02.『意地悪な神様』
──怒りだ。
その時の自分は、どうしようもない怒りに支配されていた。
豪奢な何処かの一室の中、床に這い蹲る自分に近付いて来る人影。自分はソイツの事が憎くて憎くて仕方が無くて、殺してやりたいとすら思っているのに、肝心の身体はピクリとも動いてくれない。
ソイツの片眼鏡が光を反射している。まるで馬鹿と相対した時のような、憐れむようなそんな瞳で此方を見下ろしている。
わざわざしゃがんで顔を寄せ、出来の悪い生徒に噛んで含めるようにゆっくりと紡いで来たその言葉は、今でも耳の奥に刻み付けられていた。
『──需要と供給という言葉を知っているかね?』
そう言って、奴はニヤリとその白い歯を剥いたのだ。余りの事に言葉が出て来ず、ただただ呆然と見返していた此方に向けて、奴は更に二言、三言と言葉を重ねていく。
殆ど距離は無いと言うのに、手を伸ばせば届くというのに、此方は指先一つ動かす事すら叶わない。床の上に這い蹲り、その上から何人もの手練れに抑えつけられていた自分には、どうする事も出来なかったのだ。
目の前の人影が立ち上がる。肩を揺らし、とびきりの冗句を言ったかのように大笑いしながら背を向ける。
歩き去っていく。離れて行ってしまう。藻掻いても藻掻いても此方の身体はピクリとも動かず、悠然と歩いて行く奴の背中はどんどん小さくなっていく。
惨めで、無念で、憎くて、悔しくて、耐えきれなくなった自分は遂に叫んだ。決して意味など持たず、溢れる感情をそのままに、轟々と室内に響き渡る自分の声。視界が歪み、周囲がぼやけて見えなくなっても、あの時の自分はただただ叫び続けていた。
涙なんて、とうに枯れたと思っていた。
そんな事は無かった。
神も仏も居ないんだとばかりに、あの日の自分は泣いていた。
○ ◎ ●
寝覚めが悪いと機嫌も悪い。
少なくともシンはそういうタイプの人間で、今日という日もまたその例には漏れなかった。
「今日の兄ちゃんはどうしたんだィ? いつにも増して仏頂面じゃないかィ」
「さぁ……?」
腹の底がムカムカする。頭の芯がズキズキと痛い。彼等が悪い訳ではないし、八つ当たりするのはお門違いだというのも理解しているが、遠巻きにヒソヒソと話しているティスや赤鼻の態度も癪に障る。
「……聞きたい事があるなら、ハッキリと聞いたらどうだ」
「おっと、聞こえちまったらしいなァ」
いつもの時間の、いつもの薪割り作業場である。薪割りは禁止されてしまったが、何か適当に身体を動かしていればその内忘れるだろう。その程度にしか考えていなかった胸糞の悪さは、思いとは裏腹に未だに胸の内で燻り続けている。
その所為か、口から滑り出て来た声は自分でも驚くくらいに険悪なものだった。が、それを向けられた当の本人は、その性格故か殆ど気にしている様子は無い。
「なに、そんなに大した事でもねぇんだ。兄ちゃんが仏頂面なのはいつもの事だしなァ。ただ、今日はいつもと比べりゃ何かおかしい。聖堂もぶっ壊れてるって話だ。昨日は兄ちゃんの機嫌も聖堂の様子もいつも通りだったし、てぇ事は昨日の夜に何かあったんだろう。兄ちゃんの機嫌が悪くして、尚且つ聖堂を壊しちまうような何かが……ってな。なぁに、爺の下らない邪推さね。気にしないでくれや」
「……。俺の機嫌は別に関係無ぇよ」
「おや、そうかい」
大して残念でも無さそうに、赤鼻は笑う。屈託無いその笑顔に毒を吐き、これ以上関わるなと警告を飛ばしたとしても、きっと暖簾に腕押しに違いない。
それに、一つ聞いてみたい事もあったのだ。
頭を軽く振る事で今朝の夢の残り滓を飛ばし、気持ちを切り替える。まるで他人事のようにやり取りを聞いているティスの方を顎でしゃくり、口を開く。
「昨日、豚とゴリラがコイツを訪ねて来てな。気に食わねぇ奴だったから俺がお引き取り願ったんだよ」
「ははぁ、あの野郎か。そこら辺の勤勉さを仕事の方に生かしゃあ、ちったぁマシになるんだろうがなぁ?」
この得体の知れない爺が情報通なのか、それともあの二人が有名人なのか。
取り敢えず、豚とゴリラという代名詞だけで通じてしまった。自分で言っておいてなんだが、まさか本当にこれだけで通じてしまうとは思っていなかったので逆に戸惑ってしまう。
その間に何やら事情を知っているらしい赤鼻は、一人で喋り出していた。
「あの男はメリア教の総本山からデルダンの中央区に派遣されてきた男でなぁ。兄ちゃんは教会と修道院にどんな違いがあるか知ってるかィ?」
「いや」
「大衆への布教を主な目的とするのが教会。神との精神的同調を主な目的とするのが修道院……ってところかねェ。合ってるかィ、嬢ちゃん?」
「うん」
簡潔に答えるティスは自身に関わる話だと分かっているのかいないのか、いつものようにニコニコしていた。呑気なモンだと心中で溜め息を吐きながら、シンはいつもは作業台代わりにしている切り株の上に腰掛ける。
何やら、小難しい話が絡んで来そうだ。聞きたい所だけ拾い出すとして、後は作業に集中して聞き流す事にしよう。
昨日、斧を使って奇妙な型を実演した時。成り行きでエイプマンと戦う事になった時。刻まれた感覚を思い出せと叫んでいた身体の声が、どうにも気になるのだ。
(何か、足りない……? しっくり来ないというか……)
これもまた記憶の一部には違いない。手繰り寄せて行けば何か重要な手掛かりに行き着く可能性も無いとは言い難いだろう。
従って、こうやって覚えている型をなぞって行く事だって重要な作業なのである。徒手空拳の構えだったり、突きや蹴りのフォームだったり、腰溜めに何かを構えているフォームだったりと節操が無いが、こっちは至って真剣だ。
興味の無い宗教関連の話が右から左へと聞き逃してしまっても、それは仕方の無い事である。
「向こうは教会、此処は修道院。どちらもメリア教の管轄には違いは無いんだが、メリア教には派閥ってもんがあってなァ。“教典派”と“聖剣派”って聞いた事無いかィ?」
「聖剣……」
何だろう。奥の方で小さな異物が引っ掛かったような、そんな違和感。いや、不快感と言うべきだろうか。
面に出す事こそしなかったが、早速気を引かれてしまったシンの内心を知ってか知らずか、赤鼻はしたり顔で先を続ける。
「まぁ、名を体で表現している強引な連中さね。此処最近出来たメリア教の新しい宗派だよ。弱きを助け、強きを挫く……ってな。ガキが夢見るヒーローって奴を地で行くような奴らなんだが、これがまた大衆に人気でなァ。穏健な“教典派”を押し退けて、今も信者急増中だ」
「で?」
「一言で言うと、この二宗派はあんまり仲が宜しくない。元祖の教典派からすれば聖剣派は『暴力に溺れた不信信者』だし、聖剣派からすれば教典派は『平和ボケした腰抜け共』って所かね。……ああいやいや、シスター・マーサーはそれは立派な人だったがね?」
シスター・マーサー。
確か、この修道院の元々の管理者であり、この地に流れ着いたティスの面倒を見てくれた人物だった筈だ。
「教典派の人間だったが、これがおっかねぇ鬼ババでなァ。清く正しく美しいのは結構な事だが、その分頭も堅くてねぇ。オイラも何度怒鳴り散らされたか分かったもんじゃねぇや」
「そんなにおっかねぇ鬼ババなら、俺も一度見てみたいモンだな。目ェ付けられるのは勘弁だが」
「あー、無理無理。目付きも機嫌も人当たりも悪い兄ちゃんなんか、一発でお気に入り決定だろうよ。二十四時間付き纏われて、ガミガミガミガミ説教と小言の嵐だろうさ」
「うへぇ、おっかねぇな」
「……二人して鬼ババ、鬼ババって……あの人はそんなんじゃないよ……」
ティスはちょっと不満げだ。彼女からすれば拾って貰った恩もあるだろうし、こうして陰口のようなものを聞かされるのはあまり面白くないのだろう。
それを見て取ったのだろう。楽しげな様子だった赤鼻は、突然小さく溜め息を吐く。そうかと思えば、次の瞬間には一転して渋い顔になっていた。
「まぁ、確かに融通は利かないが、何だかんだで慈悲深い婆さんだったよ。世話好きだったし、あの権力だけは強い豚司教相手でも絶対に退かない芯の強さを持っていた。身内が病気とかで実家に帰る用事が無けりゃあ、あの豚が此処にでしゃばる事も無かったんだろうが」
元々、あの司教は権力志向の塊のような人物であるらしい。シスター・マーサーが居た間は修道院に近寄ろうとすらしなかった男が、彼女が居なくなった途端に顔を出したのも、そもそもは彼女が居ない間に修道院を乗っ取ってしまおうという腹積もりだったそうだ。
見てはいないが所詮は流れ者の小娘、少し脅しつければ簡単に言う事を聞くだろう。
きっとそんな風に思ってたんだろうねェ、と赤鼻は愉快そうに笑った。
「ところがどっこい、その流れ者の小娘はとんでもない別嬪さんだった訳だ。野郎、嬢ちゃんの姿を見た途端、こんな古びた修道院の事なんざどうでも良くなった」
「え、ちょっと待って」
漸く話が本題に入ったと思った矢先、まさかのティス本人から待ったが掛かる。
何事かと思って彼女の方に視線を遣れば、彼女は困惑したように此方を見返して来ていた。
「あの人は此処を欲しがってるよ? 暇さえあればやって来るし、立ち退けとか此処は私のものだ~とか、散々言ってくるもの」
「……」
「……」
「え、あの……何で二人とも黙り込んじゃうの?」
「……お前……」
開いた口が塞がらないというのは、正にこういう事を言うのだろう。司教とティスの会話を初めて見たシンでも、奴の本当の狙いが何なのかは直ぐに分かったというのに。
唖然としたまま赤鼻の方を見れば、彼は最早慣れたように、というかもう笑うしかないから笑ってしまえとばかりに、声を上げて笑っていた。
