脚のない魔女と顔のない侍女
その街の魔女は、街の中心に聳える背の高い塔に住んでいました。
だから人々は専ら彼女のことを塔の魔女と呼び親しんでいました。
いや、呼んではいましたが、親しんではいないですね。
彼女のことを少しでも知る人々は、博識なる魔女とか知識の狩人とか崇めるようにして畏れていましたし、怖れていました。口さがない人たちは獣の魔女だとか或いはもっとはっきりとあの化け物と呼び習わしていました。
塔の魔女。博識なる魔女。知識の狩人。獣の魔女。あの化け物。
どれもそんなに間違ってはいないと思います。
私自身は、そう言った飾り文句をいちいちつけて呼ぶような面倒くさい真似はしたくないので、簡単にただ、魔女さんとだけ呼んでいました。
「おはようございます魔女さん。朝です」
こんな具合に。
毎朝街一番に背の高い塔を上り、最上階の狭苦しい部屋で起居する魔女さんを起こすのが私の一日の始まりです。
狭苦しいといっても、以前私が生活していた部屋よりは広いスペースが存在していましたし、そもそもそんなに狭まった理由は四方の壁を覆う本棚と、それからはみ出て積まれに積まれた本の山脈、そしてその上に無造作に散らばった全く用途不明の不思議な道具たちの峰々のせいなのです。
私の大して長くもないだろう生涯をあと一ダースほど繰り返してもここにある本を読みきることは出来ないでしょうし、私は大して長くもないだろう生涯のほんの一時間でもそんな不毛な作業に費やそうとは思いません。
けれど並べられた不思議な道具たちは、お気に入りです。
何時までたっても砂が落ちきらない砂時計や、自らのぜんまいを回し続けるからくり人形。毎朝違う色の花を咲かせる鉢植えに、熱を持たない火を吐き続けるドラゴンを模した置物。回転方向の合わない五本の針を持つ時計。奏でる度に気紛れにピンを入れ替える自鳴琴は何時になったらまともな曲を奏でるのでしょう。
それらの不思議な道具の仕組みは全く謎です。
そういった役に立つともわからないような、それでいて街のどんなに優秀な学者でも作れないような魔法の品々に囲まれて、私の一番のお気に入りはベッドに沈み込むようにして眠っています。
「おはようございます魔女さん。朝です」
決まった文言を繰り返してから、数えて一分間が経過したら、私は彼女を叩き起こして良いという事に決まっています。私が決めました。
正確に言えば私がどうでもいい話題に混ぜてさりげなく提案して、彼女が聞き流しながらいい加減に許可しました。魔女という生き物にはそれで十分効力のある約束なのです。
きっちりと一分間を計ってから、私は魔女さんを覆う布団を剥ぎ取りました。
今朝の魔女さんは比較的原形を保っていた方でした。
右腕と左腕はしっかりと肩にくっついて惰眠を貪っていましたし、何処かに盗み聞きをしに行ったらしい左耳はともかく、右耳は暢気に頭の横にくっついたままでした。眼帯を巻かれた左目はいつものこととして、右目のほうはちゃんと瞼の下でもぞついています。お腹の辺りは寝巻き越しにもぺっこり凹んでいるのが見えたので、どうやら空腹に耐えかねて出かけているようでした。両脚は何時も通り、散歩に出かけているみたいです。
それらの遺失物のあった場所は、黒い絹でも張ったかのようにのっぺりとしていて、傷口というよりは塗装をし忘れた人形の一部のようでさえありました。試しに触ってみても、血で濡れていたり、ずぶずぶと突き刺さったりはしません。ほの暖かい人肌です。
私は猫のように大きく欠伸をした寝ぼけ眼の魔女さんを抱き上げて、まだはっきりとは覚醒していないらしい、人形のようにぐったりした体を着替えさせることにしました。全く手のかかる魔女さんです。
「今朝も街の話題は大して代わり映えしないみたいねぇ」
一階降りた食堂で、清潔な真っ白いクロスをかけた食卓で、私の作った朝食をつつきながら――文字通りただフォークの先でつんつんと――、魔女さんは言いました。
