05.『決意の代償』
『──次のニュースです』
『──本日午後八時頃、オリビアス地方北部の農村で首筋に咬み傷のある遺体が発見されました』
『──フレイガルド警察機構は“───”出現の見方を強めており、早くも討伐隊を編成している模様です』
『──周辺地域では緊急避難指示が発令されています。夜間の外出は控え、戸締まりは厳重に行って下さい』
○ ◎ ●
飛び出した海辺の歩道に、手掛かりは残されていないように見えた。
普段から人気など殆ど無く、“兎と人参亭”の営業時間も過ぎている今となっては周囲に人影の類は全く見えない。最低限の灯りとして無機質な白い光を落とす街灯が等間隔に並んでいるものの、それだけと言えばそれだけだ。
「ヒナギク!」
聞こえて来る潮騒の音は、いっそ嫌味な程に穏やかだ。街灯の灯りでも照らしきれない海は夜の闇と完全に同化していて、見据える者を呑み込もうとポッカリ口を開けているようにも思えた。仮に二人があの中に落ちてしまったとしたら、見付けられる可能性はかなり低いだろう。
「……ッ、ホタル!」
寂れた歩道に、シンの叫び声は虚しく響くだけだった。
右に進めば“複雑怪奇な港街”。夜はまだ始まったばかりだと言わんばかりに煌々と灯りを灯し、働く人間や遊ぶ人間で溢れているに違いない。
「……」
以前、ティスから対人恐怖症だと評されたあの双子が、そんな人気が溢れている場所へ自ら向かうとは考えにくい。だとすれば右の道は候補から除外し、さっさともう一つの道へ探しに行くのが正解だろう。
(……しかし、こっちは……)
身体は迷わず、その場から飛び出していた。
右の道とは正反対の、漆黒の闇へと続いていく道。何も無い訳ではなく、ただ建物のシルエット“だけ”が少し離れた所に見えるのだ。
詳しくは知らない。ただ、ティスやプリッシラとの会話の何処かでチラリと小耳に挟んだ覚えがある。
既に街の一部として機能していない、近代の古い街並みだけが残された小規模な区画。一本の大通りを中心に全部で三層から成るその区画は、嘗ては再開発の話も出ていたらしいのだが、今ではどういう理由からか完全に放置されているのだと言う。
通称“荒廃した無人街”。黒い影の幽霊が住み着いていると噂される、人の子どころか猫の子一匹すら見掛けない場所だとの事だった。
「ったく、アイツら……!!」
老いた街灯がやや整列を乱しながら並んでいる古い歩道は、やはりというべきか全体的に暗かった。行き先が光に溢れている訳でもないし、普通の子供だったら見るだけで恐ろしがるのではないだろうか。
本当にこの道を通っていったのか。そもそもどうして二人は部屋を抜け出したりしたのか。
不安が思考を呼び、その思考がまた不安を呼ぶ結果となってしまう。当然集中力は阻害されてしまい、その所為で一瞬、気付くのが遅れた。
「……ッ! お前ら!」
居た。
前方、少し離れた所に立っていた街灯。投げ落とされる光の円の中に、黒と白の衣の端が翻るのが確かに見えた。奇妙な紋様が刺繍された普段の私服ではなく、色を合わせただけの質素な寝間着の裾。只でさえ特徴が薄くて見落としがちだったが、シンにとってそれは大した問題にはならない。
寧ろ、問題だったのは──
「!? おい、待て……!?」
逃げられた。
服の裾と金と銀の髪の端が一瞬見えただけで、次の瞬間にそれらは闇の中へと飛び込んでしまっていた。
(何でだ!?)
逃げられる意味が分からない。
理解出来ない、そして予想していなかった向こうの行動に、少しの間硬直してしまう。
「……待て!」
だが、ほんの僅かな間だけだ。
気を取り直し、彼女達が飛び込んで行った闇の中へ自分も飛び込んで行く。自分にどんな落ち度があったのかは知らないが、兎にも角にも先ずは捕まえてみないと話にならない。
「ヒナギク! ホタル!」
白と黒、光と闇が交互に並んでいる歩道。木霊するのは自分の叫び声と、その合間を縫う潮騒の音だけだ。
真っ黒な廃虚に向かって走ってる所為だろうか。段々と現実味が薄れていっているような、此岸からどんどん外れていっているような、そんな感覚に襲われた。足の長さや回転速度で遥かに勝る筈の自分が、双子に中々追い付けなかったのも不可解だった。
漸く二人を捕捉出来たのは、廃虚街の入口へ足を踏み入れてしまった後の事だった。
「……! 何やってんだお前ら!」
体調が悪いクセに走ったりしたからだろう。廃虚の入口、古びたビルの残骸に挟まれている大通りの真ん中で、力尽きたように蹲っている二人の姿が確認出来た。
急いで駆け寄り、助け起こそうと二人の脇に膝を突く。熱に浮かされたような掠れた声が聞こえたのは、まさにその瞬間の事だった。
「……きちゃ……ダメ……」
「はぁ!?」
こんな時に何を言っているのだろう。問答無用で手を伸ばし、折り重なるように倒れていた二人の内の一人を助け起こす。
白服金髪。ヒナギクだ。
新雪のような白い肌に、奇妙な赤みが差しているのが夜目にも分かる。喘ぐような呼吸は荒く、抱き上げた細い身体は吃驚する程に熱い。苦痛を堪えるように双眸はギュッと閉じられており、それなのに喰い縛った歯の隙間からは、絞り出したような声が途切れ途切れに聞こえて来るのだ。
「……きちゃ、ダメ……こない、で……」
「もういい黙れ。詳しい事情は戻ってから聞く」
「……にげ、て……」
「いいから。大人しくしてろ」
「……。……おつきさま、が……」
うっかり力を込めればへし折ってしまいそうな、華奢で小柄な身体。ホタルも一緒に抱き上げる為、恐々とヒナギクを抱え直していた最中に、彼女が奇妙な言葉を呟くのが聞こえた。
おつきさま。お月様?