「ひっひっひ……。正直な話、奇跡が起こったんじゃないかと思うぜィ。こうもあの男の欲望には鈍感なくせに、一切何も無かったんだからなぁ?」
「へ? 欲望?」
「ひーっひっひ! やっぱり何にも分かってねぇや!!」
「……笑い事じゃないだろ。どうすんだよ、これ?」
純粋というか、抜けているというか。
あの司教が何時から“脅迫”を仕掛けて来ていたのかは知らないが、よくもまぁこんな調子で今まで躱し続けられたものだと思う。
「えと、あの……司教様の教会の子になれって言われてるんだよね? 人手が足りてないのかな?」
「足りてないのはお前の頭だ」
恐る恐る会話に入って来ようとしていたティスに対して、呟いてしまったのは殆ど反射。割とショックだったらしい彼女が硬直してしまっても、それをフォローするだけの余裕はシンには無い。
(……参ったな。想像以上に危なっかしいぞ、コイツ……)
そう言えば赤鼻が、昨日の昼間にそれっぽい事を言っていたんだったか。
あの時点では良く分からなかったが、今ならこの爺が何を言いたかったのか良く分かる。
仮に記憶を取り戻したとして、後腐れ無くこの修道院からおさらば出来るかと問われても、今となっては即答出来ないかもしれない。
恩人があんな豚の慰み物にされるというのは、幾ら何でも忍び無さ過ぎる。
「……ま、そういう訳さね。あの二人が此処にやって来たのは、昨日が初めてって訳じゃない。子飼いのサイボーグを負かしたってんなら暫くは来ないかもしれんが、野郎、執念深いからな」
「昨日のアレだけで諦めるとは到底思えないって訳か」
「そういう事。何処かの誰かさんと違って、呑み込みが早くて助かるねぇ?」
「……それ、誰の事ですか?」
「ひひ、さぁて?」
ティスの拗ねたような半眼を喰らって楽しそうに首を縮めている赤鼻は取り敢えず放っておいて、シンは素早く考えを纏め始める。
穏やかに見えたこの修道院にも、とある男の欲望の魔の手が伸びつつあるのは理解した。奇跡的に回避し続けているが、脳天気な此処の主が自分が晒されている危機を良く分かっていないというのも。
自身の記憶は戻って来ないし、双子との空気も妙にギクシャクしたものになってしまった。これまでは此方の視界には入って来ないようにしながらも必ず何処かから此方の様子をジッと窺っていたというのに、今朝は一度もその気配を確認していない。ティスに聞けば、何だか元気が無かったと言う。
(何だこれ。どっちを向いても問題ばっかりじゃねーか……)
げんなりしてしまった。
溜め息を吐いてティスへ視線を遣ると、向こうも此方の溜め息に気を取られたようだった。
「二人して何なの。男の子ばっかりでコソコソしちゃて」
「さぁな」
「もう」
ぷくっと頬を膨らませ、ジトリと半眼で此方を睨み付けてくるむくれ顔は天然の産物なのだろう。意外に子供っぽい所もある性格を表していて、意外と良く似合っている。
(……まぁ、何だ)
彼女は恩人だ。
傷の手当てに美味い三食付きの寝床の提供。それに見合うくらいの面倒くらい、背負ってやらないとバチが当たるというものだろう。
○ ◎ ●
“きおくそーしつ”。
自分達にはよく分からないその言葉は、簡単に言うなら思い出を失くしてしまう病気のようなものらしい。やがて治る人も居れば、永遠に治らない人も居る。シンがどっちなのかは、ティスも良く分からないと言っていた。
「ヒナ、そっちあった?」
「……」
ヒナギク、ホタルという名前。こうして元気に動かせる身体。そして何より、今、こうやって生きている命。生きたいと思える気持ち。
全部、全部シンが拾ってくれたものなのだ。
なのにシンは、ヒナギクとホタルの事を忘れてしまったのだと言う。あんなに沢山励ましてくれたのに、沢山助けてくれたのに、全部忘れたなんてそんなのあんまりだ。ひどすぎる。
思い出して欲しい。以前のシンに戻って欲しい。
そういう訳で、双子は大人達に隠れて“あるもの”を探している最中だった。
「みつかんないねー」
「……」
空き部屋、キッチン、ダイニング。キッチンの地下にある食料庫に、仕掛け階段を使って登る屋根裏部屋。そして、何だか入り辛いティスの部屋。
大人二人が外でお喋りをしているのを見計らい、ここぞとばかりに捜索に乗り出した。大人達が何時戻って来るか分からないから、出来るだけこっそりと、尚且つ迅速に済ませなくてはならない。人の家に忍び込み、食べ物を盗む時と少しだけ似ている。
とは言え、今のところ結果は散々なものだった。
空き部屋には見事に何も無かったし、キッチンでは落ちて来たフライパンがホタルの頭を直撃した。食料庫では二人で摘み食いをしただけに終わったし、屋根裏部屋は何も無いただ埃っぽいだけの部屋だった。
現在捜索中のティスの部屋にも、探しているものは無さそうだ。クローゼットの中やベッドの下。双子が思い付くような隠し場所には、何にも無い。
というか、落ちてきたフライパンは凄く痛かった。頭はまだくわんくわん鳴っている気がするし、暫くは視界がぼやけて上手く探す事が出来なかった。ヒナギクに見て貰ったが、どうやらちっちゃなタンコブが出来ているらしい。
──ないね。
「ねー」
ヒナギクが諦めたように小さく溜め息を吐いたのを合図に、二人はティスの部屋から引き上げる事にした。
何となく足音を忍ばせながら廊下に出れば、しんと静まり返った空気が二人を出迎える。
大人二人が居ない所為か、それとも二人がこそこそしている所為か。静かな空気が重たく乗し掛かってきて、何だか酷く寂しいような気がした。
「はやくもどってこないかなぁ……」
思わず呟いてしまってから、しまったと慌てて口を抑える。
恐る恐る隣に視線をやれば、案の定、ヒナギクの咎めるような視線が此方に向けられていた。
「えと、ごめん。はやくみつけなきゃなのにね……」
「……」
ぷい、とヒナギクは視線を逸らす。いつもの無表情の所為で最初は冷たく怒っているようにも見えたけれど、顔を背ける寸前、口元が頑なに引き結ばれているのをホタルは見逃さない。
──ボクだって……
「うん。ごめんね」
己の半身からそっと視線を逸らし、呟くようにもう一度謝る。双子の姉はこう見えても変な所で意地っ張りだから、時には此方が雰囲気を読まないと延々と溜め込んでいってしまうのだ。
グス、と小さく鼻を鳴らす音も、袖で目元を拭う微かな気配も知らないフリ。
少ししてからゆっくりと歩き始めたヒナギクを追い掛けて、ホタルもまた歩き始める。横に並べば目尻が光るものが残っているのが見えたけれど、こういうのは指摘しない方がいい事は経験上知っていた。
だから代わりに周囲を見回して、まだ探していない所が無かっただろうかと思いを巡らせる。探す事に集中していれば、ヒナも何時の間にか元に戻っているだろう。
「あ」
ふとアイディアを思い付いたのは、それから少し経ってからの事だった。何となく歩き出し、何となく吹き抜けの階段を降りて二階から一階へと移動していた二人だったが、特に明確な目的があった訳ではない。
だが、丁度いい。
ホタルが思い付いたその場所も一階に、それも此処から目視出来るくらいに近い場所にあるのだから。
「ねぇヒナ。ちょっとおもいついちゃったよ、ボク」
「……?」
不思議そうな視線。普通、こういうのを思い付くのはいつもヒナギクの方なので、ちょっと得意な気分になりながら後を続ける。
「せっかくティスもいないんだし、きょうはあそこのへやもしらべてみない?」
ビシリと指差したのは、食堂とは反対側にある何の変哲も無い扉である。
他と変わりない見掛けであるのに、どういう訳か何時もあそこには鍵が掛かっていて入れないようになっている。ティスが言うには、あの部屋は物が沢山ゴチャゴチャしていて危ないから、何時も鍵を掛けているのだそうだ。
──あいてるかな?
小さく首を傾げながら、ちょっと考えるような仕草を見せるヒナギク。その姿は何時もの調子に大分近付いていて、元通りになるまでは後少しだと分かったから、ホタルは余計に張り切ってみせた。
「ぜったいあいてるよ!」
残っていた階段をピョンと飛び降り、扉に向かって走り出す。とは言え、本当の事を言えばホタルだって本気で開いてるとは信じていなかった。ただ、自分が扉に勢い良くぶつかりでもしたなら、しっかり者のヒナギクはきっとすっかり元の調子に戻るだろう。それだけでも良いと思ったのだ。
だから、殆ど体当たりするように取っ手に飛び付いたその瞬間、ふわりと身体が浮遊感に包まれた時は何が起こったのか分からなかった。
「え……」
受け止めてくれる筈だった扉は、あっさりと動いてホタルに道を空けてくれていた。通せんぼ上等で突っ込んでいったのに、これじゃまるで馬鹿みたいだ。
というか、それ以前にピンチなのではないだろうか、自分は。
「わああああああああ!?」
勢い付いた身体は止まってくれず、そのまま部屋の中に転がり込む形となってしまう。幾らも行かない内にゴチンと額を強く打ち、瞼の裏に火花が散った。
「うびゃっ!?」
身体は止まってくれたけれど、何もこんな形で止まる事を望んでいた訳ではない。
そのままズルズルと滑って床の上にうつ伏せに倒れ込んでいると、ややあってから遠慮がちに身体を揺さぶられるのを感じた。ヒナギクが追い付いて来たらしい。
「いたた……えへ、シッパイしちゃった」
──あわててとびついたりするからだよ。
身体を起こして照れ笑いを浮かべれば、ヒナギクは呆れたように溜め息を吐く。でも、ホタルが打った所を確かめるように触れる手は、気遣わしげで優しかった。
──いたい?
