06.『背信の業火』
本来ならば、動く事もままならなかったに違いない。
“餓王”レオンハルト・イェーガーの雷撃は、時に神の剣とまで称される。純粋な暴力、或いは単純な火力だけなら聖騎士団随一とまで言われている彼の怒りを買ってしまえば、後は消し炭になる運命しか残されていないのだ。
「……ッ、……」
そんな事は知っている。十分過ぎるくらいに知っている。事実、今この身体は半分以上が消し炭で、指先一つ満足に動かす事が出来ない状態だ。
こうなる事は半ば覚悟の上だったとは言え、それでもこのダメージは辛過ぎた。泣き喚く事すら苦痛に押し潰され、結局出来た事と言えば声にならない呻き声を口の端から垂れ流す事くらいだった。
「……ッ、は、ぐ……ッ!!」
それでも自分は息をしている。それでも自分は生きている。
動かない指先に力を込めて、倒れ伏した路面から必死に立ち上がろうとするのは、自分にはどうしてもやらねばならない事があるからだ。
「…………ィィィ……ッ」
嘗て、自分には友が居た。何時死ぬとも分からないこの仕事に就いたのは元々復讐が目的だったが、それでも自分が人並みの感情を取り戻せたのは彼等と出会う事が出来たからだ。
自分にとっては掛け替えのない、大切な友人達だった。
今はもう居ない。三人共、とある任務に志願して、そしてそのまま帰らぬ人となったのだ。
「……ナルカミィィィ……ッ」
許さない。
悪魔に魂を売った裏切り者。大事な友人達を虫けらのように殺した殺人鬼。
許さない。許せるものか。
例え“餓王”の怒りに触れようと。例えこの身が八つ裂きにされようと。奴だけは。絶対に、奴だけは。
「──殺してやる……!!」
きっと、自分はその為に生き残ったのだ。
○ ◎ ●
兄ちゃんは人斬りだ、と断じたのは赤鼻の翁だったか。
薪を割る姿を見ただけでそのように決め付け、当時のシンにとっては余り面白くない推論を好き勝手にぶつけて来たのは今でも覚えている。
だが今思えば、あれは面白くないという感情とは少し違うものだった。より近付けた物言いをするなら、必死に隠していた醜い疵痕を無遠慮に白日の下に晒されたような不快感、といった所だろうか。
「──疾……ッ」
身体が軽い。
自分自身でも空想的としか思えない立ち回りでも、身体は難無く実行し、体現していく。無造作に立ち、一歩踏み出したと思った瞬間、爆発的な勢いで景色が霞み、気が付けば相手の背後に、上空に、眼前に移動している。
“影踏”。
その場から掻き消えたかのような神速移動を可能とする歩術であり、シンの戦闘の基盤を支える重要な技術であると、シン自身の身体は教えてくれていた。
ある程度離れていた相手の背後に突如として出現し、その首を苅るべく手の中の倭刀を抜き放つ。上体を倒して躱し、そのまましゃがみ込みながら繰り出して来た相手の足払いは、既にその場から後退していた自分には当たる事が無い。
斬る。
斬る。
斬ってやる。
頭の先から足の指先、刀と切っ先に至るまで、シンの身体が声を大にして喚き立てている。兄ちゃんは人斬りだ、という赤鼻の言葉は、きっとあらゆる意味で正しかったのだ。
「──ナルカミィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!!」
先程、別の人物から聞かされたものとは正反対の喜色満面な叫び声を上げながら、雷獅子が距離を詰めて来る。
今の今まで足払いを繰り出した直後の体勢だったのに、気が付けばもう目の前だ。纏う雷の恩恵なのだろうが、こうも物理法則を無視した動きをしてくるなんて反則だ。
「前よりッ!! 断然ッ!!」
腰の回転が乗ったフック、下がって躱した顎先を狙ったアッパー。只の“暴力”にしか見えない単純な攻撃なのに、伝わって来る圧力が半端無い。気を抜けば頭が持って行かれそうになる暴風に混じり、散った紫電がバチバチと音を立てて噛み付いて来る。
「──動きが鋭いじゃねぇかァッ!!」
打撃、というよりは断撃と形容した方がしっくり来るハイキック。防御したとしてもそれごと頭を消し飛ばすであろうその一撃に対し、シンはその軌道上に鞘から少しだけ刀身を抜き出した倭刀を置いてやった。
「!!」
雷獅子自身の脚力を利用した、変則的な斬撃。上手く行けば相手の足を斬り飛ばすだった筈のそれは、けれど、直後に予想以上の衝撃に襲われた。
(しま──ッ!?)
放電によって刃を弾かれ、そのまま強引に蹴りを叩き込まれた。覚悟はしていたが、その覚悟を上回る衝撃だった。勢いを殺しきる事が出来ず、気が付けば真横に吹っ飛ばされ、廃ビルの壁に叩き付けられてそのままブチ抜いていた。
「ごは……ッ!!」
砕かれた壁がガラガラと崩落する音を何処か遠くの方に聞きながら、打ち捨てられた廃墟の中をゴロゴロと猛スピードで転がる。いきなりの大ダメージに身体中が悲鳴を上げていて、何度か気が遠くなりかけたが、此処で“落ち”れば二度と目を覚ませなくなるだろう。今も尚追い掛けて来ている相手の殺気が、それを嫌という程教えてくれている。
「──あああ……ッ!!」
腹の底から声を絞り出す。転がりながらも何とか起き上がろうと藻掻き、壁に叩き付けられる寸前で無理矢理身を起こす事に成功する。
真っ暗な上に粉塵が舞い上がり、視界はこれ以上無いくらいに悪い。しかしだからこそ、雷光を纏って猛スピードで迫って来る相手の姿は良く見えた。
起き上がり直後のしゃがみ状態のまま、意地でも手放さかった倭刀の柄に手を掛ける。自分が何をしているのかも良く理解出来ないまま、相手が射程に入る前に刃をゾロリと抜き放ち、その刀身を大きく頭上に掲げる。
「──ああああああああああああああああああッ!!!!」
振り下ろした。
渾身の力で振り下ろしたその刃は、まだ入口辺りを踏み込む直前だった相手には当たる事無く空を斬り、床に叩き付けられてザクリと喰い込む。
不発か。いや、そうではない。
断ち切り、刀身に纏わり付いて爆風と化していたその場の大気。今や当たり前のようにシンの体内で練り上げられ、倭刀にすら充填されていた闘氣。混ぜ合わさり、見えざる一撃として形を得ていた巨大な風刃が、床と天井を断ち割りながら雷獅子に向かって突き進んでいた。
「うお……ッ!?」
雷の塊が、掻き消える。直後、其処に到達した風刃がシンの空けた大穴を更に大きく斬り裂いて、外に向かって飛び出していく。
(ははは……何だ、今の……)
あんな芸等が出来るなんて、自分自身でも吃驚だ。自分に何が出来るのか改めて気になってきたものの、残念、今はのんびりとそれを検証している場合ではない。
「はーっはっはっは!!!!」
轟音。
シンが空けた大穴の斜め上。其処の壁が迸る雷撃と共に粉砕され、雷獅子の巨体が勢い良く飛び込んで来る。
まだ着地もしない内から掌を翳し、放って来るのは稲妻。二発、三発と放たれたそれは着地の瞬間を狙われない為の牽制だろうが、勿論当たれば只では済むまい。
(くそったれ……!!)
少しくらい休ませやがれ。声にならない悲鳴を心中で吐き捨てながら、稲妻が放たれる一瞬前にその場から離脱。ギリギリのタイミングで躱していく。
とは言え、逃げ回っていても埒が明かない。着地した際、最後の仕上げとばかりに放たれた稲妻を真横に身を逸らして躱した瞬間、シンはそのまま反撃に転じる事にした。
「疾……ッ!!」
放たれた稲妻の脇を遡るように接近。シンの開けた大穴付近から部屋の中央まで一気に移動し、次の瞬間にはシンは相手の眼前にまで肉薄していた。
「──破!!」
信じられないくらいに身体が動く。嬉しそうに驚いた顔をする相手の眼前で、シンは一息に倭刀を抜き放つ。
その数、九つ。
一瞬で放たれた九つ斬撃は相手の頭の先から足元までをカバーする斬撃の壁と化し、相手を細切れにするべく襲い掛かる。
「おおおッ!?」
流石の相手も、これには度肝を抜かれたようだった。
身体の前面に浅い斬り傷を幾つも作り、其処から血を噴き出させながら、何とか致命傷を与えられる前に後退する。
「……はは! ははは!!」
だが、それだけだ。
次の瞬間、後退してシンの射程圏から逃れた相手の体躯が、ぶわっと異様な圧力を伴って宙を舞う。
慌てて倭刀を納刀しつつ、本能に従って後退すれば、相手の踵がその鼻先を掠めて通過。そのまま相手はシンの眼前に着地し、間髪入れずに襲い掛かって来た。
「おらぁッ!!」
轟ッ、と肝が冷える音を纏わせて、相手の拳が顔面目掛けて伸びて来る。空いた片手を真横から添えて強引にその軌道を逸らし、カウンターで相手の胴体に倭刀の柄頭を突き入れる。
肋骨をへし折るつもりで叩き込んだのに、返ってきたのは分厚く重い、まるで巨大なゴムタイヤでも殴りつけたかのような手応えだった。
(かってぇ……!?)
放電能力云々の前に、先ず素体からして厄介なのだ。下手な打撃などダメージどころか、相手が此方を捕まえるチャンスにしかならないくらいに。
「ぬん……!!」
一度は逸らされた拳で、相手は此方を強引に殴りに来た。
裏拳の要領で振り抜かれたそれの圧力に抗う事が出来ず、シンの身体は思い切り崩れ、半ば真横に吹き飛ばされるようによろめいてしまう。
「く……ッ!?」
相手が追撃に移ろうとしているのは見えているのに、体勢を崩された身体はそれに対処する事が出来ない。相手の身体がバチバチと放電し、雷光の尾を引きながら開いた距離を詰め直して来るのを、シンは黙って見ている事しか出来なかった。
「──はは、捕まえたァッ!!」
左右から猛烈な勢いで挟み込んで来る相手の両手。万力のようにシンの両肩を締め上げ、抵抗する暇もなく高々と持ち上げたかと思うと、次の瞬間には情け容赦無く床の上に叩き付けられていた。
「……ッ!?!?」
息を吐く事すら出来ない。悲鳴を上げるなんて尚更だ。
衝撃に息を詰まらせ、その場で硬直している間に、真横、脇腹の辺りに衝撃が来た。蹴飛ばされたのだと気付いた時には、ボール宜しくその場から吹き飛ばされた後だった。
「がふ……ッ!!」
強い。パワーもスピードも、人間の限界を軽く凌駕している化け物級だ。
叩き付けられた壁をずり落ち、霞んだ視界の中に相手の姿をボンヤリと納めながら、呑気にそんな事を考える。
相手は一体何をしているのだろう。激しく放電し、身体を小さく丸めて、まるで力を溜めているかのような……──
「……!!」
シンがダメージのショックから我に返るのと、相手の身体から放たれる雷光が爆発的に強くなるのはほぼ同時。
半ば倒れ込むようにシンが脇に倒れ込むのと、相手が雷光の塊と化して突っ込んで来るのもまた、殆ど同時の事だった。
「──オラァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
稲妻、というよりはまるっきり彗星だった。
直撃こそ免れたものの、その理不尽なまでの運動エネルギーの余波は爆風と化して周囲に拡散し、俯せに倒れ込んだシンもその煽りを食らって吹き飛ばされそうになる。
轟々と吹き荒れる風の音、雷の塊が壁を破壊し、建物全体を揺るがす轟音、衝撃。
実際にはそんなに長い時間では無かった筈だが、少なくともシンにとっては永遠に続くようにも感じられた。
「……化け物め……」
自分はその言葉を呟けたのだろうか。耳鳴りが酷くて、自分の声すらも聞き取る事が出来なかった。
途中で目を逸らしていたから視界はボチボチ回復し始めていたが、こうも連続して閃光に目を晒されていたら、その内目が潰れてしまいそうな気がする。
「くそ……」
倭刀は、未だに手の中にある。あれだけボコボコにされていたのに、よくもまぁ途中で手放さなかったものである。
手足の延長、身体の一部と言った所だろうか。その根性は我ながら感心してしまうが、残念、その武器はあの化け物に対してはあまり通用しないらしい。事実、此方はこんなにもボロボロなのに、相手は浅い傷を幾つか負っただけなのだ。
やってられない。規格外のスペックの身体に加え、強力な雷撃まで操る化け物を相手に、鉄の得物を振り回すだけの人間が勝てる筈無いではないか。
“──本当に、そうか?”
立ち上がる。
乱れた呼吸を抑える為に一旦大きく深呼吸をしてから、たった今雷獅子が開けた大穴からひょいと顔を覗かせる。
“──本当に、そうなのか?”