つられるように頭上を見上げれば、不吉な紅色の光を放つそれが、まるで乗し掛かって来るかのように浮かんでいるのが見えた。
「……おつきさまが……まっかなの……」
「……あかい、あかい……おつきさま……」
「……あかい……あかい……」
ヒナギクの身体を片手で抱え、空いたもう一方の腕でホタルを抱き起こす。多少負担を掛けてしまうかもしれないとは思ったが、とにかく一刻も早く“兎と人参亭”へ戻るべきだと感じていた。
人形のようにダラリと力が抜けたホタルの身体。譫言のように紡がれるヒナギクの声。姿形はシンの知っている彼女達のものだが、その中身だけが何かと入れ替わっているかのような感覚だった。
「「──のどかわいたぁ」」
ゾクリ、と全身が総毛立つ。
腕の中の二人が、シンの顔を見上げて来たのだ。二人に共通する紅い目が、月の光を反射してが爛々と輝いているのが見て取れる。熱に浮かされたようなトロリとした目付きなのに、その光に薄ら寒いものを感じてしまうのは何故だろう。
「……!?」
どうかしている。何故自分が、この双子相手にそんなものを感じなくてはならないのだろう。
一旦目を閉じ、纏わり付いて来る悪寒を振り切るように頭を振る。その間にも二対の視線がジッと見上げて来ているのは感じていたが、それは敢えて気付かないフリをした。
「──ああ、いたいた」
背後から柔らかい声が聞こえて来たのはその時だ。
ハッとなって背後を振り向けば、其処には予想通りティスの姿があった。膝に手を置いて体重を預け、軽く息を乱している様を見る限り、どうやらシンの後を追い掛けて来たらしい。
呼吸を整える為だろう。膝頭に手を乗せ、体重を預けたまま二、三秒。顔に掛かった前髪をはねのけるように顔を上げ、いつも通りののんびりした調子で口を開いた。
「良かった。見つかったんだ」
「ああ」
シンの背中によって遮蔽され、詳しい様子が確認出来ないのだろう。ティスが双子の様子について言及してくる気配は無かった。
どうしよう。伝えるべきだろうか?
迷っている間にも、双子はもそもそと動き続けている。抱えるシンの腕を這い上がるように身体を起こし、肩に頭を乗せるようにしながら鼻面を首筋に擦り付けて来る。
甘えられている等といった呑気な考えを抱くには、その感覚は冷た過ぎた。双子の体温そのものは燃えているように熱いのに、背筋からは氷のような悪寒が這い登って来るのである。
「────」
「……シン?」
口を開いても、肝心の言葉が出て来なかった。流石に異変を察知したらしく、ティスが怪訝そうな声を上げる。
その間にも背筋から這い上がって来ていた悪寒が、やがて首筋に到達。擦り付けられる双子の熱と混ざり合い、溶け合い、そして──そして、破裂した。
「痛──!?」
首筋に、ジクリと痛みが走るのを感じた。
何が起こったのか分からず、結果的にただただ硬直する事しか出来ない。
“噛みつかれた”。
少し遅れて何が起こったか理解したシンの耳に、熱に浮かされたような、或いは酒に酔ったようなとろけた声が這い登って来たのはその時だった。
「ふるえているの?」
「おびえているの?」
「トクトク、トクトクってなってるよ」
「ふるふる、ふるふるってなってるよ」
「「かわいい」」
それはきっと、捕食者が獲物を愛でるようなものだった。
その気になれば肌を突き破り、赤い血潮に濡れていたであろうその牙は、肌の臨界を越える手前で引っ込められていた。やがて来るであろうその瞬間をより深く味わう為に、自らを焦らして楽しんでいるのか。
「……」
心臓がドクドクと暴れている。頬や背中が冷や汗で濡れている。
自分はどのような行動を取るべきなのだろう。二人を放り出すべきなのか、グッと堪えて我慢すべきなのか。いつもだったらさり気なく助言をくれるティスでさえ、状況が呑み込めていない所為か何も言わなかった。注目するように、或いは観察するように、シンと双子の姿をジッと見つめている。
「はふ……」
恍惚としたような熱い息が首筋に掛かる。生物としての本能が最大限の警鐘を鳴らす。
考えての行動ではない。気が付けば身体が勝手に動いていた。
「──あ……」
夢から覚めたようなその声は、一体どちらが洩らしたものだったのだろう。身体を捻り、やや荒っぽく、シンは双子を放り出していた。
ティスの方へと転がっていったであろう二人にはもう目もくれず、代わりにそこらに放って置いたものに手を伸ばす。
相も変わらず持ち歩いていたもの。双子の代わりに一旦置いて行こうとしたもの。
一振りの、長大な倭刀である。
「──疾……ッ!!」
一閃。
夜の闇の中に火花が咲いて、金属が弾ける甲高い音がした。ビリビリと手首に返って来た衝撃は思った以上に大きく、思わず顔を顰めてしまう。
狙撃だ。
弾丸が上空から襲い掛かって来た所から察するに、恐らく狙撃手はビルの上にでも陣取っているのだろう。どの段階で嗅ぎ付けられたのかは分からないが、シンや双子の命を狙って来る連中と言えば一つしか心当たりが無い。
「──シャアッ!!」
息も吐かせないタイミングだった。空気を引き裂くような殺意の声と共に、複数の気配がシンの間合いの中に飛び込んで来るのを感じた。
前、右、左。全部で三人。此方を包み込むような扇状の陣形だが、間合いに入って来るタイミングが微妙にずらされている為、一太刀で纏めて対処するといった事が出来なくなっている。
「……ふん」
とは言え、この程度だったらまだ何とかなるだろう。
最初の弾丸を弾いてから直ぐに鞘の中に納めていた倭刀の柄を握り直し、シンは下腹に意識を込める。肩から力を抜き、代わりに気を練り全身に充実させて、そしてそれが臨界に達した所で一気に解放する。
「──破!!」
幾重にも重なった斬閃は、刃の色に月の光も合わさった所為かハッとしてしまう程に紅かった。三つの短い悲鳴と共に黒っぽい液体がパッと弾け飛び、遠慮する事無く顔面に降り掛かって来る。
……生臭い。
「下がれ!! 壁を背中に背負うんだ!! 囲まれてるぞ!!」
三つ以上の欠片に成り果て、ボトボトと地面に転がり落ちた襲撃者達の事は考えないようにしながら、背後の三人に向かって怒鳴る。
今は道徳について考えている場合ではない。殺さなくては殺されてしまうのだ。双子やティスには見せたくない光景だったし、見られたくない姿だったけれど、こういう状況に陥った以上は仕方無いだろう。
「二人共立って。シンの言う通りにしよう?」
「「……」」
三人の気配が退いて行くのを感じる。シンの指示通り、壁際に寄って背後を取られるのを防いだようだ。すかさずシンもそれに続いて後退、彼女達の前に立ちはだかって、周囲に向かって油断無く視線を走らせる。
シンの仕事は、襲い掛かって来る背後以外の攻撃から彼女達を守る事。そして、隙を見つけ出して彼女達を逃がす事だ。
難しい仕事になりそうだが、やらなければ彼女達が殺されてしまう。泣き言は言ってられなかった。
「!」
シンから見てスラムエリアの奥に位置する場所──少し離れた廃ビルの屋上で、銃火の光が閃いたのが見えた。一つではない。二つ、三つ、全部で四つ。
見てから動いたのでは到底間に合わなかっただろう。鞘の中に納めていた刃を閃かせ、微妙にタイミングをずらして襲い掛かって来た弾丸を全て明後日の方向へ弾き返す。最初の一発はビルの壁に、次に同時に来た二発は古びた路面に。そして、最後の一発は死角から忍び寄って来ていた襲撃者の眉間に。
(……四人)
丁度、ティス達が身を寄せている廃ビルとは路面を挟んだ反対側。ビルとビルの隙間から飛び出して来たその影は、頭部から黒い液体を撒き散らしながら地面の上を転がって来る。
勿論、それで終わりではない。倒れた仲間を踏み越えるようにして、更に新たな影が二つ、同じビルの隙間から飛び出して来るのが見えた。
(まだ居るのか……!)
