03.『強襲の雷獅子』
「──死んだ、だぁ?」
暗闇の中で紡がれたその声を、何かに例えるとするならどのような表現になるだろうか。
言うまでもなくヒトの言葉だ。言葉を操れる種族と言えばヒト以外には有り得ない訳で、従って声の主はヒトである。簡単なロジックだ。
だが、その声を聞いた内の何人が“それ”をヒトの声だと認識出来るだろうか。
傲慢にして凶暴。獰猛にして不遜。
大型の、それも王に相応しい強靭さを兼ね備えた正真正銘の猛獣。もしもソイツが知性を持ち、ある日突然喋り出したとしたら、或いはコレと似たような声になるのかもしれない。
「そりゃまたどういうこった? 奴には隠密の仕事しか任せてなかった筈だぞ」
「任務の折、例の双子を発見したようで。それを餌に、“刃匠”の方も釣り上げると言っていましたが」
「ふぅん……」
薄暗い部屋の中である。
室内の半分以上が闇の中に溶け込み、その全容を窺い知る事は出来ない。唯一の光源と言えば机の上に置かれているランプ型のエネルギー灯くらいのものだが、擬似的な炎の光はその机の上を照らすのが精一杯という感じだった。
「……野郎、俺の許可無しに先走りやがったな……?」
室内に居る人影は二つ。一つは机の上で足を組み、行儀悪く椅子に腰掛けている大柄な男。闇の中に半分溶け込んでいて尚、筋骨隆々とした体躯は無視出来ない存在感をビリビリと放ち、放置している故か豪快に伸び放題の髪や顎髭と相まって、まるで獅子が人間に化けたかのような錯覚を覚えてしまう。
もう一つは、殆ど闇の中だ。輪郭すら溶け込んでしまっているので、その特徴はおろか気配をすら掴む事は難しかった。
「で、大見得を切った挙げ句、あっさり返り討ちに遭っちまったと。ったく神も呆れる道化っぷりだな。“刃匠”のヤツは笑いが止まらなかっただろうよ」
「……」
獅子のような大柄な男は、明らかに怒りに駆られている様子だった。吐き捨てるその声には死者を哀れむ感情など微塵も感じられず、ただただ苛立ちと軽蔑しか含まれていなかった。
「ああくそ、ムカつくぜ! たかだか犬の分際で人様の獲物に手を出しやがって……!」
「──して、これより先は?」
それに相反するように、闇の中に沈んだ人影の声には感情と呼べる要素が全く見当たらない。
枯れた木を思わせる落ち着いた翁の声だったが、人として最も大事な物が抜け落ちている所為か、人の声と言うよりはプログラミングされた機械の音声と言った印象を受けてしまう。
放っておいたならその内暴れ出すのではないかと思われた大男も、それによって冷静さを取り戻したようだった。思い出したように息を吐いたかと思えば、何もかもどうでも良くなったとばかりに浮き上がり掛けていた身体を椅子に深々と埋め直していた。
「……どうするもこうするも、何時も通りの面倒臭ぇ後始末だよ。ハゼルの馬鹿が素直に言う事聞いてりゃあ、この任務もようやっと終わりが見えてたんだろうがな」
「ハゼルの死体なら、既に片付けております。人気の無い街外れの森の中ですし、目撃されている可能性も極めて低いでしょう。今までのように、わざわざ部隊を出す必要は無いかと」
「……へっ。ほんと、テメェは奴と違って有能だなぁ?」
一時の間が空いた。
大柄な男は何かを考えるかのように口を噤み、もう一人の影の翁はそもそも自分から口を開かない。
ギシリと大男の椅子が軋み声を上げたのは、それから幾らも経たない内だった。
「引き続き、索敵だ。待機させていた連中をもう一度街に放ち直せ。ハゼルみたく欲をかかないように、よぉく言い聞かせておくのを忘れるな」
「御意」
「俺は一旦此処を離れる。その間に何かあったら、ブルート、お前が臨時に指揮を取れ」
「畏まりました。……しかし、隊長はどちらへ?」
「俺か?」
椅子が再び大きく軋む。机の上で組んでいた足を下ろし、大男がその場で立ち上がる。
「ただでさえ詰まらない任務なんだ。唯一の楽しみが潰されたら、未練がましくなるのも仕方無い。そうだろ?」
狭いエネルギー灯の光の範囲。
辛うじてその中に入っていた口元は、口角を惜しげも無く吊り上げて、獰猛な笑みを浮かべていた──
○ ◎ ●
周囲をグルリと見回した拍子に、くしゃみが一つ飛び出した。思った以上に大きく響き、何となく周囲の様子を窺ってしまうが、周囲に誰かの人影や気配はある筈も無かった。
「……寒ぃ……」
夜の名残がまだぼんやりと残っている早朝の森は薄暗く、ついでに肌寒い。もう少し何か着てくれば良かったかと後悔し始めていたが、此処まで来ておいて今更引き返せる訳も無い。そもそもシンは上着なんぞ持っていないので、調達するとなるとティスに声を掛けなくてはならなくなる。せっかく黙って朝早く出て来たのに、そうしてしまっては全ての苦労が水の泡だ。
(……まぁ、無駄骨になるのは間違い無いだろうしなぁ……)
朝靄が漂う森の中に、コソコソと一人で出て来たのには訳がある。昨日、ズタズタに斬り裂いてやった白コートの男。彼のその後を確かめるのと、あわよくば彼から話を聞き出したいという魂胆だ。
というのも、双子から聞いた話だけでは、シンの記憶を取り戻すキッカケにならなかったからである。
双子が目を覚まし、自発的に活動を再開したのが昨日の晩。怪我を負ってからせいぜい数時間しか経っていないというのに、けろっとした顔でお腹空いたとか言いながらダイニングに入って来た時は、安心する前に呆れてしまったくらいだった。
その後、シンに気付いて反射的に逃げようとしていた二人に声を掛け、面と向かい合って話をした。
これまでの自分の態度。これからの自分の態度。自分でもどんな事を言ったのかは、正直良く覚えていない。ただ、二人は最初こそ居心地悪そうにしていたが、最後の方には大分緊張も解れた様子で受け答えしてくれたように思う。
けれど、話の後半。シンが自らの過去の話を聞く段になってから問題が発生した。ヒナギクもホタルも、自分達がどういう理由でシンに連れられて此処まで来たのか、よく理解していなかったのである。
住んでいた所にある日突然やって来たかと思うと、大きくて綺麗で良く分からない所に連れて行かれた。暗くてジメジメした所に入れられたかと思えば、いきなりシンがやって来て、またもや其処から連れ出された。怖い顔をして追い掛けて来る連中と戦いながら逃げて逃げて逃げて逃げて、そして此処に辿り着いた。
らしい。
ホタル本人は緊迫感たっぷり話しているつもりだったらしいのだが、その内容は擬音語が多く抽象的で、正直シンにはイメージが掴みにくかった。
(……まぁ、まだガキな訳だしな……)
結局。
ホタルの話を聞いた限りでは、二人は巻き込まれた側の人間である事くらいしか分からなかった。巻き込まれる以前にシンとは面識があったらしいが、それが有力な手掛かりになるかと問われればそういう訳でもない。
話は依然として進まず、スタート地点から動かないままだ。さてどうするべきかと頭を悩ませた所で、思い出したのが昼間の襲撃者だった訳である。
思えばズタズタにしたまま放置したままで、その後で彼がどうなったかは分からない。宣言通り命は取らなかったから生きているのは間違い無いし、十中八九とっくに移動した後だろうが、それでも様子だけは見ておこうと思ったのだ。
移動した後であるならばそれで良し。もしもまだ意識を取り戻しておらず、周辺から移動していないのを発見出来たら儲けものだ。効率良く“お話を聞く”手法はあまり知らないが、まぁ、何とかなるだろう。
昼と夜で表情の違う森の中を歩くのは苦労したが、それでも一度は往復した道だ。時には足を止めながら、時には迷ってしまいながら、それでも昨日の昼間に駆け抜けた道無き道を丁寧になぞっていく。
「……む」
そして、辿り着いた。鬱蒼とした茂みを抜けて、他よりも木々の間隔が広い場所。頭上を覆う木の葉の屋根も薄く、所々では白み始めた空を眺める事が出来る。白く、まだまだ薄い木漏れ日に照らされた朝靄の所為で視界は悪く、この中から人を一人探し出すのはかなり困難なように思われた。
「ん……?」
それでもピタリと足が止まったのは、“ソイツ”の気配が余りにも大きなものだったからだ。