大通りは、と言うか、通りを挟んで反対側の廃ビルは、さっきまでとは大きく様相が変わっていた。
雷獅子が止まりきれずに突っ込んでいったのだろう。壁には大穴がぽっかりと口を開けていて、パラパラと細かい粉塵が垂れ落ちていってるのが見て取れる。しかも傷跡はそれ一つだけではなく、その隣には縦に細長い割れ目が深い深淵を覗かせていた。
あれはひょっとして、さっき自分が放った“斬撃波”によるものだろうか。
“──それならば、どうして俺は”
ガラリと瓦礫を蹴飛ばして、大穴の向こうから雷獅子が顔を出した。
流石に電力が切れたのか、それとも気紛れに帯電していないだけなのか、今は紫電を纏っていない。
“──あんな苦しい思いをしてまで修練を積んだんだ?”
血の味がする。
口の中を切ったのか、それとも何処かのタイミングで体内に深刻なダメージを貰ったのか。
当たり前だが、今は治療する暇なんてない。血の味の唾を脇に吐き捨て、口元を拭うだけで済ませる。改めて雷獅子の方に視線を戻すと、それを待っていたかのように相手が口の端を吊り上げるのが見えた。
「ハッ、いいねぇ。やる気満々といった所か?」
「……は?」
「惚けんなよ。目を見りゃ分かるぜ? 首だけになっても喰らい付いてズタズタに引き裂いてやるって顔だ」
「……」
顔。
反射的に手を遣り、触って確かめてみる。が、普段からそういう真似をしない所為か、自身が今どういう表情をしているのかは分からない。
『首だけになっても喰らい付いてズタズタに引き裂いてやる』?
まるで鬼のような形相、みたいな解釈でいいのだろうか。
「……アンタを殺さないと俺は生き残れない。どうせそういうルールなんだろ?」
「はっは。良く分かってるじゃねぇか」
顔から手を離しながら口を開けば、相手は楽しそうな笑い声で返してくる。殺されない、負けない自信があるからというよりは、その結果に至るまでの過程に想いを馳せている感じだ。
戦闘狂だというのはもう十分分かっているので今更驚きはしないが、こんなにも実力差がハッキリしたにも関わらず、未だに相手が此方に期待しているままなのは正直不可解だ。
さっきから半ば一方的にやられているだけの男に、相手は一体何を期待しているというのか。
“──ふざけるな”
ずくん、と胸中に鈍い痛みが走った。
ずくん、ずくんと心臓の脈動に合わせて繰り返されるその息苦しさが、“怒り”によるものだと気付くまでには少し時間が必要だった。
“──ふざけるな”
“──ふざけるなよ”
“──才能が無いからなんだ”
“──特別でないからなんだ”
“──それでも俺は剣を取り”
“──血反吐を撒き散らしながら修練を積み重ねて来たじゃないか”
修練。
元来、特別な才能に恵まれなかった自分に出来た事と言えばそれだけだった。
頭では覚えていない。だが、苦痛と共に刻まれた感覚と技術は、身体に染み込んで消える事は無い。
その感覚が、訴えている。
このまま敗れて屍を野に晒すのは、凄く、凄く、納得が行かない……──!
「……行くぞ」
「おう」
燃え盛るような怒りは心臓に。凍り付くような殺意は脳髄に。
無様な醜態を晒したままでは終われない。二人で示し合わせたかのように足を踏み出して、広い大通りを主戦場に戻すべく互いに数歩だけ歩み寄り──
「「────!!」」
地を蹴った。
筋肉に力を溜めて爆発させるのではなく、滑るように移動させた重心に身体全体を引っ張って貰う。
ある程度助走を付けてから跳躍、相手の頭上を取る。彼からすれば、掻き消えるように居なくなった敵が、唐突に頭上に出現したように見えただろうか。
「うお……ッ!?」
落下しながら倭刀を鞘走らせ、抜刀。
相手の脳天を狙った兜割りは、けれど寸前で躱され、狙った頭蓋の代わりに古びた路面を叩き割る結果に終わってしまう。
雷光を纏い、相手は人間の限界を大きく超えた速度で後退していた。回避が成功した事で少しでも気を抜いていてくれれば儲けものだとか考えながら地を蹴って、当然のように相手の頭上へ再出現する。
「ちょ、またか……!?」
一回。二回。もう一回。
後ろに、或いは左右に逃げる相手の頭上に被さるように兜割りを重ね、執拗に追撃。全部で四回繰り返されたシンの落下はテンポ良く連なって、短いが派手なメロディーをその場に轟かせた。
「野郎……!!」
だが、同じ事を繰り返せば流石に相手も慣れて来る。
五回目の跳躍に入り、空中で倭刀の柄に手を掛けた時、掌にバチバチと紫電を集中させた雷獅子が、此方をギロリと睨み上げているのが見えた。
「何度も同じ手を喰らって堪るか……ッ!!」
此方目掛けて、雷獅子は紫電の掌を突き出そうとしたらしい。恐らくは溜めた雷を照射して、此方を迎撃しようという算段だったのだろう。
雷に呑まれる直前の空間には、得体の知れない、けれどそれでいて狂おしい程の恐ろしさがある。時間が凍り付いたかのような静寂の中、それでも口角を吊り上げる事が出来たのは、“読み勝った”という確信があったからだろう。
「ああ。だろうな」
ギョッとしたように目を剥く相手の表情を目掛けて、抜刀。落下しながら断ち割る兜割りではなく、滞空状態から刀身を飛ばす空中居合だ。
鞘を滑る涼やかな音と共に放たれた刃が、直前に気付いて身体を仰け反らせようとした雷獅子の胸元に噛み付いて、黒い血飛沫をパッと散らすのが見えた。
「おお……ッ!?」
浅い。
悲鳴というよりは単に驚いただけのような声を聞きながらストンと着地、同時に地を蹴って素早く後退。仰け反り状態から復帰する反応をそのまま転用、空を引き千切る勢いで殴り掛かって来た相手の拳をギリギリで回避。
攻撃を空振りさせた雷獅子から二、三歩分程離れた地点に“出現”したその時には、既に腰に構えた倭刀を抜き放つ準備は整っていた。
「破!!」
ついさっきも繰り出した一撃九閃。頭の先から爪先までを大雑把にカバーする斬撃の壁は、けれど次の瞬間、上空へ駆け登っていった雷光の尾を斬り刻んだだけに留まった。
追い掛けて即座に視線を上げれば、上空が逃れた相手が此方を見下ろし、激しく発電して反撃を始めようとしているのが見えた。
“──落ち着け”
“──逃げるな”
“──彼処は、お前の間合いだぞ……!!”
激しく放電して推進剤代わりとし、上空から猛烈な勢いで降下しながら繰り出す強襲蹴り。ただの勘か、はたまた技の“起こり”を極度の集中が解析したのか、相手の狙いは何となく読めた。あんな攻撃、食らえば胴体を貫通どころか胴体が爆散してしまうに違いない。
これまでなら恐怖に負けて回避を選択していただろうシンの身体は、けれど今回は正反対の対処を選択していた。
「そこか」
一閃。
間髪入れずに上空へ飛ばされた刀身は、其処に滞空していた雷獅子の身体を容赦無く捉え、勢い良く弾き飛ばす。
本来ならば、真っ二つにならずに吹き飛ばされただけという状況に疑問を持つべきだったのだろう。
が、のんびり思考するその前に、シンは反射的に相手を追って動き出していた。
(終われ……ッ!!)
始めの数歩は普通に駆け出し、山なりの軌道を描く相手の予想落下地点を真っ直ぐ目指す。そこから“影踏み”を発動、今まさに路面に叩き付けられようとしている相手の身体に一息で追い付いて、その脇を勢い良くすり抜ける。すり抜け様に、両断しようとする。
「……ハッ!」
出来なかった。
相手の身体に追い付き、すり抜ける為の一歩を踏み出すその直前、堪えきれなくなったように笑い出す相手の声が確かに聞こえた。
「──楽しくなって来やがったぁッ!!」
瞬間。
シンの身体は、容赦無く弾き飛ばされていた。
何が起こったのか把握出来ないでいる間に背中を打ちつけ、あれよあれよと言う間に地面を転がる。咄嗟に受け身を取ろうとしたが、身体に残る奇妙な痺れがそれを邪魔して、結局それは叶わない。中途半端に体勢が代わり、余計に身体のあちこちをぶつけただけだ。
最終的に俯せになるように路面へと倒れ伏し、そのままほんの僅かな間だが、奇妙な痺れの所為で動く事が出来なかった。
痺れが抜けるや否や、弾かれたように身を起こす。上げた視線のその先には、同じように身体を跳ね起こす雷獅子の姿が見えた。
「最高だ……!! お前は最高の強敵だ!!」
強烈な放電による吹き飛ばし。さっきの対空居合が両断に至らなかったのも、相手が放電によって斬撃の威力を弱めた故だろう。
拙い。此方は居合や歩術を使うのに、ある程度気を練って姿勢を整えなくてはならない。
それに対して、相手は能力と身体能力だけにしか頼らない。構えらしい構えも取らずに、雷光を纏って此方との距離を一気に詰めて来る。
「刃匠ぉぉぉぉォォォッ!!」
歯を喰い縛り、恐怖を噛み殺しながら身体を捌いたその直後、突進の勢いをそのまま利用して殴り掛かって来た雷光の塊が、鼻先を掠めて通過していく。
躱した、と息を吐く暇も無い。
自分の攻撃が空振りに終わったと見るや、相手はその場に急停止。此方に向かって猛烈な勢いで振り返り、ついでに此方の頭を狙った強烈な後ろ回し蹴りを繰り出して来る。
「……!!」
振りは大きいのに、構え直す時間を中々与えて貰えない。繰り出される攻撃そのもののスピードが速過ぎて、そのクセ大振りだから範囲も広くて、結果として限られた時間の殆どを回避に費やさざるを得ないのだ。
寸前でしゃがみ込み、後ろ回し蹴りを回避。逃げ遅れた髪の毛先が、雷纏う蹴り足に灼かれるのを自覚しながらも倭刀を腰に構え、その柄に手を掛けようとする。
だがその時の相手は既に蹴り足を引き戻し、力強く跳躍している最中だった。
「!!」
空中でグルリと縦回転、十分な勢いを味方に付けて、身体ごと落下する踵落としを繰り出して来たのは、直後の事だった。
「はっはァッ!!!!」
轟音。
まるで、至近距離で小規模な爆発があったかのようだった。
しゃがみ状態のまま路面を蹴り、そのまま路面を転がって後退する事で何とか回避。少し離れた位置で再びしゃがみ状態に戻り、同時に視線を上げてみると、其処には真上に勢い良く舞い上がった粉塵が見えた。
それからついでに、その中に紛れて消えて行こうとしている雷光の尾も。
(上か!?)
わざわざ上を見上げなくても分かる。此方より速く態勢を立て直し、粉塵に紛れて跳躍した相手が、上空から猛烈な勢いで接近して来ているのを。
先程はシンの対空居合により決まらなかった強襲蹴り。シンの射程圏から遠く離れた上空から、より強力な雷光と共に突撃してくる。
「──オオラァアアァアァアアァアァアアアアア……ッ!!!!」
正に落雷そのものだ。
空気が破れたかのような爆音に耳がやられ、広がった爆風に“背中を”押されてバランスを崩しそうになる。
(だが、まだだ……!!)