「ううん、ぜんぜん。それよりも、さ……」
その場に座り込んだ状態のまま、周囲を見回す。窓から入ってくる光は明るかったけれど、色んなものがゴチャゴチャしていて薄暗い感じがする。日の光の中に沢山の埃の粒がキラキラと輝いていて、ちょっと綺麗だと思った。
「えっと、こういうのなんていうんだっけ?」
「……“ものおき”?」
「そっか、それだ!」
ホタルがおでこをぶつけた物は、どういう訳か布が被せられている。それだけに限らず、この部屋の中にあるものはどれもこれも同じようにされて、中身が見えないようになっていた。
取り敢えず、おでこをぶつけたやつの布を捲って中身を見てみれば、何やら白と黒の板がズラリと並んでいるのが見えた。
「おー……?」
何なのかは分からない。でも、何処かで見た事があるような気がする。
何の気無しに手を伸ばし、並んだ板の白い部分に触れてみれば、いきなり“ヴァー”と太い声で鳴いたので心臓が止まるかと思ったくらいに吃驚してしまった。
「ひゃ!?」
反射的に跳び退り、距離を取る。何時でも逃げ出せるように気を張り詰めさせながら問題の物体を睨み付けるが、ヤツは一声鳴いた限りでそのままウンともスンとも言わなくなっていた。
「……?」
眠っている所をいきなり触られて、それで怒っただけなのかもしれない。やっぱり見た事の無いヤツだし、そもそもからして生き物には到底見えなかったけれど、気持ち良く寝てるならそっとしておこうと思った。
「いこっか、ヒナ。……ヒナ?」
小さな声で双子の姉に声を掛ける。が、いつも通りの無言の返事は返って来ず、慌てて周囲を見回した。
一体何時の間に居なくなってしまったのだろう。ヒナギクの姿は既に何処にも無く、代わりに部屋の奥の方から何やらゴソゴソと物音が聞こえて来る。どうやら、太い声の生き物に怒られたのはホタルだけであるらしい。
「もう……。ヒナ? ヒナってば! どこに……」
大声で呼び掛けようとした所で、慌てて両手で口を抑える。太い声の生き物の様子をチラリと窺うが、今度は向こうも目を覚まさなかったようだ。
思わずホッと息を吐き、それから改めて周囲を見回す。恐らくはヒナギクが立てているのであろう物音を辿るのは簡単だが、沢山のモノでゴチャゴチャしていて迷路みたくなっているから、見つけるのは少し苦労しそうだ。
ホタルが探検に出掛けたら、勝手に動き回るなって何時も何時も怒って来るクセに。ヒナギクだってヒトの事は言えないではないか。
「ヒナ? ヒーナー……?」
あまり大きな声を出す事は出来ない。さっきみたいに眠っているモノがまだ居るかもしれないからだ。飽くまで小さな声で呼び掛けながら、モノとモノの間に滑り込み、ヒナギクを探す。
「……ホタル」
ややあってから、聞き慣れた小さな呼び声が聞こえた。
「ホタル。どこ……?」
「ヒナ?」
呼び合って位置を確認しつつ、狭い通路を歩き回る。あまり広くないように見えて、部屋の中は結構広い。部屋の奥の、他に比べて開けた場所。そこでぼんやりと立っているヒナギクの姿を見つけるまでには、ほんのちょっとだけ時間が必要だった。
「ヒナ! 一人で勝手に何処かに行っちゃダメじゃない!」
「……」
ここぞとばかりにヒナギクの真似をしながら近付いていくが、白い服の背中は特に反応を示さない。
呼び掛けても答えないなんて事はよくあるし、そもそも普段から殆ど喋ろうとしないのがヒナギクである。だが、此処まで何の反応も無いというのは珍しいのではないだろうか。
「……?」
怪訝に思っている間にも、ホタルの足はずんずん進む。だからヒナギクが何を見ているかに気付いた時には、ホタルは既にその隣に並んだ後だった。
「これ……!」
「……」
壁と棚のようなものによって仕切られた空間。窓の日の光も此処には届かず、まるでこの場所だけが切り取られたみたいに薄闇の中に沈み込んでいる。
リィン、と涼やかな音が聞こえたような気がした。風も無いのに、その身体からぶら下がっている綺麗な紅い紐が微かにユラユラと揺れている。
薄闇の中に溶け込むように。或いは、それそのものが集まって出来たものであるかのように。
双子が探していたモノは、棚にもたれるようにして静かに佇んでいた。
「……」
「……」
ヒナギクやホタルよりもずっとずっと背の高い、一本の影。真っ直ぐではなく、僅かに反って弧を描いているそのフォルムを見ていると、何だか背中がゾクゾクしてくる。
──……あった。
「あった、ね……」
探し物は見つかった。ホタルも、きっとヒナギクも何となくそれは理解出来ていたと思う。
でも、二人共それ以上の言葉は出て来なかった。
目の前の長くて黒い棒のようなもの。闇の中で静かに微睡んでいるそれは、ホタル達には良く分からない何かを内に秘めている。そんな気がしたからだ。
──……シンに届けないと。
「うん。そうだね……」
二人して顔を見合わせ、どうするか確認。そうしたはいいけれど、そこから先はまた二人して固まってしまう。
やる事は簡単だ。手を伸ばして目の前の“それ”を掴み、此処から持ち出せばいい。
「えっと……」
「……」
たったそれだけの事なのに、どうしても難しいように思えるのは何故だろう。
何だか身体が重い。空気も、何処か冷たいような気がする。こうやってこの場所に立っていると、このまま冷たい空気に押し潰されてしまいそうな気分になる。
“──これは、とても危険なモノ”
“──熱くて、冷たくて、獰猛なモノ”
“──ボク達は見た”
“──これは、沢山のニンゲンを喰い殺した”
「「……」」
冷たい空気が心臓を掴む。嫌がった心臓は大きく跳ねて暴れ始め、二人の胸を内側から思い切り叩き始める。
これはボク達が触っていいものなのだろうか。
今更になってそんな思考が頭の中を駆け巡る。やるべき事は分かっているのに、シンに記憶を取り戻して貰う為なのに、身体が震えて言う事を聞かない。
「ッ……!!」
「! ヒナ!?」
でも、ヒナギクは強かった。
ギッ、と目の前の“それ”を睨み付けると、一度大きく深呼吸してから、震える身体を抑えつけるみたいにゆっくりゆっくり歩き出す。
「これを……!」
ホタルが何も出来ないでいる間に、双子の姉はそれの目の前にまで辿り着いてしまった。
「……これを、シンにかえしたら……!」
リィン、と“それ”が嗤い声を上げたような気がした。
ヒナギクは“それ”に手を伸ばし、けれどその手は震えを抑える事が出来ていなかった。
「!?」
勢い余った指先が“それ”にぶつかる。バランスを崩し、此方に向かって倒れて来ようとした“それ”をヒナは受け止めようとしたけれど、震えている身体ではやはり上手くいかなかったらしい。
“それ”の重さを支える事が出来ず、バランスを崩してしまうヒナギク。自重に引っ張られ、グンとホタルに向かって倒れて込んでくる“それ”。
勢いですっぽ抜け、中身が僅かに顔を覗かせる。淡い紅色の刀身は、薄闇の中の光を貪欲に反射して、とても綺麗だった。
「──ぁ……」
“それ”が剥き出した牙に魅入られて、動く事も考える事も忘れていた。
でも、ぶつかると思ったその瞬間、背後からダンッと物凄い足音が部屋の中を震わせるのが聞こえた。
「お前ら……ッ!!」
反射的に身体がビクリと跳ね上がった。慌てて後ろを振り返って確かめようとしたけれど、それよりもガンッと横殴りの衝撃が襲って来る方が早かった。
「──!!」
身体が真横へと勢い良く吹き飛び、壁に思い切り叩き付けられる。痛くてマトモに声も出せず、そのまま壁をずり落ちるようにへたり込んでしまう。
何とか顔を上げて見てみれば、嗚呼、そこにはやっぱり予想通りの姿。元々は自分の持ち物である“それ”をヒナギクの手からもぎ取って、代わりとばかりに大きく掌を振り上げている所だった。
──バチン。
頬を張り飛ばす乾いた音が、大きく室内に響き渡る。物凄く痛そうだったけれど、叩かれたヒナギク自身は特に痛がるような素振りも見せない。ただ叩かれた頬を抑えながら、何処か呆けたような顔で自分を叩いた人物の顔を見上げている。
それはそうだろう。ホタルだってヒナギクと同じような気持ちだ。
「──勝手にコレに触るんじゃねぇ!!」
憤怒の形相。容赦の無い怒声。
見たり聞いたりした事は何度もあったけれど、シンがそれを自分達に向けてきたのは今回が初めてだった。
「失せろ!!」
「────ッ!」
声が出て来ない。身体の震えが止まらない。
気が付けばまるで追い立てられるみたいに、ヒナギクと部屋から飛び出している所だった。
「あ、ちょっと二人共──」
戸口の辺りで何かを言っているティスとすれ違ったが、気にしない。背後から声が追い掛けてきたが、振り返らない。
失せろ、というシンの言葉が、頭の中でグルグル回っている。ぐわんぐわんと耳元で反響して、二人を捕まえて放してくれない。
視界が、ジワリと滲み始める。嗚咽が、喉の奥から溢れ始める。
こんな筈じゃなかったのに。そんなつもりじゃなかったのに。
どうしよう。
シンに嫌われてしまった。
○ ◎ ●
飛び出していった二人を追い掛けなかったのは、彼女達を捨て置くつもりだったからではない。身体が硬直し、咄嗟に動く事が出来なかったのだ。
反射的に振るった、暴力。それが取り返しの付かない結果に繋がるかもしれないと思った瞬間、身体に恐ろしい程の寒気が襲って来た。
「……」
掌に残った感触は、暫く消えてくれそうにない。
ボーっとしていたホタルを突き飛ばした感触。刀を放さなかったヒナギクの頬を張った時の感触。
考えていたよりも遥かに柔らかくて、脆かった。もし力加減をもう少し強くしていたら、逆にシンが彼女達を殴り殺していたかもしれないと思ってしまうくらいに。
以前、聞いた事がある。誰かに暴力を振るう時は、とてつもない苦痛を伴う事もあると。昨夜、ちょっとやそっとじゃ壊れそうにない巨体のサイボーグを好き勝手に殴り付けていた時には、そんな事思い付きもしなかった。
「あいつら……」
赤鼻が退散した後、修道院内に戻って来て、普段は閉まっている扉が大きく開け放たれているのを見た。何か嫌な予感に襲われ、反射的に踏み込んではみたものの、まさかあんな光景が待ち受けているとは予想すらしていなかった。
「何かあった?」
背後から掛けられたのは穏やかな声。いつもと変わらず、それどころか何処か気遣うような響きが含まれていたが、今の自分には逆に責められているように感じてしまう。
「……殴ってしまった」
「そっか」
説明になっていない、口を衝いて出て来たような言葉だったが、ティスはそれで概ね事情を察したみたいだった。
静かにシンの前に回り込むと、固く握り締めていた拳……ついさっき双子に暴力を振るった掌に気付き、そっと自分の両の掌で包み込んで来る。
「物置のドアが開けっ放しになっていたから、まさかとは思っていたけど」
暖めるように。
或いは、解きほぐすように。
すべすべしたティスの掌がゴツゴツした拳の表面を滑り、摩っていく。
彼女の手には何か魔法の種でも仕掛けられているのだろうか。凝り固まっていた拳から、少しずつ少しずつ力が抜けていくのを感じた。
「ごめん、私の所為だ。ちゃんと物置の鍵を閉めたか確認しなかったから……」
「いや……」
鍵を閉め忘れていたというなら、確かに彼女にも責任はあるだろう。後一歩遅ければ、大惨事になる所だった。
“これ”の斬れ味が半端でない事は、シンが一番良く知っている。例えその気が無かったとしても、運や使い方が悪かっただけで簡単に対象を斬ってしまうのだ。
飛び散る赤。広がる血の匂い。
それらが脳裏に浮かんだ時には、既にシンの身体は動いていた。手の中の“これ”の近くに双子がいるという事実に我慢が出来ず、感情のままに怒鳴りつけさえした。
間違った事をしたとは思っていない。
ただ、掌に残っている感触に責められているような気がするのもまた事実だった。
「その、ごめんなさい。注意が足りなくて」
「いや。……ただ、そうだな。これは本当に危険なものだ。管理するなら細心の注意を払うべきだろう」