そうしてちょこなんと椅子に腰掛けてけだるげにしている姿は、恐ろしげな魔女という街の人の噂とは裏腹に、栄養不足で成長不良気味な、お人形みたいに整った顔をした眠たげな眼をした少女です。私と大して年の差がないようにさえ見えます。最近気付きましたが、毎日左目の眼帯を微妙に変えているお洒落さんでもあります。外に出る用事もないのにお洒落する意味は謎です。
食卓に着くまでに、彼女の頭の左側にひらひらと飛んできた黒い蝶は、私の見る前できちんと形を整えて左耳に戻っていきました。何処を飛んで何を聞いてきたのかは知りませんが、魔女さん曰くのところでは普段通りらしいです。
残念ながら胃袋は余所で朝食を摂ることにしたらしく、今朝は結局戻ってきませんでした。
私が創作料理に挑戦するたびに魔女さんの胃袋は外食に出かけるので、いまだにどんな味なのかわからないのは惜しむべきことです。私は勿論味見はしていません。毒見もなしにどうしてそんな軽率なことが出来るでしょうか。
つっつくだけつっついて、魔女さんは満足したのか、後は左腕に任せてしまいました。
左腕はするすると黒く染まると、ぽろぽろと手首のほうからばらけて、何匹もの黒鼠に変わって朝食の皿を片付けていってしまいました。
「私がやりますのに」
「お昼に出されたら嫌だもの」
読まれていました。
ん、と右腕を差し出されましたので、私は魔女さんを抱きかかえて、最上階に戻ります。魔女さんの脚は長いこと何処かに散歩に出かけてしまっているので、移動させるのは私の仕事です。手がかかることに。
塔の最上階は魔女さんの寝室であり、そして研究室でもあるのです。
ふかふかと座り心地のよさそうな安楽椅子に魔女さんをおろしてあげます。
一度この椅子に座ってしまうと、大抵の場合魔女さんは一日中ここから動くことはありません。
魔女さんの体に比べて不釣合いに大きなテーブルの上で、いろんな資料を読んだり、調べたり、解体したり、甘い笑顔を浮かべて(より正確には知的好奇心という砂糖をどろどろに煮詰めたようなどろっとした甘さの笑顔で)にやにやしたりしていることが多いです。
そしてそういう時、大抵彼女の両耳は街へ飛び立っていますし、片腕か、酷いときには両腕の殆ども街へ出かけています。胃袋は気紛れに空腹を紛らわしに行きますし、長い髪の毛が途中から蛇に変わってするする降りていくのも良く見かけます。
魔女さんは、とても物知りですが、驚くべきことにそれでも知り足りないという驚異の知りたがり屋さんで、そもそも魔女になったのも色んな事を知りたがった末のことだそうです。
こうして全身をばらばらにして使い魔として街中に、そしてもしかしたらもっと遠くへと飛ばしているのは、体一つでは知りえない、たくさんのことを見て、聞いて、知りたいからなのだそうです。理由は理解できますが、手段は私には理解しかねます。
しかも本人は部屋から一歩も出ないのですから、随分ずぼらな話だと思いますが。
私が彼女のもとに来てから一度も見たことのない魔女さんの両脚は、魔女さん曰く全然出歩きもしない身体の方に嫌気がさして、好き勝手自由に歩き回ることにしたそうで、随分長いこと魔女さんも見ていないそうです。魔女さん自身も歩けなくたって対して困らないので、お互い同意の上でのことだそうです。
脚に独立した意見があるというのは、興味深い考えです。
私が来てからというもの、魔女さんの移動はもっぱら私の仕事でしたから、もし脚の方から仕事を取るんじゃないと抗議を受けた時はどうしたものかとたまに悩みます。口のない相手と口論は出来ませんし、きっと相手も口より先に脚が出るタイプでしょうし。
きっと魔女さんのこの不思議な術を見たら、街の人々は大いに驚くでしょうし、はじめてこの塔に訪れて、このひとり人体解体ショーを目の当たりにしたときは私も思わず礼儀として気のない拍手で褒め称えたものでしたが、今ではもう慣れっこです。
なにせ三年も経たない内に、私は彼女の体の殆ど全ての部品が、どのように姿を変えて出かけていくのかすっかり知ってしまっていたのですから。