白く煙った帳の向こう。特別な理由でも無い限り立ち入る者など居ない筈の場所に、誰かが此方に背中を向けて立っている。
明るくなくともハッキリ分かる豪奢な金髪は獅子の鬣のようで、シルエットからして筋骨隆々の体躯はシンなんかよりも遥かに大きい。先日の半機械人程ではないが、背中から放たれるエネルギーはあのサイボーグなんかとは比べ物にならない。
誰だろう。こんな所で一体何をしているのだろうか。
本能が鳴らす警鐘に従ってピタリとその場で立ち止まり、相手に気取られる前に後退して森の中に入って行こうと考える。
けれど遅かった。後退するべく身体の重心を浮かしたその瞬間、まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで、ソイツは声を掛けて来た。
「よぅ」
ズン、と身体が重くなるのを感じた。
大型の肉食獣がいきなり喋り出したかのような、そんな錯覚。目の前に居るのは間違い無く人影なのに、身体はその錯覚を真実だと思い込んでいるようだった。
「奇遇だな。これも神のお導きってヤツか」
何だコイツは。一体何者だ。
早鐘のように鳴っている心臓を密かに深呼吸する事で押さえ込みながら、シンは相手に視線を固定したまま素早く思考する。
そんな此方の様子など知ってか知らずか、金色の鬣の持ち主は、勿体ぶるようにゆっくりと此方を振り返って来た。
「でも何となく、此処で逢えるような気はしてたんだぜ。テメェも知ってるだろ? 俺のカンは良く当たるんだ」
精悍な顔を覆う髪と鬚、ニヤリと笑う口元に覗く鋭い犬歯。顔付きや発する気配は此方の肌がピリピリするくらいにエネルギーに満ち溢れていて、言葉を紡ぐ声には張りがあってついつい耳を傾けてしまう。
三十代後半から四十代前半と言った所の偉丈夫である。いまいち年齢を判別しにくいのは、挙動や発声の一つ一つから一々活力が伝わって来る所為だろう。
「……どうした?」
獅子。
此処までイメージを簡単に定着させる事の出来る人物というのもそうそう居ないだろう。出来る事なら赤の他人として遠くから観察するだけで終わらせたかったのだが、どうやらそうも言っていられようだ。
本能の警鐘は未だに鳴り止まず、身体は追い付かない理解を無視して警戒態勢を、臨戦態勢を整えてしまっている。例え具体的な記憶が手元に無くても、嘗て刻み込まれた身体の記憶が、この男はヤバいと声を大にして叫び立てている。
そして、ほら。そんな事を言っている間にも──
「ほれ、さっさと始めようぜ」
「!?」
ゴングは無かった。
爆発のような踏み込みの気配を感じたと思った次の瞬間には、既に相手の巨体は眼前にまで詰め寄って来ている。思わずギョッとしながらも、身体の方は溢れんばかりの殺気に反応。間髪入れずに重心をストンと落とし、暴風のような拳圧を纏った横殴りの拳を掻い潜る。更にそれだけには留まらず、その場で腰を半回転させながら相手の鳩尾に掌底を叩き込む事でカウンターを完成させてやる。
──呑ッ!!
「く、はは……ッ!!」
想像以上に、重い。
大きく吹き飛ばしてやる気概で放ったのに、相手はあろう事か楽しそうな笑い声を上げながら、数歩分ヨロヨロと後退っただけだった。ニィッと歯を剥き出して獰猛な笑みを浮かべたかと思えば、開いた距離を喰らうような勢いで猛然と襲い掛かって来る。
「──オラぁッ!!」
突進の勢いをそのままに跳躍、大気そのものをブチ破るような豪快なドロップキック。下手な反撃など呑み込んで押し潰してしまいそうなその攻撃に、咄嗟に身体は回避を選択した。
「く……ッ!?」
地を這うような低い姿勢を取ったその頭上を、暴風のような相手の体躯が通り過ぎていく。勢いに引っ張られそうになるのを何とか堪え、相手が通過した瞬間を見計らって即座に反転。予想よりも遠くの地面に落ちた相手に素早く駆け寄り、顔面を踏み付けるべく大きく足を振り上げる。いや、振り上げようとする。
「──ハッハぁ!!」
「……ッ!?」
仰向けに寝転んでいた相手の身体が、いきなり逆向きに立ち上がった。地面に手を突き、後転の要領で首を支えに身体を跳ね起こしたと思えば、その状態から足を飛ばして上から蹴りを叩き付けて来たのである。至近距離で、それも攻撃モーションに移ろうとしていたシンに避けるだけの余裕は無い。咄嗟に踏み留まり、苦肉の策として倭刀を頭上に掲げれば、直後に情け容赦の無い蹴り足がへし折らんばかりの勢いで喰い込んで来た。
(うお……ッ!?)
衝撃は、予想を遥かに上回っていた。
全身を強制的に沈められ、筋肉や骨が悲鳴を上げる。耐えるという一念のお陰で何とか潰されずに済んだものの、強烈な負荷はシンの意識を一瞬だけ何処かへ吹き飛ばし、身体をその場に縫い留めてしまう。蹴り足が引き戻され、相手が次の攻撃モーションに移るのを見せつけられても、それに対応出来るだけの十分な時間は残されていなかった。
「く……ッ!?」
「そぉら、ブッ飛べ!!」
衝撃。地面に突いた両手をバネ代わりにして跳躍、揃えられた両足が勢い良くシンの胴体に突き刺さって来る。
咄嗟に自ら後方に跳んだのは、考えての行動ではなかった。猛烈な勢いで吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた後も慣性の法則に引き摺られてゴロゴロと転がり、身体のあちこちをぶつけてしまう。
だが此処で意識を完全に手放してしまったら、本当に全部終わってしまうのは痛い程に感じられた。
先程の相手を見習って、全身のバネを上手く使って転がり状態から離脱。ダンッとその場の地面を砕く気概で踏み留まり、強引に停止。
頭はクラクラするし、胸もムカムカして正直立っているのもキツかったが、前方から迫る馬鹿デカい殺気の塊はシンに休む事を許してくれない。
「──ぬがぁッ!!」
我ながら獣のような声だった。
未だに身体を引っ張ろうとしていた慣性の法則を利用して拳を大きく振りかぶり、腰を回転させながら前方を思い切り殴り付ける。
「──!! はは……ッ!」
追撃で相手が放って来た拳に、此方の拳を思い切りぶつけに行く事で相殺。ガツンと骨と骨がぶつかり合う鈍い音が森の中に響き渡り、凄まじい衝撃が腕を突き抜けていく。
ガッチリと噛み合わさった拳から伝わってくるのは、気を抜けば即座に押し潰されてしまいそうな凄まじい拳圧。負けてたまるかと闘争本能を全開にして相手を睨み付けるが、相手はそれすらも楽しんでいるように不敵な笑みを浮かべていた。
「……久しぶりだなぁ、シン・ナルカミ?」
拳を押し込んでギチギチと骨を軋ませながら、相手がそう言うのが聞こえる。今の今まで殺気の篭もった一撃を放って来ていた人物のものとは思えないくらいに、その声は陽気で楽しそうだ。
「待ってたんだぜぇ、この時を。“十聖”時代からテメェにゃ目を付けていたんだ。他の奴はどうか知らんが、テメェの裏切りは俺にとっちゃ嬉しいニュースだったって訳だ……!」
純粋な力比べでは、やはり向こうに分があるらしかった。此方は既にいっぱいいっぱいだと言うのに、相手の拳圧は未だに少しずつ少しずつ増していき、保っていた均衡を押し破ろうとしてくる。
限界は、直ぐにやってきた。
これ以上は堪えきれないと直感した瞬間、自ら後方に跳んで体勢を崩されるのを回避。木々もまばらな“広場”の真ん中辺りに立ち、相手の挙動を睨み据えながら素早く呼吸を整える。
追撃してくるようなら抜刀も辞さないつもりだったが、予想に反して相手は追撃を仕掛けては来なかった。
「さてと、始める前に一応言っとくぜ。戻って来いよシン・ナルカミ。上のお偉方はお前の事が大変惜しいそうだ。今ならテメェの裏切りも、条件次第じゃ大目に見てくれるんだとよ」
「……条件?」
何ともやる気の無い提案だ。棒読みにも程がある。
今の自分には相手を見て思う所など何も無いし、相手の提案に従うつもりなど欠片も無いが、それでも思わず聞き返してしまったのは、相手の言葉の中に気になるものがあったからだ。
条件。条件か。
嘗て自分が目の前の男と同じ組織に所属していたらしいとか、其処では自分はそれなりに信頼の置かれている駒だったらしいとか、彼の言葉から察する事の出来る情報は取り敢えず保留した。
条件。
条件だと?