「……覚えてるの?」
此方の物言いが引っ掛かったのだろう。聞き返してきながら、ティスがシンが握っているものに視線を落とす。それに釣られたかのように、シンの意識もまた、手に握られている“それ”へと向けられた。
僅かな反りを持ち、優美な弧を描いているそれは、床に立てればシンの肩くらいの高さになるだろうか。
墨を丹念に塗り込んだように上から下まで真っ黒だが、上の部分を掴んで少し引っ張ってやれば、涼やかな音と共に淡く“紅い”刀身が顔を覗かせる。
一瞬、その色に若干の違和感を覚えたが、本当にほんの一瞬の話だ。
「……ああ」
覚えている。
ズシリと重たく、驚くほどに手に馴染むこの感触を、自分は確かに知っている。
「これは、俺のだな?」
「……」
沈黙は、時に言葉よりも遥かに雄弁だ。
刃を鞘の中に収め、視線を上げてティスの方を見れば、彼女は珍しく言葉が見つからないようだった。
「何で黙ってた?」
「……大事なものみたいだったし、別に隠そうってつもりじゃなかったんだけど」
「けど?」
「その」
「その?」
「シンに渡したら、あちこちで振り回してしまうんじゃないかなって……」
「俺はお前の中でどれだけワンパクな奴なんだ」
馬鹿にされたと腹を立てる前に、先ずは脱力してしまった。申し訳無さそうに恐縮している辺り、彼女は本気でそれを心配していたのだろう。
大体、シンの方にも心当たりが無い訳ではない。斧を使えば治りかけの傷口を開いてしまい、敵を見つければ派手に暴れて聖堂を滅茶苦茶にした。
心外だと怒るにしても、反撃されては此方が黙り込むしかない。それだったら、最初から大人しくしておいた方が無難というものだろう。
「大事なものと言ったな?」
「うん。倒れてたシンが大事そうに握り締めてたから。シンと同じで血と泥で凄く汚れてたから、出来るだけ綺麗にしておいといたけど……」
「へぇ、気が利くな。道理でさっき抜いてみた感じじゃあ、保存状態が良かった訳だ」
「あ、うん。それはちょっとズルをさせてもらったから」
「ズル?」
「えへへ」
具体的な内容を教えてくれるつもりは無いらしい。気にはなったが、こうして良好な状態で保存してもらっていたのには変わりないし、今はそんな事は些細な事だ。
「俺は傷だらけで、その手に武器を握っていた訳か。お前、そんな奴を良く助ける気になったな?」
「え?」
「武器が血塗れって事は、誰かを斬ったって事だ。大事そうに握り締めてたって事は、それだけ武器が必要な状況に晒されていたって事だ。大勢の敵に囲まれてたって所が妥当だろうし、俺がまだ生きてるって事はそいつらがどうなったかは言うまでもないだろ」
「……まるで、他人事のように言うんだね?」
「別に。赤鼻によれば、俺は人斬りらしいからな」
言われたのはつい昨日の事だ。あの時はストレート過ぎるその言葉に面食らったものだが、今はその言葉が妙にしっくり来る。戻って来た身体の一部が、触れる掌を介して自らの扱い方を思い出させてくれていた。
確かに赤鼻の言う通りだったのだ。どうやら自分は、人斬りらしい。
「……それで?」
「あ?」
けれど決死の告白は、予想に反して大した反応を生み出さなかった。
ティスは驚きもしなかったし、ましてや嫌悪感を露わにする様子でもない。ただいつも浮かべている笑みを引っ込めて、静かな面持ちで此方を見ているだけだった。
「そうだね。シンがそういう事をしていたっていうのは何となく分かるよ。さっきも言ったけどその剣は血塗れだったし、何よりシンの周りには斬り殺された死体がちらほらあったしね」
「! なら──」
「でも」
開きかけた此方の口は、直後、するりと押し当てられた彼女の人差し指に塞がれていた。
一瞬、何が起こったのか理解出来ず、何時の間にか直ぐ近くにまで寄っていた彼女の顔をマジマジと見つめてから漸く戦慄する。
コイツ、一体何時の間に此処まで近寄って来たのだろうか。
「でも、今のシンの言い方、私はあんまり好きじゃないな。自分は恐ろしい存在だ、さぁどうするって、まるでこっちを試してるみたい」
「……別に、そんなつもりは」
「うん、分かってる。シンはシンが持っている情報を分析して、それを包み隠さず話しただけだよね。びっくりするくらいに冷静だし、それに公平だって思う。でもね、私だって馬鹿じゃないんだよ?」
ドクンと心臓が大きく跳ねる。ヒヤリと汗が頬を伝う。
彼女は何時だって穏やかで、明るくて、柔らかい空気を纏っていた。いや、纏っていた筈である。
だとするならこの女は何者だ。対峙しているだけで押し潰されてしまいそうな、強烈なプレッシャーを放って来るこの女は。
「先ずは、落ち着こう? 見えているものがロクなものじゃない事ばかりだからって、自棄になっちゃうのは良くないよ?」
「──!?」
ドキリとしてしまったのは、心の何処かで似たような事を考えていた所為かもしれない。
つまりは図星という奴で、言い当てられてギクリとしてしまったと、つまりはそういう話である。
鈍そうなクセに変な所で鋭いというか、底が見えず得体が知れないというか。
何だか、悔しい。だが、見透かされた事を認めずに噛み付くような真似をすれば、悔しい上に惨めな思いまでする事になるだろう。それくらいは容易に想像出来るし、そうなったらシンは彼女の顔を二度とまともに見れなくなるに違いない。
「……すまん」
短く、簡潔に、降参の言葉。
ニコッと、彼女の笑顔が花開いたのは直後の事だった。
「ううん、こっちこそキツい事言ってごめんね」
さっきまでの彼女は、幻だったのか。
思わずそう勘繰ってしまうくらい、いつも通りの彼女である。
思わず彼女の顔をジッと見つめてしまったものの、彼女は特に気にした様子も無い。今の今まで放っていた、得体の知れない気配など欠片も見せずに言葉を続ける。
「あの子達ね、他人が怖いみたいなの」
「……うん?」
「対人恐怖症……って言ってしまっていいのかな。聖堂を開く準備をしている時とかも、誰か来たらあっと言う間に居なくなっちゃうし。私だってシンが目を覚ます前は結構苦労したんだよ?」
「はあ……」
それが何だと言うのだろう。あの二人が他人に心を開かないというのは、見ていれば何となく分かる事だ。
けれど、だからどうしたと言えるだけの時間を、ティスは与えてはくれなかった。
「そんなあの子達がね。たまたま通りかかった私に、必死な様子で言って来るの。シンを助けて、シンを助けてって」
「む……」
トン、と胸を固い物で突かれたような気がした。
分かっていたようで、実は全く分かっていなかった事。考えてみれば当たり前の話だ。あの双子がシンの連れだったのなら、気絶していたシンの側に彼女達は居た事になる。
「もちろん、その時はあの二人が対人恐怖症なんて事は知りもしなかったけど。ただ、泥だらけの女の子達がわんわん泣きながら、自分の事よりも別の誰かを助けて欲しいって必死に訴え掛けて来るの。放っておくなんて、私には出来なかった」
「……」
ついさっき殴ってしまった事については、シンは間違った事をしたとは思っていない。だが、今までの態度を思い返してみると、それらが正しいものだったとはどうしても思えなかった。
どうして分からなかったのだろう。
どうして少しでも考えてやろうとしなかったのだろう。
あの二人は、何時だって距離を狭めようと此方の様子を窺っていたではないか。自分の事しか考えず、関わる事に消極的だった此方の態度に気後れしながらも、恐る恐る歩み寄ろうとしていたではないか。
──“ボクたちのことも、わすれちゃったの……?”
昨夜聞いた、ホタルの言葉を思い出す。
あの時、小さく紡がれたその声は震えていて、その表情は何処か悲壮感すら漂わせていた。嘘を付くべきだったとは思わないが、その後に二人の前から逃げ出したのは、絶対にやるべきではない失敗だったと思う。
この刀はシンの持ち物だったと言う。彼女達は以前使っていたモノを見せればシンが記憶を取り戻すだろうと考えたのかもしれないし、もしそうだとするならそもそもの事の発端はシンの態度にある訳だ。
コミュニケーションが無ければ何かを教える事も出来ない。教えられなければ何が危険で、何がやってはいけない事なのかも分からない。
避け続けていたクセにここぞとばかりに殴り付けるだなんて、改めて考えてみると呆れ果てて物も言えなくなってしまう。
「……仮に、俺が話し掛けたとして」
「?」
少しずつ押し出すように紡いだその言葉に、ティスはキョトンとした表情を浮かべる。
言うならさっさと言い切ってしまえと意を決し、開かない口を無理矢理動かした。
「アイツら、俺の話を聞いてくれると思うか?」
「……」
沈黙。
何を言われたのかよく分からないといった様子で、ティスは目をパチクリと瞬かせる。
「……っ、ふふ」
かと思えば、いきなり顔を綻ばせ、小さく噴き出した。
最初は堪えようとしていたらしいが、段々と耐えきれなくなったらしく、ダムが決壊していくように本格的に笑い始める。
真面目に聞いた此方としては、一緒に笑う気になれる筈も無かった。
「……何だよ?」
「ふふ、ふ、ごめ、ごめんね? でも可笑しくて……ふふ」
大したウケっぷりだ。
そんなに可笑しな事を言っただろうかと自分の言動を思い返してみるが、面白いと思える事を言った自覚なんて全く無い。
此方は真面目な話をしていたと言うのに、一体何だというのだろう。これはもしかしなくとも、怒っていい場面なのではないか。
「──お前……!」
「ああ、そんな顔しないで。でも、シンってあんなに強いのに、変な所で臆病なんだね?」
「あ……?」
臆病。臆病と言ったかこの女。
唐突な侮辱に腹を立てるよりも先に唖然としていると、その間に彼女は悪びれた様子も無く先を続けた。
「だって、そうじゃない? シンはあの子達の事になると妙に臆病っていうか、気弱になるよね? 自分からあの子達に関わっていかないのはどう接すればいいか分からないからだし、今、そんな顔をしているのだって、あの子達を殴った感触が予想以上に脆かったからじゃないのかな?」
「顔……?」
「まるで、自分が叩かれたみたいな顔してるよ」
「!」
ハッとして、反射的に顔面を空いていた片手で隠そうとする。そんな事をしても無駄だし、却って滑稽なだけだと気付いたのは直後の事だったが、ティスはもう笑ったりはしなかった。
「子供は、一度心を許した相手を本気で嫌いになる事なんて滅多に無いよ。ちょっと勇気を出して踏み込んでみれば、あの子達はきっと受け入れてくれる」
「……」
「今回の件で純粋に悪かったのは、うっかり鍵を開けっ放しにしてた私一人だけだよ。あの子達は貴方に自分の事を思い出して欲しかっただけだし、貴方はあの二人が危ない目に遭いそうになってるのを阻止して、二度と同じ事が起こらないように叱っただけ。違う?」
「……違わない」
押し付けるでもなく、教え諭す訳でもないティスの声。事実を淡々と述べていき、シンが思考を整理するのをやんわりと助けてくれた。
目の前の彼女は、見掛けだけなら自分と同じ年齢のように思える。けれど、こうして彼女の話を聞いていると、どうしてもそうは思えなくなってくるから不思議なものだ。
彼女はきっと、自分なんかよりずっと密度の濃い人生を送って来たのだろう。
「……俺は、ヘタレだな」
「うん。ビックリするくらいヘタレだね」
「煩い。見てろよ」
何処か楽しそうに頷いて見せた彼女に向かって小さく笑いつつ、一歩踏み出す。二歩、三歩と淀みなく歩を進め、そのまま彼女の横を通り過ぎた。
「アイツらと話してくる。昼飯、用意しといてくれ」
「うん。ちゃんと四人分用意しておくね」
正直、いざ対面した時はどんな顔をすればいいのかは分からない。どんな言葉を掛ければいいのかもまだ思い浮かんでいない。だが、それでも今すぐにあの二人を探さなくてはならないという気持ちは変わらなかった。
部屋を飛び出し、先ずは気配を窺いながら居住スペースをザッと見回ってみる。戦闘のプロが相手ならともかく、相手は感情を昂ぶらせている子供だ。居住スペースの何処にも姿が見えず、気配も感じ取れないのなら、それはつまり此処には居ないという事なのだろう。