一人が大きく宙に飛び上がり……かと思いきや、もう一人が地面を這うような低い体勢で突っ込んで来る方が遥かに速い。その両の手に握られているのは一対の短刀。スピードに物を言わせて一気に潜り込み、此方の急所を一気に掻っ捌く──と、そんな筋書きだったのだろうか。
(……五人!)
シンが選択した対処法は、前に出る事だった。
重心を滑らせるイメージで前進、低い姿勢で突っ込んで来た相手の脇をスルリと抜けて、ついでに倭刀を鞘走らせておく。
シンの倭刀は異常なまでに頑丈で、そして凄まじい斬れ味だ。長過ぎる刀身は相手どころかその下にある路面まで捉えていたが、手元に返って来る感覚はバターを切る感覚とあんまり変わらない。
間の抜けた声を最後に、相手の身体が上下に分かたれる。べちゃりと路面に崩れ落ちる音を背中で聞きつつ、シンはひょいとその場でしゃがみ込んだ。
「この野郎!!」
怒声と共に頭の先を掠めていったのは、囮として大きく跳んでいた二人目の影だ。手にした長柄の得物で此方の首を薙ごうとした様子だったが、空中では動きが制限されるし、何より感情が剥き出し過ぎた。きっと、目が見えなくったって避けられただろう。
「……遅ぇよ」
いっそ清々しいくらいの勢いで頭上を素通りし、背後に着地した二人目。しゃがみ状態のまま素早く反転、その勢いをそのまま利用して、着地直後で硬直していた相手の足を蹴り払う。
為す術も無く転がった相手の脇で抜き身の倭刀を高々と振り上げ、そして心臓目掛けて深々と突き立ててやった。
(六人……!)
突き刺さった刃を即座に斬り払い、そのまま遠くから飛んできた狙撃の弾丸を明後日の方向に弾き飛ばしてやった。
その後、呼応するように飛んできた弾丸も次々と叩き落とす。此方の戦闘のスピードに付いて来れないのか、それとも仲間意識が強過ぎるのか。接近戦を挑んで来る面子が完全に沈黙しない限り撃って来ないのは、此方からすれば大助かりだ。
とは言え、何かの拍子でその弾丸がティスや双子の頭を撃ち抜いてしまったらと思うと気が気では無い。出来る事なら今すぐにでも狙撃手達を黙らせに行きたいが、そうすると三人を守る者が居なくなってしまう。それでは意味が無い。
「──ナァルカミィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!!」
マトモに思考する時間は与えて貰えなかった。
一息吐いたと思った次の瞬間、近くのビルの上から新しい人影が飛び出して、シンの目の前に飛び出して来たからだ。
「ッ!!」
デカい。
雷獅子も大概恵まれた体格をしていたが、此方は人類の限界を超えて身体が膨れ上がっている。単純な大きさ勝負なら、修道院で戦った機械猿人ともタメを張れるのではないだろうか。大きく突き出た腹や弛んだ頬肉は多少気になるものの、飛び降りて来た動きを見る限りではノロマと断じるのは危険だろう。
「やっっっっっと見つけたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
短い髪は怒り狂ったように天に向かって逆立ち、吊り上がった双眸に宿る殺気は見るモノを灼き殺してしまいそうだ。
大きく背中を曲げ、額を突き合わせるような状態で睨み合ったのはほんの一瞬。次の瞬間、真上から殺気を纏った相手の拳が落下してきて、シンは咄嗟にその場から大きく一歩後退していた。
(コイツは……!?)
轟音。
豪速で打ち下ろされ、シンの眼前の路面を打ち砕いた拳には、短い柄の付いた斧が握られている。エイプマンと速さは余り変わらないが、得物がある分プレッシャーは遥かに大きい。
ジリジリと肌を焦がす殺気は、今までの連中よりも数倍濃いように感じられた。やっと見つけたと言って来た事から察するに、どうやらこの男は随分長い間自分を探していたようである。
自分は一体、この男に何をしてしまったのだろう。口を開いて聞いてみたいような気もしたが、同時にその答えも何となく予想は付いていた。
「アレン達の仇だ──!」
仇。
そう、仇だと言われたのだ。
ティスに拾われた時、シンの周りには殺戮の跡が残っていたのだと言う。何時から始まり、どのくらい続いたのかは知らないが、とにかくその過程で『アレン』なる男もシンに殺されたのだろう。
ならばこの男には権利がある。シンを殺し、復讐を遂げる権利が。シンにそれを否定するつもりは無いし、ましてやそれから逃げるつもりも無い。
「死ね──!!」
だが、受け入れるつもりだって無かった。罪の重さに膝を折るのは簡単だが、そうしてしまえばシンの今までの全てがへし折れ、無駄になってしまう。
守ると決めた。ならば、それを貫くまでだ。
「死ね、だと……?」
路面を砕いた手斧。同じデザインのそれが、もう片方の腕によって振りかぶられ、打ち下ろされて来るのは、全身でハッキリと知覚出来ていた。
確かに速い。迫力もある。けれど、どちらも雷獅子ほどではない。
身体を捌いてギリギリで躱し、路面に叩き付けられた斧の峰を踏み付け、封じるなんて造作も無い事だった。
「その程度じゃ無理だ」
斧から腕へと伝うように駆け上がり、先ずは勢いをそのまま乗せた膝蹴りを顔面に叩き込む。鼻骨を砕く独特な感触が返って来て、くぐもった悲鳴と共に相手の顔が大きく仰け反る。
更に、腰を捻って身体を回転。追い討ちとして放った空中回し蹴りは狙い過たず相手の首筋を捉え、その身体を側頭部から路面に叩き付けた。
「ぎゃ……!?」
勢いに重量も相まって、その音はとにかく派手だった。
重力に引かれてストンと着地。同時に地を蹴り、滑るように相手との距離を調整。納刀状態の倭刀を頭上に掲げるように構えつつ、大上段から相手の首元へと必殺の刃を抜き放つ。