街の人たちが見たならば、気を失うか、折角お腹に詰め込んだご飯を残らず地面に寄付することになって、そして暫くはまともに美味しい食事を取れなくなるだろう、内臓が元気に飛び跳ねて姿を変えていく光景や、逆に様々な動物が姿を変えながらお腹に殺到していく光景までも見たことがありました。
布団を引っぺがした先に、ふんわりと柔らかそうな桃色の細胞質だけがとふとふと小さく脈打っているような不思議な光景を朝早くから目撃して、せっかく作った朝食を口のない相手にどうやって食べさせたらよいのか悩む羽目になったこともあります。
こうして淡々と語る私のことを、相当に図太い神経をしているか、そもそも神経が断ち切れているか、そうお考えの頃と思います。
でもそうではないのです。
これは正しい反応ではないというのは、理屈の上では私にもわかるのです。
ですが私には、それではどういう反応をすればいいのかというのがわからないのです。
理屈の上では、私は驚くべきでしょう。
当然の反応として気絶したり、胃の内容物を逆流させたり、怯えて涙を流したり、そういう反応が正しいのだろうという理屈は理解しています。
しかし、わたしにはわからないのです。
今も昔も、私にはそんな当たり前のことが全く分からないのでした。
どうやら私は呪いによって感情を奪われている、らしいのです。
私の母が亡くなったのが、確か私が十になるかならないかの頃でした。
母は愛すべき人でした。とてもとても愛すべき人でした。
だから母が亡くなったことはとても惜しむべきことでしたが、私を引き取ってくれた孤児院の院長さんが仰るには、私は母に呪いをかけられたのだ、とのことでした。
私にとっての母は、私に衣食住を与え、教育を施し、礼儀作法を教えてくれた、愛すべき人物ですので、よもやそのようなことをする人間だとは思えませんでしたが、孤児院で生活するうちに、そうなのかもしれないと思うようになりました。
母が私に呪いをかけたのかどうかはともかく、確かに私は他の子供達と違うようでした。
私には顔がないようでした。
勿論それは物理的に顔面が存在しないということではなく、表情や、感情と言ったものが私には見られないという意味でした。
他の子供達が泣いたり笑ったり怒ったりする中で、私は笑うことも泣くことも怒ることもしませんでした。そもそも私にはそれがどういうことなのかわからなかったのです。
完璧でない父によって苦労したらしく、何よりも完璧を尊んだ母の教育によって、私は他の誰よりも勉学に優れ、礼儀作法に敏く、どんな仕事もそつなくこなせましたが、しかし遊ぶことはできませんでした。遊ぶ意味が理解できませんでした。
私は違うことは個性だと思っていましたが、私のそれは個性と言うにはどうやら人間から逸脱しすぎていたようでした。
私は可哀想な子供だったようです。
院長さんも私を可哀想にと憐れんでくれました。
大人達も私を可哀想にと憐れんでくれました。
最初はつまらないと呆れたり、何故か怖がったりした子供達も、大人達の反応を見て私を可哀想な子なのだと憐れんでくれました。
私には理解のできない評価でしたが、私はなんとか可哀想でない子供になって、憐れんでくれた彼らへのお返しとしようとしました。
しかしどうやら私はその方面では完全な無能なようでした。
笑う練習をしては子供達に恐れられ、大人達に憐れまれました。
泣く練習をしては子供達に恐れられ、大人達に憐れまれました。
怒る練習をしては子供達に恐れられ、大人達に憐れまれました。
遊ぶ練習をするに至っては、私は完全に他の参加者の調和を乱す邪魔者にしかなりませんでした。
「ごめんなさい、院長さん、私には上手く出来ないみたいです」
院長さんは私が謝るたびに、私の流せない涙をたっぷりと流しました。
大いに泣きながら母を責め、私を憐れんでくれた院長さんの抱きしめてくれる腕に、どう反応すべきか考えながら、私はさすがに母への評価を変えざるをえませんでした。