「ち……!」
即座に居住スペースの捜索を打ち切り、聖堂へ向かう。
修道院の周りは森だ。程度の差はあれ、聖堂の地面はいつも湿っているから、双子が外に出たのなら必ず足跡が付く。それさえ見付ければ、容易に追跡出来るだろう。
「……あった」
結果はビンゴ。聖堂から飛び出し、街道方面ではなく森の奥へと向かったらしい。大股で尚且つ深く足跡が刻まれているのは、この道無き道を走って行ったからだろう。
「……ったく、世話の焼けるガキ共だな……!」
自らを鼓舞する意味合いも込めて悪態を吐き。
シンは、綺麗に並んだ二つ分の足跡を追い掛けてゆっくりと走り始めたのだった。
○ ◎ ●
どうすればいいのだろう。
これから、どうすればいいのだろう。
目の前が真っ暗で、動く力が湧いて来ない。周囲の風景に見覚えは無く、自分達が何処からやって来たのかはとっくに分からなくなっていたが、それだってだからどうしたって感じだ。
「……」
お父さんは出て行った。
お母さんは居なくなった。
村の人達が石を投げて来るのは当たり前だったし、つい最近では見知らぬ白い服の人達から当たり前のように殴られたり斬られたり引き回されたりした。
痛いのと苦しいのと寂しい事ばかりが延々と続いていく毎日。お母さんが居た時はまだマシだったけれど、ベッドの上で動かなくなってしまってからはホタルと二人で耐えていかなくてはならなかった。
それでも、少し前まではそんな事全然気にならなかったのだ。二人にとって世界が暗いのは当たり前で、痛いのも苦しいのも寂しいのも二人にとっては日常の一部だったから。
それを変えてしまったのは、“外”からやって来た一人の男の人。
二人に沢山の事を教えてくれて、真っ黒だった世界に色を付けてくれたその人は、けれどもう二人の事を好きではない。
「────ッ」
せっかく様々な色に塗り分けられた世界は、再び真っ黒に戻ってしまった。明るく照らされる事なんてもう二度と無いだろうし、そんな世界を知ってしまった今となっては、前みたいに何も感じないフリをして自分自身を誤魔化すなんて事、絶対に出来っこない。
「……ひっく、っく……」
隣のホタルはずっと泣いている。走っている最中もずっとぐずついていたいたものだから、遂には転んで泥だらけになり、それでとうとう我慢の限界を越えてしまったようだった。
どうにかこうにか起き上がり、その場に座り込む所までは行ったものの、それ以上動く余裕は無いらしい。
大粒の涙をボロボロ零し、お喋りの口からは嗚咽だけを零し、黙りこくったままただただ泣いている。
今までに見た事の無いその反応は、きっと、本気で悲しい証拠なんだろう。
──……ボクが居るよ。
「……」
ひっぱたかれた頬がジンジンと痛む。怒鳴り付けられた言葉が耳の奥でガンガンと木霊する。
さっきから何も考えられなくて、実はこの場所に辿り着くまでの記憶も殆ど無い。本当はホタルと同じように座り込んでしまいたいのだけれど、ヒナギクはお姉ちゃんなのだ。お姉ちゃんはこういう時、しっかりしていなくては駄目なのだ。
──ボクが居るから。
「……」
ホタルは答えない。答えないから、ヒナギクにもどうする事も出来ない。
こういう時、何時も自分はどうしていたのだったか。泣いているホタルを宥めるのは自分の役目だった筈なのに、どうすればいいのか分からない。
どうでもいい。
もう、全部どうでもよくなってしまった。
「……」
「……」
深い、深い森の中。普段であれば枝葉の隙間から日の光が漏れて、光と影が入り乱れて美しい斑模様を織り成すのだろう。
けれど、今は太陽は雲に隠れてしまっている。覆い被さるような木々の枝の所為で、辺りは夕方のように薄暗い。
太陽は嫌いではないが、得意でもない。このような薄闇の中は怖くないし、寧ろ落ち着く。
けれど、あれ、と思った。
肌がピリピリする。背筋がゾクゾクと冷える。シンに嫌われた所為かと思ったけれど、この感覚は何処か違う。
「……え?」
ピタリ、とホタルの嗚咽が止んだ。
ヒナギクと同じものを感じ取ったらしく、目尻に涙を残しながらも不安げな顔をして周囲を見回し始める。
この感覚は何だろう。
この不安は何だろう。
つい最近、これとそっくり同じ感覚を何処かで感じたような気がする。薄暗い小屋の中。村人達なんかでは有り得ない、静かに扉を叩く音。恐る恐る開けた扉の前に立っていた、背の高い黒い人影──
「──こ・ん・に・ち・は?」
「「!?」」
記憶の声が、現実の声と重なった。
弾かれたように振り向き、背後に目を遣れば、其処には記憶の中のあの時と同じ人影が幽霊のようにひっそりと佇んでいた。
「「……ぁ……」」
「二人揃ってお散歩かい? いい気なもんだねぇ」
“白”を纏った黒い影。輪郭しか見えない筈なのに、その口角が吊り上がるのはやけにハッキリと見えた。
忘れていたかった、忘れようとしていた記憶が物凄い勢いでフィードバックし、ついさっきまでは曖昧だった感情が一気に鮮明になる。分かりそうで分からなかったそれが、“恐怖”である事を知ったその時には、既に何もかもが手遅れだった。
「……ああ、あ……!」
知っている。
自分達は、目の前の人物が誰なのかを知っている。
逃げなくては、と思ったのはほんの一瞬。
直後、そいつの足がホタルに向かって大きく振り上げられるのを見た瞬間、ヒナギクの身体は何かを思うよりも先にホタルに向かって飛んでいた。
「あぐ……ッ!?」
ドズン、お腹に爪先が突き刺さった。あまりの衝撃に息が詰まり、その衝撃で宙に浮いた身体は容赦無く地面の上に叩き付けられた。
「ヒナ!?」
驚いたような、それでいて今にも泣き出してしまいそうなホタルの声。遠い所から響いて来るように聞こえたが、取り敢えず元気そうだから上手く突き飛ばす事が出来たのだろう。
「ッ、はッ、ぐ、ゥ……ッ!」
直ぐにでも起き上がり、大丈夫だと伝えたかったが、何故か変な声しか出て来ない。
息が苦しい。お腹が痛い。
叫び出したいのに声も出せないような悪寒が全身に広がっていって、上手く物事を考えられない。
「……ふぅん、仲間を庇うのか。テメェらみたいな糞ッタレでも、そういう真似をするんだな?」
上から降ってくる、声。
汚らしいものでも見たような、不愉快な感情を隠そうともしない声。
ヒナ、ヒナと叫びながら寄ってくるホタルの存在を感じられなかったら、怖くてどうにかなってかもしれない。
「さてと」
どうしよう。
漸く幾らか楽になり、ホタルに助けられながら身体を起こしつつ、ヒナギクは絶望的な思いで考える。
「テメェらの騎士は何処に行った?」
今までコイツらから守ってくれたあの人は、もう二人の傍には居ないのだ。
○ ◎ ●
「……ん?」
ザワリと森が震えたような気がして、シンはずっと下ろしていた目線を上げた。
足跡を追うと一言で言えば非常に簡単そうにおもえたが、実際にやってみるとこれが中々に難しい。森に潜み山を駆ける本職のハンターであれば朝飯前で済んだのかもしれないが、そういう知識どころか常識ですらも所々怪しいシンにとっては、非常にキツい課題だった。
足跡を目で追いながら小走りに駆け、見失ったらその場で立ち止まって周囲を捜索してみる。素人のシンには只でさえ見えにくいのに、運悪く雲が出て来て森の中は薄暗い。
自分でももどかしくなるくらいに追跡は遅々としか進まず、正直、何度直感に頼ってしまおうかと思ってしまったか分からないくらいだ。
初めは、早くも集中力が切れたのかと思った。実は自分は驚異的な飽き性で、あれだけ大きな事を言っておきながら早くも面倒臭くなってしまったのではないかと。
けれど一度目は気の所為で片付けたものも、二度続けば何か引っ掛かる。二度続いたものが三度続けば、疑念は大きくなる。
普段は何だかんだで修道院から離れる事は無く、こんな森の奥深くまで入った経験は無い。最初は自分が知らないだけで、森の中とはこういうものなのかと思っていたのだが、やはり何かが違う気がする。
「……」
さっきから静かなのだ。静か過ぎると言ってもいい。
鳥の声も獣の気配も無く、辺りはしんと静まり返っている。森全体が息を潜めて、何かが通り過ぎていくのを待っているようだった。
「……アイツら、じゃねぇよな……?」
祈るような考えは、直ぐさま自分で否定した。あの二人は森が息を潜めるような、悪意も殺気も持ち合わせてはいない。
しかし、だとするなら何だと言うのか。仮に凶悪な“何か”入り込んだとして、今、この森にはあの双子も居る筈なのだ。
あの二人が、シンより先にその“何か”に出会ってしまったとしたら。シンがこうしている間にも、あの二人が危険な目に遭っているのだとしたら──
「ち……ッ」
瞼の裏に生々しい光景が広がり、思わず目を閉じて首を縮める。
我ながら嫌な想像をしてしまったものだ。光景は目の裏にしっかりと灼き付いてしまったし、二人の悲鳴は幻聴の分際でいやに切実に耳の奥に残ってしまった。
早鐘のようになっている心臓の音に被さって来るように、その悲鳴は何度も何度も繰り返されて薄れて行く事を知らない。
「……!?」
いや待て。
この悲鳴、幻聴じゃない。
ざわざわと木々を揺らす風に乗って、聞き覚えのある声が微かに聞こえて来る。何と言っているのかは分からないが、それでも、何か尋常でない事が起こっているのだけはハッキリと理解出来た。
「ヒナ、ホタル……!!」
気が付けば。
声が聞こえて来た方角を目指して、シンは勢い良く走り出していた。
○ ◎ ●
人が人を殴る音というのは、思ったよりも嫌な音を立てるものなんだなと思った。
何度も張られた頬は熱く引き攣れ、ジンジンと疼くような感覚が張り付いている。殴り付けられたお腹は痛いと言うより苦しいし、うつ伏せに倒れた背中は踏み付けられる度に、呼吸が止まるような鈍痛が全身を突き抜けた。
「──少し……過ぎ……あり……せんか?」
「──はぁ? ……モノを庇……ってのか、……ェ?」
「──生かし……えよという……指令……ですが」
「──殺さな……いい……ろ、殺……ければ……」
朦朧とした意識の中で、聞こえて来る声は遠くから。あれからどれだけ殴られたり蹴られたりしたのか、今となっては思い出せない。そもそも思い出したくないし、出来るなら無かった事として忘れ去ってしまいたい。
ただ、開いたままの両目から勝手に入って来る光景。髪の生え際から血を流し、耐えるようにギュッと目を閉じて身体を丸めているホタルの姿は、ヒナギクの心をどうしようもなく掻き乱した。
たった一人の妹なのに、守らなくてはいけなかったのに、結局そうする事が出来なかった。ヒナ、ヒナと泣いたような声で呼び掛けて来た彼女を、“白服”はうぜぇと口汚く罵り、彼女をボールか何かの思い切り蹴飛ばしたりした。
そういう時こそ動かなければならなかったのに、そういう時こそ守らなくてはいけなかったのに。ヒナギクの小さな身体では大事なものを庇う事すら出来ないのだ。
「──さてと、待たせたなぁ?」
上から、声が降ってくる。さっきまであんなに遠かったのが、いつの間にかすぐ近くまで近付いて来ていたので、思わずギクリとしてしまう。
「邪魔者はもう居なくなったぜ。ったく、たかだか十発かそこら殴っただけでお前らが死んだりするかってんだ。なぁ?」
「……」
「ダンマリか? はは、自分でも分かってるから答えられないんだろ? なぁ──」
何となく、次に来る言葉は予想出来てしまった。
昔から散々言われ続けて、とうの昔に慣れてしまった言葉。常に自分達に付き纏い、いつしか自然に受け入れていた代名詞。
「“化け物”」
「……」
「……」
思っていたよりずっと嫌な感じがしたのは、自分でも少し意外だった。
慣れたと思っていたのに、実際に前までは似たような事を言われても平気だったのに、一体どうしたんだろう。
──化け物ぉ? お前ら、それの意味をちゃんと分かって言ってるんだろうな?