ギチリと頭の隅で何かが軋む音が聞こえる。まだその条件の内容を聞いてもいないのに、怒気が自分自身の内から噴き上がって行くのが分かる。
そんな此方の反応に何処となく満足気に頷いて、相手はトドメの言葉をあっさりと紡ぐ。
「双子だよ」
「……」
そうだ。自分はその条件を知っている。此処に至るまでの道程で、何度も持ち掛けられて来た事を、記憶ではなく感覚で覚えている。
高飛車で上から見下してくる言葉。大勢に囲まれ、遠・中・近と様々なタイプの得物と共に向けられてくる殺気。目の前の大男とは少し種類が異なるが、やる気の無い棒読みだったというのはどいつもこいつも同じだった。シンが投降など選ばず、最後まで抵抗して自分達に殺していいという大義名分を与えてくれる事を、誰もが心底望んでいた。
「……一つだけ、言っといてやる」
「ほう? 何だ?」
シンの答えもまた、何時だって同じだった。どうしてあの双子が狙われているのか、シンは何を裏切ったのか、それらの疑問など取るに足らない小事に過ぎない。
怒りに強張り掛けていた肩から力を抜き、同時に小さく呼吸を整える。
倭刀とは所詮、人殺しの為の道具に過ぎない。振るえば必ず、誰かが死ぬ。
それでも自分は自分の目的の為に、相棒を手放すつもりなど無い。
「恨め」
「──!」
「お前の死も、背負ってやる」
抜刀。
息も吐かずに腰を回転、鞘から抜き放って“飛ばした”刀身を、けれど相手は寸前で跳び退る事で回避した。
慌てたような相手の声と、刀身が鞘に納まる涼やかな音。二つの音が重なるのを風切り音の中に聞きながらも、シンはその時には既に相手の背後に回り込んでいる。
「!? うは──!!」
鞘から引き抜き、空を引き裂いた斬撃を、けれど相手は寸前で察知して再び回避する。此方に向き直りつつしゃがみ込み、それと並行して此方の足下を掬うように大きく踵を薙ぎ払って来る。
だが、それでは当たらない。足を伸ばして此方の足元を薙ぎ払うまでの時間。確かに当たれば脅威だが、一つの攻撃にこれだけ時間を掛けていれば、その間に条件次第では三回は抜刀出来てしまうだろう。
「遅い」
足の筋肉に一々力を込めて地面を愚直に蹴るのではなく、重心を巧みに移動させ、ふわりと舞い上がる羽根のように相手の頭上目掛けて飛び込んで行く。逆さまに映る世界の中、ふと上を見上げれば、足払いを外して更に頭上まで取られた相手が、慌てて此方を振り向こうとしているのが見えた。
「疾……ッ!!」
一閃。
宙返り状態から相手の頭部目掛けて放った一撃は、けれどその直後、ただ虚しく空を切り裂くだけに終わった。
寸前まで確かに在った大柄な背中。間違い無く捉えたと思った標的の姿が、忽然と消えていたのである。
(!? 何処に──)
バチッと空気が爆ぜる音。視界の端を過ぎった奇妙な光。
グルリと空中で宙返りする事で身体の天地を元に戻しながら、着地。即座に相手が何処に行ったのか、その痕跡を探ろうとする。
だが結果から言えば、相手は此方が探し当てる前に自分から姿を現した。
「──オラァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」
森中に響き渡るような大音量の叫び声は、真上から。わざわざと上を向いて確かめるまでも無く、押し潰されんばかりの巨大な殺気の塊が勢い良く落ちて来るのが感じられる。
一も二も無く反応した身体がその場から跳び退くのと、殺気を纏った筋肉達磨が地面に激突するのは殆ど同時の事だった。人間が作り出せる規模を軽く越えている衝撃に揉まれながらも何とか姿勢を崩さないまま距離を取り、穿たれた小規模なクレーターの其処からユラリと身を起こす相手を見据える。
クレーター。そう、クレーターだ。
どれほどの高さからどれほどの勢いで落ちて来たのかは分からないが、それが人間技では到底成し遂げられない事だけは確かな事だった。
「やるねぇ。テメェとは出来るだけ“タブー”無しで張り合いたかったんだがな。まさかこんなに早く使う羽目に陥るとは思わなかったぜ」
クレーターから気怠げに、けれど何処か悠然と上がって来ながら、相手はニヤリと歯を剥いて笑う。その身体の周りの空間がユラユラと揺らめいているように見えるのは、目の錯覚か、或いは相手の覇気が見えているのか。
「まぁ、考えてみりゃテメェは“タブー”無しで十聖まで上り詰めた化け物な訳だし、俺が“タブー”使っても不公平にはならないよな?」
タブー。さっきから気になっていた単語だが、一体何の事だろう。ハッキリとは思い出せないのだが、それでも相手が此方にとって不利な事を言い出した事だけは痛い程に感じられる。
さっきからずっと鳴りっぱなしの本能の警鐘が、これ以上無いくらいにがなり立て始める。根拠も分からないままに警戒を強め、居合いの構えを取ったシンを見て、相手はニンマリと笑みを深める。
「十聖が一人、“餓王”レオンハルト・イェーガー……」
バチリ、と電光が弾けるのが見えた。
ドクドクとペースを速めていた心臓が、唐突にキュッと縮み上がる。
「──参る」
その声は、閃光と爆音によって半ば掻き消されていた。
訳も分からず大きく身体を仰け反らせるのと、その眼前を一筋の雷光が突き抜けていくのはほぼ同時。視界を覆い尽くして目が眩ませる閃光に、押し寄せて顔面を灼く熱波。ほんの一瞬の出来事だったのに、どれもが鮮明に感じ取れた。
(何だ……!?)
仰け反らせた体勢が崩れる前に、素早く後退する事で何とかカバー。驚異的な、というより得体の知れないスピードで真横に回り込んでいた相手が、追い掛けるように首を巡らせて来るのが半ば眩んだ視界の中で確かに見えた。
(拙い、視界が……!!)
バチバチと何かが放電するような音。森の中に此処まで激しく放電するモノなんて有る訳が無いし、相手が発していると考えて先ず間違い無いのだが、人間が放電するなんて話も聞いた事が無い。相手の言っていた、『タブー』という単語が関係あるのだろうか。
思考を遊ばせているその間にも放電の音は激しさを増し、そしてシンに向かって相手の殺気が収束する。
胴。胸の真ん中。
未だに回復しないままの視覚は、自ら目を閉じる事で封印。それ以外の感覚に従って、身体を捌いて相手の攻撃の軌道上から逃れようとして──
「──ぐ……ッ!?」
瞬間、肩で強烈な衝撃が弾けるのを感じた。言うまでもなく、相手の攻撃だろう。
(馬鹿な……!?)