そのまま行けば頭が胴体から斬り離されていたであろう相手は、けれど結局そうなる事は無かった。刃が勢いに乗り切る直前、わざわざその下に潜り込み、受け止めた者が居たからだ。
「……ッ!?」
接近に気付けなかった。つまり、相手がその気になればシンの喉は掻き斬られていてもおかしくなかったという事だ。その事実に気付くと同時に冷や汗が噴き出したが、戦いに於いて動揺を顔に出すのは絶対に拙い。
だから、行動した。
交差した二本の腕──正しくは、その袖の下に隠された鉄板か何かだろう──によって受け止められた刃をグイと押し込み、否が応でも其方へ意識を向けさせる。そして間髪入れずに、その顔面に向けて足を跳ね上げ、蹴りを放つ。
「!」
実力とは裏腹に、ソイツはシンを殺す事にさほど積極的ではないようだった。ひょいと頭を引く事でシンの蹴りをあっさり躱し、けれど特に追撃を仕掛けて来る様子は無い。急いで跳び退り、ティス達の直ぐ近くまで後退した自分の回避行動は、見事に徒労に終わった訳だ。
「……ブルート……ッ!!」
地に倒れ伏したままのデカブツが、低く唸るような声を上げた。ブルートと呼ばれた男は特に反応を示す事も無く、両腕をダラリと垂らした無形の構えで此方を見つめている。
オールバックにしている髪は年経た白で、所々皺が刻まれた厳めしい顔は無表情だ。片目を潰している鋭い一本線は、ひょっとして刀傷だろうか。背は高く、スラリと伸びた手足は細いがしなやかである。腕力そのものは高くはないかもしれないが、その手足から生まれる打撃力までを甘く見ていたら痛い目に遭うに違いない。
放たれる気は驚く程に若々しいが、ブルートと呼ばれた男は老人だった。一応は相手側の仲間であるらしかったが、相手側がそれを認めて居るかは些か疑問である。他と比べて明らかにやる気が見えないのは、或いは其処が関係しているのかもしれなかった。
「ブルート、テメェ……何を勝手に出て来てやがる……!!」
「……」
「何か言え!! スカしてんじゃねぇよ、こら!!」
「……。イェーガー様が参られます」
「は……ッ!?」
斬りつけるようなザックリとした物言いは、デカブツだけでなくシンをもギョッとさせた。
イェーガー。
レオンハルト・イェーガー。
雷獅子の名前ではないか。
「“俺が行くまで手を出すな”。イェーガー様は確か、そのように仰った筈ですが?」
「ぐ……!?」
「勝手に交戦した挙げ句、地を舐めるような醜態を晒して、恥を知りなさい。これではどちらが異端審問官の名を汚しているのやら……」
「ぐぅぅ……ッ!!」
淡々と言葉が紡がれる度に、デカブツが屈辱の唸り声を上げるのは、見てて何となく爽快だ。
だが、そんな小さな事に気を取られている暇は殆ど残されていなかった。
『──がぁああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!』
「!!」
どこぞのビルの上から、夜空に躍り上がった雷の塊。バチバチと怒ったように紫電の欠片を撒き散らしながら、それは勢い良く落ちて来て、シン達から少し離れた地点に着地した。
「……おでましか……!!」
轟音。そして衝撃。
舞い上がった粉塵が消えるのも待たず、雷撃がその帳を突き破って放たれた。文字通り光速で迫って来たそれは、シンではなく、その眼前のブルートでもなく、その更に背後で立ち上がり掛けていたデカブツの巨体を捕捉する。短く呆けたような悲鳴を激しい放電で押し包みながら、そのまま勢い良く吹き飛ばしてしまう。
デカブツの身体は“荒廃した無人街”の境界線を一気に超えてその外へと弾き出され、そのまま夜の闇に呑まれて見えなくなってしまった。
「見苦しい物をお見せしてしまい、誠に申し訳ありません」
空気を破ったような轟音の余韻が、未だに尾を引いている。あの様子だとデカブツが生きているかも怪しいが、目の前で恭しく一礼するブルートはまるで気にしていない様子だった。
「しかし、迂闊でしたな。ああ見えてイェーガー様は暴れるだけの獣では御座いません。今夜、何らかの動きがあるかもしれないと、この街全体に我等を配置なされていたのですが……」
「まさか、此処まで見事に網に掛かってくれるとは思ってもみなかったぞ!」
粉塵が、晴れる。
バチバチと帯電する偉丈夫の姿が、次第に露わになっていく。
鬣のような豪奢な金髪も、鍛え上げられた鋼のような大柄な体躯も、喧嘩を楽しむ悪童のような肉体も。残念な事に、記憶の中に残っているそのままの姿だった。
「……ああ、“アンタ”も居たんだな?」
無造作に、それでいて重々しく此方に歩み寄りながら、雷獅子は不意にそんな事を言った。シンには何を言われたのか分からなかったが、それを理解するよりも、雷獅子が言葉を継ぎ足す方が早い。
「一応は礼を言っとくぜ? アンタの説得が無けりゃ、俺はあの時焼け死んでいただろうからな」
「……どう、も……」
答えたのはティスだった。
一体どういう事なのか問い詰めようと、殆ど弾けるような勢いで振り返る。
「……!?」
だが、出来なかった。
“その光景”を見てしまったからだ。
「お前ら……?」
双子を抱き抱え、頑張って腕の中に捕まえ続けているティス。そして、その拘束から逃れようと藻掻いている双子。二人のその目は何も見えていないように虚ろで、けれどただ一つだけ、真っ直ぐに見つめているものがある。
血だ。
もはや喉が乾いたとすら言葉を紡がず、ただただ獣のような唸り声を発しながら、双子は路面に広がる襲撃者達のそれに異常なまでの執着を示していた。
「……ごめん……!」
一体、何が起こっているのだろう。
呆けて咄嗟に言葉が出て来ないシンを、ティスは怒っているとでも勘違いしたらしい。藻掻いているというよりは暴れていると言った方が相応しくなってきた双子に振り回されながらも、必死に言葉を紡いで来る。