「──ちがう……」
不意に、隣から声が聞こえた。
「“バケモノ”なんかじゃない……!」
ホタルだった。あれだけ殴ったり蹴ったりされた筈なのに、今だって身体に力が入らない筈なのに、怒った顔をして白服の男を睨み上げていた。
「ボクたちは、“バケモノ”なんかじゃない……!」
──お前らが“何”なのか、“どう”在るのか。お前ら自身が決める事だろ。他人にそう言われたからそうなんだってのは、何か違うんじゃねぇか?
「……はぁ?」
白服の声から、へらへらした笑いが吹き飛んだ。
上から押し付けるようなその声は、今までのような虐めるような嫌らしさが無い代わりに、底冷えするような冷たさに染まっていた。
「訳分かんねぇこと言ってんじゃねぇぞ。化け物は化け物だろうが。一丁前に被害者面してんじゃねぇぞ」
「ちがう……ちがう!!」
潰されそうな圧力にも、切れてしまいそうな殺気にも、ホタルは決して屈さない。むしろそれに真っ向から対抗するような勢いで、顔を真っ赤にして必死に言い返している。
村に居た時から、彼女はそうだった。
痛いのと苦しいのが延々と続く毎日の中、何時からかすっかり諦めてしまったヒナギクが感情の波を捨ててしまったその隣で、ホタルは何時までも痛い苦しいと言って泣いていた。自分の中の感情と向き合って、それから逃げるような真似をしなかった。
「シンがいってくれたんだ! ボクたちはバケモノなんかじゃないって! わらったっていいんだって!」
ホタルは、どうしてこんなに強いんだろう。どうしてあんな事が言えるんだろう。
彼女はシンに嫌われてしまった今でも、シンに言われた事をしっかり守ってるのだ。
そうだ。そうだった。
諦めてしまっていたヒナギクに、シンは言ってくれたのだ。お前達は化け物なんかじゃないんだって、ハッキリと言ってくれたのだ。
あんなに嬉しかったのに。
今でも鮮明に覚えているのに。
どうして忘れていたんだろう。
「──ぁ……」
トクン、と胸の内で心臓が跳ねる。シンに張られた頬がじんじんと熱い。
シンの怒った顔。叩かれた時の感触。シンに叩かれたのは初めてで、思わず嫌われてしまったのだと思った。
でも、本当にそうだったんだろうか。
シンは本当に、ヒナギク達の事を嫌いになったんだろうか。
「ボクはボクをバケモノなんておもわない! オマエが、オマエたちのほうがずっとずっとバケモノだ!」
だって、だって。
シンは確かにヒナギクやホタルの事を叩いたけれど、他の奴らみたいに黒く濁った感情は伝わって来なかったではないか。
「黙れ」
白服の声の温度が、何の前触れもなく急激に下がったのを感じた。
何かを考える間も無く身体が動き、ホタルに向かって飛び掛かっていく。ずどん、と凄まじい衝撃が横腹に叩き込まれたのは、その直後の事だった。
「黙れ。黙れ。黙れ。黙れ」
身体の中の空気を強制的に吐き出させられてしまい、痛いのと同時に苦しくなる。標的がホタルでなくとも、白服にはあまり関係無いようだった。うつ伏せに倒れ込む形になったヒナギクの頭に、肩に、背中に、白服の靴が降り注いで来る。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレダマレ──」
舌を噛まないように歯を喰い縛り、少しでも痛くないように頭を手で守り、身体を丸める。
殴られるのも蹴られるのも日常茶飯事だった。熱いお湯を掛けられた事もあるし、頭に大きな石をぶつけられた事だって一度や二度じゃない。
けれどその中のどれを取っても、目の前の人影が振るう暴力の前には遠く及ばない。
振るわれる一撃一撃の中に籠もっている悪意、害意、殺意。
彼は双子の事が憎いんじゃなくて、双子の事を心の底から殺したいのだ。
「化け物が化け物が化け物が屑のクセに滓のクセに塵の分際で。殺してやる。引き裂いてやる。原型を留めないくらいにバラバラに引き裂いて殺してやる──」
泣いているようなホタルの叫び声の中でも、相手がブツブツと紡ぐ譫言のような声はハッキリと聞こえた。喋っているのに相手の意志を全く感じないその声は、聞いているだけで背中を冷たい感覚がぞわぞわと這い上がって来るようだった。
「……ッ!」
死ぬ。このままだと、間違い無く自分は死ぬ。
いっそ死んでしまいたいと思った事は何度もあって、けれど結局一度も死ぬ事は無くて、そしてその度に落胆していた。
何にも感じる事が無いのなら、痛いのも苦しいのも無いのなら、どうして自分は死ねなかったのだろうと思った。毎日毎日が灰色で、皆から嫌われているのは当たり前で、自分達はどうして生きているのかさっぱり分からなかった。
やっと、死ぬ事が出来る。痛いのも苦しいのも辛いのも淋しいのも、漸く無くなる。
あの村に居た頃のヒナギクだったら、今みたいな状況でもそんな風に考える事が出来たのだろうか。
「──ぅぅ……ッ!!」
今は、出来ない。
出来る筈がない。
シンは言ってくれたのだ。ヒナギク達二人は化け物ではないのだと。
シンは教えてくれたのだ。この世界には痛みや苦しみ以外のモノも存在するのだと。
ヒナギクやホタルにとって当たり前だった事を、シンは当たり前な顔をして打ち崩した。誰からも呼ばれる事無く、ただ其処に在っただけの二人に、シンは名前を贈ってくれた。
「──ううう……ッ!!」
胸の内から湧き上がってくる強烈な衝動は言葉にならない。発露したいのにどんな形にすればいいのか分からず、言葉に出来ないから自分でもよく分からない唸り声しか出て来ない。
髪を掴まれ、強引に身体を引き起こされた。金属の擦れる特有の音がしたかと思うと、視界の端に銀色の影がちらほらと映る。刃物の類だと直感で感じ取るのと、昏い喜びに満ちた声がボソリと紡がれたのは殆ど同時の事だった。
「死ねよ、化け物」
「────あ……ッ!!!」
イヤだ。
死にたくない。
生きたい。
生きていたい。
「────ぁあぁあぁぁぁぁぁあああぁぁあああぁぁああぁあぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁ……ッ!!!」
喉が潰れてしまいそうな絶叫は、溢れんばかりの生への渇望だった。
突きつけられた死から身を捩るように、取り上げられた生に向かって手を伸ばすように、ヒナギクは滅多に出さない声を振り絞って叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
生きたい。
生きて、生きて、最後の瞬間まで生き抜きたい。
願いを途切らせない事だけがヒナギクに唯一出来る事で、だからヒナギクは叫び続けた。
相手が煩わしそうに舌打ちし、無造作に手の中の刃物を思い切り振り上げるのを見て思わずギュッと目を閉じてしまっても、渇望は声となって迸り続けた。
「──おい」
そして。
「──そいつを、離せ」
轟、と風が駆け抜けて行くのを感じた。
○ ◎ ●
もうダメだと思った。
何度も踏みつけられたヒナギクはボロボロで、明らかに自分で動ける状態ではない。ならばホタルが割って入るしかないのに、肝心な時にこの身体は凍ったように固まって動く事が出来なかった。
カミサマなんて大嫌いだ。
止めてと声を張り上げながら、顔も見た事の無い誰かを恨む。
カミサマなんて大嫌いだ。ボク達が一体何をしたって言うんだろう。ただ生まれて来て、静かに暮らして来ただけなのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。
ヒナギクが死んでしまう。殺されてしまう。なのに自分は、黙って見ている事しか出来ないのだ。
「────ッ!」
声が出ない。何時もの半分以下だ。一生懸命、無我夢中でやっているのに、それでも全然出て来ない。
でも、だからだろうか。ふと、周囲の様子がおかしい事に気が付いた。
「……え?」
森から音が消えている。
森全体が息を潜めている。
遠くからやって来る“何か”の気配。まるでその存在を恐れるかのように、その場の三人を除く全てのモノが、必死で気配を殺している。
「じゃあな、化け物」
白服の男がそんな事を言った、正にその瞬間。
轟、と吼えるような音を立てながら、黒い風が横合いから通り過ぎていった。仄かに紅い光の軌跡が、ブレードを振り上げた男の辺りでクルクルと舞い踊ったのが一瞬だけ見えたような気がした。
「あ……?」
呆けたような男の声。さっきまでの強気な態度が嘘みたいに、ポカンとした顔で自分の腕を見下ろしている。ホタルだって同じものを見た時には似たような心境になってしまった。
男のブレード。というか、それを含む肘から先の男の腕。一体何処に行ってしまったんだろう。無くなった所から、思い出したように赤い液体が噴き出し始めたのは、直後の事だった。
「……ぁ……」
「あ、あれ? 俺の手……」
其処まで言いかけた所で、男の声は其処で途切れてしまう。
低い唸り声のような獰猛な気配を押さえ込んだ声が、それを遮ったからだ。
「ガキの前だ。命までは勘弁しといてやる」
黒い服を纏った背中。空気が雷を纏っているみたいにバチバチと爆ぜているのは、それが強烈な雰囲気を放っていたからだろう。
ホタルやヒナギクに向けられたものではないけれど、それでも今までの中で一番怖くて、ハッと我に返って震え上がってしまったくらいだった。
「失せろ」
ひゅおん、と聞いているだけで寒くなるような風斬り音。
手に持っていた長い刀をクルリと回して持ち直し、もう片方の手の中に持っていた鞘の中に納めてしまう。
チン、と森の中に響き渡った涼やかな音。まるでその音を待っていたかのように、片腕を失くして放心していた男に変化が起こった。
「が……ッ!?」
ボン、とその身体が赤くなって弾けて、倒れる。多分、ホタルにも見えなかったあの一瞬で刻み付けられた傷が、一斉に開いたんだと思う。