愛すべき母は、私を鞭で叩くことで、縄で縛りつけることで、食事を抜くことで、眠らせないことで、暗い部屋に閉じ込めることで、教えを耳元で囁き続けることで、暗記するまで私に唱えさせることで、私を完璧に教育してくれましたが、どうやらその他で私に呪いをかけてもいたようでした。
どうして母が私に呪いをかけたのかは分かりませんでしたし、具体的にどんな呪いだったのかも私にはよくわかりませんでしたが、それは確かに私と社会との間に溝を作るものだったようです。
院長さんは私に、呪いを解くことができなくてすまないと何度も謝りました。
母のかけた呪縛はとてもとても強くて、どうすることもできないと。
院長さんの憐れみ深い慈しみも、子供たちの無邪気さも、私の呪いを解くことはできなかったようでした。
私には何時それらの処置がとられ、そしてそれらが何故呪いを解く要素として想定されたのかは分かりませんでしたが、しかしここに留まっても呪いが解けないばかりか、周囲に迷惑をかけるばかりだということを知りました。
私は個人的に教会の神父様や、旅の魔法使いに解呪を依頼しましたが、これが彼らにも解けない呪いなのだということを教えられただけでした。
私は最後に思いついた手段として、博識で知られる塔の魔女に呪いを解いてもらえないか、交渉に行くことを院長さんに話しました。
院長さんは塔の魔女に会ったことがあるようで、そして彼女はとてもとても恐ろしい怪物で、呪いを解いてくれるどころかきっと頭からヴァリヴァリと食べられてしまうと恐れました。
私は呪いを解いてもらえるのならよし、食べられてしまったのならばそれはそれで周囲に迷惑をかける問題も解決するのだからよいではないかと思ったのですが、残念ながら院長さんにはその意見は泣いて否定されました。理由は良くわかりません。
最後まで結局泣かせてばかりで申し訳ないのですが、他に手段もないとあって、私は今まで着た中で一番上等な服と、色んなお守りや皆からの寄せ書きを頂いて、魔女の住む塔の戸を叩いたのでした。
まさか肝心の魔女さんが思いの他普通の少女で、そして全身をばらばらにしてあちこちに放って、本人は部屋から一歩も出ないようなずぼらな怪物だとは思いもよりませんでしたが。しかも洗濯も掃除も皿洗いも全然しないような手のかかる子供だとは。
魔女さんは私に掛けられた呪いにはあんまり興味がないようでしたが、幸いにも私のあまり一般的ではないらしい反応が彼女のつぼにはまったらしく、そしてまた彼女の迂闊な性格でうっかり私と約束を交わしてしまったがために、私はちゃっかりこの塔に侍女として住み着く権利を得たのでした。
未だに私に掛けられているらしい呪いは一向に解けませんし、魔女さんも真面目に解呪の方法を探しているのか分かりません(彼女曰く、私の心臓にかけてちゃんと探しているよ、とのことでした。その心臓は烏に姿を変えて飛び立ってしまいましたが)が、塔の外では得られなかったであろう、周囲に迷惑をかけない居場所と、毎日の食事、それにほどほどの仕事が得られたので、私としては喜ぶべき誤算でした。
魔女さんがひとり人体解体ショーと知識の探求に没頭している最中は、話しかけても生返事ぐらいしか帰ってきませんので、いささか暇を持て余します。
最初のうちは律義に時間通りに食事を作ったりしていたものですが、どうせこうなってしまうとご飯の時間など守ってくれる魔女さんではありませんし(まあその内気が向くと、とんでもない時間に私にご飯をねだる手のかかる魔女さんですが)、そのことは気にせず放っておいても問題はないとして、私の退屈凌ぎが必要です。
幸い、魔女さんの部屋は暇を潰すにはもってこいのよくわからない品々で溢れかえっていました。
私は昔から、友達と遊ぶという通常とは異なるアプローチからなるコミュニケーションが苦手でしたが、こういった道具の類を見たり、動かしたり、構造を調べたりという遊び方は私にもできるようでした。
純粋な好奇心や興味というものは、母の呪いから比較的逃れられているようでした。退屈も封じてくれていればもっと楽だったのですが。
