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APOSTATE  作者: 原醍鼓
8/8

epilogue.『ある男の選択』

 柔らかな風がそっと頬を撫でて行き、何処か覚えのある懐かしい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

 兎にも角にも、心地良いと思った。肉体的にも精神的にも、こんなに安らいだのは久し振りかもしれない。鳥の声や風の音を幾らか含んだ静寂は耳に心地良く、ふかふかと柔らかく身体の背面を呑み込む感触は雲のようで、嗚呼、此処からもう動きたくない。

 剣だの戦いだの、考えてみれば下らない。そんなもので喜ぶのはせいぜい莫迦くらいのものだし、そんな莫迦とはもう金輪際関わらないつもりである。

 痛いのは嫌だ。辛いのも嫌だ。

 双子を連れて、何処か静かで穏やかな場所を見つけて、自分は平穏な一生を送ってやるのだ。

 ………………。

 …………。

 ……。


「──────はッ!?」


 思考が、一気に覚醒した。

 ガバッと勢い良く跳ね起き、その勢いにシンの身体に被せられていたモノが跳ね除けられる。

 真っ白なシーツ。丁寧に洗濯されているのであろう清潔なそれには覚えがあった。自分が寝かされていた寝台についても同様で、天井、壁、空気、窓から入ってくる風の匂いと、気付いてみれば其処は自分にとって馴染みの深い場所だった。よくよく考えてみれば一ヶ月にも満たない時間しか過ごしていないのに、自然とそんな感情が思い浮ぶのは何だか妙な気分だった。

「修道院、か……?」

 あれからどうなった。

 双子とティスは無事なのか。聖騎士団は。雷獅子……“餓王”はどうなった。

 何より、自分はどうしてこんな所で寝かされているのだろう。聖騎士団の連中から寄ってたかって滅多刺しにされ、そもそも生きている事自体が疑問の筈である。

 まさかと思ってペタペタと自分の顔を触ってみるが、別にすり抜けたりはしない。恐る恐る首を巡らせて振り返ってみるが、置いてけぼりにされた自分の肉体が其処に横たわっているという事も無かった。

 どうやら、自分は幽霊ではないらしい。


「──……まさかと思いますが、今のは自分の生存確認で御座いますか、若?」

「…………ッッ!?」


 安心してホッと息を吐いた、正にその瞬間だった。

 どこからともなく、僅かに呆れを含んだ老人の声が聞こえて来て、シンは思わずベッドの上でビクッと身体を跳ねさせてしまう。

「変な所で迷信深いのは相変わらずですな。かくなる上は、僭越ながらこの私めが再び特訓を施さねばなりますまいか……」

「嫌だ! お前そんな事言って、心霊映像見てビビる俺が見たいだけだろ!」

「特訓で御座います故」

 飽くまでも声だけだ。姿は見当たらないし、何処に居るかも分からない。

 それでも、悪戯っぽさを含んだ柔和な笑顔は容易に想像する事が出来た。彼には聖騎士団に入団した時からずっと世話になりっぱなしで、同時によくからかわれたものである。

(……?)

 と、其処まで考えた所で、自身の記憶が戻って来ている事に気が付いた。

 聖騎士団に入る前の自分。聖騎士団に所属していた頃の自分。自分がどういった経緯で聖騎士団に不信感を抱き、そしてどのような想いで裏切ったのか。自分が得体の知れない人体実験の被験体にされた事も、それが原因で人間を辞めてしまった事も、全部、全部思い出していた。

「……ブルート、か?」

「御久しゅう御座います、若」

 それはたった一言だったが、軽々しく答えを返すにはあまりにも重い言葉だった。

 咄嗟に答えを見つけられず、僅かに逡巡。空気に少量の緊張が走り、張り詰めたような気がしたのはきっと気の所為ではないだろう。

「悪い」

 結局、選択したのは子供のような謝罪だった。

「お前には、何か一言残しておくべきだったな」

「相談、と言って下さいませ。一声掛けて下されば、もっと上手く逃げ切れるようお手伝いしたのですが」

 出来の悪い生徒に、或いは息子に呆れているかのような声。一人だけで裏切りを強行し、黙って彼等の前から居なくなった件に関しては、今の謝罪で帳消しにしてくれるようだった。

