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APOSTATE  作者: 原醍鼓
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01.『見知らぬ天井』

 見渡す限りが灰色だった。

 途切れの見当たらない一面の雲に覆われた空も、それの所為で太陽の光が届かなくなった地表も、みんな、みんな、灰色だった。

 空からチラチラと舞っているのは灰だろうか。地表はやたら凸凹していて平坦でないのは、ひょっとしたらその灰が降り積もった影響なのかもしれない。

 人の形をしていたり、剣の形に似ていたりと、形のバリエーションに富んでいるそれらの間からはところどころ黒い煙が上がっていて、まるで戦場の跡のようである。

 軽く触れれば、灰の隆起はそれだけで簡単に砕ける。剣も人も皆等しく、触れた先からボロボロと崩れ去っていく。崩れた後には何も残らず、まるで灰色の砂が敷き詰められたような、平らな地表が残るだけだ。

 一歩、また一歩と気紛れに歩を進めれば、灰のオブジェクトはどんどん崩れ、結果として物々しい戦場の中に寒々しい荒野が広がっていく。巻き上げられた灰はしつこく纏わり付いてきて、まるで意志でも持っているかのようである。

 ブスブスと音を立てている煙が、不意に風に流されたのはその時だ。特に脆い灰がオブジェから強制的に引き剥がされ、ざぁっと悲鳴のような音を立てながら宙を舞った。

 灰が目に入るのを嫌って目を閉じれば、ふと誰かに見られているような気配を感じた。

 疑問に思い、自分が足跡を残してきた背後を振り返る。


「────!」


 そして、見た。


○ ◎ ●


 真っ暗だった。

 思考も自我も何もかも溶けてしまうような、深い、深い深淵の中。

 ともすればそのまま闇の中へ消えていってしまう所だった意識を刺激し、その存在を認識させてくれたのは、何処か遠くから聞こえて来た優しげな旋律のお陰だった。

「……?」

 歌が聞こえる。

 知らない声だ。

 聴いた事の無い旋律だったが、優しげな声で紡がれるそれは自然と意識が吸い寄せられる。まるでその歌声に惹かれるみたいに、微睡んでいた意識が段々と浮上していくのを感じた。

「……」

 目を開く。

 最初に視界に入って来たのは、皹一つ、染み一つ無い真っ白な天井だった。真っ先に連想したのは病室だったが、それにしては薬品の匂いが一切無い。

「おお?」

 此処は、と口に出したつもりの疑問は、そもそもちゃんとした声になっていなかった。

 けれど、直後に耳に心地良かった歌声が止まり、次いでパタパタと誰かが近付いて来る気配がした。

「やぁ、おはよう?」

 ややあって、誰かが顔を覗き込んで来た。

 蒼い夜空を思わせる、薄く光を灯しているようにすら見える澄んだ蒼眼。まるで木漏れ日で織ったような、柔らかくて長い金色の髪がさらりと揺れる。

 クリーム色をした肩開き式のカーディガンによって剥き出しになっている華奢な肩は、まるで白磁のよう。小首を傾げて、ささやかな嬉しい発見をしたかのような微笑を浮かべているその容貌は、名のある匠が丹精込めて産み出した人形を思わせる程に整っている。

 女だった。まだ若い。

「ぁ……」

「……? おーい。大丈夫ですかー?」

 人とは思えない。実は自分はとっくに死んでいて、天使か、それ的な何かが迎えに来たのだろうか?

 我ながら陳腐な思考だったし、気力と体力が充実していたなら猛烈に恥ずかしがっていただろう。

 だが、一瞬でもそんな事を考えてしまったのは紛れも無い事実だった。

「ひょっとして、まだ少しボーっとしてる?」

 反応が無い事を訝しんだのだろうか。優しい微笑を浮かべたまま、彼女は何でもないように掌を此方の額に置いて来る。熱を計られているのだ、と一瞬で理解出来なかったのは、その方法があまりに子供っぽかったからだった。

「わ、まだ熱い。こんななのに、よく目を覚ませたね?」

「……」

 何処かのんびりと間延びしたように聞こえる彼女の声は、感心しているのか、いないのか。

 どちらにせよ、此方に答えられるだけの気力は無い。

 無理に答えようとすれば、ガラガラに乾いた喉が、掠れて嗄れた声みたいな音を出すのが精々だった。

「──……」

「あ。そか。ごめんね、気が利かなくて」

 そんな此方の様子に気が付いたらしい。不意にそう言うと、彼女はスッと身を引いて此方の視界から消えてしまう。

 ぱたぱたと遠退いていく足音と気配。視線を動かしてその後を追い掛けると、部屋の出入り口らしき扉に向かって歩いていく彼女の姿が確認出来た。

「待ってて。何か飲むものを持って来るから」

 最後にそう言い残して、扉の角に華奢な背中が消える。軽やかな足音が次第に遠ざかっていく。

 その音が完全に聞こえなくなってから持ち上げていた頭を元に戻し、嘆息にも似た大きな深呼吸を一つ。熱く乾いた息はヒリ付いた喉には不快極まりなかったが、今はどうしようもない。飲むものを持って来てくれるというから、素直にそれを待つ事にした。

「……」

 染み一つ無い天井。

 当然の如く見覚えは無い。

 此処は何処なのか。そもそもどうして自分はこんな所で寝ているのか。

 分からない。思い出せない。

 浮かんでは弾けて消えていく泡沫のような思考に纏まりは無く、垂れ流すような思考に中身がある訳も無い。

 ボーっとしていた。疼くような熱や溜まったような重みを持て余しながら、ひたすらにひたすらにボーっとしていた。

 どれだけの時間が経ったのかは分からない。たかだか飲み物の用意に時間が掛かるとも思えないから、きっとそんなに経っていなかったのだろう。

 扉が軋む微かな音を聞いて、ふと我に返った。どうやら、何時の間にかウトウトしていたらしい。

 あの女が戻って来たのかと思って顔を扉の方に向けるが、半開きになった扉の隙間には彼女の姿は見当たらなかった。

「……?」

 気の所為だったのだろうか。

 そう思った所で、扉の隙間、その下の方から、此方をジッと見つめる二対の視線に気付いた。

「誰だ……?」

「「!!」」

 子供だ。二人居る。

 扉の陰に半分以上身を隠していたし、声を掛けた瞬間にパッと顔を引っ込めてしまったから、詳しい事は分からない。

「おい……!」

 ただ、何故か気になった。

 気が付けば、呼び止めようと必死に声を絞り出していた。が、小さな二つの足音はそんなものには頓着せずに、パタパタと急速に遠退いていってしまう。そもそも蚊の鳴くような制止の声が彼女達に聞こえていたのかどうか、それすらも怪しい。

「ちィ……っ!」

 顔を覆いたくなる程に情けない自身の体たらくに、殆ど鳴らない舌打ちを一つ。重たい身体に鞭打って強引に上体を起こし、殆ど転がり落ちるようにしてベッドから降りる。

「くそ……」

 二本の足で体重を支える。

 通常であれば難無くこなせる筈なのに、身体は早くも不服を訴えてくる。

 どうしてこんな情けない状態になっているのか。過去の自分の胸倉を掴んで問い質したい気分だったが、とにかく今はあの子供だ。

 歯を喰い縛り、休憩を訴える身体を意志の力で捻じ伏せて歩き始める。

 扉を潜り抜ければ、そこは吹き抜けの廊下の二階だった。左は壁で行き止まり。右は廊下と、それに続いて一階と繋がっている階段。

 勿論右を選んで階段を降りる。途中で部屋を一つ通り過ぎたが、半開きになった扉の隙間からは子供の姿は見えなかったし気配も感じなかった。

「ええい、何も取って食おうって訳でもねぇのに……!」

 当然と言うべきか、階段を下りればそこもまた廊下……というか広間だった。四方の壁には扉があって、今の状況の所為か何だか選択を迫られている気分になった。

「……」

 少し迷ったが、その中で特に目を引いたのは階段にの正面に位置する扉だった。というのも、他のは全部キッチリ閉まっていたのに、それだけがまるで誰かが慌てて通り抜けていったかのように、中途半端に開けっ放しになっていたからだ。

(……こっちか?)