直撃こそ避けたが躱し切る事も叶わず、強引に体勢を崩されたのだと、結果から何が起こったのか逆算する事は出来た。だが、だからと言ってそれに納得出来るか否かというのは別の話だ。
ついさっきまでの相手の動きを見る限り、相手はトップスピードとそれに伴う破壊力こそ凶悪だが、動き始めてからトップスピードに至るまでには若干のタイムラグがあった。何処を狙っているのか予め分かっていれば、若干の余裕すら以て対処する事が出来たのだ。
「へっ、惜しい」
「……ッ」
なのに、今の動きにはそのタイムラグが殆ど無かったのだ。此方の反応や躱す動作が遅れたなんて事は有り得ない。素直に相手の動きが速くなったと考えた方がいいだろう。
「そぉら、もう一発!!」
「く……ッ!?」
先程までと何が違う? この驚異的な速度は一体何が原因だ?
何時の間にか至近距離にまで距離を詰めて来ていた相手の殺気が再び鳩尾に収束するのに反応しながら、シンは素早く考えを巡らせる。
心当たりなら一つ有る。先程からバチバチと騒々しいくらいに自己主張し、シンの目を一時的に封じてくれた眩い光。森の中では本来発生する筈の無い、強力無比な雷光だ。
(やっぱりコイツが放電してやがるのか!?)
「オラぁッ!!」
視界は、八割方回復してきた。
低い姿勢で懐に潜り込んだ状態から、膝のバネにモノを言わせて此方の顎を突き上げるようなアッパーカット。顔面を粉々にされるんじゃないかという嫌な想像に尻を蹴飛ばされつつ、反射的に鞘から僅かに引き抜いた倭刀を自らの顎の下に割り込ませる。
「……ッ!? とと……」
防御すると同時に、相手の攻撃手段を一つ潰す。
一石二鳥を狙ったシンの一手は、けれど直前で拳を急停止され、失敗に終わった。流石に完璧に寸止めという訳にはいかず、薄紅の刃が厚い拳の表面に食い込んで切り込みを入れていたものの、所詮それだけの結果でしかない。
「へっ、あっぶねぇ──」
ダメージとは言えないような微細な戦果。その代償は、余りにも大きなものだった。
バチバチと空気が爆ぜて熱くなる。眼前で雷光が無数に弾けて視界を灼く。躱す時間も防ぐ手段も与えられず、シンはただただ、歯を喰い縛って覚悟を決める事しか出来なかった。
「なぁッ!!」
「……ッ!!」
──空白。
その瞬間の事は、自分でも良く覚えていない。気が付けば地面の上に手足を投げ出して倒れ、朝日の光が漏れる枝葉の屋根をボンヤリと眺めている最中だった。
全身がビリビリする。口の中が焦げ臭い。
何があったんだろうと呆けていたのはほんの一瞬。至近距離で放電されて弾き飛ばされたのだと即座に把握するのと、主導権を取り戻した生存本能が警鐘を鳴らすのはほぼ同時。
文字通り転がってその場から逃れると、それと擦れ違うようなタイミングで、真上から大きな靴の底が叩き付けられて来るのが視界の端で見えた。
「ふー、ったく油断も隙もあったもんじゃねぇな」
転がった勢いもそのままに立ち上がると、相手との距離はせいぜい大股五、六歩分程度にしか離れていなかった。本当はもう少し距離を取りたかったのだが、身体からダメージが抜けきっておらず、更に運の悪い事には何かが背後からぶつかって来て、それ以上の後退が出来なかったのだ。
ちらりと背後に視線を遣ると、まばらに生えていた木の内の一本が澄ました顔して突っ立っているのが見える。他の所よりは密度が低めとは言え、木々が全く無いという訳ではないのだ。自らを生かすのも殺すのも、全ては立ち回り次第という事になるのだろう。
「防御と同時に相手の攻撃手段を潰す訳か。えげつねぇ事考えやがるなぁ、オイ」
「……テメェこそ、人間の分際でビリビリと。反則にも程があんだろ」
未だシビシビと身体の中を走り回っている違和感を、片足を地面に強く押し付け直す事で強引に流す。
相手はと言えば、此方の発言がお気に召したようだった。潰されかけた掌をブラブラと振りながら楽しそうに笑っていたのだが、その言葉を聞いた瞬間に大声を上げて笑い始めた。
「生憎と、テメェと違って選ばれた人間だからな。素質の違いって奴だ、諦めろ」
嗤う相手の身体を取り巻くように、バチバチと音を立てて相手の身体が放電する。紫色に輝く大小様々な雷光は、木の幹を穿ち木の葉を弾いて火花を散らし、見た目以上の圧力を以て此方を威嚇してくる。
『タブー』という単語。『素質の違い』という発言。どうやら一連の放電現象が、相手自身の能力によるものである事は間違い無さそうだ。付け加えるならどうやら向こうは此方の事を知っているらしく、相手の言葉を信じるならば自分は相手のような特殊能力を持ち合わせてはいないらしい。
(不公平だ……)
文句の一つも言ってやりたい所だったが、生憎とそんな時間は無かった。
筋肉隆々とした相手の巨躯が、纏っていた雷光の破片を残してその場から掻き消える。何処に行ったのかと探すまでもなく、次の瞬間、それはシンの眼前に出現する。
足を大きく頭上に向かって振り上げる、いわゆる踵落としの体勢で。
「ッ……!?」
「ほら、どうした!?」
背後は木に塞がれていて、咄嗟に回避するという選択肢が出て来なかった。
豪速で落ちて来る踵に合わせるように、此方は鞘に納まったままの倭刀の柄を思い切り突き上げる。ガツンと凄まじい音が森の中に木霊して、衝撃が突風となって顔面に突き付けて来た。
「! くく……ッ!」
「ぐ……!!」
あわよくば弾き返して体勢を崩してやろうと考えていたのに、相手の膂力とバランス感覚はそれを許してくれなかった。軸足一本で自らの体重を器用に支え、重力と筋力を以て此方を地面に抑え付けて来る。
いや、力勝負では完全に向こうに分があった。ギチ、ギチ、と嫌な音を立てて身体が少しずつ潰れていく感覚を目の当たりにして、シンは咄嗟に受け流す事を選択する。
だが、今思えばそれは相手の目論見通りだったのかもしれない。
受け流し、脇に受け流した相手の踵が地面を捉え、ドカンと派手に炸裂する。飛び散った土塊が身体に掛かってくるのを感じながら即座に腰を半回転、がら空きに見えた相手の鳩尾に渾身の力を込めて正拳突きを叩き込む。
ドズンと肉を穿つ鈍い感触が、拳を通して伝わって来た。けれどその余韻に浸る暇も無く、次の瞬間には両肩をガッチリと掴まれて、万力のように締め上げられていた。
「……!?」
「ふん」
バチバチと、何かが身体の芯を駆け抜けていったのはその時だ。目の裏で真っ白な光が弾け、一瞬で何が何だか分からなくなる。叫び声を上げたような気もするし、そうしなかったような気もする。
気が付けばふわりと空を切って“振り上げら”れ、思い切り地面に叩きつけられている最中だった。背中を強打した痛みに悶絶する暇も無く、今度は真上から馬鹿デカい靴底が落ちて来て、胸の辺りを踏み抜かれて地面の上に縫い止められていた。
「オマケだ。喰らっとけ」
再び、スパーク。
ビリビリと全身をメッタ刺しにされるような痛みが走り、意識が何秒か何処かへ飛んでいた。
両目が熱い。口の中に大量の煙が詰まっているような感じがする。何より身体が酷く重くて、咄嗟に動く事が出来ない。
上から胸を踏み付けている靴底がその圧力を増しても、せいぜい呻き声を上げるのが精一杯だった。
「……なぁ、おい。ちょっと聞いていいか?」
先程までの愉快そうなものから一転、不機嫌で詰まらなさそうな声。そのあまりの落差にボンヤリしたまま驚いていると、相手はその声のまま先を続けて来る。
「お前は俺を舐めてるのか、それとも単純に弱くなったのか、一体どっちなんだ? 前者だったら本気を出すまでいたぶり殺してやる。後者だったら今すぐ跡形も無く消し飛ばしてやる。さぁ答えろ。正直にな」
「……」
どうやら相手は、戦いの内容に酷く不満を抱いているらしい。記憶を失う前のシンを随分と高く買ってくれているようだが、どちらにせよシンとしては理不尽な注文を付けられているようにしか思えなかった。
舐めている筈が無い。寧ろ脅威に感じている。浅い考えでフラフラとこの場にやって来た事を激しく後悔しているくらいだ。相手が高く買い被り過ぎていたという可能性を除外するなら、シンが弱くなったというのが正しいのだろう。