「わざわざ追い掛けて来てくれたのか?」

「はい。小雪様に首に縄を掛けてでも連れ戻せと命令を頂きまして」

「……ぅぐ……」

 前言撤回。ホッと気分が緩み掛けた所で伝えて来た最悪のニュースこそが、この男なりの意趣返しだったに違いない。自分にとっては最後の肉親である血の繋がらない妹の事を思い出し、罪悪感に打ちのめされ呻き声を上げる結果となった。

「……アイツは? どうなったんだ?」

「若と違って周りに合わせられる聡明な方でしたからな。悪魔に唆されて教会を裏切るような愚かな兄を持ったという事で、逆に同情されているようですよ。石を持って追われるような事態にはなっておりませんので、其処は御安心下さい」

「……そうか。まぁ、それなら良かっ──」

「但し本人は烈火の如くお怒りでしたが」

「……」

 グゥの音も出ない。雷獅子と相対とした時と同等であり、同時に全く別種の絶望が両肩に乗し掛かって来て、気持ちが深く深く落ち込んでしまう。

 何時か彼女と再会する事があるのなら、間違い無く制裁を受ける羽目になるだろう。言い訳は利かず、そしてそれは理不尽でもない。自分はそれだけの迷惑を彼女に掛けてしまったのだから。彼女が未だに自分の事を兄と思ってくれているのかは謎だけれど、もしも会えたのなら精一杯謝ろう。そうしよう。

「アイツを護ってやってくれ、ブルート。俺はもう、教会領には戻れないから」

「……御意」

 だが、例え何があってもシンは自分自身の選択を覆すつもりは無い。罪悪感と言うのなら、もっと重くて巨大で淀んだものが、胸を内側から圧迫して来ている。

 怒りをぶつけた。憎悪を叩き付けた。自分が、自分こそが被害者だと信じ込み、何人も何十人も何百人も殺した。殺して殺して殺しまくった。その罪は償えない。一生を懸けたって償い切れるものではないだろう。

 だって、シンの本質は何一つ変わっていないのだ。

 護る為だとか何だとか耳に心地良い事を抜かしながら、敵が現れたらそいつを殺す。剣を振るい、全力を以てそいつを排除する。殺す対象が変わっただけで、全ては自己満足に過ぎないのだ。

「……だが、それでもやり遂げない訳にはいかないんだ。此処でアイツらを死なせたら、死なせてしまったら、俺は……」

 思考が漏れ出たような独白に、ブルートは答えるつもりは無いようだった。

 少しばかりの沈黙が流れ、間を取りなすように風が木々を鳴らす音を窓から流し込んで来る。

 長くて短い沈黙を、最初に破ったのはブルートの方だった。

「それでは、一度教会領へ戻ります。そろそろ小雪様も痺れを切らしている頃合でしょうから。……若」

「何だ?」

 不意に呼ばれて、反射的に聞き返す。ブルートの声は何時も穏やかではあるけれど、それでいて彼の声には無視出来ない何かがある。

「私めは二君に仕える気など毛頭ありません。小雪様とて貴方様の味方である事は何が起こっても変わりはしないでしょう。改めて申し上げますが、次はどうか、事に当たる前に一声お掛け下さい」

「……」

 言うだけ言って、彼の気配は溶けるように消えた。宣言通り、小雪を護る為に教会領に向けて出発したのだろうか。

 此方に返事を言わせる暇さえ与えなかったのは、此方に四の五の言わせる暇を与えない為だろうか。シンに味方するという事は吸血鬼である双子に味方するという事で、引いては人類を敵に回すという事だ。