 先ずは深呼吸を一つ。休みたがる身体の手綱を締め直し、開き掛けていたの扉の取っ手に手を掛ける。


「──!?」


 視界にノイズが走った。頭蓋に激痛が差し込まれ、一瞬、ほんの一瞬だけ似て非なる光景が重なる。けれどほんの一瞬だけだ。その次の瞬間には、頭痛も光景も消えていた。

「……なんだ、今のは……?」

 嗄れた呟き声に答えてくれる者は居ない。身体の怠さも相まって、考えるよりも先に目の前の光景に集中する事にする。

 先ず最初に浮かんだのは、“荘厳”という言葉だった。

 薄闇が広がるだだっ広い空間の中に、色彩豊かな陽光が差し込んで来ている。石で作られた床の上には沢山の長椅子が等間隔に並べられ、利用者が来るのを大人しくして待っていた。

 しんと静まり返った中を進んで行けば、足音が反響しながら四隅の闇の中へと吸い込まれていく。全体が石で造られている所為だろう、空気が若干重たくて、厳粛な雰囲気を醸し出している。

 重い天井を支えている、自己主張はしないが決して粗雑でない彫刻の柱。四隅の暗がりや長椅子の側に据えられている、細かく繊細な銀細工の燭台。

そして何より、只の陽光を色取り取りの光に変換しているステンドグラス。仮に長椅子に座れば、嫌でも目に入ってくるような位置取りで据えられているそれは、その圧倒的な存在感で見る者の視線を離さない。

「……」

 美しく、荘厳な場所。何となく知っているような気もするのは、やはりさっきフラッシュバックした光景の所為だろうか。

 懐かしいような、苦々しいような。

 相反する二つの感情をゴチャゴチャにしたような、すっきりしない嫌な感じを覚えてしまうのは何故だろう。


「──ああ、こんな所に居た」


 不意に、そんな声が聞こえた。柔らかくてのんびりした印象を受けるその声は、ついさっき聞いたものと同じものだ。

「……アンタか」

「部屋に戻ったら居ないんだもん。ビックリしちゃった」

 ステンドグラスの光を受けて、色素が薄い金髪がキラキラと輝いている。淡い桜色の唇は、非難するみたいに少しだけ尖っているように思える。

 自分が出て来たのと同じ、ステンドグラスが設置されている壁の端っこにある扉から出て来た彼女を見て、そう言えば飲み物を取りに行って貰ったんだと思い出した。

「……すまん」

「いいよ。そんな事よりほら、其処に座って」

 呆れたように言われてしまえば、素直に従うしか無い。

 言われた通りに近くの長椅子の上に座ると、彼女は此方の近くまで歩いて来て、さも当然のように隣に腰掛けてくる。携えていた盆の上に乗っていた水挿しとグラスが、微かに涼やかな音を立てるのが聞こえた。

「はい、どうぞ」

「……どうも」

 渡されたグラスは結構大きい。並々と注がれた水の中に浮かんだ氷によってキンキンに冷やされて、ビッシリと汗を掻いている。飲み込む唾も無いくらいに身体は乾いていたが、それでもゴクリと喉が蠢いたのはきっと無意識の内だろう。

 気が付けば殆ど仰け反るみたいにしてグラスを煽り、中身を空けてしまっていた。大きく息を吐きながら身体を戻せば、浮かぶ媒体の無くなった氷がカラカラと涼やかな音を立てる。

「ふー……」

 少し落ち着いた。けれどまだ足りない。

 一息吐いて、それから直ぐに二杯目を要求しようと隣に視線を向ける。が、その時には既に、女は水挿しの中身を此方の持つグラスの中に注いでいる最中だった。

「あれ? ひょっとしてお代わり要らなかった?」

「……いや。欲しかった」

「ふふ。良かった」

「……」

 この女。出来る。

 内心で素直に感嘆しながら、グラスが満たされていくのを待つ。注がれる水によって氷が踊り回るのを眺めているのは、熱を持っていた身体には心地良くもあり、焦れったくもあった。

「酷い怪我だったんだよ?」

「あ?」

 二杯目は少し余裕があった。さっきみたいに一気に飲むような真似はせず、少しだけグラスを傾けて一口分煽り、息を吐く。

 相手が口を開いたのは、正にその息を吐いた直後。絶妙なタイミングだった。

「森の奥で、血塗れになって倒れてて。見つけるのがもう少し遅かったら、二度と目を覚ませなかったかもしれないんだよ?」

「……」

 助かったと喜ぶべきなのか。危なかったと安堵すべきなのか。

 淡々と事実だけを伝えるような声は、却って現実味を薄れさせた。どんな反応を取るべきなのかよく分からなくなってしまい、つい沈黙を通してしまう。

 その沈黙を怪訝に思ったかのかもしれない。女は少しだけ不思議そうな顔をすると、つい、と小首を傾げてみせる。

「関心薄い?」

「……そうかもしれない」

 死んでいたかもしれない。

 そう言われたら恐ろしがるのが普通かもしれないが、何故か実感が湧かなかくて、そうする事が出来なかった。

 そもそも、なんでそんな事態になったんだったか。

 実はさっきから思い出そうとはしているのだが、頭が霞んでいるみたいに思考が纏まらず、どうもハッキリしなかった。

「まぁ、いいんだけどね。でも、あの子達には感謝しないとダメだよ?」

「あの子達?」

「うん。あの双子の女の子。ヒナギクとホタルって、貴方が名前を付けたんだってね?」

「……?」

 そう言えば、さっきまで追いかけていた子供も二人組だった。詳しく見た訳ではないので女の子だったかどうかは分からないが、ひょっとしたらあの二人こそが彼女の言う双子なのかもしれない。

 ただ。

「すまん。ちょっと待ってくれないか」

「え?」

 ただ、今の話。

 一つだけ、どうしても無視出来ない点があった。

「名前を付けた? 俺が?」

「あの二人はそう言っていたけど。違うの?」

 覚えが無い。

 というか、あの二人とは今日が初対面ではなかったのか。

 半ば必死になって記憶を漁るが、どの引き出しを開いても双子に名前を付けてやった覚えなんかない。というかどの引き出しも強固に鍵が掛かっていて、何も引き出せない状態だった。

「悪い。一つ聞きたいんだが」

「なぁに?」

 嫌な汗が一筋、頬を伝っていくのを感じた。

 完全にロックされている記憶。ついさっきベッドの上で目覚めた以前の事を、何も思い浮かべる事が出来ない。

 何も分からない。何も思い出せない。

 こういう状態を指し示す言葉を自分は一つだけ知っている。だが、それは飽くまで他人事だと思っていた。今まさに自分の身に降りかかってきているだなんて、認められる訳が無かった。

「初対面、だよな?」

「……」

「俺とアンタは初対面。で、合ってるよな?」

「……。その様子だと覚えてるって訳でもなさそうだね?」

「何だって?」

「ううん。こっちの話」

 ほんの数秒間。彼女の顔から柔らかい微笑が消えて、微妙な空気が場を支配する。悲しそうと言うよりか、何処か落胆しているように見えた。

「えっと、じゃあ改めて自己紹介するね。私はティセリア。ティセリア・クラウン。みんなからはティスって呼ばれてるよ」

 とは言え、それもほんの数秒の事でしかない。

 自らの胸に手を当てて自己紹介する彼女は、既に先程と同じ様子に戻っていた。

「ティセリア」

「ティスでいいよ?」

「ティス」

「うん、いい感じ」

 ただ愛称で呼んだだけなのに、彼女──ティスは嬉しそうな様子だった。何しろ相手は極上の美人だったし、そんな彼女が手放しで喜んでいるのを見ると何だか此方は気恥ずかしい気分になってくる。