こういう光景は何度も何度も見てきた。酷い時には全部バラバラになっていた事もあったし、これはまだ全然マシな方だ。
「シン……」
思わず呟いたその声は、自分で自分のものだと分からないくらいに掠れていた。
シンは弾かれたように振り返った。振り返って、早足で歩み寄って来った。ついさっき、思い切り突き飛ばされて怒鳴られた事を思い出して反射的に身を竦めてしまったが、シンはそんな事お構い無しだった。
「ホタル……!」
あれ。
え、何。そんな。嘘。
カミサマ。ああ、カミサマ。大嫌いだなんて言ってごめんなさい。本当は好きです。大好きです。
だって、抱き締められている。シンにギュッとされちゃっている。
まるで此処に居る事を確かめるかのようにギュウギュウと抱き締められて少し苦しかったけれど、そんな些細な事はどうでもいい。
「怪我は」
「えぅ!?」
「怪我は無いかって聞いてるんだ」
怒っているような声だったのに、少し前と違って全然怖くないのはどうしてだろう。
あれよあれよという怪我の具合を確かめられて、其処で一旦解放されてしまった。
物足りなく感じて不満を訴える暇も無く、気が付いたら黒い服の背中は、赤いぐずぐずになった白服の近くに倒れているヒナギクの所に移動していた。
ヒナ。そうだ、ヒナは。
ボンヤリしてしまっていた自分に腹を立てながらシンの背中を追い掛けると、ヒナギクは辛そうにぐったりとしていたが、それでも薄目を開けてシンの顔を見つめていた。
「ヒナギク」
怒っているようなその声は、ホタルの時とあまり変わらない。だが、さっき白服に向けて放った言葉と比べると、吃驚するくらいに全然違う。
“敵”とみなした相手に向ける声。獰猛な獣が低く唸っているようにも聞こえる声。
シンの刀を触って嫌われたんなら、ホタル達もあの時こういう声を浴びせられた筈である。あの時のシンの声はもっと“普通”で、単純にいつもの声を大きくしただけといった感じだった。強いて付け加えるなら、いつもよりちょっと余裕が無かったかもしれない。
「俺の言ってる事が分かるか。何処か特別に痛かったり、気持ち悪かったりする所は。ああくそ、もういい。喋るな。とにかく、急いで修道院へ……!」
余裕が無いと言えば、今のシンの様子も何だか変だ。叫んだり怒鳴ったりしない代わりに傷の具合を調べる手際が物凄くテキパキしていて、それを見極める目付きも怖いくらいに真剣だ。
そうかと思えば、ヒナを抱き起こす手付きはビックリするくらいにおっかなびっくりだったりする。
声と表情と手付きが全部バラバラで、全然、いつものシンらしくない。ホタルの中のシンは何でも出来てどんな事にも動じない人物なので、何だか凄く意外な感じだった。
「ホタル」
「!」
いきなり名前を呼ばれて、思わず飛び上がってしまった。意外な感じ、とか思っていた事がバレてしまったのではないかと思ったのだ。
「歩けそうか? 頭が痛いとか、吐き気がするとか、そういうのは無いか?」
「あ、うん。ボクならへいき」
「そうか。なら……」
ヒナギクの身体をお姫様みたいに抱っこしながら、ゆっくりと立ち上がるシンだったが、不意に困ったように口ごもった。その目はヒナギクの代わりに地面に投げ出されていた黒い刀に向けられていて、それでホタルには大体分かってしまった。
「ボク、もとうか?」
「あ、いや……」
「かってにさわったりしないし、ふりまわしたりしない。シンにいわれたとおりにもつよ。それならいいでしょ?」
この刀はシンにとって大切なものだ。それに、この刀を使ってさっきの白服をやっつけたシンは、記憶を失う前のシンみたいだった。
この刀を失くしたり誰かに取られたりしてしまうのは、ホタルにとっても困る事態だ。きっと、ヒナギクもホタルと同じ立場だったら同じ事をしていたに違いない。
「……片方の手で柄を抑えて、もう片方の手で鞘の鯉口を抑えるように持て。キツくなってきたら引き摺ってもいいが、絶対に柄を下にするな。基本握るのは鞘の鯉口、柄は常に上に向けておけ」
「つか? こいくち?」
「柄ってのは持つ所だ。鯉口ってのは鞘の……ああ、もういい。後で取りに来るからその辺に置い……」
「あ、わかった。こうだね?」
要は、刀の“牙”を出さないようにすればいいのだ。持つ所(『つか』というらしい)と“牙”を隠すヤツ(『さや』というらしい)をそれぞれ抑えて、“牙”が出て来ないように気を付ければいい。
「これでいいんだよね?」
「……。ああ、それでいい」
口を開き掛けていたシンだったけれど、やがてゆっくりと口を閉じてコクリと頷いてくれた。
踵を返し、修道院に向かって歩き始めた彼を追い掛けて、ホタルもその場から歩き始める。持たせてくれた刀は重いし、殴られたり蹴られたりした所はズキズキするけれど、そういうのは結構慣れっこだ。
何も言わないシンの後ろを、足跡をなぞるようにてくてくと歩く。来る時はただひたすら悲しかったのに、今は胸に暖かい風が吹いているみたいだった。
「……あ」
「どうした?」
鞘のお尻を引き摺るように持っていた刀を見て、一つ思い付いた事がある。
ホタルの声に素早く反応し、シンは此方を振り向いていた。遅れないように足は止めないまま、ホタルは彼の顔をジッと見上げる。
「コレ、かってにさわってごめんなさい。むかえにきてくれて、ありがとう」
本当はヒナギクと一緒に言うべきなんだろうけど、どうしても我慢出来なかったのだ。
もう駄目だと思っていたのに、心の何処かでは諦め掛けていたのに、シンは当然のように来てくれた。二人を、当たり前のように護ってくれた。
暖かい気持ちをそのままに、溢れそうな気持ちをそのままストレートに伝えてみる。
いつもみたいな怒った感じで返されるんだろうなと思っていたけれど、実際のシンの反応はちょっと違った。
「……」
バッと、物凄い勢いで前を向いてしまった。歩くスピードが一瞬だけ速くなり、ホタルは開いた距離を埋める為に小走りにならなくてはならなかった。
「……馬鹿野郎……」
シンの声が聞こえた気がした。
それは今にも泣き出しそうで、でもシンはホタル達と違って大人だから、きっと聞き間違いだろうと思った。
○ ◎ ●
扉を開くには、少し勇気が必要だった。
ドアノブに伸ばしかけていた手を引っ込め、一旦其処で深呼吸。その途中でマナーというやつを思い出して、無表情で通せんぼしているドアを軽く何度か小突いてやった。
『はい?』
中から聞こえて来たのはティスの声。いつも通りののんびりした声に、知らず知らずの内にホッとしていた。
「俺だ」
『鍵なんか掛けてないよ? どうぞ、入って来て』
「……」
これで後には退けなくなった。
ドアノブを掴んで回し、押し開きながら室内に身体を滑り込ませる。いつもは特に意識せずに行っている作業なのに、今日に限ってはドアも身体もやけに重く感じた。
ティスは不自然に思っただろうか。此方を振り返らなかったという事は、きっと、多分、気が付いていないのだろう。
「容態は?」
ベッドの脇に置いた椅子に座っていた彼女の背中に声を掛ければ、彼女は何処か笑いを含んだ声と共に答えて来る。
「変わらずだよ。シンったら今日はそればっかり」
振り返った彼女はいつも通り。ふわふわした微笑も、こんな時にはとても頼もしく見えるものである。
それでも自分の目で確かめてみない事には気が済まなくて、彼女の身体の向こう、ベッドの上を覗き見る。
特に苦しんだりうなされたりしている様子は無く、彼女達は穏やかに寝息を立てていた。
「ヒナギクは言うまでも無いし、ホタルも見た目以上に体力を消費してたみたい。でもまぁ、二人共大事にはなってなかったから。このまま休ませてあげれば、きっと直ぐに良くなると思う」
「……そうか」
森の中で見つけた時は、心臓が止まるかと思ったものだが。二人の寝顔はどう見ても安らかで、今度こそ本当に張り詰めていた気が緩んだ。
小さく息を吐きながらベッドの脇に寄り、手前側に寝ていたヒナギクの頬を指の甲でそっと撫でる。彼女は僅かに指に頬を寄せるような仕草を見せたような気がしたが、二人共起きている様子は無いから、きっと偶然なのだろう。
「それにしても、二人共見掛けに依らずタフだよねぇ。もう一回“ズル”しなくちゃいけないかと思ったのに、いざ診てみれば傷はせいぜい痣と切り傷だけで、骨折とか打撲とか、重傷らしい重傷なんて殆ど無かったもの」
「……“ズル”?」
「それは内緒」
昼間も、似たような事を言っていた気がする。悪戯っぽく笑う彼女の様子からするとどうやらその内容を話してくれる気は無いらしかったが、だからと言って無理に聞き出そうという気にはなれなかった。
「……すまないな。全部任せてしまって」
「んーん。気にする事じゃないよ」
時刻は、既に夕刻だった。
傷付いた二人を修道院に運び込んでから、既にそれだけの時間が経過していた。
二人の様子を見た時は流石のティスも驚いていたが、つい先日、男を一人介抱したばかりで感覚を覚えていたらしい。
ティスに任せきりだったシンはその様子を殆ど見る事が出来なかったが、双子を前にした時の彼女の行動の速さを見る限りでは何となく経験者の余裕が感じられた。
「──それじゃあ、そろそろ話して貰ってもいいかな?」
不意に、ティスはそんな事を言った。
首どころか身体全体で此方に向き直ると、彼女は此方の顔を見上げて来る。
「森で何があったの? あの傷、明らかに誰かから付けられたものだよね」
「……。何があったのかと言われたら、俺にも詳しい事は分からないんだが……」
双子が修道院に居なかったので森の中へ入っていった事。やがてその中で只ならぬ気配を感じ取った事。漸く見つけたと思ったら、見慣れない人影が双子に暴力を振るっていた事。
上手く説明出来た自信は無かったが、ティスは黙って耳を傾けていた。