 それが分からないブルートではないだろうが、それでも彼は、自分の考えを曲げるつもりが無いという事なのだろうか。

「……勝手な奴だ」

「何の話?」

 呟いたシンの言葉に、ひょいと誰かが割り込んで来た。気配も何も感じなかったので驚いて、慌てて声の聞こえた戸口の方へと目を遣る。

「ティス」

「やっほー」

 木洩れ日を思わせる長い金髪がサラリと揺れた。微かに光を宿したようにも見える神秘的な輝きの蒼眼は、シンと目が合うとやんわりと細められる。

 思えば、初めて出会ったのもこの部屋だ。細かい所は異なるとは言え、二度も似たようなシチュエーションが繰り返されると、何だか奇妙な運命めいたものを感じてしまう。

「もしかして、ブルートさんと話してたの?」

 ベッドの脇に並べられている二つの椅子。その内に一つにストンと腰を下ろしながら、ティスはサラリと訊いて来る。

「あの人、シンの部下だったんだってね? シンの味方をする為だけに、討伐隊に紛れて追い掛けて来たんだって」

「……。其処まで話したか」

「うん。シンの事、宜しくお願いしますって頼まれちゃった」

 あはは、と脳天気に笑う。本人が居ない所で何を勝手にと憤る気持ちがある反面、それも一つの手段である事も頭の何処かでは理解出来ていた。

 人間だとか吸血鬼だとか、それだけでヒトを判断しない価値観。シンが意識不明だった時、僅かな手掛かりだけを(もと)に最善の選択してみせた判断力。そして何より、得体の知れない力に振り回されていたシンと互角に戦って見せた戦闘能力。

 あの時の記憶は曖昧だが、全く覚えていないという訳でもない。シン以上に得体が知れなくて出鱈目な能力を使いこなしていた彼女が、只のマイペースな修道女モドキとは到底思えない。

「アイツらは?」

「元気だよ」

 ホラ来た、とばかりに答えられる。一体何がそんなに可笑しいのか、ティスは口元に手を当ててクスクス笑いながら言葉を続けた。

「丸一日、目を覚まさないんだもの。誰かさんの事が心配で心配で堪らないみたい。今は一階(した)でお昼食べてるけど、また直ぐに此処に登って来ると思うよ?」

「そう、か……」

 丸一日。気絶したまま時間を浪費する機会の何と多い事か。今までの三日間とか一週間とかに比べれば短い方だとは思うものの、自分はもう少し気合を入れて日々を生きた方がいいのかもしれない。

「えと、他に報告しとくと、聖騎士団の人達はシンがベリアル化した時に全滅しちゃったし、ブルートさんは味方だったから問題無し。後はイェーガーさんが生き残ったけど、ブルートさんが言うには特に問題は無いんだって」

「……イェーガー?」

「“餓王”だね。電気ビリビリの戦闘狂」

「……はぁッ!?」

 余りにも淡々としている所為で、反応が一拍遅れてしまった。

「お前、アイツが生きてるならノンビリしてる暇無いだろうが! 今すぐ此処から──」

 けれど結局、最初から全ては無駄だった。

 反射的にベッドから飛び出そうとした手が、“つるん”と滑る。普通のシーツには有り得ない感触に抵抗する間も無く身体のバランスを崩し、そのままベッドの縁から転がり落ちそうになってしまう。

「まぁまぁ。落ち着いて」

 そうならなかったのは(ひとえ)に軌道上に居たティスのお陰だった。

 まるでそうなる事が分かっていたかのように両腕を広げて迎え入れられ、彼女の胸に抱き留められる格好となる。

「むが……!?」

 即座に離れようとするが、身体のバランスを崩している上に彼女自身がグイグイと頭を抑え付けて来るのだから如何ともし難い。

 というか息が。酸素が。甘く柔らかな感触はラッキーだと思わない事は無いが、大質量の中に顔を埋めさせられると呼吸するスペースまで無くなってしまうのか。初めて知った。

「ほら、深呼吸。ね?」

 無理だ。

「焦る気持ちは分かるけど、取り敢えず落ち着いて。もういいの。もう全部終わったんだから」

「……」

 頭を抑えつけていた手の力がフッと緩んだ。片腕が後頭部から外れて背中に回り、幼い子供をあやすようにトントンとリズムを刻み始める。

 まるで子供扱いだ。

 一種の屈辱と、それから邪な事を考えてしまった自分自身への羞恥で顔が熱くなるのを感じながら、なるべく相手に負担にならないように体重を掛け、崩れたバランスを立て直す。ちょっと名残惜しいとか思ってしまったのは、気の迷いと断じて意識の隅と追いやった。

「悪い……」

「どういたしまして~」

 身体を離すが、それでも思った以上に顔が近い。相手は全然気にしていない様子で柔らかな微笑を浮かべているし、その顔はやはり吃驚するくらいに整っているしで、シンはもうその顔を見ていられない。急いで彼女から距離を取り、ベッドの上に座り直す。