「これ以上は、抑えて、いられないかも……わわ……ッ!?」
「おいおい、まさか血をやってないのか?」
驚いたように口を挟んできたのは雷獅子だった。その内容の割に、口調そのものがあっけらかんとしていた所為か、言葉の意味を上手く把握する事が出来ない。
「何を……?」
「テメェが味方するって決めたんだろうが。餌くらいちゃんと与えてやれよ」
「餌……?」
当たり前のように語られる雷獅子の言葉を前に、シンは咄嗟に動く事が出来ない。
餌。餌だと? ふざけるな。あの双子を、獣か何かと一緒だと言うつもりか。
「ウゥ……!!」
「ガ、ゥゥ……ッ!!」
ドクン、鼓動が跳ねるのを感じた。背後から聞こえて来る唸り声は、紛れも無く双子が発しているものなのだ。
ティスが何とか宥めようとしているが、まるで効果が無いらしい。路面にブチ撒けられた血に向かって、二人は全力で突き進もうとしている。
呆れたように、それと同時に無責任に面白がっているように、雷獅子が言葉を紡ぐのが聞こえた。
「しかし満月の影響があるとは言え、すげぇ吸血衝動だなァ、おい? あんな凶暴なの、どうやって飼い慣らしたんだ?」
「……吸血衝動……?」
「はぁ? なに惚けてんだ?」
不愉快だと言わんばかりに雷獅子は顔を顰めたが、こっちは至って真剣だ。
黙ったまま、相手を真正面から睨み続ける。
此方が態度を改めないと悟ったのだろう、雷獅子は腕を組み、溜め息と一緒に吐き捨てるように言った。
「“吸血鬼”だろ、そのガキ共は。今まさにそう振る舞っているじゃねぇか?」
「吸血鬼……?」
「お前、いい加減にしろ。どっかで頭打ったのか? 聖騎士団を裏切って、処刑間近だったそのガキ共を牢獄から連れ出したのはテメェだろ?」
「……」
過去の記憶が気にならなかった訳ではない。無理に取り戻そうとは思わなくとも、いずれ明らかにしたいとは考えていた。
だが、これは唐突過ぎる。余りにも唐突過ぎる。
聖騎士という単語には聞き覚えがある。シンが修道院で目を覚ましてまだ間もない頃、ティスと赤鼻から聞かされたんだったか。
あの時、元聖騎士じゃないのかと言ってきたティスの言葉を、シンは鼻で嗤ったのだ。
「群がる敵もなんのその。片っ端から死人の山だ。ははっ、やってくれたよなァ?」
赤鼻は言っていた。聖騎士団は人ではなく、化け物を殺す集団だと。
そして今現在、シン達を取り囲んでいるのはその聖騎士団なのだという。雷獅子の言葉を信じるなら、シンは彼等を裏切った元仲間であり、彼等から“処刑”される寸前だった双子を連れ出して逃走した。
では、彼等は何の為に、年端もいかない小さな子供を処刑しようとしていたのか。
決まっている。彼女達が、彼女達こそが、聖騎士団が殺すべき“化け物”なのだ。
「末席とは言え、仮にも十聖の一人が人類を裏切ったんだ。教会領は今でも大混乱だぜ? ほら、見てみろ」
面白くもなさそうに、雷獅子は周囲を見回すよう促して来る。
言われるままに辺りを視線を遣れば、あちらこちらから此方を見つめて来る幾つもの目が合った。
「吸血鬼なんぞに魂を奪われて、何十人もの追っ手をテメェは殺した。当然、その分恨みも買ってる訳だ。ほら、感じるだろ? 此処にいる連中は、テメェを八つ裂きにしてやりたくて堪らねぇらしい」
言われなくても感じていた。夜の闇とは違う、目には見えない真っ黒な感情。
幾重にも幾重にも重なった憎悪、或いは殺意と呼ばれるものが、シンの肩に、背中に重く乗し掛かって来ているのだ。ティスと出会う直前に大勢殺した形跡があったと言うし、きっと彼等のそれは正当なものなのだろう。
「──裏切り者!」
誰かが叫ぶのが聞こえた。それは充満していた憎悪の渦を破裂させるには充分で、まるで火薬が連鎖していくように、様々な罵声があちらこちらで上がり始める。
「──裏切り者ッ!! 裏切り者ッ!!」
「──化け物なんかに魂を売りやがって!!」
「──殺してやるッ!! 絶対に殺してやるッ!!」
「──化け物共々絶対に殺してやるッ!!」
シンが元聖騎士団で、彼等を裏切ったのは分かった。これだけ濃密な殺気をぶつけられているのだ、今更相手を疑うつもりは無い。
だがそれだけ話されたのにも関わらず、記憶は戻って来ないのだ。最も大事な、「どうして自分は裏切ったのか」という記憶は、未だにすっぽりと抜け落ちたままなのである。
吸血鬼。血を吸う鬼。成程、確かに悪役っぽいネーミングだ。
雷獅子から視線を外して双子を見やれば、どうやら自分達が弾劾されている空気は感じ取れたらしい。獣のような気配はナリを潜め、ティスの腕の中で縮こまっているのが見えた。
「……ティス」
「なぁに?」
彼女は話を聞いていなかったのだろうか。腕の中の“化け物”にも脅える様子を見せないで、しっかりと抱きしめている。
「そいつら、吸血鬼なんだってよ。俺は元聖騎士で、奴らを裏切ってそいつらを助けたらしい」
「うん、それは聞いてた」
「そうか」
罵声は未だに納まらない。怒りに満ちた声や泣き声混じりの声が、容赦無く身体にぶつかってくる。今はまだ罵声だけだが、そう遠くない内に物理的な攻撃も飛んで来るに違いない。
余り時間は無いのは分かっていたが、それでも問い掛けるのは止められなかった。
「お前は平気そうだな。吸血鬼って、コイツらが大騒ぎしているだけで実は大した事無いのか?」
「ううん。少なくとも世間一般じゃ世界最凶の怪物とか、悪魔とか言われてるよ。人間を捕食するし、身体能力が高過ぎて普通の人間には対抗出来ないしで、天災扱いまでされる時もあるね」
罵声の中でも、ティスの淡々とした声は不思議と良く聞こえた。話の内容に不安を覚えたらしく、抱きしめられた双子が恐る恐る彼女を見上げると、彼女は二人を安心させるように微笑んで、その頭に頬擦りまでしてみせた。