 何なんだろう、この反応。どういう態度を取ればいいのか分からない。

「それで、貴方は?」

「え……?」

 奇襲が来たのは、正にその直後の事だった。

「名前は? 私は貴方をどう呼べばいい?」

「……あー……」

 名前。なまえ。ナマエ……──

 何とも言えない沈黙と共に、時間だけが過ぎ去っていく。相手の笑顔も、次第に怪訝なものになっていく。

 名前。俺の、名前。

きっと相当に余裕の無い表情をしていたのだろう。ティスが遂に口を開いた。

「どうしたの?」

「思い出せない」

「え?」

 腹を括って口に出してしまえば、それは意外とあっさりしたものだった。

 目をパチクリさせている相手に向かって、もう一度、噛み切るようにはっきりした口調で繰り返す。

「思い出せないんだ」

「それは、えっと……」

 流石にこれは予想していなかったのだろう。相手は明らかに困った様子で、此方に掛けるべき言葉を探している。その間にも此方は記憶の引き出しをこじ開けようと必死になっていたものの、それは恐ろしく頑丈でビクともしなかった。

 此処は何処なのか。どういった経緯で此処に居るのか。

 分からない事は山積みだが、それ以前に解決せねばならない問題がもう一つあるようだ。


「俺は……誰だ?」


 記憶喪失。

 どうやら自分は、そういう状態に陥ってしまっているらしい。


○ ◎ ●


 シンと名乗る事になった。

 自分で思い出した訳ではなく、また適当に新しい名前を考え出した訳でもない。とある双子がそう呼んでいるのをティスが聞いていて、それをそのまま使う事になったという流れである。

 聞く所によると、シンは森の中で倒れていたのだと言う。いわゆる満身創痍の状態で、傍目には死んでいるようにしか見えなかったらしい。ティスが全力で介抱してくれたお陰か何とか目を覚ましたものの、発見から今に至るまでには優に五日は掛かったとの事である。

 しかし命は助かったとは言え、問題はまだまだ山積みだった。何しろ記憶が無いのだ。今後の方針を立てるどころか、行く当てすらも無いのである。

 どうすればいいんだと途方に暮れていたその時、そっと声を掛けてくれたのが命の恩人であるティスだった。

『──ウチに居ればいいよ』

 何もかもを失って呆然としていたシンに対して、彼女はそう言って微笑った。

『──行く当ても無いみたいだし、まだ怪我が治っている訳でもないんだから、当面は此処で治療に専念するといいよ』

 実際、有り難い申し出ではあった。

 彼女の言う通り行く当ては無かったし、何よりもう一つ、出るに出れない理由があったのだ。


「──ん……」

 

 小鳥がさえずる音が聞こえる。閉じた瞼越しにも陽光は眩しく、息を潜めて此方の顔を覗き込む二人分の気配が少しだけ煩わしい。

「……おい」

 目が覚めた。

 途端にバッと跳び退る人影が二人分。そいつらは此方に声を掛ける暇すら与えずに、そのまま部屋の外に飛び出して行ってしまう。

 脱兎の如くというのは正にああいう様子を形容するのだろう。

 最初の頃は吃驚して跳ね起きたものだが、今はもう慣れっこになって目を遣る事も無い。

「……。毎朝毎朝ご苦労なこった」

 上体を起こす。欠伸を噛み殺しつつ後頭部をボリボリと引っ掻き、一息吐いてからベッドから降りる。

 そよ、と風を感じたので窓の方を振り向けば、昨夜寝る前に閉めた筈の窓が何時の間にか開け放たれていた。恐らくは此方が起きる直前に、あの双子がやったのだろう。

「……何だよ?」

「あ……っ」

 視線を感じたので振り向けば、戸口から此方を覗いていた二対の視線と目が合った。

 金と銀。

 左右でそれぞれ色の違う奇妙な双眸が驚きの余り大きく見開かれたかと思えば、彼女達はあっと言う間に首を引っ込めてしまっていた。

 パタパタという足音が二人分聞こえて来たから、今度こそ本当に逃げていったらしい。

「……。やれやれ」

 ヒナギク。ホタル。

 それが彼女達の名前だという。

 それだけであれば特にどうという事も無いのだが、厄介なのはこれからだ。

 なんと、彼女達の名前を付けたのはシンなのだという。例によって思い出す事が出来ないのだが、自分はあの双子と何らかの関係があったらしい。

 事実、彼女達はしょっちゅう側に居るのである。

 此方が記憶を失くしている事は既に聞いている筈なのだが、気が付けば周辺の物陰から、何も言わずにただひたすら此方をジィッと見つめて来ているのだ。

「……はぁ」

 此処を出て行くという事は、当然、あの二人も連れて行かなくてはならないという事だ。

 しかし接し方が分からない。元々の自分はあの二人にどう接していたのか。そもそもどんな間柄だったのか。さっぱり思い出せない。

 マトモに会話すら出来ていない現状では、暫く此処に残るという選択肢しか残されていなかった。

(せめて何か言ってくれりゃあいいんだがな。人の顔見たら逃げ出しやがって)

 手早く身支度を整える。取り敢えずは寝間着から、枕元に置いてあった黒の上下──恐らくは双子が持ってきてくれたのだろう──に着替える。

 ティスが用意してくれた着替えは、その殆どが真っ黒な上下だった。どうしてこんなにも黒中心なのか尋ねた所、助けた時にそんな服を着ていたからという答えが返って来た。

 質素というか飾り気が無いというか、元々の自分は随分と地味な男だったらしい。派手な色よりはこっちの方がいいかと思ってしまっている辺り、そんな推測もあながち間違っていないのだろう。

 部屋を出て一階に降り、先ずは洗面所に向かう。顔を洗ってしぶとく残っていた眠気を飛ばし、手探りで脇に掛かっていたタオルを引き寄せて水気を拭う。

 目を開けば、正面の鏡の向こうから、やや目つきの悪い黒髪黒目の男が此方を睨み……いや、見返しているのが見えた。睨んでいるように見えるのは、起きたばかりで目つきが普段より格段に悪くなっているだけだ。きっとそうだ。

 東洋出身なのだろう。例えばティスなんかとは雰囲気が明らかに異なっている。

 ひょっとしたらその方面から記憶が戻るかもしれないと思った事もあったが、こうして毎朝自分の顔と対面しても、思い出せたものなんて一つも無かった。

「……へっ」

 何を朝っぱらから自分の顔をマジマジと凝視してんだ、俺は。

 虚しくなると同時に馬鹿馬鹿しくなり、鼻で嗤って洗面台から離れる。

 洗面所から出てダイニングに向かう。扉を押し上げると、こんがりと焼けたパンの香ばしい匂いがふわりと押し寄せて来た。

「おはよう、シン?」

「……ああ」

 扉の音を聞いたのだろう。奥のキッチンに居た彼女は顔を上げると、ニコリと微笑み掛けて来た。

「丁度パンが焼けた所だったんだよ。あの子達とは話せた?」

「俺が目を覚ました途端に逃げていった」

「あらら。まだちょっと今のシンに慣れてないのかな?」

「……。さぁな」

 慣れてないと言えば、シンもまた今の状態には慣れていない。

 シンという名前は、言わばそんな現状の代表にして象徴のようなものである。

 シンはティスから聞き、そしてティスはあの双子から聞いたと言っていた。どうせ忘れてしまっているのだし、何か不自由がある訳でもない。結局はそれが名前という事で定着してしまっていた。