 今回は、シーツはちゃんと摩擦力を働かせていた。

「あの人は、シンを独り占めしたいらしいよ。折角見つけた強敵なのに、他の奴にくれてやるのは勿体無いって。向こうの立ち回り次第では、強力な味方になるでしょうってブルートさんは言ってたよ」

「……いきなり何を言われたかと思ったが、何だ、つまりそういう事か」

 戦闘狂らしい思考と言える。冷静でなければ一大事に聞こえたが、強制的に落ち着かせられた今となっては、成る程、確かに納得は出来る。問題はシンが奴との決闘で殺される可能性があると言う事だが、それはシンの仕事だ。せいぜい殺されないよう足掻く他無いだろう。

「だから、教会領からの追っ手は振り切った、って事でいいんじゃないかな。シン達の情報が教会領に届く事は無くなるし、新しい討伐隊が来る事も無い。警戒しなくていい訳じゃないけど、此処で静かに暮らす分には何の問題も無いと思う」

「そう、か」

 何時の間にかシン達がこの修道院に世話になる事が決定事項になっている事については、敢えて突っ込みはしなかった。

 実際、有り難い話なのだ。

 人里から離れていて、尚且つ離れ過ぎてもいない。ティス自身はシン達の事情を理解してくれているから色々と助けて貰える局面も多いだろうし、何より彼女は周囲の人間から信頼されている。シン達に向けられる不審の目も、彼女が間に立てば和らぐに違いない。

「……」

 それと、もう一つ。

 掌を這わせたシーツは相変わらずの感触だったが、さっきの一瞬だけはまるで異なる性質を持っていた。

 いや、“書き替えられていた”と表現した方が正しいか。

 ほんの一瞬だけ。シンがシーツの上で滑ってバランスを崩したその瞬間だけ、相手の蒼い目がまるで内部で核融合炉が燃えているかのような強烈な光を灯していたのを、シンは確かに目撃していた。

「……お前の中にも──」

 一体誰が想像出来るだろう。

 今もニコニコと笑っているを持つ彼女の中に、得体の知れない圧倒的で絶対的な“力”が眠っているという事を。

「お前の中にも、居るのか?」

 口封じの為の処刑、或いは体のいい再利用(リサイクル)として、シンは“彼”のコアを体内に埋め込まれた。

 森羅万象を灰燼に帰す無慈悲な焔。有象無象を打ち砕く無双の矛。

 暴走し、一切合切を焼き尽くす筈だったその“力”を、あの時の彼女は悉く受け止め、上手く宥めて抑え込んでしまった。

「私の、中?」

 森羅万象の在り方を決める気まぐれな指標。有象無象を捻じ曲げる最強の盾。

 実際に関わった記憶は全く無いのに、知識としてその情報を持っている。自分自身の記憶ではない誰かの記憶が、頭の中に勝手に居座っている感じである。

 突然の質問だった所為か相手は最初はきょとんとしていたが、やがてゆっくりとその表情を解し、さらりと答えた。

「居るよ」

 真正面から堂々と宣言されて、逆に困惑したのは質問したシンの方だ。咄嗟に何も言えないでいる内に、ティスはほっそりした白い掌を豊かな胸に当てて、何でもない事のように言葉を続ける。

「私も貴方と同じだよ。貴方と同じ実験体で、貴方と同じようにあの場所逃げ出した──」

「……あの場所?」

「勿論、教会領。吸血鬼の真実を知ったのもその時だったかな」

「……!」

 心情としては驚愕が半分、納得が半分といった所だろうか。時折、彼女が普段とは違う顔を覗かせるのは何度か見た事があって、思えばその時から彼女が只者ではないという予感は抱いていたのかもしれない。