だが、それならどうして弱くなったのだろうか。記憶を失う前の自分と、失った後の自分。足りないものがあるとして、それは一体何だろう。
何か引っ掛かるものがあるような気もするが、フィルターが掛かっているかのようにハッキリしない。そうして考えている間にも、胸に掛かる圧力は少しずつ少しずつその重さを増していき、ミシミシと身体が悲痛な悲鳴を上げていく。
「どっちなんだ?」
霞み掛けた、視界の中。
「答えろ」
唸るような声を上げる雷獅子の心情を表すかのように、バチリと雷光が弾けるのが見えた。
○ ◎ ●
嫌な感じがする。
急に顕れたその気配を明確に感じてしまい、ティスはフライパンを振るっていた手を思わず止めた。
『──イイ匂イダネ?』
ああ、やっぱり“彼”だ。
男のような女のような子供のような老人のような、特徴的というか特徴しか無いような独特な声。
溜め息を吐き、竈の上に置いていたフライパンを予め脇に設置していた濡れ布巾の上に置く。ジュージューと景気の良い音を立てているスクランブルエッグは、半熟の方がシンの好みらしい。作った後に直ぐに食べて貰えるよう、此処から先は迅速に準備しなくてはならない。
『しすたー・まーさーハ料理上手ダッタヨウダネェ。君ガ此処ニ来タバカリノ時ハ、皿ノ用意スラ何処カ危ナッカシカッタモノダガ。ソウヤッテきっちんニ立ッテイル姿ヲ見ルト、一種ノ貫禄スラ感ジテシマウヨ』
「そんなに前から私の事を観察していたんだね。あんまり気分のいい話じゃないかも」
食器棚に向かい、手頃な皿を取り出す。いつもは此処で三枚取り出すのだが、今日は双子が怪我で寝込んでいるのでシンの分一枚だけだ。その気になれば二人共通常の生活に戻っても大丈夫なのだろうが、シンの話を聞く限りでは物凄く恐ろしい目に遭ったばかりなのだ。出来るだけゆっくりと休ませてやりたかった。
『フム、卵ナンテ随分永イ間食ベテナイヨ。ドウダロウ。ココハヒトツ、ソノふらいぱんノ中身ヲ吾ガ輩ニ少シバカリ恵ンデ頂ケルト嬉シイノダガネ?』
「貴方が食べ物を食べるなんて知らなかったな。食べてもいいけど、ちょっとだけだよ? それ、一応一人分だから」
『一人分? 何ダカ少シ多クナイカイ?』
わざとらしい。
用意した皿の上でフライパンを傾け、スクランブルエッグを盛り付けていきながら、本日二度目の溜め息を吐く。
どうせ背後に顕れた彼は、何もかも知っているに違いないのだ。それなのに周りくどい形で自分の望む方向へ話を持って行こうとするのは、恐らく彼がまだ人間だった頃の性格が大きく影響しているのだろう。
「沢山食べる人なの。どうせ知ってるんでしょう? シンっていって、最近森の奥で倒れていたのを見つけて助けた人」
『アア、彼カ。勿論知ッテイルトモ。コノ世界ニ於イテ、彼ハ非常ニ稀有ナ存在ダト言ッテイイ。ククク、ヤハリコノでるだんトイウ街ハ、面白イ演目バカリデ退屈シナイネ』
ギシリと、椅子の軋む音が聞こえてくる。もしも今振り返ったら、きっと彼がダイニングのテーブルに我が物顔で座っているのが見えるに違いない。
此方としては、そろそろお帰り願いたいというのが本音であるのだが。あんなのが堂々と存在していたら、流石のシンもビックリして食事どころではなくなってしまうだろう。
『ツレナイネェ。他ノ人間ニハ優シイノニ、ドウシテ吾ガ輩ニハ冷タインダイ、君ハ? アンマリ冷タクサレ過ギルト、流石ノ吾ガ輩モ泣イテシマウヨ?』
「見て分からない? こっちはもう直ぐ御飯なの。用事が無いなら、帰ってくれると助かるんだけどなぁ?」
『オォウ、すとれーとナ拒絶ヲ有難ウ。シカシ、ソウダトスルナラ少シ勿体無イナ』
「何が」
『ソレヲ食ベル当人ハ、今コノ修道院ニハ居ナイト言ウ事サ』
「……!?」
空になったフライパンを、再び濡れ布巾の上に戻すまでの僅かな時間。その言葉の意味を呑み込むまでには、それだけの時間が必要だった。
理解した瞬間、弾かれたように振り向くが、予想していたシルエットは既に無い。いつも通りの、静かな朝のダイニングの風景が其処に在るだけだった。
「……相変わらず自由だねぇ」
部屋の外に繋がる扉が開いたのはその時だ。
まだ“彼”が居たのかと思って一瞬ドキリとしてしまったが、控え目に開かれた隙間から此方を覗いている一対の目を見て、ホッと息を吐いた。
「おはよう?」
「お、おはよ……っ!?」
「ッ……」
ずっと寝ているのはやはり退屈だったのだろう。白と黒、色違いのお揃いの寝間着を着た双子が、何やら緊張した様子で入って来る。キョロキョロと視線を彷徨わせているのは、ひょっとしてシンを探しているからか。
「……シンは?」
「まだ起こしてないよ。寝室に居なかったの?」
「うん」
ああ、やっぱり。
“彼”がやって来て、わざわざシンの事を仄めかした時点で何となくそういう気はしていたのだ。
せっかく今日の朝食は会心の出来だと満足していたのに、まったく。
「シンを呼んで来るね。直ぐに戻るから、二人でこれを半分こしててくれる?」
「う?」
「……?」
盛り付けの終わったスクランブルエッグの皿を片手にダイニングへ移動、席に着こうとしていた二人の前へ置く。即座に飛び出して行きたい衝動をグッと堪えて、一旦キッチンに戻って二人分の食器を用意する。
「ティス……?」
ホタルの声は困惑気味だ。きっと此方の動揺が伝わったのだろうが、事情を正直に伝えるつもりは無い。もしも伝えてしまったら、病み上がりの二人に特大のストレスを与えてしまう事になるだろうから。
「シン、外に散歩に行っちゃったみたい。今日は珍しく早起きしたんだね」
「そうなの?」
「うん。でも、もうご飯の時間だから呼んで来ないと。二人だけでお留守番出来る?」
「うん」
若干腑に落ちないような顔をしていたが、結局二人は素直に頷いてくれた。
安心させるように笑い掛け、何でもないような足取りでダイニングを出る。笑顔は後ろ手にドアを閉めるまでだ。素早く意識を切り替えて、シンが行ったであろう場所、向かいそうな場所をリストアップしようとする。
今までずっと室内で平和に過ごしていた人物が、いきなり何の理由も無く、もっと言えば朝早く人目に付かないようにコソコソと出掛ける筈が無い。理由があるとすれば、恐らく記憶を取り戻す手掛かりを見つけたのだろう。双子を攫った襲撃者と戦ったと言っていたし、双子の救出を優先したらしいから、最大の手掛かりを手放したという一種の未練が残っていたのかもしれない。
相手が生きているのであれば先ずその場から居なくなっているだろうし、仮に居たとしても素直に教えてくれる可能性は極端に低い。下手をすれば、再び交戦という事態に突入するかもしれない。
死んでいたら死んでいたで、女子供であるティスや双子には刺激が強いとシンは考えるだろう。生きていても死んでいてもロクな事態にならないと考えたのなら、シンがティスや双子から隠れるように修道院を抜け出したのにも納得が行く。
要は、要らない心配を掛けたくない、とか考えた訳だ。
此処まで来たなら普通に最後まで関わらせて欲しいというのが此方の希望なのだが、どうやらシンは其処までは思い付かなかったらしい。
「まったくもぅ……!」
男の人って、傲慢だ。
心中で溜め息を吐きながら、昨日聞いた話の断片を繋ぎ合わせ、シンと襲撃者が戦った大体の場所を推測。その場所に急行すべく、ティスは聖堂を抜けて修道院から勢い良く飛び出したのだった。
○ ◎ ●
このままだと死ぬだろう。
絶対に、例外無く死ぬだろう。
バチバチと弾ける雷光は機嫌が悪そうで、相手がそんなに気が長い方ではないという事を告げている。
「……」
左の掌に力を入れれば、倭刀の存在を知覚する事が出来る。圧倒的な暴力や電流に晒されても、決して手放さかった己の得物。その根性は誉めて貰えるかと思いきや、伝わって来る気配は明らかに不満げだった。
いや、それは倭刀だけに限った話ではない。
腕が、足が、腰が、全身が、屈辱に身を震わせて、低い唸るような振動を以て不平不満を訴えて来る。
どうして使わない?