 自覚が足りない所為か反応が遅れる事も時々あるが、ティスは慣れるまでの辛抱だよと言って笑っていた。

「はい、それじゃあ座って。シンはとにかくいっぱい食べないとね」

「……おう」

 リビングと隣接している為に広く感じられるダイニングルームに、最大で六人が掛けられる木製のテーブル。

 その内の一席に腰掛けると、程なくしてキッチンから出て来たティスが二枚の皿をシンの前に置いた。

「どうぞ」

「……ああ」

 二枚のトーストとベーコンエッグ。卵は最初は完熟、次に出た時は半熟と来て、以降は必ず半熟が出されるようになった。

 顔に出したつもりは無いが、もしかしたら反応を見られたのかもしれない。

 というのも、ティスはシンが食べている間は向かい側に座り、食事の様子を眺めている事が多いのだ。

「シンは、倭国で生まれた人なのかもね」

「あ?」

 今回も、その例に漏れない。付けていたエプロンを外してシンの向かい側の席の背もたれに掛けると、自身もその椅子を引いて腰を落とす。

 見られているとどうにも食いにくく、最初の数回は少し辟易していたもののだ。が、最近はその理由を少し考えてみるようになった。

 思うに、彼女は思い掛けない“同居人”の存在が楽しいのではないか。森に囲まれた修道院の中で一人で暮らすというのは、きっと寂しいものに違いない。

 事実、会話も世話焼きも彼女はやたら楽しそうにこなすのだ。

 シンは助けられた立場であるし、彼女には大きな恩がある。この程度で返した事にはならないとは思うが、それに付き合うのはせめてもの礼儀だろう。

「なんでまた?」

「髪の色とか眼の色もそうだし、あの二人に付けた名前もね。“雛菊(ヒナギク)”と“(ホタル)”って、調べてみたら倭国の言葉だったから。雛菊っていうのは小さくて白い花で、螢は夏の虫なんだって」

「ほー……」

 虫。

 どういうネーミングセンスをしてるんだ、俺は。

「……ひょっとして俺が嫌われてんのは、片方に虫の名前なんか付けちまった所為か……?」

「え? ああ、虫と言っても暗闇で光る凄く綺麗な生き物らしいよ。暗闇で沢山の螢が光っている光景は、凄く幻想的なんだって」

「そうなのか」

 安心していいのだろうか。取り敢えず、螢という虫については自分も調べてみるべきだろう。

「えっと、それでね? 私が言いたかったのは、シンがもし倭国出身ならパンよりライスが好みなんじゃないかって事なんだけど」

「ライス……?」

「覚えてない? ホカホカした白い粒々で、東洋では古くから主食にされてるんだけど……」

「あー……」

 言われてみれば何となく想像出来るような気もする。が、そのヴィジョンは酷く曖昧で、いまいちピンと来ない。良く分からない食べ物よりは、手の中で香ばしい匂いを立ち上らせているトーストの方がよっぽど美味そうだ。

「どうかね。俺はこれで十分だと思うが」

「そう?」

 納得していない様子のティスを尻目に、まんべんなくバターが塗られたトーストにかぶりつく。ザクリとした食感とバターの芳醇な香りが口の中に広がり、思わずその余韻を一瞬だけ反芻してしまう。

 美味い。

「ところで聖堂は? 今日も開けるのか?」

「あ、うん。勿論」

「毎日ご苦労なこったな。金を貰ってる訳でもねぇのによくやるよ」

「別に、お金の為にやってる訳じゃないもの」

 あっけらかんとした調子でティスは言う。

 コイツこんな調子でよく今まで生きてこれたなと内心でコッソリ呆れてしまうが、実際に彼女は生きていて、対する自分は彼女の厚意で家に置いて貰っている身だ。下手な事は言えない。

「興味あるの?」

「いや。お前には悪いが、神様とかそういうのはちょっとな」

「そっか」

 特に気にした様子も無く、彼女は笑った。予め予想していた答えが、現実のものになった。そんな感じの、何処か余裕のある笑みである。

 大して期待はしていなかったのだろう。彼女はそれ以上、同じ話題を引っ張るつもりは無いらしかった。

「散歩するのは構わないけど、あんまり無理はしないでね? 怪我は大分治ったみたいだけど、完治って訳じゃないんでしょ?」

「ああ」

「あの子達だって心配してるんだから」

「……」

 つい、と何気無く逸らされた視線。

 それに倣って扉の方へ目を向ければ、一体これで何回目だろう、金と銀の二対の双眸と視線がぶつかりあった。

「あ……っ」

 目が合った途端、彼女達はサッと身を翻し、その場からあっと言う間に居なくなってしまう。花と虫の名前を付けるには勿体無いくらいの反射神経だと妙に感心してしまうくらいだった。

「さっきからずぅっと貴方を見てたよ」

「みたいだな」

「気付いてたの?」

「ああも気配丸出しだったら、どうか見つけて下さいって言ってるようなものだろ」

「ほぇー……」

 最後の一欠片になっていたトーストを口の中に放り込み、視線を落とす。

 感心いうか感嘆というか、彼女の賞賛の表現はストレートで惜しみない。それ故に喰らってしまうと、何だか気恥ずかしくなって来るから困りものだった。

「鋭いね。ひょっとしたら、記憶を失くす前は騎士だったのかも」

「騎士ィ?」

「うん。教会領の聖騎士様……なんていう可能性も、ひょっとしたらあるかもよ?」

「はっ、そりゃ幾らなんでも有り得ないだろ」

 ティスの言った教会領という単語や聖騎士という言葉は、実はよく分かっていなかったりする。ただ、騎士というのがどんな生き物なのか、それくらいの事は分かっているつもりだ。

 清廉で、潔白で、高潔。

 今の自分自身とはまるで正反対の生き物だ。

「自分がどんな人間なのかは分かってるさ。俺が騎士だなんて万に一つも有り得ねぇよ。せいぜい傭兵がいい所だろ」

「むぅ……」

 きっぱり否定されたのがお気に召さなかったのか、ティスは少し不満気にむくれてみせた。最初の頃は彼女がそんな子供っぽい表情を見せるなんて想像も付かなかったが、いざ目にしてみると全然違和感が無い。

 此処に置いて貰って既に一週間を過ぎているが、この風変わりの家主の事は未だに全然分からない。強いて言うなら親切で変わり者、ついでに料理が上手い、という事くらいか。

「ごちそうさん」

「うわ、もう食べちゃったの?」

「まぁな」

 半熟卵の余韻に浸りつつ、立ち上がる。

 せめて食器を持って行くだけの事はしようと思ったのだが、それよりもテーブルの反対側から細い指先が伸びて来る方が早かった。

 食べるスピードに驚いていた割には、しっかり反応している。意地でも水仕事に関わらせるつもりは無いらしかった。

「ちょっと歩いて来る」

「うん。繰り返すようだけど、無理はしないでね?」

「ああ」

 ヒラヒラと後ろ手に手を振って、部屋から出る。

 パタンと扉が閉まる音を背後に聞きながら、口の中で小さく呟いた。

「要は、俺がキツいと思わなかったら大丈夫なんだな?」

 置いて貰っている身でぬくぬくと惰眠を貪っていられる程、シンは恩知らずではないのだ。


○ ◎ ●


 とは言え、出来る事と言えば薪割りくらいのものだったが。

 暖炉やストーブを使うには時期外れだが、何しろ此処の修道院は随分と古い時代に建てられたものらしい。現代に住むに至って多少の改装は施されてはいるものの、薪を始めとする燃料は必需品という訳だ。