 それでも、彼女が自分と似たような経緯で此処に居るというのは(ニワカ)には信じ難かった。

 似たような境遇の人間が、似たような経緯を経て同じ場所へ。

 きっと偶然なんだろうしそれ以外の要素を認めるつもりも無いが、これではまるで、見えない力に導かれたように思えない事も無い。

「だから、嬉しかった。私以外にはたった一人しか居ない同じ境遇の人が、目の前に現れてくれたから。運命……とか言っちゃったら、シンは笑う?」

「……どうだろうな」

 少し不安そうに言われたら、否定した方が負けという気分になってくる。

 ハッキリと答えずに言葉を濁したのは向こうにも伝わってしまったかもしれないが、それでも相手は特に傷付いた様子も見せず、気を取り直したように先を続けた。

「大丈夫。最初は不安かもしれないけど、きっと直ぐに慣れると思う。“ベリアル”も“セラフィム”も制御の利かない怪物じゃないし、万が一片方が暴走してももう一人が抑える事だって出来るんだから」

 ベリアル。セラフィム。シンとティスの中に居る存在だ。知っている。ハッキリした正体が分かっている訳ではないが、この二体がどれだけ強大な力を有しているかは身を以て経験した。

 何がキッカケで暴走するか分からない。そもそもどうやって付き合って行けばいいのかも分からない。

 だからその“力”の扱い方について詳しいティスが傍に居てくれるという事は、シンにとっても大きなプラスだ。追っ手も無い、環境も良いと言うのなら、この修道院に置いてくれるというティスの提案は非常に魅力的なものなのだ。

「……迷惑を掛けるな。何から何まで」

 階段を慌ただしく駆け登ってくる音が聞こえた。体重の軽い、小さい子供の足音が二つ分。

 時間切れかぁ、と少し残念そうに呟いて、ティスが椅子からのんびりと立ち上がる。

 そのまま踵を返して歩き去るのかと思いきや、最後にシンと目を合わせ、ほんの一瞬、何故か緊張したように小さく咳払いをして居住まいを正す。

「シン」

 何時も彼女が浮かべているものとは、まるで別のものだった。見る者を癒やす優しい微笑みでも、微笑ましいものを見守る暖かい眼差しでもない。

 野に咲く素朴な花が、密やかに開花したようなその笑顔。初めて見る彼女の感情をそのまま表すような表情で、彼女は本当に、本当に嬉しそうな調子でサラリと言って来た。

「お帰り」

 迷惑を掛ける、というシンの言葉に対する返事だという事に気付くのに、少し時間が必要だった。

 気付いた時には彼女は既に踵を返していて、部屋に飛び込んで来た双子と入れ替わるようにその場から立ち去っていた。

「シン……!」

 口々に名前を呼びながら、双子が此方に向かって飛び掛かって来る。病み上がりにも容赦無しの二人掛かりでぶつかって来た双子を真正面から抱き止めてやると、彼女達は安堵して脱力したのか、どちらともなくボロボロと涙を零し始める。

「よかった……!」

「いきてた……! いきててくれた……!」

 ぐすぐすと嗚咽を漏らし始めた彼女達は暖かい。足りない、まだ足りないとばかりにギュウギュウと此方を抱き締めて来る腕は小さいが、力強い。

 何か言うべきか、だとしたら何を言うべきかという些細な悩みは、それらを感じた途端にどうでも良くなった。

「おう」

 世界を敵に回した。これからも彼等はよってたかって、悪意と共に襲い掛かって来るだろう。

 それでも自分は躊躇わない。ありとあらゆる悪意から、この小さな命達を護る事。それが自分に出来る唯一の償いで、自分にとっての戦いだから。

「……ただいま?」

 お帰りと言ってくれたティスの言葉は、きっと彼女が思う以上にシンの中に大きく響いていた。彼女に直接返す事は出来なかったが、それでも今ここでその言葉を紡いだのは、何処かで期待していたのかもしれない。

 果たして、双子は反応した。

 先ずはシンからゆるゆると身体を離し、次いで腕を使ってゴシゴシと目許を拭う。意を決したように上げられた顔にはどちらもまだ涙が残っていたけれど、それでも今の二人を見て『泣いている』と思うような奴は居ないだろう。