瞬時に判断し、相手の蹴りの向こう側に逃げるべく“前進”した甲斐はあった。衝撃にグラつきながらも急停止して反転、飛び散った路面の破片が顔面にぶつかってくるのも気にせずに相手の方を振り返る。
「征……ッ!!」
一度繰り出した事のある技だ。再現するのは造作も無い。
反転しながら倭刀を下から上へと斬り上げるように抜き放ち、剣氣の残滓を三日月形の斬撃波として射出。それは半ば路面を断ち割りながら疾走していき、強襲蹴りの威力で出来上がったクレーターにまで一瞬で到達、真っ二つにする。
これで終わってくれという願いを込めて、結果を見守る僅か数瞬。クレーターの、真っ二つに裂けた所からは若干ズレた場所から稲光が噴き上がったその瞬間、シンは斬り上げてそのままだった倭刀の刃を返し、二射目の斬撃波を放つべく全力で振り下ろしていた。
「破……ッ!!」
穴の底から飛び出して来た雷獅子は、ポンと横にズレてそれから逃れてしまう。片足を軸にした回転斬りから放った三射目も、その刃を返して斜めに斬り上げる事で放った四射目も、相手は忌々しい雷光と共に悉く躱してしまう。
「どうだ、刃匠──?」
巻き添えを喰らった廃ビルが刻まれ、斬り取られた壁が崩れる音が響く最中。
シンは、信じられないような至近距離でギラギラと輝く相手の双眸を見ていた。
「捕まえてやったぞ──!!」
衝撃。
目の裏に大量の電流が走り、頭の中が真っ白になった。
「────────?」
耳元で、風が唸っている音がする。
口の中が鉄臭い。指先や背中は氷のように冷えて感覚が無いのに、異物が張り付いているような感じがする腹部だけが妙に熱い。
「が……ッ!?」
知覚した途端、熱は渦巻き、捩れるような苦痛に変質していった。せり上がってきた嘔吐感に堪える事が出来ず、弾かれたように目を開く。
「何だ、気絶してたのか?」
“耳元で、風が唸っている音がする”。
先ず最初に印象に残ったのは、夜気の中にふわりと広がった相手の髪と衣服の裾。跳躍し、今から落下に入る直前みたいだという呑気な感想を抱く。
それが現実のものであると気付くのと、組み合わされて重さを増した相手の拳が真上から振り下ろされるのは、殆ど同じタイミングだった。
「そぉら、落ちろォッ!!!!」
腹を抉り、胴体を力任せに打ち上げる強烈な一撃により、有り得ない高度まで上空に吹き飛ばされた。
気を失う直前の事を思い出してしまったのは、今まさにその打ち上げられた距離を強引に叩き落とされたからだ。
「ぐ、お……!?」
相手の打撃を防ぐべく掲げた倭刀は、打撃の直撃を阻止したという事以外、何の効果も無かった。
圧倒的な膂力による打ち落とし。空中、それも不意打ちと悪条件が重なればその力を何処かに逃がす事も出来ず、暗い地表に向けて真っ逆様に叩き落とされる羽目になる。
「ッ……ッ!!」
受け身も取れずに背中から路面に叩き付けられ、咄嗟に悲鳴すら出て来ない。
俺は今生きているのか。ひょっとしたらもう既に死んでいて、強過ぎた苦痛だけが死んだ後も身体を苛んでいるんじゃないのか。
たった二撃。
たった二撃で、このザマか。
「……ッ、は……ッ、う、が……ッ!!」
まだ死んでいない。いっそ止まった方がマシなくらいだが、それでもまだ俺は息をしている。
視線の先には、廃ビルによって四角く切り取られた紅い月の夜空。そしてそんな夜空を背後に背負い、此方に向かって落下してくる雷獅子の姿。
「あ……」
もういいじゃないか、と誰かが言った。
このまま動かなければ、あの一撃は必ずこの身を貫くだろう。今まで全身に纏わせていた雷を全て右腕に収束させた一撃だ。きっと苦しむ暇も無く、この身は消し飛ばされるに違いない。
あんな化け物を相手にして、自分は此処まで頑張ったのだ。もういいじゃないか。此処で、終わりにしてしまっても。
「ああ……」
流石に疲れた。
もう限界だ。
そもそも人間と戦っている気がしなかったのだ。少々鉄の刀の振り回し方を知っているからと言って、人間が雷と戦って勝てる筈がない。
「…………ぅ…………」
それなのに。
今だって、確かにそう思っている筈なのに。
どうしてだ。
どうして俺の身体は、動き出すんだ。
「──おおおおおあああアアアアァアアア……ッ!!」
起き上がる。
折れたり割れたりしているらしいあちこちの骨がバキバキと音を立て、限界を超えたらしい筋肉がブチブチと千切れていく。
ボロボロだ。
戦うなんて、有り得ないくらいにボロボロだ。
それでも身体は膝を付いて態勢を整え、手は倭刀の柄へと伸びている。
此処で戦いを放棄して、自分がくたばるだけならそれでいい。だが、結末はそれだけでは終わらない。
シンが此処で倒れれば、次はその背後の三人の番だ。吸血鬼である双子はそうだというだけの理由で殺されて、ティスは彼女達の肩を持ったという理由で同様の運命を辿るだろう。
諦めないのではない。負けたくないのではない。
諦める訳には、負ける訳にはいかないのだ──!
「流石だな……!!」
バチバチと迸る雷撃の音。既に雷獅子はすぐ其処にまで迫り、雷を纏わせている拳を大きく振り上げていた。
「決着と行こう……!!」
考えている暇なんて、ある筈も無かった。
気が付けば自分の眼前で柄が右に鞘が左に引き抜かれ、現れた淡い紅色の刀身に必死な形相の自分の顔が映っているのが見えた。
「──終われえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……ッ!!!!」
先ず始めに、倭刀を思い切り振り抜いた感触があった。
次いで、自分を中心としたその場一帯の空間を縦横無尽に斬り分けるように、紅い斬閃が走り回ったのが見えた気がした。
体力も気力も底を突いた、極限状態。
苦痛も恐怖も突き抜けた、まるで時が止まったかのような感覚が、其処にあった。
「……………………」
どれほどの時間が経ったのだろう。雷獅子の右腕が着弾する音で、我に返った。
「ごふ……ッ」
ズシンと路面を砕きながら雷獅子の身体が路面に着地するのと、限界の限界を迎えたシンの体奥から血が競り上がって来るのはほぼ同時。
ポタポタと口元から溢れた血が、足元に垂れる。
その音に被さって打ち消すように、びちゃりと液体がブチ撒けられる音が聞こえたのは直後の事だった。
「──“刃匠”。いや、シン・ナルカミ」
音の源は、背後から。
次第に密度を増していくその音に塗れていても、雷獅子の声は今までとまるで変わらない。
化け物めと内心で吐き捨てながらも、身体は染み付いた動きを繰り返す。
真上に斬り上げたままだった倭刀を一旦斜めに斬り下ろし、血を払った刀身を顔の前で鞘の中に納めた。
「見事だ」
チン、と涼やかな鍔鳴りの音に重なるように、右腕を路面に突き刺した雷獅子の身体が、ドサリと音を立てて路面に投げ出される。
止まっていた時間が動き出したように、或いは限界まで膨張した緊張が遂に破裂したように、路面に、瓦礫に、空間そのものに断線が刻まれたのは、直後の事だった。
「……くそったれ」
遂に体勢を維持出来なくなって、無様にその場に尻餅をつく。
腕は上がらず、呼吸するのもままならない。それでもどうしても言っておきたい一言があって、シンは口から垂れる血も拭わないまま、無理矢理言葉を絞り出したのだった。
「……もう、二度とやらねぇからな」
○ ◎ ●
そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。
消えていた相手の気配が背後で再び灯るのを感じ取り、シンは溜め息混じりにゆっくりと口を開いた。
「……早過ぎだろ。どんだけ生命力強いんだ、テメェ……」
体力は殆ど戻っていない。そもそもシンがこの場に尻餅をついてから今に至るまで、三十秒経ったかどうかも怪しい所だ。
一撃必殺のプレッシャーに晒され続け、最後にはそれを二発も貰った。氣で大部分はカットしていたとは言え、攻撃を当てる度に相手の電流は此方に流れ込んで来ていた。
今こうして意識を保てているのが、自分でも不思議なくらいである。
「……。俺は、気絶していたのか?」
「ほんの、少しだけな」
本当は、バラバラになっていてもおかしくないのだ。
一息で抜き放った倭刀をトップスピードを維持したまま縦横無尽に振り回し、自身の周囲に斬撃の結界を張り巡らせる大技。自身の身体に掛かる負担も大きいので乱発は控えるべきだが、多人数、或いは立体的な戦いを得意とする相手には高い効果を発揮する。
「“殺界”──」
自然と口を衝いて出たこの名前こそが、この技の呼称なのだろう。
記憶は未だに戻ってこないのに、戦いに関する記憶だけはポンポン出て来るのは、何とも微妙な気分だった。
「範囲内の敵を、問答無用で斬り刻む“必殺技”……だった筈、なんだが」
「ああ、これほどの深手を負わされたのは初めてだ」
右腕、左脚。肩から胸、胸から腰を繋ぐライン。右目と左目の間を通り抜ける斜めのライン。
他にも細かいのを挙げようとすればキリが無いし、わざわざ振り返る元気も無いので確かめようがないが、相手はそれだけの多くの場所を斬り刻まれている筈だ。
にも関わらず、息も絶え絶えな自分とは対照的に、相手の声は元気そうだった。このままいきなり立ち上がり、さぁ続きだ、等と言って来てもおかしくないレベルである。
が、内心でヒヤヒヤしていたシンの心配を知ってか知らずか、雷獅子は至極あっさりと言葉を続けた。
「“クラマリュー”だったか。東洋の剣技の神秘、しかと堪能させて貰ったぞ。くく、今回は俺の完敗のようだ」
「……」
クラマリュー。クラマ流? ひょっとして、シンの扱う剣技の名前だろうか。
完敗。但し、『今回』は。
つまり、これからも戦いを挑んで来るという宣言だろうか。
「……元々、そっちが言い出した決闘だ」
気になる事は幾つかあった。
だが、今は自分の事よりもヒナギクとホタル、ティスの方を優先すべきだ。
「アンタは負けて、俺は勝った。まさかとは思うが、自分の用事が済んだら後は部下に丸投げ……なんて真似はしないだろうな?」
「当然だ。今この時から三日間、俺達は貴様達を手を出さない。あの三人を連れて、何処なりと好きな所へ逃げるがいい」
「……へぇ」
思ったより、潔い男のようだった。今、この場から見逃して貰えるだけでも有り難いのに、三日間の猶予というオマケまで付けてくれた。
気になるのは部下の反応だったが、それも深刻に考える必要は無いだろう。今現在、シンは明らかに疲弊している姿を晒しているのに、彼等はしゃしゃり出て来る気配を見せないのだ。
彼等は雷獅子の言葉に従うだろう。逆らえばどうなるか既に知っているだろうし、雷獅子はそれを実演してみせている。
ほぅ、と自身の口から安堵の息が漏れるのを感じた。
思ってしまったのだ。雷獅子は嘘を吐くようなタマではないし、とにかくこの場は逃げ切ったと一先ず安心していいのではないか──と。
「……?」
油断していた。
背後に倒れている男の力を、恐怖を自身の身体で体感していたからこそ、其処まで気が回らなかった。
確かに、雷獅子は部下達に恐れられている。
だが、しかし。
自分は、彼等から殺したい程に憎まれているのだ。
「──うおおおおおおおおおおおおお……ッ!!!!」
最初は、奇妙な気配を感じただけだった。
だがそれは次の瞬間、明確な殺意の塊へと姿を変じ、自らの存在を強烈にアピールし始める。
「アイツ……!?」
ギョッとして振り返った視線の先──倒れている雷獅子よりも、もっと、もっと先の地点。
一番最初に雷獅子の稲妻を喰らい、大通りの奥の闇へと呑まれていった筈の大男が、ビルを背に三人で固まっていたティス達に向かって襲い掛かろうとしているのが見えた。
逃げろ、と叫ぼうとした。
今のシンではあの場所まで一瞬で駆け戻る事なんて出来ないし、あの三人には自分自身を守る事なんて出来ない。あの太い腕で殴り付けられ、成す術も無く路面に叩き付けられる三人の姿が目の裏に浮かぶ。
「……ふむ」
だが、実際にはそうならなかった。
大男が三人に肉迫するよりも早く、彼女達の前に立ち塞がる人影があったからだ。
「気迫は十分、ですな」
大きさだけなら雷獅子の上を行く筈の巨躯が、いとも簡単に宙を舞った。殴り掛かる腕を絡め取り、自身より何倍も重そうな巨体の懐に自ら潜り込んで、そいつが大男を投げ飛ばした結果である。
傍目八目とは言うが、傍から見ていたシンでさえ、一瞬何が起こったか分からなかったくらいだ。当事者である大男は完全に理解が追い付かなかったらしく、抵抗も何も出来ないままに路面に叩き付けられていた。
「が……!?」
ズンと軽い地響きが周囲を揺らして一秒、二秒。
ハッと我に返った大男が起き上がろうとし始めたその時には、“ソイツ”はその腕と肩を自身の体重も使ってガッチリと極めて、完全に動きを封じてしまっていた。
「ブルート、テメェ……!」
「命令ですので」
ドス黒く染まりきった怨嗟の声を受けても、老人は澄ましたものだった。
大男は何とかして拘束を振り払おうと頑張っているらしいが、ブルートは巧みに重心を移動させてそれを回避、依然として拘束を緩めない。力比べにおいて圧倒的に有利に働く筈の体格差を技術を以て完全に封じられ、大男は完全に沈黙させられたかのように思われた。
「…………?」
それなのにシンの心音は、妙に大きく波打っていた。
雷獅子と対峙している時とはまた違う、執拗に纏わり付いて来る奇妙な悪寒。彼方が迫る導火線に追い立てられるような焦燥感ならば、此方は冷たい泥沼に囚われたかのような不快感だろうか。
(アイツ、何をするつもりだ……!?)