言動と行動が一致していないように見えるのは、きっとシンの気の所為ではないだろう。
「じゃあ、お前は何で平気なんだ?」
「シンの方こそ、どうしてこの子達を助けたりしたの?」
「……ッ」
質問を質問で返すのはルール違反。だが、彼女のそれには咄嗟に答えてしまうような何かがあった。
答えに詰まってしまったのは、シン自身がその答えを知らなかったからだ。
「……分からないんだ」
「分からない?」
「記憶が戻ってこないんだ。俺が元聖騎士で、コイツらが吸血鬼だって事は、実感は湧かないがまぁ分かった。でも肝心の、俺が奴らを裏切ってまでコイツらを助けた理由ってのは分からない。俺はどうしてコイツらを助けたんだ? 何で奴らを裏切ったんだ?」
「……」
ティスに訊いた所で、答えが返ってくる筈が無いのは分かりきっていた。
事実、ティスは黙り込んでしまったし、シンだって本気で彼女に訊いた訳では無い。
背後から乗し掛かって来る憎悪と殺意は、今話している間にもますます大きく膨らんでいた。このまま背中を見せていたら、我慢出来なくなった誰かが突撃をかまして来るかもしれない。
「ねぇ、シン?」
それでも頑固に振り向かなかったのは、静かな声がシンの意識の中にそっと割り込んで来たからだ。
「確かに世間には吸血鬼に殺された人は沢山居るし、その事実は変えようが無いかもしれない」
「お前……」
ティスだった。
水底のように静かな眼差しは、まるでざわめく此方の心の底を見透かしているかのようだった。
「でも、思い出して。この子達は一度だって、誰にも襲いかからなかったよ。今だって身近に血袋があるのに、必死に頑張って我慢してくれてる」
「……!!」
確かにそうだ。二人は路面にブチ撒けられた血しか見ないで、自分達を抱きしめているティスには見向きもしなかった。
聖騎士団は二人を化け物だと言う。だが、それなら化け物の定義とはなんだろうか。側にある生き血を我慢して路面にブチ撒けられた死体の血で妥協するなんて、化け物と呼ぶには余りにも大した事がなさ過ぎる。
「──殺す!! 殺してやる!!」
背後で、憎悪の一部が破裂したのを感じた。上空、恐らくはビルの上からだろうか。殺気の塊が一つ、喚き声を上げながら勢い良く飛び出して来る。
今すぐ振り返って対処しなければ、シンは間違い無く殺されてしまうだろう。
「この子達がシンの刀を持ち出そうとした日の事、覚えてる?」
“──しかしながら教皇猊下。どうか一つだけお答え頂きたい”
ふと心に湧いて来た、この言葉はなんだろう。随分前、消えかけの理性を絞り出して紡いだこの言葉を、自分は誰に向かって放ったんだったか。
「二人が私達の事を“餌”としか思ってないんなら、絶対にあんな事しなかった思うの」
“我等の血と、彼等の血──”
記憶の中の視界の先には、驚いたような柔和な表情。火が付いたように泣いている双子の少女を連れた血塗れの男が飛び込んで来たら、どんなに偉くて懐の深い人物でも仰天するだろう。
「“我等の血と、彼等の血……”」
迷いは、何時の間にか消えていた。弾かれたように振り返り、上空から襲い掛かって来ていた人影に向かって、一閃。
俺が双子を助けた理由。俺が聖騎士達を裏切った理由。
嗚呼、俺はなんて下らない事に気を取られていたのか。
「“……これらは、同じ色をしているのを御存知か?”」
飛び降りて来た聖騎士は何も出来ないまま、シンとティス達の路面に叩き付けられた。衝撃により断面が離れ、上下に真っ二つになった死体の傷口から血が物凄い勢いで零れ始める。
渦巻いていた憎悪の空気が凍り付き、口々に殺意を垂れ流していた聖騎士達がピタリと止まる。その空気を斬り払うように倭刀に付いた血を払い、シンは再び双子の方へと振り返った。
「おい、お前ら」
間にあった邪魔な死体を脇に蹴飛ばし、目の前にまで歩み寄って膝を突く。
躊躇いは無かった。
倭刀の刃を片方の掌に食い込ませ、するりと滑らせる。摩擦なんか無かったように刃は肉を斬り裂いて、血がボタボタと零れ落ち始めた。
「犬じゃねぇんだ。地面に零れ落ちたのを舐めようとするな。浅ましい」
一旦倭刀を鞘に納めた後、改めて眼前に差し出された掌を、双子は半ば吃驚したように見つめていた。シンの顔を見上げ、掌を見つめ、もう一度掌を見つめる。タイミングはズレていたものの、二人の取った行動は殆ど同じだった。
「いいの……?」
「何を今更遠慮なんかしてるんだ。いいから飲め」
「……えと、じゃあ……」
双子は双子なりに、今が非常時である事を理解していたらしい。周りを敵に囲まれている状態で血を与えられた事に躊躇いを捨てきれない様子だったが、やがて二人揃って顔を見合わせ、おずおずと顔を寄せて舌を伸ばして来る。
ぴちゃぴちゃという湿った音。せっかく戻って来た二人の理性は、最初の一嘗めで再び吹っ飛んでしまったらしい。やがて二人は遠慮も躊躇もかなぐり捨てて、夢中な様子でがっつき始めた。
「悪い。助かった」
指を掴んでグイグイと掌を引っ張って来る双子の様子を眺めながら、シンはティスに向かって声を掛ける。
「下らねぇ事に目が行って、変な所で足踏みしちまった」
「ううん。いいの」
ふるふると首を横に振り、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべてみせた。今まではあまり気にしなかったが、目の前で人が死んでも笑顔を浮かべられる辺り、彼女もまた普通の一般人の枠から外れているような気がする。
今度、聞いても差し支えない範囲内で尋ねてみる事にしよう。
「“我等の血と彼等の血。これらは同じ色をしているのを御存知か?”。今の言葉、私は凄く好きだな」
「光栄だが、人には言うなよ」
