスという人間は、この世から消えてしまっていたのだから。