どうして使ってくれない?
お前は力を得る為に、血反吐を吐きながら俺達を鍛え上げて来たじゃないか──
「……こぉぉ……」
先ず最初に変化したのは呼吸だった。
深く、深く、身体の奥底へ。丁度下腹、臍の下辺りにある“何か”の所まで意識を落としていき、すっかり機能を低下させているそれにアクセスしようと試みる。
それは蜷局を巻くモノだ。螺旋を描き、身体を循環する“力”を司るモノだ。
長く火を落としていた動力炉は、稼働を始めた最初の方こそ戸惑うように弱々しかったものの、次第に力強くなっていく。
それは循環する。身体の内をくまなく巡り、細胞の一つ一つに宿って活力を与えていく。
「……お?」
“雷獅子”が、驚きと喜びが入り混じったような声を上げるのが聞こえた。その間にも、焦げて力尽き掛けていた身体がドクン、ドクンと脈打って、急速な勢いで力を取り戻していく。
「──退け」
身体が動く。感覚もある。新たに蘇ったこの“力”を、どう扱えばいいのか身体は知っている。
メキメキと容赦無く胸の真ん中を踏みつけていた相手の足。空いていた片手でガッチリと掴み、そのまま砕く気概で握り締める。
「──くは、ははは!」
対して相手は、心底嬉しそうに笑った。
踏みつける力が不意に緩んだかと思いきや、その足を掴んでいた手が急激な勢いに引っ張られ、あれよあれよと言う間にシンの身体は宙を舞っていた。
どうやら相手は足を大きく振り上げる要領で、此方を背後に向けて投げ飛ばしたらしい。瞬時に把握し、同時に体勢を整える。身体を捻って向きを調節、雷獅子から大股十歩分程離れた地点に腰を落とした体勢でストンと着地する。
此方がゆっくり立ち上がるのと、蹴り足の動作で既に此方を振り返っていた相手が声を掛けて来るのは、殆ど同じタイミングだった。
「ようやく“オーラ”を出しやがったな」
ズン、と此方に一歩踏み出して来た相手は好戦的な笑みを浮かべていたが、そのくせ昔と変わらない旧友の姿を見てホッとしているようにも見えた。
「テメェもなかなか人が悪いじゃねぇか。出し惜しみするなんて芸等、何時からするようになったんだ?」
「……知るか」
オーラ。氣。
ティスの修道院で目を覚ましてから初めて聞く言葉なのに、その響きは耳に良く馴染む。雷獅子がシンを弱体化したと評価した理由もこれで分かった。
風の呼吸に木々の気配。雷の唸り、敵の居住まい。そして何より、自身の身体の動かし方やその機能。
活性化した細胞が感じ取る世界は、今までとまるで違うようだった。
「──さて、それでは再開と行こうじゃないか。これ以上お預けを喰らったら、流石の俺もブチ切れそうだ」
胸の前で開いた掌に拳を勢い良く叩き付け、ゴキゴキと音を鳴らして首を回しながら、雷獅子は凶暴な笑みを深くする。一度は鳴りを潜めていた雷光が再びバチバチと音を立てて騒ぎ始め、木々や草花に当たって火花を散らし始めた。
「やっと本気を出せそうだ……もし俺を失望させやがったら、地獄まで追い掛けていってもう一度殺してやる」
「勝手に一人で行って来い。そして二度と戻って来るな」
構えは取らず、倭刀を左手に提げ持ったまま自然体で立つ。切り替わった呼吸を維持したまま、雷光を散らす相手を睨み付ける。
朝靄が完全に晴れ切っていない森の中。空気が痛いくらいにピリピリと張り詰め、緊張だけが急速な勢いで高まっていく。
それが何時臨界を迎え、張り詰めていた空気が破られたのか。
ついさっきの事なのに、今となっては正確なタイミングは自分でも良く分からなかった。
「──オラァッ!!」
「……!!」
空気の壁を突き破る音速で、ゴツゴツした拳が擦過していく。その場で半身になりながら横へと身体を捌いて相手の身体を通過させ、そのまま腹の前に据えた重心を軸に身体を回転。通り過ぎていった相手の方を振り返りながら、その後頭部を追い掛けるように倭刀の刃を抜き放つ。
そのままであれば首を落とす筈だった淡い紅の刀身は、けれど何も捉える事無く朝靄を斬り裂くだけに終わった。
「はは!」
獰猛な笑い声は、頭上から。
弾かれたように視線を遣れば、超反応で頭上に跳躍して斬撃を躱した相手が、雷を纏いながら此方に向かって落下して来ている所だった。
「……ッ」
元々から尋常でない筋力の持ち主なのに、それを更に電流で刺激する事で活性化させ、化け物のような運動能力を生み出しているらしい。これまでだったら、この攻撃は躱せなかったかもしれない。
今は違う。今は視える。視覚で完全に追い切る事が出来なくとも、空気が、気配が、殺気が、敵の挙動を教えてくれる。
「遅い」
振り切った刃は一旦そのままにしておいて、背後に倒れ込むような感覚で素早く後退。相手の蹴り足が空振り、此方に背中を見せた状態で地面に着地したその瞬間、刃を戻す手間も惜しんで突進し、開いた距離を詰め直す。勢いをそのまま利用して空中に身を放らせ、硬直していた相手の背中に全体重を乗せた両足蹴りを喰らわせてやる。
「おお!?」
確かな手応えが返ってきて、相手の身体が微かに揺らぐ。
けれど、それだけだ。
グラつくかと思われた背中は次の瞬間持ち直し、代わりに何かを溜めるように少しだけ丸められる。バチリと細かな雷光が視界の端で弾け、生存本能が本日何度目になるか分からない警告を発する。
「……ッ!?」
背中に接触したままだった両足を蹴るのと、相手の身体が爆音を轟かせながら放電するのは紙一重の差でしかない。
着地して素早く体勢を立て直すが、其処で一息付けるなんて甘い展開には勿論ならない。相手がゆっくりと此方を振り返ったと思った次の瞬間、その姿が電光だけを残して掻き消えるのが見えたからだ。
「──いい調子だ!」
殺気。真後ろ。
即座に反応して背後を振り返るのと、鳩尾目掛けて雷纏う拳が突き出されるのはほぼ同時。
「ぐ……ッ!?」
鞘に納めた倭刀でガードしたものの、衝撃を流して殺し切る時間は与えられなかった。
成す術も無く大きく吹き飛ばされ、たまたま生えていた木に背中をぶつけて呼吸を詰まらせる結果となってしまった。
「馬鹿力、が……!!」
視線を上げると、まばらに生えた木々の間を稲妻の塊が尾を引いて横切って行くのが見えた。姿そのものを捉えきれない程の速度で動いている割に、近付いて来るのが遅いのは、攪乱するようにシンの周囲を縦横無尽に駆け回っている為だ。
真っ直ぐに突っ込んで来るだけのパワー馬鹿かと思いきや、こういった戦法も取れるらしい。
「……」
相手の攪乱にわざわざ乗ってやる義理は無い。倭刀を腰に据えてに構えつつ、敢えて目を閉じて視覚を封印。
ここからだ。
ここからが、本番だ。
独特の呼吸を繰り返し、氣の勢いを加速させていく。更には身体のいたる所にある“穴”を刺激する事で、身体の機能を大幅に引き上げてやる。
(……!!)