 ホタルは、にぱっと満開の笑顔を浮かべて嬉しそうに。ヒナギクは、若干視線を逸らして恥ずかしそうに。

 人類の敵と憎まれる彼女達は、普通の人間と全く変わらない感情と共に言葉を紡いで来たのだった。


「「──おかえりなさい」」


○ ◎ ●


『──お前、泣いてるのか?』

 最初に聞いたのは声だった。今でもたまに思い出す時は、真っ先にその声が脳裏に浮かんでくる。

『何か言えよ。黙ってちゃ何にも分かんねぇだろ』

 粗暴だが、手探りするようなたどたどしさがあったその声は、今思えばかなり分かりやすい彼なりの優しさがあった。

 けれどその時の自分にとって、彼は恐怖と憎悪の対象でしかなかった。何しろ彼は、聖騎士団に支給される修練着に身を包んでいたのだから。

『あ?』

 それに当時の自分からすれば、やはり彼は粗暴過ぎた。きっと早朝訓練を終えた帰りだったのだろう。滝のように伝う汗は夜明け前の薄暗い中でも感じられたし、あちこちに刻まれた生傷はこれでもばかりに自己主張していた。今だって余り変わっていない不機嫌な目付きは此方を睨んでいるようだったし、手にした木剣は今にも此方に殴りかかって来そうに思えた。

『何睨んでるんだよ?』

『……』

 早く行ってしまえばいいと思った。自分の事なんか放っておいて、何処かへ消えてくれればいいと、そんな事を考えていた。

 目を逸らし、あからさまに感じ悪く黙り込んでいた自分を、けれど彼は放っておこうとはしなかった。

『ちょっと来い』

 手を取られ、強引に引っ張られて歩き出さざるを得なかった。

 余りの事に声も出ず、咄嗟に悲鳴を上げる事も出来ない。その間にも彼はどんどん先を歩いていき、自分もそれにどんどん引っ張られて行く。夜風だか朝風だかよく分からない曖昧な時間帯の風が身体に纏わりついて来て、酷く肌寒かった事を覚えている。

『……何処に行くの?』

『ついて来りゃあ分かる』

 石畳の歩道に石造りの建物。中世の街並みがそのまま残る都市の中を、彼に引かれるままに歩いた。

 起き出す直前の街並みはいつもとは全然違う顔をしていて少し興味深かったけれど、何処に連れて行かれるのか、何をされるのか分からない恐怖が邪魔して十分に観察する事は出来なかったと思う。

『そろそろ時間か。急ぐぞ』

 あの時の自分は、どうして彼に逆らおうとしなかったのか。きっと、自分がどうなろうと知った事ではないと自棄になっていたのだろう。

 信じていたものに裏切られ、自分自身は得体の知れない化け物に取り憑かれてしまった。胸を張って自分を人間だと言える自信は無くなっていたし、怖いと思うと同時に全て諦める気持ちになっていたのだと思う。

 連れて行かれたのは時計塔だった。

 もう少しすれば、一日の始まりを告げる鐘の音を鳴り響かせるであろうその建物は関係者以外立ち入り禁止の筈だったが、彼はまるで気にする事無くズカズカと侵入し、上へ上へと登っていった。

『……間に合ったな』

 搭の最上階。展望台になっているその外壁に辿り着いた時、彼がポツリと呟くのが聞こえた。一体何が間に合ったんだと疑問に思ったその瞬間、ゴウッと凄まじい風が身体全体に叩きつけられて、思わず目を閉じて顔を庇ってしまった。

 恐る恐る目を開けて、そして。

 そして、見た。


『あ──』


 夜の闇の中に沈んだ自分の故郷である街並みと、その向こうから登って来る黄金の光。鮮烈な陽光が夜の帳を切り裂き、段々とその領域を広げて街並みを、世界を、照らし出して行くその様を、目撃してしまった。

『……何があったのかは知らねぇけど』

 圧倒されていた。言葉で表すとかそんな理性的な事なんか思い付かないくらいに、ただ、ただ、感動していた。

『そんな、何もかもが終わったみたいな顔してんじゃねぇよ。お前はまだ生きてるんだろうが』

 街に朝がやって来る。世界が光に満たされる。当たり前の事なのに、心の奥から抑えの利かない気持ちが溢れて来て、どうしようもなかった。

 ああ、なんてこと。

 この世は、絶望ばかりなんかじゃなかったのだ。




「……綺麗だったよねぇ」

 あれから、何年の月日が経っただろうか。

 彼はもうあの日の事を覚えていないようだけれど、自分はちゃんと覚えている。

 世界に希望を見い出した、始まりの記憶。

 初めて彼と巡り会った、大事な大事な、宝物の記憶──

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