魔女さんの触れ合い動物はらわたショーに見慣れてしまい、見飽きてしまってからというもの、実はこの自由時間を使って道具類を鑑賞するのが私の一番の娯楽というべき活動でした。魔女さんは玩具にすると怒りますので、惜しむべきことですが枠外です。
山と積まれたよくわからない道具を一つ一つ手にとって鑑賞します。
私が触れて危険なものは、私がこの塔に入居して二日目にして塔を全焼させかけた事件を切欠に、魔女さんが丁寧に仕舞いこむか、動かないように細工をしてしまっているので、私は何の気兼ねもなくこれらの道具を玩具にして暇を潰せるという訳です。
それに私が想定外の使い方をしようとしたり、ちゃっかりもというっかり危険なものを見つけ出そうものなら、それを止めるべく小さな子鼠(多分魔女さんの手の一部でしょう)がちょこちょこと近くで監視しているので危険はありません。
まあ魔女さんがはっきり監視だと言ってきたわけではないですが、私が好奇心に任せてこの子鼠を捕まえて内部構造の確認のために解剖しようとしたら大いに怒られましたので、ちゃんとこっちの様子は筒抜けになっているようです。
院長さんや孤児たちの感情が何処に入っているのかも解剖して調べてみたかったのですが、さすがに人間相手にそういったことをするのは倫理的に問題があるということは理解していましたので、そういった倫理からいささか外れた魔女の塔の中というのはいい機会だと思ったのですが。
「魔女の塔なんですから、ちょうど良い解体用の人体なんかあっても良いと思うんですけれどねえ」
解剖といえば、ここにおいてある道具の数々は、解体しても構造がわからないものが多いようでした。最初にこれらの道具類を自由にしていいと魔女さんに言われたその日の内に、せっかくなので目のつく範囲にあった道具類は残らず丁寧に解体して仕組みを調べてみたのですが、一見機械仕掛けに見えるものであっても開いてみると、私の知る歯車やぜんまいといったものの他に、役割の知れない部品や模様がいくつも見られました。時にはそれらの部品や模様の配置そのものが何かしらの機能を持っているらしいのを発見することもありました。それらを取り除いてしまうと機能は失われるようでしたので、ただの飾りではなく私の知らない技術が使われているのは確かなようでした。
あらかた解体しつくして、それらの部品の機能を調べるためにいろいろ組み合わせた結果、今では大変貴重な魔女の火炙りを実際に目撃するという大変貴重な経験をしたのですが、その代わりに先ほど言ったような閲覧制限と監視がついてしまったのは惜しむべきことです。
全く持って惜しむべきことです。
なので目を盗んで調べてみたいのですが、一つ二つ盗んだところで魔女さんの目はたくさんありますから、なかなかうまくいきません。
本人だって、人間の体の複雑で精密な構造に神秘を感じてその留まることを知らない好奇心を溢れさせた挙句、あんな好奇心を満たすためだけに機能するような魔女に成り果てているというのに、私にそれを禁じるというのはなかなかいけずです。
私が塔で働き始め、そして慣れ始めた頃に魔女さんがお茶請け代わりとばかりに極めてぞんざいに物語ったことですので本当かどうかはわかりませんが、昔は、それはそれは大昔は、魔女さんも普通の人間だったそうです。普通の両親と、普通の家と、普通の感性を持った、普通の少女だったそうです。
極めて普通に泣いたり笑ったり怒ったり遊んだりと、おおよそ考えられる限り普通の生活をしていた魔女さんは、しかしある日、駆けっこをしている最中、前方不注意の暴走馬車に跳ね飛ばされてしまったそうです。何もかもがゆっくりと動いているように見え、自分の眼窩から飛び出た左目を、残った右目で追いかけるように見つめたそうです。
幸いにもお医者様の懸命な処置のおかげで命に別状もなく、飛び出て千切れてしまった左目以外はそこそこ綺麗に治ったそうですが、魔女さんは事故の際にまじまじと眺めた左目のことが忘れられなかったそうです。
自分が普段から鏡で見ていた顔の裏に、こんな不思議で精密な機構が潜んでいたなんて、と。