 外周部にあり、すぐ近くには街もあるとは言え、こんな鬱蒼とした森の中によくまぁ住んでいるものだと思う。

「……ふぅ」

 もう何個目になるか分からない薪を唐竹割りにしてやった所で、一息吐く事にした。

 作業台代わりの切り株に斧の刃を突き立て、背筋を正して伸びをする。包帯が取れたばかりで傷だらけの身体がギチギチと音を立てるが、痛みや不快感は全く感じなかったので良しとしておく。

 ゴキリと首を鳴らして空を見上げれば、からりと晴れた気持ちの良い蒼天が目に染みた。突き進めば何処までも行けそうなそれを何とはなしにボーっと眺め、大きく深呼吸を一つすれば、視界の先、遥か高くを舞っている(トビ)が見計らったかのようなタイミングで鳴き声を上げる。

「静かだな」

 世界で最も広大な面積を持つローラシア大陸。

 真ん中を縦断する大山脈“竜の背骨(グレートディヴァイン)”によって分割されている東側を大陸東部(イースト・ランド)、西側を大陸西部(ウエスト・ランド)と言う。

 王国『フレイガルド』は大陸西部の中でも最西端に位置する国である。面積はそれ程大きくないものの、周囲を海と山に囲まれて、攻めるに難く守るに易い、正に天然の要塞のような地に建てられた国だ。レアメタルなどの資源や科学技術などにも恵まれ、世界有数の工業国としても有名である。

 ──らしい。

 ティスからザッと教えられて一応は概要を把握しているものの、飽くまでも教えられた知識を得たといった感じで記憶が蘇ったという感覚は無い。更に言えば知識といってもフワフワしていて頼り無い、非常に曖昧な形に仕上がっている。

 地理の勉強とか余り興味が無かったんだね、と呆れた顔をされてしまったが、シンに言わせれば目で見て肌で感じた事も無いモノを実感して体得しろと言う事の方が不可解だ。

 例えば、今自分が居る場所。深い深い森林と、その中にひっそりと建っている修道院。これは今まさに自分が身を置いている環境だから、大して苦労も無く覚える事が出来た。

 ネメアの森。

 現在では開発されて大分縮小されているものの、かつては広大な面積を誇っていたらしい。“獅子王”と呼ばれた古の英雄ネメアは、沿岸部に存在するフレイガルド王都への侵攻を阻む為、此処を天然の要塞として利用したという。

 そんな鬱蒼とした森の外周部、最西端地点にひっそりと建っているのがティスの修道院である。街道から外れているので知らない者には分かりにくいが、場所さえ分かっているならほんの数分で辿り着く事が出来るだろう。実際、森の出口にある街からは毎日必ず何人かの人間が、この修道院に訪ねて来ている事をシンは知っている。

(今頃ティスは聖堂か。そろそろ始まっているのかね)

 元々は何処ぞの宗教の修道院だったと言う。詳しい事は聞いていないが、元々は老齢の修道女が一人で暮らしていたのだとか。別の所からやって来たティスは元の持ち主の厚意で置いて貰い、そのまま住み着いているのだと言っていた。

 それも、ただ住み着いているだけじゃない。折角の厳かな聖堂を、彼女は出来る限り有効活用しているらしい。


「──おお、いたいた。よぅ、若いの。病み上がりのクセに精が出るなァ?」


「!」

 老いてはいるが衰えの気配はあまり感じない、最近聞き覚えた声。見上げていた空から声の方へと視線を下ろせば、腫れたように赤い大きな鼻と、にこやかで人懐っこそうな笑顔が見えた。

「……爺さんこそ。毎日毎日御苦労なこったな」

「別嬪さんに会う為なら、オイラァ毎日どんな所だって行くぜィ。ヒ、ヒ、ヒ」

 小柄な老人である。腰は曲がっているし手足も節くれ立っているものの、杖は突いていないし声や呼吸にも乱れは無い。

 シンはまだ見ていない最寄りの街。其処の住人である。お互いに名乗っていないから此方は向こうの名前を知らないし、向こうも此方の名前は知らない筈だ。

 ただ、それにしては随分と親密な部類に入るのではないだろうかとシンは思っている。

 何しろ彼は毎日この修道院にやって来ては、必ずシンと何かしらの話をしていくのだから。

「ティスなら聖堂の方だろ。ボケた訳でもねぇだろうに、どうしてこっちに来たんだ?」

「ひ、ひ。そこの角に居た、小さな別嬪さん達にも挨拶しようとしたんだよ。……二人共、オイラに気付いた途端に逃げちまったがねぇ」

「あー……」

 双子の事だろう。聖堂の方でティスを手伝っていると思っていたが、どうやらその仕事は終わったらしい。

(アン)ちゃんもやるねェ。三人も別嬪を側に侍らせるなんてな」

「内二人はガキじゃねぇか」

「少し待てば直ぐに大きくなるさね」

「そういう問題でも無いと思うが」

 話半分に聞き流しながら、切り株に突き立っていた斧を手に取る。

 先端を掴んで引っこ抜き、もう片方の手で薪を切り株の上に設置。先端に小指を強く巻き付けるように握り直し、切り株の上に直立している薪目掛けて無造作に振り上げる。

 スコン、と薪が真っ二つに割れたのは、次の瞬間の事だった。

「いやぁ、お見事」

 ぽん、ぽんと鷹揚に掌同士を叩く音。

 たかが薪を割っただけなのに、此処までして賞賛されると何だかからかわれているような気さえしてくる。

 一度は再開した薪割りの手を止めて、ジトリと咎めるように翁を見据えた。

「止せよ。薪を割っただけだろうが」

「おや、(アン)ちゃんは無意識だったのかィ?」

「あ?」

 キョトンと返されてしまった。どうやら本当に驚いたようで、基本的に笑顔の翁の双眸は軽く見開かれている。

 ──これで演技だったら大した役者だな。

 意識の隅で苦笑を浮かべる捻くれた自分は面に出さず、此処は翁の話に乗る事にした。

「無意識も何も、ただ薪を割っているだけだぞ」

「ははァ。そういや(アン)ちゃんは記憶が無いんだったっけなァ」

 合点がいったようにポンと手を打つ翁。テクテクと歩いて近付いて来たかと思えば、斧を握ったシンの拳をポンポンと叩いて来る。

「この握り。ブレない腰から上の上半身。敢えて振り切らず、途中で刃を止める手法」

 掌から上腕、それからもう片方の手で斧の柄を軽く叩いていき、翁は此方の顔を見上げて人懐っこい笑みを浮かべた。

「間違い無いさね。(アン)ちゃんは人斬りだ」

「……は?」

 いきなり何て言い草だ。

 一拍遅れてそう思ったものの、余りにそぐわない笑顔と共にストレートな言葉で断言されてしまうと、此方は困惑するしか無い。

 せいぜい、聞き返すのが精一杯だ。

「すまん。何だって?」

「おやァ、言い方が悪かったかィ? そうさな、柔らかく言えば……うん、(アン)ちゃんは戦士だった。コレでどうだい?」

「いや、遅ぇよ」

 柔らかく言えるなら最初からそう言って欲しい。既に人斬りという言葉は頭の中に根付いて、離れなくなってしまっている。

「だが、薄々感じてはいたんじゃないかぃ? まさかこの傷が、お遊びで付いたものたァ思ってないだろう?」

 半袖から飛び出している腕。その腕に刻まれている様々な古傷を見て、翁はニコニコと表情を崩さずに言う。

 古傷。そう、古傷だ。治りかけの傷のその下に刻み付けられた、穏やかでない痕跡である。

 斬られた跡。刺された跡。中にはどうやって付けられたのかも分からない、ささくれ立った傷跡もある。腕だけでなく身体全体に走っているそれらは、翁の言うように戦士の生活をしていた事を物語っている。シンは今もこうして生きている訳だから、この傷跡を付けた者達がどうなったのかは大体予想が付く。