「えー」
「えー、じゃない」
記憶は、未だに戻って来ない。聖騎士だった頃の自分の姿なんて想像もつかないし、何を思って彼等を裏切ったのかも思い出せない。
それでも、もう雑念は無い。憎悪も、殺意も気にならない。彼等には彼等の言い分があるだろうし、シンにとっての双子やティスにあたる者達を殺されて憎悪する気持ちも十分に想像出来るが、それでもシンは今の立ち位置を変えるつもりは無い。
「もう、知っちまったもんな」
撫でられる事が好きなのだ。最初は戸惑って距離を置いていたけれど、一度慣れると今までの分を取り返すようにグイグイと距離を詰めて来た。
気を付けば、傍に居る。気まぐれに撫でてやれば嬉しそうに笑って、甘えるように抱き付いて来るのだ。何時も周りをちょろちょろしていて鬱陶しく思う事もあったが、今思えばそんな瞬間ですら心地良かった。
ヒナギクと、ホタル。それが彼女達の名前であり、全てだ。吸血鬼とか、人間とか、シンはそんなものは気にしない。
誰かが彼女達を化け物だと謗り、その命を脅かすというのなら、自分がそいつに牙を剥こう。例え仇として憎まれ、虐殺者として謗られようとも、その全てを嘲笑い、踏みにじって立ち続けよう。
それが意志を貫くという事で、今の自分に出来る唯一の事だから。
「さて、と」
捕まえられていた掌をやんわりと引っこ抜く。ああっ、と双子が不満そうな声を上げたが、理性が多少戻って来る程度には堪能したらしい。二人同時にハッとしたような顔をして、その後申し訳無さそうにうなだれた。
「何をしょぼくれてるんだ?」
「だって……」
泣き声混じりの情けない声を上げたのはホタルだ。その隣のヒナギクは泣くまいと必死に堪えているが、目尻には大粒の涙が光っていた。
「だって?」
「だって、ボクたち、ガマンできなかった……ッ!」
それがいけない事だと、少なくともこの世界では受け入れて貰えない事だと、双子達は知っていたのだ。だから記憶を失ったシンには言わなかったし、このような顕著な“反動”が出て来るまで我慢し続けていたのだろう。
「……バーカ」
彼女達は頑張った。それは確かだ。
ならば次は、大人であるシンが頑張る番である。
「ガキが妙な遠慮とかしてんじゃねぇよ」
言いつつ、立ち上がる。二人には心ゆくまで血を与えてやりたかったが、生憎とそうのんびりともしていられない。
周りを囲む聖騎士団。先程の一閃に引き続き、自ら血を吸血鬼に与える光景を見せ付けられて凍り付いていた彼等に向けて、淡々と声を掛けていく。
「わざわざ待っていてくれるとはお優しい事だな? 別にそんな必要は無かったんだが……」
静まり返った空気の中で、自責に駆られてぐずぐずと泣いている双子の声と、それをあやすティスの声だけが響いている。
グルリと周囲を視線を遣って、雑魚共、目の前の老人、右手に見える雷獅子を無作為に見回す。雑魚共は明らかに此方に気圧されているようだったが、老人と雷獅子は、何かを考えている様子だった。
「ほら、もういいぜ。何処からでも掛かって来いよ。それとも騎士道を重んじて、一人ずつ掛かって来てくれるのか?」
「──ふ……ッ!?」
あからさまな挑発だったが、それ故に引っ掛かるものも多かった。凍り付いて空気がざわりと震え、段々と熱されていき、そして破裂寸前までボルテージが上がって行くまでに、大して時間は掛からない。
「──ふざけるなぁッ!!」
あちこちで膨れ上がる殺気。数にして、五人、いや、四人といった所だろうか。
さぁ始まりだとばかりに倭刀の柄に手を掛けて、待ち構える。挑発に乗ったのはいずれも雑魚で、何処から来ても怖くはないが、老人と雷獅子がこれに呼応してどう動くかだけは警戒しておかなくてはならない。
「──殺してやる……ッ!!」
ビルの上から一つ、そこらのビルとビルの隙間から三つ。飛び出して来た四つの人影は、どれもこれもが怒りに駆られて一直線に突っ込んで来た。
容易い迎撃だ。
即座に反応して倭刀を素早く構え直し、全員一気に両断してやるべく柄を思い切り引き抜こうとして──
「──!?」
轟音。
何かが何かを打ち砕く破砕音ではなく、身体に直に叩き付けられるような爆音だ。
「な……!?」
何が起こったのか、咄嗟に理解出来なかった。
ただ、刀を引き抜こうとしたその瞬間、視界を埋め尽くすような閃光が横合いから押し寄せて来て、襲い掛かって来た四人を全員纏めて呑み込んでいったのは確かに見えた。
「……くっくっく……」
閃光に目をやられ、爆音に耳をやられて、咄嗟に気を張って自身に迫ってくる殺気を探知する事に全力を注ぐ。
この隙に一斉に襲い掛かられる事も覚悟していたのだが、そんな事は全く無く、代わりに機能を取り戻していく耳が誰かの笑い声を拾い始めた。
低く、唸るような獰猛な声。
雷獅子だ。
「何だよ。何だよ何だよ!! やりゃあ出来るじゃねぇかよ刃匠よォ!!」
此方に向けて、真っ直ぐに突き出された右腕。バチバチと激しく放電しているのは、今の一撃の残り滓だろう。
シンを狙った一撃だったのか。いや、シンは一歩たりとも動かなかった。雷獅子程の男が動かぬ的を外すとは考えにくい。
けれど、だとしたら。
この男は、自らの仲間を攻撃した事になる。
「いやぁ、さっきは暫く見ねぇ間に随分腑抜けちまったなとガッカリしたが!! 単なる出し惜しみかよ人が悪い!!」
何だ?
コイツは何を言っているんだ?
シンの疑問は、そのまま聖騎士達の疑問でもあったらしい。ざわりと動揺するようにその場の空気が揺れて、けれど雷獅子はそんな空気をまるで気にせずに先を続けた。
「面白い。予想以上だぞシン・ナルカミ! 今のテメェは、聖騎士団の団長とそっくり同じ目をしてやがる!」
ウチのババア?
彼みたいな人間にも、敬愛する祖母が居るのだろうか?