「……悲鳴が聞こえて来た時点でヤバいと思った。それを頼りにあの場所に辿り着いて、コイツらと刃物を突き付けている男を見つけた」
「その男の人は?」
「斬った」
手元に返って来て以来、異常なくらいに手に馴染んでいるそれを彼女の前に掲げてみせる。
長大な刀身を持つ、漆黒の東洋製の剣。一般的に“倭刀”と呼ばれているというのは、持ち歩いている内に思い出した事である。
「悠長に声を掛ける時間なんて無かったからな」
「……」
「……。いや、殺してはいないぞ。少し派手目に斬り刻んでやっただけだ」
斬ったというシンの回答を聞いてから、ティスの沈黙が少し重くなった。目に見える変化があった訳ではないが、何と言うか、気配の変化みたいなものだろうか。
この期に及んで暴力はいけない等と言い出すつもりかと、少し鬱陶しく思いながら身構える。
「……そっか」
けれど彼女の反応は、そんなシンの予想とは全く違うものだった。
「まぁ、そういう場合は仕方無いよね。お疲れ様」
「……」
「? どうしたの?」
「いや、まぁその、何だ。予想していた反応と違っていたもんでな」
「予想? ……ああ、ひょっとして暴力はダメですよ~、とか言われると思った?」
「まぁ、そんな所だ」
「あはは。流石に私だって其処まで空気を読まない子じゃないよ?」
シンの様子がおかしかったのだろうか、彼女は少しだけいつもの調子を取り戻した。
顔を背けて双子の寝顔を眺めつつ、何でもないような調子で言葉を続ける。
「この世には、どうしても暴力が必要な場面があるって事くらい、私だって知ってる」
「……」
何だろう。
今の一瞬、目の前に見知らぬ女が居た。
咄嗟に反応出来ずに黙っていると、やがて彼女はゆるりと視線を戻して来る。その顔にうかんでいる微笑は、既にシンの知っているものに戻っていた。
「それで、どうなったの?」
「ん。ああ……」
下手に突っつかない方がいいだろう。
咄嗟にそう判断し、促されるままに先を続ける事にする。
さて、さっきは一体何処まで話したんだったか。
「まぁ、後はお前にも想像が付くだろ。傷付いたコイツらを連れて此処まで急いで帰って来た。それだけだ」
「なるほど……この子達が攫われた理由とかは?」
「そんな事悠長に聞く時間なんてあるか。一歩遅ければコイツは殺されていたかもしれないんだぞ?」
「そっか。そうだよね」
とは言え、確かにシンも配慮が足りなかったかもしれない。
この双子が攫われた理由。飽くまでも可能性の話だが、ひょっとしたらシンの過去にも関わりがあったかもしれないではないか。
シンは双子を連れて何処かからやって来た。ティスに発見された時は、大掛かりな戦闘の痕跡を身体に刻んで力尽き掛けていたという。
もし、シンが双子を連れて何かから逃げている最中だったとしたら? 更に言えば、逃げる双子を守る為の旅だったと考えるとどうだろう。
ひょっとして今日の事件は、シンが思っていた以上に重要で深刻なものだったのではないだろうか。
「……まぁ、いいか」
物思いを突き破り、気が付けばそんな言葉が勝手に口から滑り出ていた。
ティスが微かに首を傾げて不思議そうな顔をするのが見えたが、聞いて来なかったので此方もわざわざ説明したりせず、代わりにベッドの上の双子に目を遣った。
コイツらが生きていた。無傷という訳ではなかったが、とにかく大事には至らなかった。
それだけで、今のシンは不思議と満足だった。少なくともあの時の選択に、後悔は無い。
「そう言えば、シンは二人の事を許してあげたの?」
「あ?」
先程と同じく唐突に、ティスが横合いから変な事を言い出した。
「手当ての間、二人共凄く気にしてたから。元気になったらシンに謝るって、そればっかり言ってたよ」
「そんな事言ってたのか?」
「うん」
正直な話、寝耳に水の思いだった。
あれだけ派手に怒鳴りつけ、更には殴って突き飛ばしたのだ。謝られるどころか恐がられ、これからはもっと距離を取られるかもしれないとすら思っていたのだが。
「二人にとってはそっちの方が怪我なんかよりよっぽど重要みたい。どうすれば許してくれるかなって、最後は何だか作戦会議みたくなっちゃってたけど」
けほん、と控え目な咳払いが聞こえた。
見れば、比較的怪我の軽いホタルがゴソゴソと寝返りを打っているのが見えた。
「……怒られちゃった」
クスクスと悪戯っぽく笑いながら、ティス。
咳払いして寝返りを打っただけで、何をどう解釈したら怒られたとなるのか分からない。
というか、二人は寝ているんじゃないのか。
双子の方に視線を向けるが、ホタルは此方に背中を向けていたし、ヒナギクは何時の間にか毛布を顔まで引っ張り上げていたので、様子を窺う事は出来なかった。
「まぁとにかく、二人はとても反省してるみたいだよ。目を覚ましたら、一回お話してあげたら?」
「……」
ホタルを突き飛ばし、ヒナギクの頬を張った感触を思い出す。
あの時はとにかく衝動的に身体が動き、思考が置いてけぼりになっていた。
だが、何度でも言えるがあの時の行動は間違っちゃいない。もしも同じような場面に出くわしたとしたら、きっとシンはもう一度同じような行動を取るだろう。
「……謝らなくって、いい。別に、刀だって触りたければ好きなだけさわりゃあいいんだ」
「え?」
今なら分かる。あの衝動の正体が。
己自身に再確認するように言葉を紡げば、ティスは少し驚いたらしかった。
答える代わりに自らが持っていた倭刀に目を落とせば、それに釣られたように彼女もまた視線を移す。親指で鍔を押し上げて刀身を抜き出すと、僅かばかり顔を覗かせた仄紅い刀身が、夕日の光を反射して強い光を放った。
「見たら大体分かるだろ?」
思わずといった調子で息を呑んだ彼女の反応を確認しつつ、鍔を押し上げていた親指を外す。
小さくも涼やかな鍔鳴りの音は、静かだった室内の中で妙に大きく響いた。
「よく斬れるんだ、コイツは。持ち手が未熟でコイツに振り回されたら、不幸な事故だって起こり得る」
彼女がほぅっと息を吐いたのは、きっと安堵したからだろう。
多くの命を奪って来た得物は、纏う雰囲気からして何処か異質だ。この倭刀もまた、それらの内の一つであるのは間違い無い。
そして今日、コイツはまた一つ、命を絶ち斬っていたかもしれなかった。
もしもシンが室内に入るのがもう少し遅ければ、コイツはホタルの頭をカチ割り、あの物置部屋に彼女の血と命を播き散らしていたかもしれない。
運が良かった。
逆に言えば、運が良かっただけだった。
あんな光景、もう二度と見たくは無い。彼女達があんな過ちを犯さなくなるなら、殴って嫌われる程度など安いものだ。
「正しく扱えるなら、好きなだけ触ればいい。だが、そうでないなら俺はコレに触る事を絶対に許さん。何度だって止めに入るし、場合によっちゃ容赦無く殴るだろうな」
「……例え、二人に嫌われてちゃっても?」
「コイツらが死ぬよか遥かにマシだ」
「そっか」
シンの内心を、ティスが完全に理解してくれたかどうかは分からない。そもそも理解して貰おうとも思っていない。
記憶を失くす前のシンにとって、二人はとても大事な存在だったのだろう。
いや、今も二人はシンにとって大事な存在だ。その理由が思い出せないだけで、シンの感情はそう言っている。
ならば、守るだけだ。過去に何があったかは知らないが、シンのやる事に代わりは無い。
「……ふふ」
「何だよ?」
「いや、ごめんね? ただ、シンが思ってた通りの人で良かったと思って」
「はぁ?」
ティスの声は、何故だか勝手に嬉しそうだった。聞き返したシンの言葉には答えず、んーっ、と一息吐くように大きく伸びをする。豊かに突き出た胸が自己主張し、それでいて比較的生地の薄い服を着ているから、削いだように細いウエストまでが副次的に強調されてしまっている。
(無防備な奴め……)
「あれ? どうかした?」
「いや何でも」
仮に指摘しても、相手に自覚が無いから結果的に無意味になる事は分かりきっていた。用事も済んだし、会話が変な方向へ流れる前に部屋から退散するのが得策だろう。
「じゃあな。とにかく、そいつらが無事で良かった」
「うん。私ももう少ししたら下に降りるよ。結局お昼は抜きになっちゃったし、今日の夕飯は早めに取ろうね」
「そうしてくれ」
くるりと踵を返し、振り返らないままヒラヒラと手を振って答える。部屋の外に出て、後ろ手に扉を閉めた所で、ドッと疲れが押し寄せて来るのを感じた。
「……はー……」
音を立てないように扉にもたれかかりながら、小さく溜め息。
双子が無事だと分かって安堵したのか、何時二人が目を覚ますかもしれないと緊張していたのか。
言うまでもなく両方だ。あの二人が眠っていてくれて、ある意味に於いては本当に助かった。
「……でも、まぁ……」
何時までもそんな事は言ってられない。大事無かったという事は、直ぐにでも目を覚ますという事。これまで通りという訳にはいかないだろうし、それまでにシンも覚悟を決めておかなければならないだろう。
「話さないとな……」
第一声は、何にしよう。
目を覚まして以降にぶつかった初めての難問に首を捻りつつ、シンは扉から身を離し、階下に向けて歩き出したのだった。
○ ◎ ●
パタン、と扉の閉まる音。
扉の前から気配が去っていくのを確認してから、ティスはベッドの方へ視線を戻す。
「……行ったみたいだよ?」
「……」
「……」
「あれ。どうしたの?」
──ガバッ。
「ぜったいいわないでっていったのに!」
「あはは、ごめんごめん。でも、私の言った通りだったでしょ?」
「あぅっ!?」
「怖がらなくたっていいんだよ。シンは二人の事、とても大事に思ってるんだから」
「うぅぅ……」
夕日の差し込むとある一室。自分が出て行ったその後で、女だけの会話があった事を、シンは知らない。