自分を取り囲む周囲の空間。凪いだように静かだったその中に、突如として何かが無遠慮に踏み入って来るのを感じた。
前からでも、横からでも、上からでもない。
真後ろ──シンが背負っていた木の向こう側からである。
「そら、ここだッ!!」
雷光一閃。
シンの背後の木をも巻き込みながら、放たれたのは豪快な回し蹴り。バキバキと音を立てて崩れ落ちていく木の向こうには獰猛な表情を浮かべた雷獅子が見える。
決して太い方ではなかったとは言え、木を一本へし折ってしまうなんてやはり尋常な力じゃない。だが当たらなければ意味が無い。此方は既に前方に飛び出して退避した後だ。
「……あ?」
雷獅子が表情が驚愕の形をしていたのは、ほんの一瞬。直ぐに満面の笑みを浮かべつつ、彼は今まさに崩れ落ちようとしていた折れた木の上部分を掴み取り、それを盾代わりにして防御の構えを取って来る。
「“我王門”」
いい反応だ。この分だと、生き残ってしまうかもしれない。
頭の隅でそんな事を考えながらも、シンは構えながら限界まで力を溜め込んでいた倭刀を抜き放った。
「“九頭龍”──」
一頭。それは木の盾に喰らい付き、上半分を斬り飛ばす。
二頭。それは踏ん張っていた雷獅子の左腿の脇に噛み付き、血を飛ばす。
三頭、四頭、五頭は盾に勢い良く突撃してズタズタに斬り裂き、六頭はその向こうに在った二の腕を、七頭は脇腹を引き裂いていく。
八頭目が、相手の盾を完全に斬り崩した。ボロボロと崩れ始めた木はもう使い物にならないと断定したらしく、相手はそれに執着するのを止めて大きく後ろに跳び退ろうとする。
九頭目が、それに追い縋った。猛烈な勢いで逃げる相手に向かって伸びていき、相手が咄嗟に身体の前面に押し出した太い両腕にザクリと深く深く喰らい付いた。
「痛ぇ……!?」
「逃がさん……!!」
体勢を整える暇など与えない。
一息で九閃抜き放った倭刀をもう一度鞘の中に仕舞いながら、相手との距離を一気に詰める。
「“絶影”──!!」
気が付けば、跳び退っていた相手を追い抜いて、更にその後ろに立っていた。振り抜いていた刃を一旦空振りし、付いていた血を払い飛ばしてから鞘に納める。
チン、と涼やかな鍔鳴りの音が響き──
「ぅぐぉ……!?」
一拍遅れて、雷獅子が呻きながら膝を突く音を背中で聞いた。振り返れば、恐らくは傷口を抑えているのだろう、背中を丸めて屈み込んでいる雷獅子の背中が見える。
距離にして大股五、六歩分。充分シンの射程圏内だ。あの背中に向かって刃を放てば、きっとそれがトドメとなるだろう。本能はそうするべきだと叫んでいたし、相手の脅威を考えればそれが正解に一番近い答えなのだろう。
だが、いざ刃を抜こうとしたその瞬間、頭の隅で待ったを掛ける声が上がった。
(……コイツも、色々と知ってそうな口振りだったが……終わらせる前に色々と聞き出しておくべきじゃないか……?)
この男はシンの過去を知っている。ついでに言えば、シンを追って此処まで来たらしい。
何故自分達は追われているのか、そもそも自分達の過去とはどんなものなのか。昨日、双子を助け出した直後は記憶なぞ無くても不自由しないとか考えていたが、事がそう単純ではないのは今の状況を見れば明らかだ。
相手の事。自分達の事。ちゃんと把握しておかなければ、いずれ取り返しの付かない事になるかもしれない。
「お前は──」
けれど結果的に言えば、一瞬でもそんな余計な事を考えたのが間違いだった。
丸められていた、相手の背中。ユラユラと立ち上っていた殺気が爆発的に膨張し、押し寄せる波となって襲い掛かって来る。
「オラどうしたァッ!?」
勢い良く振り返って来た相手の掌に、雷をくしゃくしゃに丸めたような球体が見えた。咄嗟に身体を半身に捌いたその脇を、タッチの差で稲妻が通り過ぎて行く。
「……ッ!?」
冷や汗を流す暇も無かった。休ませる時間など与えないとばかりに次々と放たれてくる稲妻を、半ば追い立てられるように回避していく。相手を中心に弧を描くように移動していき、半円を描いた辺りで丁度木の陰に隠れる形となった。
「……!!」
一閃。
木の幹にザックリと切れ目を入れ、それを相手の方に向けて思い切り蹴飛ばす。バキバキと音を立てて倒れ始めたその上を駆け上がり、茂る枝葉の中の中に飛び込んでいく。
(此処か……!!)
恐らく相手は、こういう攻撃を躱して済ますような性質ではない。真正面から受け止めるか、或いは目眩ましごと此方を打ち抜いて来ようとする筈だ。
ならば、此方もそれを利用させて貰うまでである。後少しで相手の拳の射程圏内に届くという瞬間を見計らい、鞘に収まっていた倭刀を一気に引き抜く。
「疾……ッ!!」
己が周りを取り巻く世界を、幾重にも幾重にも“斬り分け”る。一瞬に細切れにされ、倒れながら空中分解した木の枝葉は、相手から見れば内側から弾け飛んだように見えたかもしれない。
「──破ッ!!」
縦横無尽に飛び回って周囲を斬り刻んだ刃を、その勢いを殺さないまま真上から振り下ろす。
落下のスピードも合わさって強力な唐竹割りへと昇華された斬撃は、上手く行けばこの戦いに終止符を打つ一撃になる筈だった。
「……ッ!?」
だがそれが、結局相手を捉える事は無い。
「残念、こっちだ!」
空振りして地面に食い込んだ刃と、前方から聞こえてくる相手の声。反射的に視線を上げれば、バラバラと木の残骸が降ってくるその向こうで、バチバチと一際大きく放電している雷獅子の姿が見えた。
(読み違った──!?)
相手は、素直に回避を選択していたらしい。
回避も、防御も間に合わない。視界いっぱいに光が弾けたと思った次の瞬間、身体は思い切り弾き飛ばされていた。
放たれた稲妻に弾き飛ばされたのだと掠れた意識で何とか理解するが、相手の攻撃はそれで終わりではない。まるで畳み掛けるかのような勢いで、まだ吹っ飛んでいる最中である此方に向かって相手の大柄な体躯が追い縋って来るのが見えた。
(しま……ッ!?)
拙いと危機感に駆られるよりも早く、背中がそこらに生えていた木の幹に激突、急停止。衝撃に息を詰まらせる間も無く、肩を突き出して突進して来ていた相手が遠慮無くぶつかって来て、冗談抜きで意識が真っ黒に塗り潰された。
「──ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
楽しそうな、本当に楽しそうな相手の雄叫び。揺さぶられた意識が目を覚まし、途端に覚まさなければ良かったと後悔する羽目になった。
物凄い勢いで流れていく森の風景。飛び散る稲妻に、砕け散りながら倒壊していく木々の残骸。激痛も苦痛も飽和状態で最早訳が分からないし、寧ろどうして俺は生きているんだろう?