 人斬り。

 そう評した翁の言葉は、きっと正しいのだろう。

「……今朝、ティスにも似たような事を言われたよ。尤も、アンタみたいにバッサリ斬り込んではくれなかったがな」

「ほっほぅ。何て言われたんだぃ?」

「騎士だったんじゃないか、とか。確か、“きょーかいりょーのせいきし”だったんじゃないか、とかなんとか言っていたな」

「はっはっは!!」

 笑い飛ばされた。

「教会領の聖騎士か。成程なァ。人じゃなくて化け物を斬ってたって訳かィ。案外いい線行ってるかもなァ」

「は……?」

 但しそれは、完全に予想外な方向にだった。

「すまん。その反応は予想外なんだが……」

 いい線ってどういう意味だ。的外れだったから笑ったんじゃないのか。

 そして今サラリと呟かれたが、“化け物”って一体何の事だ。

 記憶を無くして、ただでさえ分からない事だらけなのだ。欠けた常識を覚え直している最中だというのに、新情報を次から次へと増やされては堪らない。

「ああ、そうそう。教会と言えば」

 が。

 翁はと言えば、そんな此方の様子にはお構い無しだった。

「そろそろ、中央(セントラル)の方から本職の奴がやって来る頃だぁな。(アン)ちゃん、あの()の傍に居てやんなよ?」

「せんとらる? 本職?」

「んじゃぁ、オイラはそろそろ行くぜィ」

「あ、おい!」

 まともに呼び止める時間すら与えてくれない。言うだけ言えば後は満足したとばかりに踵を返し、ヒョコヒョコと歩いていってしまう。今度こそ、ティスの居る聖堂の方へ向かったのだろうか。

「……」

 諦念と困惑を一緒に纏め、溜め息にして吐き出す。

「人斬り、ねぇ……」

 或いは化け物斬りかもしれないとも言っていたが、そっちは今のシンにとっては意味不明だ。後でティスにでも聞いてみるとして、今は自身の身体に当然のように居座っている感覚について見直してみる事にした。

「この握り。ブレない腰から上の上半身」

 新たな薪を設置し直してから、先程翁に指摘された事を改めて思い出す。元々、自分が無意識にやっていた事だ。再現するのは難しくない。

 斧の柄の先端を左拳で握り、切り株の上で固唾を呑んで待ち構えている薪に刃をピタリと当てる。このまま真っ直ぐ振り上げて、そしてその軌道をなぞるように振り下ろせば、いつもの薪割り作業の完成だ。

「……」

 薪割りだったらこれでいい。薪割りだから、これでいい。

 だが、何か違和感がある。身体中に染み込んでいる感覚が、一斉にこれは違うと叫び立てている。


『──これは違う』

『──これは違うぞ』

『──これは基本だ。お前のいつもの(フォーム)ではない』


 薪に押し当てていた斧の刃を一旦外す。

 違和感を訴えている身体の感覚。それらを手探りで確かめながら、自分のいつもの(フォーム)とやらを見つけ出そうと試みる。

「──……こう、か……?」

 薪に対して半身になり、足を前後に大きく開いてやや腰を落とす。今まで柄頭を握っていた斧は、今までよりも少しだけ短めに持ち直して腰溜めに構える。

 ドクン、と。

 胸の内で、何かが身動ぎ(ミジロギ)したような気がしたのはその時だった。

「……!」


『──足を開いて重心を据えろ。攻めるか守るか、それで構え方は変わって来る』

『──張り詰めろ。全身の気を高ぶらせ、臨界を超えるその一瞬を見つけるんだ』

『──違う違う。それは張り詰めてるんじゃなくて、ただ力んでるだけだ。そんなんじゃ早く動けないぞ』

『──遅い。これじゃあ抜く前に斬られて死んでるな』

『──思い出すんだ。気の高ぶりをコントロールしろ。お前にはそれが出来ていた』


『思い出せ』

『思い出せ』

『思い出せ──』


 目を閉じ、内から聞こえる感覚の声に耳を傾ける。

 とにかく口煩くて時には辛辣な彼らだったが、不思議と従うのに抵抗は無い。

 そうだ。この身体は確かに覚えている。

 この(フォーム)には身体の“外”に重心を乗せる攻勢と、逆に身体の“内”に重心を据える守勢の二種類の形が存在する。

 当然場面によって使い分けなくてはならないが、芯の部分はどちらも同じ。即ち、斬るには最良のタイミングが存在し、それを見極め、それどころか自分で操らなくてはならないという事だ。

「すー……っ」

 研ぎ澄ます。

 世界から余分なものがぼろぼろと零れ落ちていき、自分と標的、その二つだけが残る。

「はー……っ」

 ピリピリと張り詰めた空気の中、自身の体内を巡るものを見つけた。

 それは次第に加速していき、奇妙な熱を以て感覚を高ぶらせていくのが分かる。それが臨界に達するまで待たなくてはならない事は、何となく身体が知っている。

(……遅いな。余りにも)

 既に千回は斬り刻まれているのではないだろうか。屈辱にも似た焦げるような焦りを押し殺しながらも、その瞬間が来るのをジッと待ち受ける。

そよ、と風が吹いたのを微かに感じた。


「────ッ!!」


 一閃。

 気が付けば、全てが終わった後だった。

 かつて一本だった薪は、下半分は切り株から転がり落ちて、上半分はくるくると回転しながら宙を舞っている。

 自分がやったのだ。

 腰を起点とし、全身を弾けるように起動させたあの感覚は、全部覚えていた。

「……ふー……」

 何時の間にか止めていた呼吸を、ゆっくりと吐き出す。舞っていた上半分だけの薪がそこらの草むらにポトリと落ちたのは、それと殆ど同時の事だった。

「……落第、だな」

 自然とそんな言葉が口から滑り出て来た。

 斧を振り抜いてそのままだった体勢をゆっくりと戻し、落ちた薪の所まで歩く。手を伸ばして広い上げ、断面を確認。それから、ゆっくりと頭を振った。

「駄目だな。全然駄目だ」

 今の一撃は余りにも鈍過ぎた。我慢に我慢を重ねて放った渾身の一撃だったのに、振り抜く途中で太刀筋から力が散って随分と弱くなってしまっている。

 殆ど慣性で斬ったようなものだ。薪だったから斬れたものの、ちょっと硬いモノが相手だったら確実に弾き返されていただろう。

「……やれやれ」

 溜め息を吐いて、半分になった薪を肩越しにポンと放る。

 上手くいったなら、既に割られて積み上げられた薪の山の上に積み上がった筈だが、正確な結果はちょっと分からない。

 背後の出来事だったし、何よりその動作の後、身体のあちこちがズキリと痛むのを感じたからだ。

()……ッ!?」

 不意打ちだったから、思わず呻き声を上げてしまった。

 何事かと思って服の裾を捲り上げ、特に痛みの酷かった腹の辺りの様子を確かめる。

 真っ先に目に入ったのは、最後に残っていた真っ白な包帯。少し経つとそれにジワリと赤い染みが浮かび、時間の経過と共にジワジワとゆっくりと広がっていく。

 どうやら、傷口が開いてしまったらしい。

「あー……」

 やっちまったな、と他人事のように独りごちながら、ティスが居るであろう聖堂の方へと視線を遣った。

 まだ短い期間とは言え、彼女が怒った所を一度も見ていない。

「……」

 言い付けを守らずに身体を動かし、挙げ句傷口を開いてしまった馬鹿を見ても、彼女は怒らないだろうか。


○ ◎ ●


 怒られた。

 怒鳴られた訳でも叩かれた訳でもない。ただ、斧は取り上げられて何処かに隠されてしまい、ついでに向こう一週間は療養と言う名の謹慎処分を言い渡された。

 笑顔で。

「大した事は無ぇのにな」

 ダイニングテーブルに腰掛け、包帯を巻き直された腹を撫で擦りながら憮然として呟く。

 脇から恐る恐る取り皿を差し出そうとしていた双子の一人がビクリと肩を揺らし、それから自分に向けられた言葉ではないと分かると、微かにキョトンとした顔をしてみせた。

「別に。何でも無ぇよ」

「ッ!?」

 片手でスープを受け取とりながらも、もう片方の手で彼女の頭をやや乱暴に撫で付ける。

 独り言を聞かれて気恥ずかしいのを誤魔化す為だったのだが、対する彼女は全身を跳ねさせて、そのまま硬直してしまった。

「おい、どうした?」

「ひぅ!?」

 かと思ったら変な悲鳴のような声を上げて、弾かれたように逃げて行ってしまった。シンから一目散に離れると、キッチンとダイニングの境界線辺りに居たもう一人の双子に駆け寄り、その後ろに隠れてしまう。