嫌な予感。そう、まさにピッタリな表現だ。
まだ憎悪を切らしていない、自身の目的を諦めていない大男の形相を見て、シンの直感は最大限の警鐘を鳴らしていた。
「これでいいのか……ッッ!?」
路面の上に押し倒された人間のものとは思えない、力強く張りのある声。
元々からして声量はデカかったとは思うが、その声にはそれだけでは説明の付かない、聞く者をハッとさせる何かがあった。
「これでいいのかァッッ!!?」
黙れとばかりに、ブルートが腕を極める力を強めたのが分かった。大男の腕が有り得ない方向に大きく反り返り、ギチギチと骨が軋む音までが聞こえて来そうだった。
しかし、大男は止まらない。絞り出すような、血を吐くような声で叫び続け、周囲一帯の空気をビリビリと震わせる。
「目の前に居るんだぞッ!!?」
目が合った。ブルートに押し付けられて尚、相手は頭を無理矢理動かし、此方をギロリと睨み付けていた。
決して近いとは言えない距離なのに、彼の表情は良く見える。歯を剥き出し、ギラギラと輝く目で此方を一心に睨み付けているその形相は、憎悪一色に塗り潰されていた。
「あの裏切り者が目の前に居るんだぞォッ!!!!」
暴力と恐怖を以て部下達の行動を制限していた雷獅子は、シンとの戦いで傷付き、直ぐには動けない。
部下達にも、それが分かったのだろう。大男の叫び声に触発されたように、あちこちで殺意が膨れ上がって行くのが感じられた。
「テメェらァッッッ!!!!」
並みの者なら吹き飛ばされてしまいそうな迫力で、雷獅子が怒声を張り上げた。戦闘狂だが誇り高く、故にこの場はシン達を見逃すという約束を反故にする展開は許せなかったのだろう。
けれど、今の彼は死に体だ。手を出されないという確信がある以上、部下達は彼に従わない。
「殺せェッ!!!!」
トドメとばかりに大男が叫ぶ。今まで黙ったまま動こうとしなかった部下達が動き始める。
シンにとっては最悪の展開だった。ブルートが極めていた腕の拘束を緩め、代わりに何処からともなく取り出した短剣を間髪入れずにその側頭部に叩き込んでも、最後まで彼は叫び続けていた。
「悪魔共を、殺せェ──!!!!」
(畜生……!!)
もし、仮に。
あちこちで噴き上がった殺意が全て自分に向けられていたなら、シンはこの状況を“最悪”だとは思わなかっただろう。
仲間を大勢殺したシンに対する憎悪より、聖騎士としての使命を選んだのか。それとも単純に、単に目に入ったから狙う事に決めたのか。
シンに向けられる大量の殺意の向こうで、幾つかの殺気が双子やティスに向けられるのがハッキリと感じられた。
「お……!!」
既に身体は限界で、もう一歩も動きたくないと駄々を捏ねていた筈だった。
それでも、気が付けばシンの身体は動き出していて、三人の方に向けて駆け出そうとし始めていた。行く手を遮るように飛び出して来た人影や、背後からピタリと合わせられた狙撃手の殺気は、最初から気にもしていなかった。
「おおおオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
やらせない。この身が朽ちても、あの三人だけは絶対に。
自身の口から零れ落ちる雄叫びだけを支えに、聖騎士達が飛び出し始めていた大通りの中を疾走。火事場の馬鹿力というヤツなのか、時間の流れが妙にゆっくりで、脇を駆け抜けて行くシンに反応出来た者は一人も居なかった。
開いていた距離を全力で埋め、最初からシンを無視して三人に襲い掛かろうとしていた聖騎士達の前に割り込んでいく。
彼女達の前で鋭く反転。突風が割り込んで来たとでも思ったのか目を細めて顔を庇っている聖騎士達に向けて、必殺の刃を抜き放とうとして──
(痛……ッ!?)
そして気合と根性で絞り出した最後の力の一滴が、其処で潰えた事を悟った。
雷獅子戦で無茶な技を連発した所為か、腕はズキリと痛んだけでピクリとも動かない。ギョッとして自身の腕に目を落としてしまったその間にも、聖騎士達は次々と我に返り、眼前に現れたシンに標的を変えて襲い掛かって来る。
(……あーあ……)
若、とブルートが叫ぶのが聞こえた。
彼は彼で、他の聖騎士達から邪魔だと認識されていたらしい。聖騎士の内の一人から襲い掛かかられ、それをヒラリと躱し様に喉を掻っ捌いて始末しながら、ボンヤリと突っ立っているシンの前に割り込んで来ようとしている。
しかし、間に合わない。
眼前にまで迫っていた聖騎士達の一人は、短剣をシンの心臓目掛けて突き出そうとしている。シンに抜かれた他の聖騎士達も此方を振り返り始めていたし、狙撃手達の照準も次々とシンの急所に集まって来ているのが感じられた。
シンに出来た事と言えばせいぜい、マトモに動かなくなった両腕を横に大きく広げた事くらいだろうか。せめて最後に三人の顔を見たかったが、その時にはもう眼前の聖騎士の短剣は突き出され始めている最中だった。
「──おい、お前ら」
最後の瞬間、自分はどういう顔をしていたのだろう。
訳の分からないままに始まり、そのままなし崩し的に始まった奇妙な生活。穏やかというには余りにも物騒で、思い出と言うには余りにも短か過ぎる第二の人生。
今だからそう思えるのかもしれないが、それなりに楽しかったように思える。過去に沢山の人間を殺し、真っ黒な憎悪を山程背負った人間には勿体無いくらいに。
「──すまん。俺は此処までだ」
刃が心臓を貫いていく。それに続いて、短剣が、長剣が、ありとあらゆる得物が彼等の憎悪の具現が、様々な角度からシンの身体を貫き、切り裂き、命を滅茶苦茶に蹂躙していく。
「……、は……ッ」
自分が居なくなれば、背後の三人の逃走はより困難なものになるだろう。それでもこの選択は避けて通れないもので、だからこそシンはまだ倒れない。倒れる訳にはいかない。
背後の三人が状況に気付き、この場から逃走する時間を稼ぐ為に、聖騎士達の攻撃を受け続ける盾役が必要だ。
「──死ね!! この屑野郎!!」
憎悪の対象に刃を突き立てた興奮からか、聖騎士の誰かが叫び声を上げた。死ね、死ねと泣き笑いと共に放たれたそれは瞬く間に周囲に伝染し、強烈な悪意となって真正面から吹き付けて来る。
まだだ。
まだ止まるな、俺の心臓。
吹き付ける悪意や憎悪に対抗する術を保たない三人がこれを喰らえば、きっと彼女達は動けなくなる。そうなれば聖騎士達は彼女達に標的を移し、嗚呼、其処から先は想像もしたくない。
「が、あ……ッ!!」
倒れるな。命が足りないというのなら、来世の分を今此処で前借りしろ。
きっと自分は、今この瞬間の為に生まれ、生きて来たのだ。
「あああああああアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
叫ぶ口から血が迸る。
目の前の聖騎士に吹き掛かり、真っ赤に染め上げる。
手足の感覚は既に無く、何時しかシンは何も分からなくなっていた。
「……………………」
嗚呼。
悪くない人生だった。
○ ◎ ●
初めは、よく分からないけど変な人だと思っていた。
いつも顰めっ面をしていたけれど、近付いたヒナギクやホタルを殴ったり蹴ったりしなかった。二人に対しても「ありがとう」や「ごめんなさい」といった類の言葉を普通に使って来るし、水汲みや木の実拾いと言った仕事なんかも当たり前のように手伝ってくれた。
一番嬉しかったのは、触れて貰った事だ。肉や魚を食べた事が無いなんて有り得ない、とか言って奇妙な食べ物を捕って来てくれた事があったのだが、それを食べられるように料理するのを手伝った時、ひょいと頭を撫でて貰った。お母さんみたいだ、と思った。その人はお母さんみたいに女じゃなかったけど、いっぺんに好きになった。
怒ってるみたいだけど優しくて、けれどそれと同じくらいにおっかない。
彼の事を怖いと思った事は一度も無いと言ってしまったら、ヒナギクとホタルは嘘吐きになってしまうだろう。そんなに前の事でも無いけれど、一度だけ二人はシンの事が怖くて仕方無かった時がある。
二人を連れて逃げている時、彼は沢山のニンゲンを殺した。石も樹も空気も雷も、彼が手に持っているカタナをサッと振ると立ちどころに真っ二つになってしまうのだ。獣のように唸り、吼えながら、彼は双子が怖くて向き合えない“死”を沢山に産み出していた。それが“殺す”という行為である事も、双子は絶対にやっていけないという事も、後から彼自身に教えられた。
どうして殺してはいけないのか、言葉では上手く説明する事が出来ない。ただ想像すると何となくイヤだし、それをやってしまうと彼のやってる事が意味を無くなると言われたから、するつもりも無い。
彼は双子の代わりに全部背負うのだと言っていた。言いながら、襲ってくる“敵”をみんなみんな殺していた。
どんなに沢山襲い掛かって来ても、最後に立っているのは必ず彼の方だった。力が強いヤツも足が速いヤツも斬って斬って斬って斬って、最初は銀色だったカタナが紅い色に染まってしまうくらいに殺していた。最後はバタリと倒れてしまったが結局彼は生き残って、二人は何時の間にか心の奥で思い込んでしまっていた。
彼は──シンは、絶対に死んだりしない人なんだ、と。
「あ……」
だから最初は、それが何なのか──正確にはそれが何を意味するのか──理解する事が出来なかった。
鈍く湿った音を立てながら、シンの背中から生えて来た何か。次の瞬間、それは二本五本十本と数を増やしていき、瞬く間にシンの背中を覆い尽くしてしまう。
それらはみんな、ドス黒い色をしている。明るい所で見れば紅いに違いないその色は、けれどそれ本来の色ではない。
それはシンの身体の中に詰まっていたものだ。
ボタボタと流れ落ち、まるで雨のように降り注いで来るこの“紅”がなんなのか、双子はよく知っている。知り過ぎるくらいに知っている。
「あぁ……っ」
ヒナギクが叫んでいるのだろうか。それともホタルだろうか。分からない。
分かっているのは、シンが沢山のヤイバに貫かれたという事。そしてシンが、それを受け入れるように両腕を広げているという事。違う。シンは受け入れたんじゃなくて受け止めたんだ。本当はボク達を貫こうとしていたヤイバから、ボク達を庇う為に。
「「──あああああああああああああああ……ッッ!!」」
色が抜けていく。音が消えていく。何もかもが意味を失い、灰色に染まっていく世界の中で、零れるシンの血だけがただ紅い。シンを貫いたヤツらの狂ったような笑い声だけが、ガンガンと木霊して反響している。
『屑が』『悪魔が』『裏切り者が』『死んで当然だ』『地獄へ落ちろ』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』──
ゲラゲラと笑いながらヤツらはヤイバを抜いて、また突き刺し直す。さっきまで双子やティスを守ってくれていたお爺さんが怒ったように叫びながら彼等を引き剥がそうとしていたが、一人二人を剥がした所でどうにかなるものでもない。
何度もヤイバで貫かれ、何人もの相手の体重をその身で受けて、それでもシンは倒れない。よってたかってシンを殺し続けるヤツらを全部一人で受け止めて、背後のボク達にはそれが届かないようにしている。
「「……よくも──」」
どくん、と何かが脈打つのを感じた。爆発するように大きく膨れ上がり、収縮して再び爆発するその鼓動の所為で、身体は物凄く熱い。
灰色の世界が、今度は紅くなっていく。胸の内が堪らなく苦しくて、今にも叫び出したいくらいなのに、本当に望んでいる事はそんな事じゃない。
何が死ねだ。
何を笑ってるんだ。
シンを殺したクセに。ボク達の大事な人を殺したクセに。よくもシンを殺したな。よくもシンを殺したな。
よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも──
「ストップ」
真っ赤に染まろうとしていた頭の中に、ヒンヤリした声が入り込んで来たのはその時だった。
「「!!」」
吃驚して思わず硬直してしまったその瞬間を狙ったように、ふわりと視界を塞がれる。ヒンヤリした掌はティスのものだというのは直ぐに分かったけれど、一体どういうつもりだろう。
「ティス、シンが……!」
「分かってる」
ごめんね、と落ち込んだような声が聞こえて来るのと、ドサリと身体が地面の上に落ちたのはほぼ同時。
「「……?」」
あれ、ボク達は地面に座り込んでいた筈なのに、何で地面の上に落ちるんだろう? ていうかティスは後ろからボク達の目を塞いでいた筈なのに、いつの間に手を離してボク達の前に立ったんだろう?