それ以来、魔女さんは人体の構造について文献を漁りに漁り、実際に死体の解剖もして見たりして、ついには魔法に手を出して今みたいな魔女になってしまったのだとか何とか。
そしてついには自分の研究所兼住居としてこの背の高い塔を建築して住み着き、魔女として君臨したのでした。めでたしめでたし。
「………いやいや」
うーん。前半の普通という言葉が大いに欺瞞に満ちた言葉に聞こえます。
私もどうやらいささか普通ではないようですが、少なくとも普通の女の子は、馬車に跳ね飛ばされたショックや傷みを忘れる勢いで、自分の飛び出た眼球を見て知的好奇心溢れる興奮に満たされるようなそんなことはないはずです。しかもいかにも怪しげで実際怪しい魔法なんかに手を出しちゃったりするようなことはなおさらないはずです。
もしかしたら当時はそういう思いつきで魔道に身を費やすのがトレンドだったのかもしれませんが。謎です。
いくらなんでもそんな女の子が普通なわけがない、という理屈くらい私にだってわかります。極めて個人的には、共感の抱けるエピソードでしたが。
尤も、私自身が興味を抱いているのは人間の体の構造ではなく、その中にあるはずの魂だとか心だとか言われているものなのですが。
私の中にも在るはずのそれを見つけられれば、その機能も分析して私の呪いを解くことが出来るのかもしれないのですから。壊れた時計の歯車を交換して、修理するように、私の呪われて封じられた感情を、健全な感情と交換して修理できるかもしれません。残念ながら魔女さんの塔にある図解付きの本を見たところ、心というのは目に見えないようで、探すのは骨が折れそうですが。心というものは魔法のようなものなのでしょうか。魔法を学べば心を見えるのでしょうか。
魔女さんのほうでも真剣に解呪に取り組む気はなさそうですし、自力でどうにかできるものであればどうにかしたいのですが。
「ままならないものですね………」
最近の私はどうにも行き詰っているようでした。
解体できるものは解体してしまいましたし、魔女さんは解体させてくれませんし、私が解体しなくても勝手に自分でばらばらになって何処かへ行ってしまいますし、相変わらず呪いは解けませんし。
もし目に見えない心というものが、同じく目に見えない魔法の力と関係のあるものならば、きっと魔法を学ぶことで私は心を学べるでしょう。その為の、魔法を学ぶための本も、不思議な道具類もこの塔には溢れかえっていますし、実際に魔法の権化でもある魔女さんだっています。
しかし、そのことに思い至ってからもう何ヶ月も、私はその考えを実行に移していません。魔法にかかわりのあるだろう本の、その一頁だって眺めたことがありません。
理由は謎です。
呪いをを解くことが出来れば、私は普通の人たちのように、極めて普通に泣いたり笑ったり怒ったり遊んだりできるようになるでしょう。しばらくは慣れるまで時間がかかるかもしれませんが、それでも、誰にも迷惑をかけず、憐れませることもなく、当たり前のように居場所を得て、当たり前のような仕事を得て、おおよそ考えられる限り普通の生活を営むことが出来るようになるでしょう。普通の人たちが普通の生活を営む、普通の街で。
「……………ふう」
そう考えるたびに、私の体は不調を訴えます。
体がだるくなり、心肺に不快感を覚え、考える気力が失われます。
立つのも面倒になってごろごろと寝転がって、天井を見上げます。
病気らしい不調なのに、病気らしい症状が出ないので、何処が悪いのかわからず治しようがありません。
呪いさえ解ければ、この不調も治るのでしょうか。
もう魔女さんにも迷惑をかけず、胸を張って塔から出て行けるのでしょうか。
考えているとどんどん心肺が圧迫されるような不快感が強くなります。
こうなってくると、出来ることならば自分自身の胸を開いて、心を取り出して綺麗に修理できたならばと何時も思います。不調の原因はそれに間違いなく、きっとそれは心臓の表面か裏側辺りにあって、不快感を与えているに違いないのですから。