 盾にされた方はと言えば此方も完全に動きを止めて此方をジッと見つめていたので、彼女は彼女で驚いているらしい。

「……フン」

 嫌われているなとは思っていたが、此処まで露骨に拒絶されると逆に笑えて来る。

 逃げる際に振り払われた掌をゆっくりと引っ込め、自嘲気味に鼻で嗤いながら双子から視線を逸らす。

 あ……、と妙に悲しげな声が聞こえたような気がしたが、それはきっと気の所為だろう。

「どうしたの?」

 不思議そうなティスの声が聞こえた。視線だけ遣って様子を窺えば、料理の盛られた大鍋を持って双子の後ろで疑問符を浮かべている。

 料理に集中していた所為か、今の流れは把握していないようだった。

「なんでもない」

 三人の方に視線を向けないまま、溜め息混じりに口を開く。見ていないので彼女達の反応は分からないが、双子がそれぞれ身動(ミジロ)ぎしたのは気配で分かった。

「そうなの?」

「……」

「……」

 ティスに訊かれても、双子は何も言う気配も見せない。

 元々、殆ど喋らないような奴らなのだ。ティスの前ではどうなのか知らないが、少なくともシンは彼女達がマトモな言葉を話すのを見た事が無い。

 待っておくだけ時間の無駄だろうし、料理は温かい方が美味く食えるに決まっている。咳払いをして注意を惹き、三人分の意識が此方に向くのを感じ取ってから口を開いた。

「取り敢えず、食おうぜ。俺は腹が減った」

「あ、うん」

 固まっていた時間が動き出す。

 ティスが困ったように双子を見下ろし、それに押されるようにして、双子もトボトボと歩き出した。

 六人掛けのテーブル。双子はシンとは微妙に距離の離れた席につき、ティスはシンの正面に腰掛ける。ティスと、それの真似をする双子の“お祈り”が済むのが待ってから、漸く夕食の時間は始まった。

「頂きます」

 肉や野菜がゴロゴロ入った具沢山のシチュー、野菜のサラダ、少し固い黒パン。

 木の器に入ったシチューを同じく木で出来た匙で掻き回していると、向かい側で黒パンを千切っていたティスが不意に口を開いた。

「ずっと思っていたんだけど」

「?」

 千切った黒パンを、シチューに浸してパクリと頬張る。ひとしきり口を動かしてから、再び口を開いて来た。

「シンってやっぱり倭国の人なんだね」

「なんだ、藪から棒に」

「その“頂きます”って言葉。何だろうって気になってたんだけど、倭国の食事前のお祈りみたいなものなんだって」

「へぇ、そうなのか」

「知らなかったの?」

「ああ」

 こうして見てみると、無意識の中に残っている記憶の残滓が結構あるみたいだ。

 機械のメモリーを消去したと言うよりは、紙に書いた鉛筆の跡を消しゴムで乱暴に消したような印象を受ける。何とも大雑把な記憶喪失なものだ。

「誰かから聞いたのか?」

「うん。赤鼻(アカハナ)さんから」

「赤鼻さん?」

「ああ、えっと。ウチに良く訪ねて来るお爺さんが居るでしょう? 鼻が赤くて大きい……」

「ああ、あの爺さんか」

 別れ際の言葉通り、彼はティスに会いに行ったらしい。

 倭国の風習に詳しかったり、シンの身体に眠っていた戦いの記憶を指摘したり。どうやら随分な知識人のようだ。まだ出会って間も無いとは言え、シンはあの老人の事を何も知らない。

「赤鼻さんって何だ。あの爺の名前か?」

「うん。鼻が赤くて大きいから、赤鼻。そう呼んでくれって」

「自称かよ。適当だな」

 人懐っこそうな笑顔が脳裏に浮かんだ。あの爺さんなら、確かにそんな事を言いそうである。

「あの爺さん、近くの街から来てるんだってな」

「うん。デルダンの農業区街(ファーム・エリア)だね。ていうか、この教会に来てる人は殆ど其処から来てるよ」

「ふぅん……」

 王国フレイガルドの首都デルダンは幾つかの区画に分けられており、農業区街(ファーム・エリア)はその中の一つである。但し他の区画とは少し違っており、他の区画は全て密集しているのに対し、其処だけは一つ離れてポツンと離れて存在しているので、区画というよりは一つの街だと言った方が納得出来る。

 デルダンは嘗て農業を中心として発展し、その後恵まれた資源を武器に工業都市として栄えた歴史を持つ。中枢から多少離れた土地に場所を移してまで農業区画を作ったのは国力を強化すると同時に、昔からの伝統を守るという意味合いもあるのだろう。

 全部、ティスから教わった知識である。

「しかし、連中は毎日毎日こんな所にやって来てご苦労なこったな。一体何の神様を信仰してるんだ、此処は?」

「創世記に出て来るベリアルとセラフィム。だから一応、此処はメリア教の修道院って事になるのかな。でも、あの人達もシンと一緒で神様なんて信じてないし、宗教に興味なんて持ってないと思うよ」

「……あー……」

 軽い気持ちで投げたボールを、とんでもない剛打球で打ち返された心境だった。

 ベリアル? セラフィム?

 何だそれ?

「簡単に説明するとね」

 此方の様子に気が付いたのだろう。ティスが小さく含み笑いをしながら、言葉を続ける。

「ベリアルは黒い破壊の神で、セラフィムは白い創世の神。まだこの世界が出来たばかりの頃、相反する二人の神はその支配権を巡り、戦ったんだって」

「へぇ」

 何だか、オチの読める展開だ。

 どうせ、如何にも正義の味方っぽい創世神(セラフィム)とやらが勝つのだろう。

「普通だったら、如何にも正義の味方っぽいセラフィムがベリアルを懲らしめて目出度し目出度しで終わるんだけど。でもこの話は少し変わってて、最終的にセラフィムとベリアルは和解するの」

「あれ、そうなのか」

「うん。ちょっと珍しいでしょう?」

「……まぁ、な」

 ものの見事に予想を外してしまった訳だし、其処は正直に頷いておく。

 とは言え、其処までと言えば其処までだ。予想に反していたからと言って宗教に興味が出る訳でもないし、ティスの話にワクワクする訳でもない。

 ただ、彼女がこの話が好きだという事だけは良く分かった。何となく、普段の二割り増しくらいで楽しそうに見えるのだ。

「メリア教の旧教典に記されている内容だから、一般的にはあんまり知られていないんだけどね。でも、私は結構好きだな」

「さいですか」

 掻き回していたシチューを匙で掬って、口元に運ぶ。ティスには悪いが、やはりシンにとっては宗教云々の話より此方の方が何倍も重要だ。

 そんなシンに運も味方したらしく、不意に表の方で呼び鈴が鳴るのが聞こえた。

 どうやら来客らしい。誰だか知らないがナイスタイミングだ。

「お客さん? こんな時間に誰だろ?」

 シンが何か言うまでも無く、ティスは既に思考を切り替えていた。食事をそのままに席を立ち上がると、パタパタと小走りに部屋から出て行ってしまう。

 パタン、と軽い音を立てて扉が閉まると、しんとダイニングに沈黙が()し掛かって来た。

「……」

「……」

「……」

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙。

 匙も皿も木で出来ているので大した音も立てず、ただ静かに時間は流れていく。

 但し、心穏やかにという訳にはいかなかったが。

(……何だってんだ……?)