「「え……?」」
そもそも、此処は何処だろう。さっきまでビルの壁に身体を預けるように座っていた筈なのに、ヒナギクとホタルは何時の間にか、大通りの真ん中で尻餅をついている格好だった。目の前にはティスが立っていて、二人には背中を向けている。その視線の先には大勢の人間が、一人の人間に群がって武器を突き刺しているまま、吃驚したように動きを止めているのが見えた。
「……空間転移ってヤツか」
「「!!」」
ビクッとしてしまった。
いきなり背後から、重くて低い大人の男の声が聞こえて来たのだ。反射的に振り向くと、すぐ近くにズタズタで血塗れな男の人が居た。全身から雷をビリビリ出すおじさんで、シンと一人で戦っていた人だ。その更に斜め後ろには、さっきのお爺さんが困ったような顔でキョロキョロしながら膝を付いていた。
「見るのはこれで二度目だな。“あの時”は俺が当事者だった訳だが」
ビリビリさんの声は少し掠れていて、戦う前のデッカい声からすれば随分弱くなっている感じがする。というか、弱っているだけというのが凄いと思う。片腕は半分以上千切れているし、片目を縦断している斬り傷は未だに血をドバドバと垂れ流している。もしも路面が斬り傷だらけじゃなかったら、彼の血は路面一帯に広がって血溜まりを作っていたに違いない。
この人、なんでまだ生きてるんだろう?
「……何だテメェら。血が欲しいのか?」
「……ッ!? い、いらない……」
「そうか」
吃驚した。ジロリと睨まれて、しかも声まで掛けられたのだ。ホタルの声は上擦っていたし、ヒナギクだって声こそ出さなかったけれど思わず後退りしてしまった。
“きゅーけつき”である二人の事が大嫌いで、二人の事を殺しに追いかけてきたという“白服”達の隊長は、けれど二人の事なんか全然興味が無いようだった。目の前から退いた二人にはもう目もくれずに、彼はティスに向かって重々しく口を開く。
「……それで、女。お前は一体何者だ?」
「……」
その声に促されるように、二人もティスの方へと視線を戻す。此方に背中を向けているし、ビリビリさんの質問に答える様子も無かったから、二人にはティスが何を考えているのか分からない。
ただ、二人には彼女が何だか落ち込んでいるように思えた。理由は上手く説明出来ないし、絶対的な自信がある訳でもなかったが、背中に纏う空気がいつもより暗い。暗い気がする。
「……あんまり、知られたくはなかったんだけどね。この“力”は」
小さく、けれども深い溜め息を吐きながら、やがてティスは言葉を吐き出した。
「でも、“こうなっちゃった”から。使わない訳にはいかないよね」
「質問の答えになってないぞ」
イラついたかのように、ビリビリさんの声が低くなる。殺してやる、と言われたような感じがしてビクリと身体が竦んでしまったが、それはティスにはあんまり効かなかったらしい。
自然と身体を寄せていたヒナギクとホタルの頭をポンポンと軽く叩きながら、ティスは少し沈んだ声で言葉を続けた。
「“転世記”の話は知ってる?」
「あん?」
「“創世記”──黒い神と白い神の話、って言えば分かり易いかな」
「“ベリアル”と“セラフィム”の話か。大して面白くもない話だったな。で?」
その話なら二人も聞いた事がある。ティスの所に着いたばかりの頃、シンがまだ眠っていた時に、ティスから教えて貰ったのだ。
それは寂しがり屋の黒い人と、彼の事を良く分かっていなくて沢山沢山苛めてしまった白い人の話だった。ずっと一人ぼっちで寂しかった黒い人は友達が欲しくてこの世界にやって来るのだが、力が強くて見た目が怖い彼を他の人々は怖がってしまう。彼等のお願いでこの世界にやって来た白い人が彼を懲らしめようとして、そこから凄い喧嘩になってしまう。確かそんな話だった。
「どういう流れで彼が“核”を埋め込まれたのかは知らないけど、どうせこの子達を見て真実に気付いたからなんだろうね。口封じ代わりかな。あの人体実験、適合する人なんて限り無く零に近いし、殆ど殺すって感覚だったのかもしれない」
「……。何の話だ?」
「馬鹿な人達。私でもう充分に懲りたと思っていたのに」
「何の話だ?」
ビリビリさんの声は何だか怒っているようで、二人にもその気持ちは何となく分かる。
今のティスは、何だかティスじゃないみたいだ。何時もだったらティスの傍は何となく安心出来るのに、今はそれとは逆で何だか怖い。シンが怒った時は物凄い怖さが全身に襲い掛かって来るのだが、それとはまた違う──こう、背中を冷たくて嫌なものが背筋をジリッ、ジリッと這い上がって来るような、そんな感じがする。
「ああ、ほら」
結局ビリビリさんの言葉を無視したまま、ティスは不意に何かに気が付いたような声を上げた。
その声に促されるようにティスの視線を追い掛けて、二人はあっと声を上げそうになった。
二人を守る為、ティスを守る為、自分自身を盾にして沢山の武器に貫かれたシンの身体が、“燃えて”いる。血が無くなった? だったら火でも噴き出しておけよと言わんばかりに、傷口からメラメラと炎を吐き出している。
「ティス……!?」
咄嗟にアレは何なのか聞こうとした。けれどそれよりも、ティスが静かに口を開く方が早かった。
「“彼”が目を覚ました」
「……!?」
瞬間。
世界は、火色一色に塗り潰された。
○ ◎ ●
白い。
今は夜だった筈なんだがと考えて、そこでハッと我に返った。
慌てて身を起こす。ヒナギクはどうなった。ホタルは。ティスは。雷獅子の部下達が一斉に裏切って、自分だけでなく三人にも襲い掛かっているのが見えた。自分に襲い掛かって来るのは無視して三人の前に飛び出していき、身代わりとなって心臓を貫かれた所まではシンも覚えている。
あれからどうなったのか。
四つん這いのような状態のまま、片手を胸に遣って傷の様子を確かめてみたのは生き物としての本能だろう。が、無い。見つからない。確かに貫かれた筈だと半ば躍起になって傷口を探すが、あの瞬間の記憶は嘘だったかのようにシンの胸元は綺麗なままだった。
「どうなってるんだ……?」
夢でも見ていたというのか。
それとも、今まさに夢を見ているというのが正解なのか。
「……!」
ハッとする。
風。風だ。頬を撫で、鼻腔に焦げ臭いを強引に押し込むだけ押し込んで、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎていく。体重を支える掌に感じるのは、土、いや、灰だろうか。長時間放置されて冷え固まった灰の砂は、指先で摘むとボロリと崩れて零れてしまう。意を決し、思い切って顔を上げると、其処には思った通りの灰の戦場跡があった。
『──“世界ヲ滅ボス者”』
ただ、今回は一つだけ違う所があった。
目の前に在る“それ”は余りにも強烈過ぎて、背後から聞こえて来た誰かの声も余り気にならない。
それは磔にされた巨大な人型である。十メートル、いや、もっと大きいかもしれない。黒く染まった肌はまるで炭のようで、ぼうぼうと伸びた髪は空気に晒された血のように色をしている。何処かで誰かの恨みでも買ったのか、両の手首と足首は鎖と鉄線で雁字搦めに拘束され、その上で腕の真ん中を沿うように何本もの鉄の杭がブチ込まれている。何て惨たらしいのだろう。他にも心臓の位置には三本、腹にはありったけの鉄塊で突き刺されて縫い止められ、そいつは完全に事切れているようだった。
『他ニモ魔神、滅火、破壊ノ王……当時ハソンナ風ニ呼バレテイタ彼ダガ、彼ハソウ呼バレルノハ不本意ダッタダロウネ』
振り返る。二回目にこの場所に訪れた時に現れたソイツが、以前と変わらぬ姿で其処に居た。
シルクハットに燕尾服。ヒョロリと長い手足と身長を持つ怪紳士。人影と言うよりはシルエットそのものと言った方が正しいが、紅く裂ける三日月の口と同じ色に光る双眸の存在が、彼が只の影でない事を教えてくれている。
名前は確か、バロンと言っただろうか。いきなり語り出したその言葉にシンは反応を返せなかったが、彼は特に気にした様子も無く言葉を続けた。
『三度目ノ正直、ダネェ。多少遅カッタガ、漸ク君ハ彼ヲ認識出来ルヨウニナッタ訳ダ』
「認識……?」
『勿論彼ヲダヨ。彼ノこあハ君ノ体内ノ打チ込マレ、君自身ト同化シタ。アレ、マダ思イ出シテイナカッタノカイ?』
「ああ……!?」
最初は、何を言ってるんだコイツは、程度にしか思っていなかった。
直ぐにギクリと硬直する羽目になった。
何しろ、唐突だったのだ。ずっと思い出せなかった記憶の一部が、湧き水のように頭の中でこんこんと溢れ出て来たのである。
(これは……!?)
ボトボトと血が垂れる。溢れて、飛び散る。麻酔も無いままに身体を開かれて肋骨を割られ、ドクドクと蠢く心臓を晒された。狂おしい程の激痛と苦痛と屈辱はのた打ち回らんばかりだったが、拘束台に固定された身体は意識に反してピクリとも動かなかった。
適合したら直ぐに治るよ。まぁどうせ失敗するんだろうけどね。あっはっはっは。
思い出すのもおぞましい“奴”の声が脳裏に響いて、背筋が総毛立つのを感じた。
痛いのはまだいい。苦しいのだって似たようなものだ。それらは今までにも沢山味わって来たし、何も無い自分は常にそれを味わっていると言っても過言では無かったから、まだよかった。まだ耐えられた。
けれど屈辱は、悔しいという気持ちは、どうしても耐える事が出来なかった。
意味なんて無かった。ただ吼えた。五月蝿いと猿轡を噛まされても、黙れとばかりに身体にメスを突き立てられても、力の続く限り延々と叫び続けた。
自分は、ずっと騙され続けて来たのだ。間違った敵を憎み、間違った敵に命を削り、間違った敵に刃を振るった。
愚かだったのだ。あの双子は違う、あの二人は世間一般でいう吸血鬼じゃないと説得に行った自分を、相手は鼻で嗤って傲岸不遜に言い放った。
『──需要と供給という言葉を知っているかね?』
全ては茶番だったのだ。
自分が剣を取ったのは復讐の為だ。正義の為とか民衆の為とか、そんな御大層な誇りは自分の剣には無い。だが、自分を拾ってくれた組織には、曲がりなりにも恩義を感じていた。例え凶剣に過ぎなくとも、巡り巡って組織に貢献出来たなら、それでいいとまで思っていたのだ。
何が聖騎士だ。何が人類の守護者だ。ふざけるな。笑わせるな。お前達が殺しているモノは何だ。お前達の敵の名前は。吸血鬼? 血を吸う悪魔? 否。否! そいつらは只の被害者だ。お前達は只の道化者だ。お膳立てされた敵を殺して得意になっている、愚かで、糞ったれな、大馬鹿者だ。
「……そうか」
だから自分は、あの二人を守ると決めたのだ。罪悪感。自己嫌悪。ありとあらゆる感情が絡み合い、あの双子を守らずには居られなかったのだ。
「そうだったのか……」
思い出す。思い出した。
この身は既に人間ではない。弱すぎる自分は力を求め、体内に埋め込まれた“ソイツ”はそれを持っていた。自分は、それを受け入れた。相手の本質は人智の及ぶレベルではない怪物で、受け入れたら最後、自分が自分でなくなるかもしれないというのはヒシヒシと感じていたが、世界を相手に二人を守れるのであれば何だって構わなかった。
『──カクシテ君ハ手ニ入レタ、カ。ヒヒ、成程? ソコノ辺リノすとーりーモ、イズレ是非トモ見テミタイモノダネェ?』
おぉ、と何かが唸るような声を聞いた。
おぉ。おぉぉ。おぉぉぉぉん。
何時の間にか閉じていた目を開くと、燃え尽きた後の灰色の世界は、何もかもがすっかり様変わりしてしまっていた。
「此処は……」
燃えている。
ブスブスと煙を上げて灰となっていた気持ちが、轟々と音を立てて燃え盛っている。白んでいた空は黒く染まり、熱せられた風は焦げた匂いを運んで来る。
其処には、見渡す限りの紅煉の戦場が広がっていた。
響き渡るは鬨の声。燃え盛るは戦場の業火。乾いた大地、焦げ付いた空。そして、命を落として脱落していった者達が残していき、地面に突き立った幾千、幾万の剣。大破した頑強な機械兵士も、力尽きた巨大な生物兵器も、皆等しく地面の上に倒れ伏し、地獄のような光景を彩っている。
そしてそんな戦場の中心で、磔にされている黒い怪物。
闇色の体表に火色の回線を幾重にも走らせ、同じ火色の長い髪をユラユラと揺らめかせながら、そいつは低く、唸るように哭いていた。鋳潰された金属のような涙をボタボタと流し、ソイツは憂うように、悔いるように慟哭していた。
おぉぉん。
おぉぉん。
おぉぉぉぉぉぉん。
『──気ヲ付ケタマエヨ?』
どうやら、まだ居たらしい。其方に視線を向ければ、腰掛けていた戦車の残骸からぴょんと跳び下りるバロンの姿が見えた。
『君ハ彼デ、彼ハ君。ソレデモチッポケナ人間ニ過ギナイ君ハ、強大ナ彼ノ力ニ振リ回サレル事ニナルダロウ』
瞬きした次の瞬間には、もう居ない。目の前に立っていた筈のシルエットは何時の間にか消え去って、代わりに背後に気配が出現している。急いで振り返っても、結果は同じ。視線のその先に影は無く、代わりに別の場所で寛いでいるのを気配で感じる。
結局、コイツの正体は謎のままだ。正体どころか全てにおいて謎の存在だが、聞いた所で素直に答えるとは思えないし、今はコイツの正体に関心を向けている場合でもないだろう。
コイツは助言者。或いは傍観者。好きな位置に立ち、好きに振る舞い、好き勝手な野次を飛ばして来る。それ以上でもそれ以下でもない割り切って、今はそれで構わないだろう。
『暴走シタ挙句、守ルベキ者達マデ焼キ殺シタ。ソンナ下ラナイ筋書キニハシナイデクレタマエヨ? 君達ハ原石ダ。生キ残ッテモットモット色々ナすとーりーヲ演ジテ貰ワナイト、ツマラナイカラネ』
「……勝手な事を」
少なくとも、ロクな奴でない事だけは確かなようだ。舌打ちして視線を逸らし、代わりに磔にされた怪物の方へ向ける。
「……俺は死んでしまった。もう、アイツらを守る事は出来ない」
慟哭の声がピタリと止んだ。うなだれた頭が微かに動き、灼熱の凶眼が此方を見据える。
「だが、それだと困るんだ。あの選択に後悔は無い。だが、俺の役目はまだ終わっていないんだ」
目を合わせたからこそ分かる。コイツは、この怪物は人の手に負える存在じゃない。
人間がどれだけ集まろうと鼻で嗤って焼き尽くし、如何なる悪意も如何なる暴力も敵となるモノは全てその力で破壊する。
“世界を滅ぼす者”。上等だ。世界から憎まれている双子を守る為には、世界を敵に回せる程の強い力が必要なのだ。例えそれが人の身に余る力で、いつかそのツケが自分の身に返って来るのだとしても、目的を果たせるのならばそれでいい。
「頼む」
手を差し伸べる。
その熱気に足が竦み、その凶気に身体はガタガタと震えていたが、どうせ自分にはもう後が無い。どうなろうと構まない。
「力を、貸してくれ」
“…………”
轟々と吼える焔の声。遠くに聞こえる鬨の声は寄せては返す波のようで、時折吹き抜けていく焦げ臭い熱風がそれらを緩やかに掻き回す。
五秒。十秒。もうどれくらい経っただろう。
最初は、その変化に気がつく事が出来なかった。俯き加減で見え辛い口元が、少しだけ──ほんの少しだけ、吊り上がっていた。
“汝は我。我は汝……”
くつくつと、大気が震えているのを身体で感じる。
磔にされて厳重に封じられ、それでも尚危険極まりない真っ黒な怪物は、差し出されたシンの手を見て満足そうな笑い声を上げていた。
“──我の成すべき事を成せ……!!”