こうなってしまうともう、お掃除や洗濯もする気になれず、魔女さんに迷惑をかけてしまうことになり、申し訳ないと思います。まあ魔女さんは極めてマイペースですから、私みたいな居候の侍女が一人使い物にならなくても全然気にしないのでしょうが、そう思うと今度はお腹の辺りも重たくなります。お腹が減っているはずなのに重くなるのはどういうからくりなのでしょうか。
「……………はあ」
本当に、最近はどうかしています。時計のようにメンテナンスが出来ればいいのに。
ぢうぢうと音がするので目線を遣ると、監視の子鼠が投げ出した私の掌に上って、ちろちろと舐めてきます。院長さんや他の大人たちがしてくれたように、私を慰めてくれているのでしょうか。
ぐてっと力ない頭をのけぞらせるようにして魔女さんのほうを見ると、逆さまの景色の中で魔女さんのわくわくふれあい動物ショーが見て取れました。蛇や烏や鼠や蜥蜴、猫に犬に蝶にその他何種類もの動物が魔女さんの体に戻っていくようでした。相変わらず、体積と質量が元の魔女さんの体につりあっていないように見えます。理屈は謎です。
動物たちの羽ばたきや足音、鳴き声で騒がしい中、かつん、かつん、と今までこの塔の中で聞いたことのない硬質な音が部屋に響きました。
ぐるりと頭を巡らせて、入り口のほうを見ると、その正体は一目でわかりました。硬質な音の正体はヒールの高いつやつやした靴でした。その靴をはいているのは、栄養不足で成長不良気味な、でもお人形のもののようにちっぽけな二本の脚でした。女の子の脚でした。
かつかつとそれは魔女さんのほうへと歩いていくようでした。
はじめて見た魔女さんの脚にぼんやりしていると、恐らく随分久しぶりに脚と再開した魔女さんの声が投げかけられました。
「ちょっと、手伝ってよぉ。久しぶりだからうまいことくっついてくれなのよぉ」
むっくりと体を起こしてそちらを見やると、どうやら魔女さんは自分の脚をなんとかくっつけようと格闘しているようでした。まるで上手く靴を履けない子供のように。
のそのそと私が起き上がって、もぞもぞと居心地悪そうにする脚を魔女さんの身体に押し付けてやると、まるで昔からそうであったかのように、二本の脚はしっかりと魔女さんと一つになっていました。
よいしょ、と掛け声一つ、魔女さんは自前の脚で椅子から立ち上がり、ちょっとよろけました。この塔に来てからはじめて見る魔女さんの完全体は、栄養不足で成長不良気味な、でもお人形みたいにかわいらしい眠たげな眼をした少女でした。意外なことに、魔女さんは私より背が高かったようで、私はちょっと虚を突かれて魔女さんを見上げます。
普段抱き上げているためか距離ゼロセンチメートルには大いに慣れたものでしたが、こうして見上げる数センチメートルは、不思議な感覚がします。
「気晴らしにねぇ、うん、気晴らしに散歩に出かけようと思うのよぉ。でも随分久しぶりだからぁ、付き添ってくれるとうれしいのだけれどもぉ」
眠たげでぼんやりとした、でもきっとチャーミングとでも言うのでしょうとろけた微笑を浮かべて、魔女さんは言います。歩き方すら忘れかけているようで、ふわふらと足元のおぼつかない魔女さんに手を貸しながら、私はため息を一つつきました。全く、こちらが思い悩んでいるというのになんとも勝手で、手間のかかる魔女さんです。
「仕方ないですね。それじゃあ余所行きの綺麗なお洋服に着替えましょうか」
それからしばしば、脚のなかった魔女さんは両足を揃えて散歩をねだるようになり、相変わらず顔のない私はその度に、この手間のかかる魔女さんに付き合う羽目になるのでした。
いつになったらこの呪いを解いてくれるのかはわかりませんが、魔女さんが無駄に散歩に出かけたがるようになってからは程ほどに忙しく、思い悩む暇もなくなったのは、喜ぶべき誤算でしょう。
今では毎朝街一番に背の高い塔を上り、最上階の狭苦しい部屋から空模様をうかがって、お天気を確認するのが私の一日の始まりになりました。
「おはようございます魔女さん。今日もお散歩日和のいい天気ですよ」