シンの素朴な疑問に答えるてくれる筈も無く、雷獅子は一歩、此方に踏み出して来た。
たかが一歩。されど一歩だ。
たった一歩距離を詰めて来ただけなのに、シンの身体は戦闘状態に移行していた。
「いい殺気だ! この間よりもずっとずっと楽しめそうだ!!」
特に姿勢を変えた訳でもないのに、相手は此方を見てニタリと笑う。それから何を思ったかグルリと辺りを見回して、此方からしても信じられないような事を口に出し、叫んだ。
「テメェらは手を出すな!! コイツは俺の獲物だ!!」
「!」
シンにとってもそうだったが、相手方からすればもっと信じ難い言葉だったのだろう。その場の空気が今までで一番大きくざわめいて、一拍置いてから何人かの人影がそこらの暗がりから飛び出すのが見えた。
今までだったらシンに向かって真っ直ぐ襲い掛かって来ていたのだろうが、今回はその全員が雷獅子の前に立ち塞がり、詰め寄ろうとしていた。
何だか、おかしな事になってきた。
「アンタ、さっきから何を言ってるんだ!?」
「私達には手を出すなだなんて、横暴にも限度ってものがあるんじゃないのかい!?」
「大体、さっきのアレは何だ!? どう考えても味方を狙ったものだったぞ!?」
「取り消してくれ!! アイツは、アイツだけは俺の手で殺さないと気が済まないんだ……!!」
彼等は気付かなかったのだろうか。自分達の行動が、雷獅子の逆鱗に触れた事を。
最初、雷獅子は詰まらなそうに目の前の部下達を見つめているだけだった。一人目の発言の辺りで怒気が放出され、二人目の発言の時点で俯いて表情が見えなくなった。三人目の時点でパチパチと放電が始まって、そして四人目でそれが破裂した。
「黙れ」
最初は、雷が落ちたのかと思った。
爆音と共に雷獅子の身体から放たれた雷撃が四人の身体を弾き飛ばし、四人はそれに抵抗すら出来なかった。
壁にめり込み、或いは路面に叩き付けられて転がっていく四人の身体。その内の一人がシンのすぐ脇を掠めるように飛んでいき、夜の闇に呑まれて見えなくなってしまう。
雷獅子。レオンハルト・イェーガー。
最初から分かっていた事だが、どうやらこの男は他の聖騎士とは一癖違うらしかった。
「……いいのか? 仲間なんだろ?」
「俺の獲物を取ろうってんだ。相応の仕置きは必要だろうよ」
バチバチと激しく帯電し、能力を使っている影響か鮮烈な光を双眸に灯した雷獅子は、此方の言葉にクツクツと笑う。
「分かんないかねぇ、未熟な腕でお前に挑むのは自殺行為だって。せいぜい黒焦げになるだけで済んだんだ。寧ろ感謝して欲しいくらいだがなぁ」
殺したのかと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい。寧ろ部下を気遣うような口振りだったが、まぁそれは流石に十中八九建て前だろう。
「アンタは戦いを楽しみたいだけだろう。顔にそう書いてあるぞ」
「ふふん。お前にとっても好都合な話だろうが」
更にもう一歩、間合いを詰めて来る。
何も言わなければそのまま飛び込んで来そうな勢いだったが、このまま始められたらこっちが困る。急いで言葉を滑り込ませた。
「残念だが、このままじゃアンタを楽しませてやれそうにないな。こっちは後ろに三人抱えているし、アンタの部下は見るからに不満タラタラだぞ。俺が思いっ切り戦うならどうしても注意が足りなくなるだろうし、その隙をアンタの部下達は見逃さないだろうな」
「……ふむ。それもそうか」
膨れ上がり掛けていた殺気が、一時的に小さく萎む。雷獅子にとっては吸血鬼だの人間だのは些細な問題で、戦うか否かが最も重要な問題らしい。
ほんの短い時間だが、それくらいの事は十分に分析出来た。「三人の安全さえ確保出来たら存分に戦ってやるのに」というニュアンスで言外に取引を持ち掛けてみたのだが、これが予想以上に上手くいった。
「ブルート! 今の話は聞いていたな!?」
「はい」
雷獅子の呼び掛けに答えたのは、シンの直ぐ近くに立っていた老人だった。この男、さっきからずっとシンの近くに立っているが、殺気も憎悪も、敵意すら感じられない。
まるで影のようにひたすら立っているのだが、一体何者なんだろうか。
「お前は其処の女とガキを守れ! 誰にも俺達の邪魔をさせるなよ!!」
「御意」
聖騎士であるならば不名誉極まりないであろうその命令に、老人は顔色一つ変える事無く頷いて見せた。
雷獅子と同じで、この男からも敵意や憎悪は感じられない。強いて言うなら、ただひたすらに此方をジッと観察している感じだろうか。
「……御安心を」
此方の視線に応えたつもりなのだろうか。言葉少なくそれだけ言って、相手は軽く一礼してくる。此方の弱点を抑える為の演技かとも思ったが、何故か──どういう訳か自分でも上手く説明出来ないが──この男は信用に値するような気がした。
「貴女方様の警護を仰せつかりました、ブルートと申します。短い間ですが、どうか宜しくお願い致します」
「あ、はい。此方こそ宜しくします?」
結局、シンはブルートが自分の背後を通り過ぎ、ティス達の前に立つのを黙認してしまった。
交わされる挨拶は妙に緊張が無く、聞いている此方が半ば脱力してしまいそうになったが、まさか自分がそれに巻き込まれる訳にも行かない。苦笑するだけに留めておいて、すぐさま気を張り直す。
「手を出したら殺す」
「肝に銘じておきましょう」
結局、シンは向こうが誓約を守る事を祈るしかない。吐き捨てたその言葉は脅しと言うより強がりだったが、それにも老人は真面目くさった態度を崩さなかった。
まぁいい。何時までも後ろ髪を引かれていても話は進まない。
雷獅子とブルート、自分自身の勘を信じる事にして、シンは改めて雷獅子の方に視線を遣り、気を引き締め直す。
「心残りはもう無いな?」
「ついでだ。俺が勝ったらこの場は見逃して貰おうか?」
「ふん。まぁ、いいだろう」
改めて相対してみると、この男は今までのどんな敵よりも圧倒的な存在感を持っている。その辺の雑魚からは絶対に感じ取る事の出来ないような、凄まじい生命の気配。生半可な防御など鼻で嗤って噛み砕き、弱者の反撃など物ともせずにそのまま対象を喰い殺してしまう。
生まれながらの王者。競う相手が見つからず、喰えば喰う程餓えに苛まれる獣。
彼にとって、シンは漸く見つかった獲物という訳だ。他の聖騎士よりは話が分かるとは言え、シンからすればやはり迷惑な話でしかない。
「……どうした? もっと嬉しそうな顔をしろよ」
バチバチと爆ぜる稲妻を纏い、雷獅子がニタリと誘うように笑う。ズボンのポケットに両手を突っ込み、ただその場に突っ立っているだけなのに、迂闊に飛び込んで行くような真似は出来そうになかった。
「きっと、きっと楽しいぞ? 俺とお前、本気で殺り合う喰い合いは」
「……ああ」
グラグラと空気が沸騰しているかのような、錯覚。言うまでもなく、雷獅子の身体から溢れ出している殺気の所為だ。
長期間晒されていれば茹だってしまいそうな空気の中で、シンは圧し潰されてしまわないよう相手を睨め付ける。他の聖騎士達から発せられる憎悪と不満の渦は、とうの昔に何処か遠くへ吹き飛ばされていた。
「「さぁ──」」
雷獅子が、僅かに前のめりの体勢に移行したのに合わせるように。
「「始めよう」」
シンもまた、倭刀の鍔を親指で押し、刃を僅かに抜き出したのだった。