○ ◎ ●
最初のそれは、まるで灯火のようだった。傷口から溢れ出した焔の勢いはいっそ穏やかと言っていいくらいで、段々とそれに呑まれていく彼は夜道に咲く一本の蝋燭だ。その身を貫いていた刃を全て焼き尽くし、密着していた何人かの聖騎士を火達磨に変えているのが見えたが、彼自身は飽くまでも静かだった。
「ティス……!?」
訴えて来るホタルの声は、すっかり混乱しきっていた。声には出さなかったが、ティスの右手に取り縋っていたヒナギクも、きっと似たような心境だっただろう。
無理も無い。一番の心の拠り所であった人物が目の前で殺されたと思ったら、その身体が発火し、赤々と燃え上がり始めたのだ。双子だけでなく、その背後の二人や、或いは実際にシンの身体を前にしている聖騎士団の面々すら、事態を把握するのは難しかったに違いない。
この世界には、人がわざわざ覗かなくてもいい領域というものがある。覗いてしまった彼等は不運で、中でもティスが味方にならなかった聖騎士団の面々のそれは最悪だ。
彼等は二度と、生きて故国に帰る事は無いだろう。
「“彼”が目を覚ました」
ティスが言葉を紡ぐのと。シンの身体を覆っていた炎が爆発的な勢いで膨張し、濁流のように押し寄せて来たのはほぼ同時。
空が破れたかと思うような轟音と共に、世界の全てが火色に染まる。古い街並みも、ひび割れた路面も関係無い。コンクリだろうが鉄筋だろうが頓着せずに焼き尽くし、その全てを消し炭に変えて押し流していく。逃げ場など無く、防ぐ術も無い。森羅万象、有象無象の全てを焼き尽くして破壊するその業火こそ、嘗て“世界を滅ぼす者”と呼ばれ恐れられた者の力の具現である。
相対するのは、これで二度目だ。前回は中途半端に力を放出しただけで終わってくれたが、恐らく今回はそうもいかないだろう。滅多に現れない宿主の身体を“彼”はみすみす死なせたりしないだろうから。
「これは、あの時の……!!」
背後から聞こえる、驚いたような声。自身の“両脇”を猛烈な勢いで駆け抜けていく業火の壁を前にしても、言葉を紡ぐだけの余裕があるのだから驚きだ。
“餓王”レオンハルト・イェーガー。
純粋に吸血鬼との戦闘を楽しんでいる彼は聖騎士団の中でも異端児とされていたが、十聖と呼ばれるだけあってその豪胆さは本物らしかった。
「──“嘗て、争いがあった。破壊を司る黒き神と、創造を司る白き神。美しきこの世界を賭け、二柱の神は戦った”」
「呑気に教典なんぞ暗唱してる場合か? 女。一体何が起こっている? アレは──アレは一体何なんだ?」
結局、その戦いは決着が着かなかった。両者の力は全くの互角で、戦いは相討ちという形で終幕を迎える。
けれど、二人は最後の最後で和解していた。お互いがお互いを受け入れ、死に行く最後の瞬間に魂の安寧を手に入れた。そのまま放っておけば二人の遺体は時と共に朽ち果て、二度とこの世に蘇る事は無かったかもしれない。
だが、そうはならなかった。
死を迎えた彼等の身体からその心臓部である“コア”を抜き取り、その力を我が物にしようとした者が居たのだ。
「あれはベリアル。“旧時代”の生き残りの子孫に蘇らされた、可哀想なヒトだよ」
「……意味が良く分からんぞ」
「この世界の殆どの人は忘れてる。自分達は何処から来たのか。吸血鬼とは一体何なのか。だからこそ“あの男”はこの世界をペテンに掛けて、まんまと全てを手に入れる事が出来た」
「分かるように説明するという発想がテメェには無いのか?」
「……」
シンに負わされた傷の所為か、口調そのものは割と穏やかだ。彼が混乱しているのは明白だったが、ティスは改めて口に出すつもりは無い。これは余りにも突拍子も無い物語だ。語って聞かせるのは簡単だが、信じて貰えるのはきっと難しいだろう。
だから、答える代わりに頭を振った。それと同時に業火の濁流も勢いを弱め、やがて途切れる。
辺りは、すっかり様相を変えていた。建物の影など何処にも無く、ブスブスと煙を噴き上げる真っ黒な更地が周囲一帯に広がっている。視線を上げれば、広い夜空の中に紅い月。星は見えなかったが、更地のあちこちで燃え残った焔が火の粉を飛ばし、星の代わりに瞬いて夜空を彩っていた。
無事なのは、ティス、その背後に位置する空間だけだ。其処に居た双子とレオンハルト、それからシンやティス達を守ろうとしてくれたお爺さんは生き残ったが、それ以外は全て灰となってしまっただろう。
「……ふぅ」
溜め息を吐いて、力を抜いた。自身の前に展開していた“力場”の維持を放棄すると、蒼い光の粒子が飛び散って虚空に消える。
元々ティスは戦闘慣れしている訳じゃない。レオンハルトのように好きな訳でも、シンのように得意な訳でもない。ぽかぽかと日の当たる庭で皆とお茶する方が何十倍も楽しいし、性に合っている。こんな事は、さっさと終わりにしてしまいたいというのが本音だ。
「……そう言えば、心当たりがありますな」
今まで口を閉じていたお爺さんが、不意に口を開くのが聞こえた。
「PBW技術を越える、全く新しい技術で産み出された新たな強化人間の話でしたか。被験者は信心深いがまだ幼い少女で、十聖を越える最強の切り札として聖騎士団に迎えられる筈でしたが……」
「……」
あ、バレた。
チラリと背後を振り返り、お爺さんの方に視線を遣れば、彼は大分落ち着きを取り戻した様子で此方を見返している。
それ以上追求してくるつもりは無さそうだが、後で言いふらしたりしないよう良く話し合わないといけないかもしれない。他のメンバーとは違うみたいなので反射的に助けたが、彼もまた聖騎士の一人だ。彼等に自分の存在を思い出されるのは、些か都合が悪い。
視線を外し、代わりに下に落とす。それぞれ左右からティスの服の裾を掴んでいた双子と目が合って、ついつい慰めてやりたくなってしまった。
二人は、とにかく不安そうだった。シンが自分達を庇って命を落とすのを眼前で目撃し、その後直ぐに業火が何もかもを消し飛ばすという圧倒的な光景を見せ付けられた。様々の要素が絡み合って、やがて不安という共通の感情で落ち着いたらしい。ティスを見上げて、何かを言いかけたが、肝心の言葉が出て来なかったらしい。二人揃ってグッと何かに詰まり、俯いてしまう。
気が付けば、ポンと二人の頭に掌を乗せていた。
「大丈夫」
二人は、顔を上げない。
めげずにその頭を軽く撫で回し、あたかも自信満々であるかのように軽い口調で言葉を紡ぐ。
「全部元通りになる。私がそうしてみせる。そしたらまた、みんなで暮らそう?」
「……ぜんぶ、もとどーり?」
「うん」
「みんなで、いっしょに?」
「もちろん」
二人共、顔を上げるまでには至らない。最後に屈んで二人をギュッと抱き締めると、二人もまた思い切りギュウッと抱き付き返してきた。
世間では化け物だなんだと言われているが、本来の姿はこんなものだ。抱き締めたまま視線を遣れば、レオンハルトは奇妙な物を見るような目で此方を見返し、お爺さんは珍しいものではないとばかりに既にティスの背後を見つめていた。
「じゃあ、行くね?」
「「……うん……」」
立ち上がる。
踵を返せば、この場一帯を焼け野原に変えた張本人がポツリと佇んでいるのが見えた。
身に纏う焔は逆巻きながら天へと伸び上がり、灼熱色の長い髪はそれに煽られるようにユラユラと揺れている。呼気の代わりに灼炎を吐き出し、炭のように黒くガサガサした体表には橙色に光る回線が各部を繋ぐように走っている。
『──Grrrrrrrrr……』
髪や回線なんかよりずっと強い光を放っている凶眼は、此処では無い何処かに向けられていた。その場に佇んだ状態のまま、ゆるゆるとあちらこちらに視線を向けているその様は、“敵”が襲って来ない状況に戸惑っているようにも見える。
酷い話だ。ありとあらゆる存在から疎まれ、憎まれ、何時の間にか敵意を向けられる状況というのが当たり前になっているというのだから。
声を掛けるべく足を踏み出し、彼の方へ歩き始めると、彼は素早く反応し、此方に視線を向けて来た。
「シン」
呼び掛ける。
今の彼は少し特殊な状態で、宿主が事切れそうになったのを強引に顕現する事でその命を繋ぎ止め、蘇生しようとしている最中だ。顕現すれば人間時に負った傷はその場でリセットされてしまうし、既に引っ込んで貰っても何の問題も無い訳だけど、今の彼にシンとしての意識は無く、彼の振るうべき力だけが表に出て来ている状態なので、引っ込むという選択を取る事が出来ないのだ。ティスも嘗ては同じ状態に陥った事があるので、それくらいの事は分かる。
彼の力は破壊する事に特化している。放っておけば暴れ出して、スラムどころかこの都市全体を滅ぼしてしまうかもしれない。そうさせない為にも此処はティスが出張って、ベリアルの力が引っ込むのを手助けしてやらねばならないだろう。
「シン、起きて」
実を言えば、少しだけ怖い。
吹き付けて来る熱気は凄まじく、押し寄せてくるプレッシャーは潰れてしまいそうな錯覚を受ける。重ねて言うが、ティスは戦闘には慣れてはいない。暴力やその類の事に興味は無いし、それでいいと思っている。
だが、この世界でベリアルに対抗出来るのは自分だけだ。自分しか居ない。他の誰にも任せられない。
何より、相手はシンなのだ。だからティスは怯まないし、立ち止まらない。地獄か、或いは世界の終わりのような光景の中を、ティスは彼から視線を逸らさないまま歩き続ける。
『──GA!!!!』
彼の右腕に、炎が収束するのが見えた。即座に意識を集中し、“力場”を形成。
“空気とは硬く、どんな攻撃をも通さない絶対無敵の防壁である”。
本来の世界の法則を捻じ曲げ、力場の中の世界の在り方をそのように再設定。どんな金属より硬くて頑丈、どんな城壁より難攻不落となった空気はティスを守る盾となり、直後押し寄せて来た爆炎を真正面から受け止める。受け止められ、左右に分かれて流れていく炎の濁流は、けれどティスやその背後に居る双子達を傷付ける事は無い。
“世界を創る者”。嘗てティスの中は埋め込まれたモノは世界の在り方を規定し、その行き先を設定する。
セラフィムと名乗る彼女とは、それなりに長い付き合いだ。
「警戒しないで。何もしない。何もしないから」
爆炎は、何度も襲い掛かって来た。
セラフィムの力とは正反対であり同種のものであるベリアルの炎は、やはり捌くのにも苦労が要った。出し惜しみして削り殺されるのは笑えないと、躊躇う事無く此方も顕現。
彼のと同じ、但し色は鮮烈な蒼の光の回線が肌に浮かび、視界の端に映る髪は淡い白色の光を帯びる。ベリアルと違って、セラフィムはティスの容姿がそのまま残る。唯一の違いと言えば、背中に展開される六対十二枚の光の翼だろうか。回線と同じ色をしたそれはまるで天使のそれのようで、ティスの身体を余裕で包んでしまえるくらいに大きく、本物のように羽ばたいて飛行する事まで可能である。
掌を翳し、押し寄せて来る炎を防ぐ。横着して障壁を張りっ放しにするとあっと言う間に破壊されてしまうので、途切れる度に一度放棄して張り直す。
ただ歩いて近付くだけなのに、こんなにも命懸けだ。それでも放棄するという選択は、ティスにとっては有り得なかった。
「もういいんだよ。もう戦わなくたっていいの。私達を脅かす“敵”は、みんな貴方が斃してくれたから」