木々なんてちゃちな障害などものともしない雷獅子の突撃。一人でやればいいものを、相手は此方をしっかり巻き込んでいる。相手の突き出した肩に胴を抉られ続け、放電し続ける電流に感電させられ続け、時折立ちはだかる木々にはそれらをぶち抜く勢いで叩き付けられていく。
どうやって切り抜けようとか、どうやって反撃しようとか、そんな考えは思い付きすらしない。苦痛に叫ぶ余裕すらも無い状態で、もういっそ殺してくれとすら思ったくらいだった。
「楽しいなぁ!?」
ぶち抜けないくらいの大樹にぶち当たったのか、それとも相手が意図的に速度を緩めたのか。
取り敢えず分かったのは思い切り背中から叩き付けられた事と、相手の巨躯をマトモに受け止める羽目になった自分の身体が致命的な悲鳴を立てた事だけだった。
「楽しいな刃匠ォ!?」
解放されて、地面に膝を付いてうつ伏せに倒れる衝撃ですら脳天を突き抜けるようだった。そのくせ自分は酷く客観的で、それすらも他人事のように感じただけだ。
怠い。というか、動かない。
「さぁ立て!! これで終わりじゃないだろう!? 立て!! 立って俺と一緒に楽しもう!!」
引きずり起こされ、首筋を掴まれた状態で再び大樹か何か叩き付けられる。ぼやけた視界の中には、もっともっとと駄々を捏ねる糞餓鬼の顔がいっぱいに映っていた。
「どうした刃匠!? 終わりとか言うなよ!? 終わりとか言うなよ!? お前はまだ得物をしっかり握り締めているじゃないか!! 斬れ!! 反撃しろ!! 俺の期待を裏切らないでくれ!!」
勝手な事ばかり抜かすな戦闘狂。どっからどう見たって勝負アリだろうが。
この身体はもう動かない。そもそも生きているかどうなのかすら怪しい。思考する自分は実はもう死んでいて、今こうやって考えている自分は霊魂か何かみたいなものじゃなかろうか。
あの状況で得物を放さなかったのは自分でも吃驚だが、それだけと言えばそれだけだ。身体を動かす気力も体力も無いのでは、反撃なんか出来る筈も無い。
「……終わり、なのか?」
真っ暗だ。
何も見えない。何も感じない。
このまま此処で目を閉じて蹲ってしまえば、きっと自分は闇の中に溶けていく。“シン”という存在は居なくなる。
「もう、お前は壊れちまったってのか……?」
激痛も苦痛も感じなくていいのなら、堪らなく甘美な誘惑だ。このまま闇に溶けてしまえば、今の最悪の状態からはおさらば出来るというのだから。
「……ガッカリさせやがって……!!」
不意に、相手の顔が見えた。
薄く開いた視界の中に、ジワジワと怒りを滲ませていく雷獅子の顔が映る。
「何が刃匠だ。何が十聖だ。只の屑じゃねぇか。期待させやがって……ッ!!」
首を掴んで此方の体重を支えたまま、もう片方の手で拳を形作るのが見えた。見せ付けるように大きく引いたそれは、容易くシンの顔面を砕き、命を絶つだろう。
最後にちょっと痛いかもしれないが、それが最後ならそれでいい。もう痛いのも苦しいのも御免だ。一思いにやって欲しい。
(“────……?”)
そう思っていた筈なのに。
ついさっきまで、それを切望していた筈なのに。
(“──ソレガ、オ前ガ望ム結末ナノカ……?”)
真っ黒になった意識の端を、雑音のような声と共に何かが掠めた。一瞬だったのに鮮明に心に灼き付いたそれらは、守ると決めた二人と世話になった一人の人影だ。
此処で俺が死んだなら。
此処で俺が棄てたなら。
双子はどうなる? 一緒に居る彼女はどうなる?
それが予測出来るのにも関わらず、俺は此処で逃げるのか。
「じゃあな」
半身になってまで大きく引かれた拳が、勢い良く撃ち出されるのが見えた。
嫌になる程ゆっくりに見えるそれは、恐らく実際には大気をぶち抜く程に疾く、重いのだろう。脳が生き抜く術を全力で模索しているから、自分はまだ諦めていないから、相対的にゆっくり見えるだけなのだ。
(死んで堪るか……ッ!!)
死ぬ覚悟なら出来ている。
戦い、護り抜き、その為に地獄に墜とされる覚悟なら出来ている。
どんなに辛くても、どんなに苦しくとも。それ以外の場所では絶対に死なない覚悟など、とうに完了していた筈だ。
(こんな所で、殺されて堪るか……ッ!!)
暴虐の拳が近付いて来る。シンの命を打ち砕く為に近付いて来る。
力が欲しい。この状況をひっくり返せるだけの力が欲しい。
押し包み、覆い隠し、そのまま呑み込んで来ようとする真っ黒な闇。それに対抗するように、シンは藻掻く。全身で抗い、渇望する。
その時だった。
“──それならば”
身体の奥で。
何かが、脈動した。
“己の成すべき事を、成せ──”
──ドクン。
○ ◎ ●
その日、デルダンの農業区域ではちょっとした騒動が起こった。
それは丁度家畜達の朝飯時で、まだ眠たい目を擦っている人々に向かって家畜達が歓声を上げている、騒がしいながらも穏やかな時間帯の事だった。
先ず餌に意識を釘付けされていた家畜達が、一斉に別の何かに気を取られた。何事かと訝しがる人々の前で、彼等は不安げな様子でソワソワし始めた。
一体何が問題なのか、人々にはさっぱり分からなかった。分からないから原因を取り除く事が出来ないし、原因を取り除く事が出来ないから後手に回るしかない。
家畜達が突然パニックに陥って暴れ出しても、人々は彼等に何もしてやれなかった。
「──爺さん! おい、赤鼻の爺さん!」
農業区域の一角、丁度デルダンの外周部分にあたる所に、ボンヤリと佇んでいる老人が一人。背後の若者はたまたま通りかかったといった感じだろうか。喋る合間の息は切れ気味だし、額には玉の汗が浮いている。その背景には暴れたり逃げ出したりしている家畜達や、それを取り押さえたり捕まえたりしている人々が溢れかえって大混乱の様相を呈していた。
「ボンヤリ立ってないで手伝ってくれよ!! 何でか知らないけど、家畜達の様子がおかしいんだよ!!」
「……そりゃあ、そうだろうさねェ……」
「のんびりし過ぎだろ!! この騒ぎが聞こえないの!?」
「聞こえてるともさ。寧ろお前さんよりも事態は把握出来てるかもしれないぜぇ?」
「な……ッ!?」
馬鹿にされたと思ったのだろう、若者の顔がサッと朱色に染まる。
けれど絶妙なタイミングで続いた老人の言葉に遮られ、その怒りが形になる事は無かった。
「神を怒らせて天罰を喰らった、なんて話はよく聞くが──」
老人の視線の先。遥か遠くまで広がっている“ネメアの森”。街道からも大きく外れ、草木以外に何も無いような森の奥地の上空が、まるで灼けているかのように朱い。けたたましい鳴き声を上げながらその空を背景に飛んでいる胡麻粒みたいな黒点は、住処を追われた鳥の群れだろうか。
「だとしたら、あれは何処の馬鹿が天罰を喰らったんだろうねぇ?」
背後からは、家畜達や人間達の悲鳴や怒号。遠くからは、獣達や鳥達の狂乱の声。
教典に記されている、嘗て一度、世界が禍神に滅ぼされた情景を思わせる騒動の中で、青年は老人の楽しんでいるような声を聞いたのだった。
「──ひひ、面白くなってきたじゃないか」