もう少し、自分が上手く立ち回っていれば。自分が人前でこの力を使う事を躊躇わなければ。シンだって此処まで追い詰められる事は無かったんじゃないかと思う。
シンなら何とかしてくれる。シンなら絶対守ってくれる。信用にも似た質の悪い甘えは、結果としてシンにばかり負担を押し付け、一度は彼を殺してしまった。
ティスがそうであるように、彼だって人間だ。どんなに強い力や精神を持っていたとしても出来ない事だってあるし、何時かは限界だって訪れる。
そして世界は、この先きっと彼には優しくしてくれない。
吸血鬼である双子を庇い、護る為に戦い続ける彼に対して、人々は憎悪を露わにするだろう。よってたかって虐められ、殺意を以て傷付けられて、それでも彼は弱音を吐かずに双子を守り続けようとするのだろう。止めたって無駄だ。そういう所は昔から変わらない。
だから、止めない。彼は彼の思うようにすればいい。例えその身体や心が限界を迎えそうになっても、必ず自分が支えてみせる。
それが、それこそが。
何の因果か似たような存在をこの身に宿している自分の役目なのだろうから。
「しんどい事、沢山押し付けちゃってごめんね」
轟音。
いや、爆音と言った方が正しいだろうか。
彼が放ってきた業火が途切れたと思った刹那、目の前の地面が何の前触れも無く破裂して、融解したコンクリが勢い良く飛散するのが見えた。
爆風、それから目を灼くような橙色のドロドロが勢い良く眼前の空間にぶつかって、視界はあっと言う間に塞がれてしまう。何が起こっているのか何となく察知して身を竦ませるのと、凄まじいまでの衝撃が眼前の障壁に激突して揺るがせて来るのは、殆ど同時の事だった。
「──……!!」
ビシ、と背筋が凍るような感覚。ティスの障壁にへばり付いた溶岩は、“それ”によって生じた衝撃に吹き飛ばされ、視界はクリアになっている。
眼前。腕を伸ばせば届くような至近距離に、拳。
自らが放った業火に紛れて、一気に接近。右腕に業火を纏わせ、更に突進の勢いまで上乗せした一撃が、ティスの“不可侵”の障壁に食い込み、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせていた。
『──hrrrrrrr……』
ごぱァッ、とその口から焔が零れるのが見えた。その身に纏う焔や、足下から噴き上がる蒸気の中に浮かび上がるその黒い姿は、成る程確かに魔神のように見えなくもない。
ギチギチと、ティスを守る“不可侵”の障壁が悲鳴を上げているのが聞こえる。ティスが慌てて其処に意識を集中して強度を補完するのと、相手がもう片方の腕を大きく振り上げるのはほぼ同時。
「……ッ」
轟音。振り上げた拳が障壁に叩き付けられ、眼前で爆炎が広がるのが見えた。衝撃に身体の芯が揺さぶられ、折角補強した障壁にヒビが入る。
今度は息を吐いたり、ましてや言葉を紡ぐ余裕など無い。
ぞあ、と背筋を悪寒が這い上り、それに追い立てられるように障壁の下に新たな障壁を張り直す。爆炎纏う相手の頭突きが、攻城鎚宜しく障壁にぶつかってきたのは直後の事だ。二度、三度と連続してぶつけられ、遂に耐えきれなくなった古い障壁は悲鳴を上げて粉々に砕け散ってしまった。相手は間髪入れずに此方に襲い掛かって来ようとしたが、その直ぐ後ろに重ねられていた新たな障壁に激突。忌々しそうに此方を睨み付け、天地をビリビリと揺るがすような怒りの咆哮を上げた。
『──GOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!』
「怒らないでよ。私だって死にたくないよ」
ティスの抗議は、最後まで聞いて貰えなかった。
障壁を思い切り蹴飛ばして、相手はその場から大きく後退。一気に大きく距離が開いて、控え目に紡いだティスの声はどう考えたって届かなかったに違いない。
「!」
相手が身体を大きく反らせ、がぱっ、とその口が大きく開くのが見えた。その中は煌々と赤く輝き、何処か地獄の釜を連想させる。
あの予備動作は知っている。昔何度か見た事がある。
自らの口を砲口とし、自らの内に燃え盛る破壊の業火を直接相手に向けて放出する荒技。“息吹”とでも命名すべきその技は至極単純だが、それ故に途轍も無い破壊力を誇る。
『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……!!!!』
来た。
業火の濁流と形容すれば先程と同じだが、規模と威力が段違いだ。
地面を大きく抉り取り、荒廃した焦土を更に無惨に灼き散らしながら押し寄せて来たそれは、人間サイズでしかないティスなんて簡単に呑み込み、そのまま直進してデルダンの街全体を滅ぼしてしまいそうな勢いだった。
純粋な力比べとなると、多少分が悪くなるかもしれない。いや、間違い無くそうなるだろう。だからティスは、今までとは防御の手法を変える事にする。
受け止めるのが難しいのなら、最初から勝負せずに呑み込んでしまえばいいのだ。
「“開け”」
目の前の空間を引き裂く。引き裂かれ、空洞となって生じた次元の穴は押し寄せて来る相手の“息吹”に真っ向から受け止め、その悉くを呑み込んでいく。
更にそれを、次元の狭間に永遠に遊ばせておくつもりは無い。即座に集中し、今度は相手の眼前に次元の穴をもう一つ開く。
相手は吃驚しただろう。何しろたった今放った筈の自分の攻撃が、突如として目の前の空間に開いた大穴から物凄い勢いで押し寄せて来たのだから。
『──……!!』
流石に相手も馬鹿ではない。“息吹”がその場を焼き尽くす直前、相手は地面を思い切り蹴って跳躍し、その場から離脱するのが見えた。
だが、それすらもティスは予測している。正確にはティスの中の“セラフィム”が、そうなるであろう事を予見している。
たった今相手が躱した“息吹”の軌道上に新たな次元の歪みを作ってそれを回収。同時に、跳躍した相手の周囲に大量の次元の歪みを展開し、その全てを“息吹”を回収した次元穴と連結する。さぁ、相手は大変だ。同じ空間に多重に存在するようになってしまった自身の“息吹”に全方位を囲まれ、完全に逃げ場を失ってしまった。
更に、ティスは次元の歪みを後一つだけ生成。自身の眼前、業火の柱が無秩序に組み合わさって出来た獄炎の檻の中心に向けて、“砲口”を開く。
至近にあれば次元の壁すら突き抜けて、グラグラと伝わって来る圧倒的な破壊力。一抹の不安と恐怖に冷や汗が頬を伝うのを感じつつ、それを紛らわすようにポツリと呟く。
「返すよ」
かくして、それは照射された。
あっちこっちに寄り道し、この世界に多重に存在する羽目になったベリアルの息吹。触れたものを根刮ぎ消し飛ばす威力を秘めた極太の光条が、自らを放った主目掛けて斜め上空に撃ち出される。
けれど、相手も黙ってそれを喰らう気などサラサラ無いようだった。
大気が震える。空も、大地も小刻みに揺れている。それは錯覚かもしれないが、この場一帯がビリビリと極限まで張り詰めているのは確かなようだ。
炎の檻。その中心。カッと明るくなったような気がした。檻自体が炎で出来ているので元からと言えば元からなのだが、明らかにその中心で何かが強烈な光を放っている──
『──Ooooooooooooooooooooooooooon……!!!!』
自分の状況を把握した時から、既に彼は行動を開始していたのかもしれない。
ティスが返した息吹が檻を構成する炎柱に突き刺さったその瞬間、空を引き裂かんばかりの彼の咆哮が轟き渡り、そして大爆発が引き起こされた。
右手に極限まで溜めた炎を纏わせ、突っ込んで来た息吹に向けて思い切りパンチ。重力に引かれて落下を始めた彼は、どうやらそれでティスの攻撃を相殺。乗り切ったらしい。
力無く突き出された右拳。若干勢いを無くした身体の炎。実際にその場面を見た訳ではないが、その二つさえ見てしまえば大体予測出来る。
「あは」
成功。成功だ。
いよいよ本格的に落下し始めながらも驚いたように目を見開く相手を“間近で”眺めながら、ティスは張り詰めていた力が笑みと共に抜けていくのを感じた。やり過ぎではないのか、或いは難無く対処されたりしたらどうしようとずっと不安に思っていたのだが、相手は此方の思惑通りに大技を繰り出して此方の攻撃を相殺し、そして一瞬の隙を見せてくれた。
「捕まえた」
下手に相手の攻撃に巻き込まれたりしないようにタイミングを見極めながら、更には背後の双子達が地上を攫う爆風や炎熱に巻き込まれないよう障壁を張り直しながら、地上から空中の彼の所まで空間転移。最後は中々の綱渡りだったけれど、完璧と言っていいくらいに上手くいった。
さぁ、本番は此処からだ。
驚愕した彼が思考を取り戻すよりも早く手を伸ばす。両腕で掴んで、抱き寄せる。
コツン、と額に額をぶつけに行った。
触れた所を通じて自身の中のセラフィムと相手の中のベリアルを共鳴させ、同調させようと試みる。触れた瞬間、相手の思考が怒涛のように流れ込んで来て弾かれそうになったが、彼を抱き締める腕に力を込めてそれを堪えた。
(ああ、そうか……)
深緑に満ちた森の中にひっそりと建てられた小屋。その中に襤褸布を纏って暮らしている幼い双子と、片足に包帯を巻いて寝台に横たえられた視点の主の首から下の身体が見えた。最初の頃の彼女達は常に何かに脅えていたようだったが、次第に笑うようになっていく。
だが、次に見えた燃え盛る村の光景が、それまでの平穏な空気を粉々に打ち壊した。村の広場に積み上げられる沢山の骸。その前にさっきの双子は恐怖に顔を引きつらせ、背後に立った白コートの聖騎士団団員がそれを無理矢理引き立てようとしている。視点の主はそれを引き留めようと手を伸ばしているが、押さえつけられているのかその場から動く気配は無い。
(貴方は、その現場を見てしまったんだね……)
次に見えたのは、何処かの建物の豪奢な一室。“あの男”が居た。あの嫌みな片眼鏡は見間違えようも無い。床に引き倒されているのか異様に視点が低い此方を見下ろし、彼はニタニタと嗤って何かを呟く。凄まじいまでの怒りが感情が流れ込んで来て、視点の主は轟々と泣き叫んだが、そいつはもう興味は無くなったとばかりに立ち上がり、踵を返している。
後はもう、マトモに見る事は出来なかった。彼に対して行われた施術は、嘗てティスが受けたものより遥かに酷い。薄暗い牢獄と血に濡れた鎖とメス。人体実験と言うよりは真実を知った者の処刑といった意味合いが強かったのだろう。まともに見据えれば壊れてしまいそうな残虐な施術のイメージをやり過ごし、そして──そして、彼女は辿り着いた。
「……見つけた」
其処は、嘗てティスも見た事のある戦場のド真ん中だった。どこもかしこも燃えていて、機械や巨大な怪物や普通の人間なんかがあちこちにゴロゴロと倒れていて、銃が、剣が、ありとあらゆる武器がそれを弔うように地面に突き立てられている。
焦げた空は真っ黒で、燃える炎に照らされた地面はどす黒く染まった血の色だ。ティスの眼前には巨人でも貼り付けに出来そうな大きな十字架が突き立てられていて、それには引き千切られた鎖が無様にぶら下がっている。
彼は、その十字架の根元にボンヤリと座り込んでいた。ティスの姿は見えている筈だが、特に反応を示す様子は無い。
「シン」
呼び掛ける。
彼はまるで反応を示さなかったが、それでもめげずに歩み寄り、その傍らに膝を突く。
「シンってば」
「…………?」
肩に手を置いて揺さぶったり、指先で頬に触れたりして根気良く呼び掛ける。
最初は全然反応してくれなかった彼が、僅かに眉を顰めながら此方に視線を向けてきたのは、それから少し後の事だった。
「…………てぃ、す……?」
「うん」
良かった。まだ完全に“呑まれて”はいない。
ホッとして顔が綻ぶのを感じつつ、相手の言葉に頷いてみせる。彼はまだ九割方ボンヤリしているようだったが、それはこれから取り戻して行けばいい。
「大丈夫? 随分とボンヤリしてるみたいだけど?」
「……おー……」
話し掛ける此方の言葉に、相手は酷く朧気な返事を返して来る。話していると今にも眠ってしまいそうな印象を受けるが、本人にはそんなつもりは無いらしい。途切れ途切れで頼りないながらも、言葉を重ねて此方と会話しようとしているようだった。
「……あいつらは……?」
「うん?」
「……ヒナギクと、ホタル、は……?」
「ああ、二人とも元気だよ。シンの事、凄く心配してたみたいだけど」
「……そう、か……」
へっ、と力無く笑みを口元に浮かべ、シンは其処で大きな息を吐いた。どうやら極限まで消耗しているらしく、このままだと直ぐに気絶してしまいそうである。
休んでしまえばいい。前々からそうだったが、彼は何でも一人で背負い過ぎなのだ。少しくらい此方に分けてくれたって、きっとバチは当たらない。
「よしよし」
彼の前に膝立ちになり、ボンヤリと脱力したその頭を胸の内に抱き寄せる。特に反応を示さない彼の頭は別に冷たい訳ではなかったが、そのくせ物凄く冷え切っているように思えた。
「少し休んじゃいなよ。シンのお陰で、敵はもう居なくなったし。後始末みたいなのが幾つかあるけど、それは私がやっといてあげるから」
少しでも、自分の体温が伝わればいい。どんなに凄い力を手に入れようとも、一人で相手をするには世界は余りにも雄大で、非情過ぎるから。
自分達が無事でもシンが壊れてしまったのでは双子は納得しないだろうし、何よりティスがそんな結末を認めない。
もう一度──もう一度巡り会う事が出来たのだ。手に届く範囲に居るのに、世界なんかにむざむざと壊されてしまって堪るものか。
「何でもかんでも、シンはちょっと欲張り過ぎ。私だって味方だよ? シンと同じ仕事は無理かもしれないけど、それでもサポートくらいは出来るつもりだからさ」
「……」
暫くの間、答えは無かった。声を上げるどころかピクリとも動く様子も無くて、心の隅にあった不安が嫌でも刺激されてしまう。
そしてその不安が、少しだけ大きくなった頃。
「──はは」
不意に、彼が僅かに身じろぎするのを感じた。
「敵わないな。お前には」
ピシ、と周囲の光景に亀裂が走る音を聞いた。業火や鬨の声が渦巻いている戦場の光景に皹が入り、そこから砂が崩れるように崩壊していくのが見えた。
「……分かった。少し休ませて貰うぞ。流石に、疲れた」
「うん」
ピシ、ビシ、と亀裂の音はあちらこちらで大きくなっていく。戦場の崩壊は加速していき、それに呼応するようにシンの身体がズシリと重くなる。
割れた所から差し込んで来る光は真っ白で、闇と炎の光景はそれによって霞んでいく。ティスやシンの身体も例外ではなく、輪郭も朧気になっていく。
名残惜しいが、そろそろタイムリミットだ。この光の中に溶けてしまえば、ティスはシンの精神から出られなくなってしまうだろう。
「お疲れ様」
真っ白に染まっていく世界の中で、最後に彼の身体を少しだけ強く抱き締める。
少しだけ逡巡して──周囲に誰も居ない、という事実に背中を押される形となった。彼は全然思い出してくれる気配が無いし、此方としても無理に思い出させて困惑させるような真似はしたくないから、ずっと黙っているつもりである。
でも、この一瞬だけ。
ずっと諦めて、それでも忘れた事なんて一度も無かった自分の月日に報いるこの一瞬だけは、ちょっとだけ欲張ってもいいかなと思った。
そっと、額に口づける。
恥ずかしくなって顔が少し熱くなるのを感じつつ、逃げ出すように彼の身体から離れる。
「──また、逢えた」
彼の精神から脱出する、その瞬間。
呟いた言葉を静かに噛み締めて、ティスはそっと微笑んだのだった。
○ ◎ ●
信仰なんて無かった。ただ、強い奴と戦えるならそれで良かった。
あらゆる能力で人間を凌駕し、その人間を獲物と定めて襲い掛かって来る怪物──“吸血鬼”。成る程、確かに奴等は強敵だ。文明と兵器で鎧った人間を嘲笑い、易々と皆殺しにしてのける奴等との戦闘は、自分にとって数少ない娯楽の内の一つと言って良かった。
嗚呼。なんてちっぽけだったのだろう。
目の前に広がるのは、まるで地獄のような光景だった。大地は消し飛び、空は焼け焦げている。燃え残った業火の名残はぐつぐつと煮えたぎるように揺らめいて、煉獄の釜を彷彿とさせる。その中に在って自分達が無事なのは、自分達が慈悲によって助けられたからだ。
「ふ……」
これを一人でやったのか。
それを一人で鎮めたのか。
創世記に語られた、二柱の神は実在した。細かい経緯は知らないし、興味も無いが、その二人は確かに自分の目の前に存在している。
「くく……くはは……!」
自分の信仰は、こんな所に在ったのだ。光が差し込み、長い間彷徨い続けた霧の中で唐突に道が示されたかのような心境だった。
今ならば、どんなに腹の立つ事だって許せるような気がする。実際、背後から忍び寄って来ていた気配に対しても、自分は声を掛けるだけだった。
「止めておけ。そんなちゃちな刃物でこの俺を殺せるものか」
「……!」
ピタ、と背後の気配が止まる。その隙に両腕をついて上体を起こし、その場に胡座を掻いて座り込む。刃匠に付けられた傷は既に修復が始まっている。完治には遠いが、それでも動き回るくらいの事は出来そうだった。
「さっきの炎で、俺達以外の人間はくたばった。後は俺さえ居なくなれば追っ手は全滅。刃匠は、一先ず教会の追撃を振り切れる」
「仰る通りで」
「くく、全く大した忠犬っぷりだな。置いていかれたクセして、まだ主の事を忘れないか」
「犬は恩を忘れないもので御座いますよ」
悪びれるどころか、ブルートの声はいっそ清々しいくらいにいつも通りだった。殺気の類は感じないが、今この瞬間にも隙あらばこの命を刈り取ろうと虎視眈々と狙っている筈だ。
「そもそも、お前が付いていながらハゼルが死んだと言うのが納得行かなかったが……まさか、あれもお前が殺したんじゃないだろうな?」
「あの方は少々趣味の悪さが目に余りましたもので。“若”の到着がもう少し遅ければ、私めが先に手を出していたでしょうな」
「薄ら寒いジジイだな。そうやって一人ずつ、他の目から外れた奴を殺していくつもりだったのか?」
「所詮は恨みに呑まれた烏合の衆に過ぎません。貴方様を除けば、恐ろしいのは数だけに御座います。それを少しずつでも減らしていけば、若が逃げ延びるには十分な援護となったでしょう」
「ふん」
未だに背を向けたままなので、彼がどんな表情で言葉を紡いでいるのかは見る事は出来ない。けれど、大体分かる。この男はきっと何の感慨も無く、ただ事実をありのままに伝えて来ただけだ。
ブルート。刃匠の元部下だった男。
追撃部隊に志願してきた時に吐いた「主の不始末は部下である自分が片を付けるべきだ」という言葉は、此方を信用させる為の方便でしか無かったらしい。
「……しかし、流石に驚いたな。兵器と言うより、まるっきり化け物じゃねぇか」
「……」
少し離れた所で、六対十二枚の光の翼がバサリと羽ばたくのが見えた。
人智を越えた攻防の果てに、女が刃匠を空中で捕まえて、どうにかしてその荒れ狂う力を抑えつけたらしい。二人して灼けた地面の上に降り立ち、グッタリした刃匠を支えるように立った女が此方を振り返る。途端に我慢しきれなくなったのだろう。吸血鬼の双子が二人一緒に弾かれたように動き出し、奴らに向かって飛び出して行くのが見えた。
「……くく。面白くなってきやがったじゃねぇか」
「! どちらへ?」
僅かに滲み出た相手の殺気は無視して、その場にゆっくりと立ち上がる。怪我の修復に身体が全力を注いでいる故だろう。グゥゥ、と腹の虫が盛大に鳴くのを感じた。
「そう警戒すんなよ。別にアイツらに喧嘩を売りに行くつもりは無いし、本部に事の次第を報告するつもりも無いぞ」
「此方が、その言葉を信用するとお思いですか?」
振り返る。
抜き身の短刀を提げ持ったブルートの脇を素通りし、その場から立ち去るべく歩き始める。
「あんな極上の獲物、他の奴らに渡して堪るか。俺がアイツらと戦えるようになるその時まで、アイツらには生きていて貰わないと困るんだ」
仮に自分が気まぐれを起こし、聖騎士団本部に事のあらましを報告したなら、上はより一層力を入れて追撃部隊を派遣してくるだろう。
残りの十聖が率いる統制の取れた大部隊が、知略の限りを尽くして犠牲を厭わずに戦ったなら、あの怪物を打ち破る事も或いは可能かもしれない。
だが、そうなると自分の出番は大きく減る事になるだろう。規律だ統制だと詰まらない鎖に縛り付けられ、他の誰かがあの怪物を倒すのを指を啣えて見ていなくてはならない状況に陥るかもしれない。
それでは意味が無い。自分にとっては最悪の結末である。
生まれついてのこの気性だ。強敵を見つけてしまえば戦わずには居られないし、その為ならば何だってする。元より、聖騎士だの吸血鬼だのどうでもいいのだ。新たな目標が出来た今となっては、聖騎士団から脱退する事に何の躊躇も抵抗も無い。
それこそ、獲物を横取りされるのを防ぐ為なら彼等に牙を剥くのも躊躇わない覚悟である。
「それではな。あの四人には、精々健やかに暮らせと伝えておいてくれ」
「……」
ブルートもそれが分かっているのだろう。上手く利用出来たなら等と、きっとそのような姑息な事を考えたに違いなく、結局手を出しては来なかった。
なにしろ吸血鬼を助け、教会を裏切った連中だ。世界を相手に戦い抜くには、人手が幾らあっても足りるという事にはならないだろう。
「これから、味方は一人でも必要になるだろうから、なぁ?」
女が張った防壁のお陰で、この辺りはまだ海の中の孤島のように元の形を保っている。
が、それでも少し進めば焦熱の大地が広がっているブスブスと立ち上る煙の匂いは焦げ臭く、充満する熱気は普通のそれとは違って“重い”。その光景とも相まって、何だか現実の世界を歩いているような気がしない。
「神、か……」
きっと自分は幸運だ。自分自身の信仰と直接出逢えるような機会なんて、そうそう無いに違いない。自分の雷撃は彼等に通用するのか。拳や蹴りは届くのか。答えは否。否だ。きっと自分の全てが奴等には及ばず、奴等がその気になっただけで自分は跡形も無く消し飛ばされるに違いない。
どうやれば奴等に近付ける。どうすれば奴等と戦える。血湧き肉踊る相手が直ぐ側に居ると言うのに、自分が役不足だというのは何とも歯痒いものである。
「待っているがいい……!」
だからこそ、楽しい。だからこそ、価値があるのだ。
突如として目の前に現れた白と黒の神々を喰らう、その甘美な瞬間に思いを馳せながら、“餓王”レオンハルト・イェーガーは悠々とその場から立ち去ったのだった。