 視線を感じる。

 ティスと話している時はまだ誤魔化せていたものの、彼女が居なくなって静かになると、それらは急激に威力を増して横っ面に突き刺さって来る。

 なのにそっちを見返せば、途端に二人は視線を逸らしてしまうのだ。慌てたように俯いて、それまで止まっていた手をギクシャクと動かし始めるのである。

「……なんだお前ら」

 声を掛けると、二人の肩がビクッと跳ねる。何故だろう、それを見て何だか無性に腹立たしい気持ちになった。

 シンの過去を知っているであろう二人とは話をしてみたいと思っているし、当然怖がらせるつもりなんて微塵も無い。

 なのに彼女達はいつもいつも、過剰なくらいに脅えてばかり。イライラするなという方が無理な話だ。それとも過去の自分は、彼女達にとってそんなに怖い存在だったのか。

「……言いたい事があるんならさっさと言え。そんな風に見つめられてもな、お前らの考えている事なんか俺には分からないんだよ」

「……」

「……」

 返事は返ってこない。まぁ、予想はしていた。

 敢えて言葉は重ねずに、彼女達が口を開くのをジッと待つ。ただでさえ萎縮しているのに、下手に何か言えば更に縮こまってしまうのは目に見えている。

 食事の手を止め、二人が喋り出すまで彼女達の観察でもしている事にした。

(それにしてもコイツら、見事に対称だな……)

 気を抜けば思わずハッとしてしまうような、将来を期待させる整った顔立ち。触れれば簡単に折れてしまいそうな、年齢を考えても華奢過ぎる体格。流石双子と言うべきか、造りそのものは同一と言って良いだろう。

 ただ、配色が違う。

 痛々しいくらいに真っ白な肌の色は同じだが、他には違う所が幾つか見受けられる。

 例えば一人は白い服を着ているが、もう一人は黒い服を着ている。奇妙な服だ。ゆったりとしていながら涼やかで艶やかなデザインは、ティスや聖堂に訪ねて来る女達が着ているものとは一線を画している。

 ボタンの代わりに紐や腰帯を使っており、更にそれぞれ頭に長い飾り布のようなものを巻き付けている。例えばティスが着ているものとは全然雰囲気が違うそれは、どう考えても異国のものだ。もしかしたら、シンの出身である東洋風のデザインなのかもしれない。

 デザインは一緒だが、双子でそれぞれ正反対の色のものを着ているのは何か意味があるのだろうか。

 先ず最初に思い付いたのはどっちがどっちだか見分けを付ける為というものだが、恐らくその線は無いだろう。

 わざわざ服で見分けなくとも、彼女達は他にも違いを持っているからだ。

 肩に掛かるかどうかという長さの髪。確かヒナギクという名の白服は明るい金色、ホタルという名の黒服は明るい銀色である。顔立ちがそっくりだから二人は一卵性双生児なのだと思っていたが、髪の色がこうも違うとなるとその考えは間違っているのかもしれない。

「あの……」

「ん?」

 俯いていた二人の内の二人が、恐る恐る顔と声を上げた。

 銀髪と黒服。ホタルだ。先程頭を撫でると逃げていってしまった方である。

 自らの片割れが勇気を奮い起こしたのを見て、もう一人の方も顔を上げた。

 金と銀、それぞれの髪の色と同じ色をしたオッドアイ。二人共、片方はまるで血のように紅い目をしているのだが、白服のヒナギクは左目が金色、黒服のホタルは右目が銀色なのである。

 双子の外見の中では最も特徴的かもしれない二対の視線を同時に受け止めながら、ホタルの言葉の続きを待つ。

「その、えと……」

 目が合うと、ホタルは一瞬、今までと同じように咄嗟に視線を逸らし掛けた。が、どうやら思い留まったらしい。何とか目を逸らない状態のまま、踏み留まる。

(へぇ……)

 少し、感心した。何故やたら怖がるのかその理由は置いとくとして、怖いものから逃げずに立ち向かうその姿勢は嫌いではない。

「シンは、キオクソーシツなんだよね?」

「そうらしいな」

「ボクたちのことも、わすれちゃったの……?」

「……」

 咄嗟に答えるのを躊躇ったのは、その言葉を紡ぐ彼女の声が余りにも切実な響きを含んでいたからだ。


小さいからと言って誤魔化そうとしてはいけない──


目の前の生き物は、此方が思っているよりずっと賢い──


 脳裏に囁き掛けるものがあり、シンは素直にそれに従った。居住まいを正し、覚悟を決めて、ゆっくりと口を開く。

「すまん」

 たった一言。短い謝罪。

 しかしそれでも、双子の表情を変えるには十分だった。銀髪黒服はじわじわと落胆の色に染めていき、金髪白服はうなだれるように視線を落とす。

「……そっか」

 子供にしてはよく頑張った方ではないだろうか。言葉尻を震えさせながらも、銀髪黒服はその一言だけで終わらせようとしていた。

 気を遣わせまいという配慮なのだろうが、しかし後が続かない。何でもないとでも続けようとしたのだろう。口を開きかけた所で、せき止めていた感情の壁が決壊したようだった。

「──ぁ……」

 ぽろりと、その頬を涙が伝う。

 ハッとしたようにそれを拭って、それが逆に自分の感情を認識させてしまったらしい。ポカンとしていた表情がくしゃりと歪み、彼女はそのまま、嗚咽を零すように泣き出した。

「っく……ぐすっ……うぅぅ……っ」

 金髪白服も、それに呼応するように肩を震わせ始める。勘弁してくれよと目を背けたくなる光景だったが、自分が不平不満を言える立場に無い事くらいはシンにも理解出来ていた。

「……ティスの奴、遅いな」

 口にしたのは適当な口実だ。立ち上がり、踵を返して、泣きじゃくる二人に背を向ける。

 逃げるのか、という頭の中の自身の声は、歯を食い縛る事で強引に噛み潰した。

「ちょっと、見てくる」

 そそくさと部屋の外に出て、後ろ手で扉をそっと閉じる。直前まで聞こえていた双子の嗚咽は聞こえなくなったが、耳にはハッキリと残っていた。

「くそ……っ」

 腹が立つ。何に対してなのかは全然分からないが、とにかく無性に腹が立つ。

 自分が一言放った、その結果。二人がみるみる失望の色に染まっていくその光景が、瞼の裏に灼き付いて離れない。

 ガキは苦手だ。記憶を失くす以前はどうだったのかは知らないが、少なくとも今のシンはあの二人が苦手だ。

 脆い爆発物のような存在を相手に、どのように対処すればいいのか知らないから。

「……」

 ぐすぐすと泣いている声は未だに続いている。扉が遮っている筈だから、きっと幻聴なのだろう。

 例え幻聴でも聞いているのに耐えられなくて、シンは逃げるようにその場から歩き出したのだった。


○ ◎ ●


 聖堂の中は暗かった。

 生活する空間と違って夜間には殆ど人が来ない所為だろうか、此方には殆ど灯りが入っておらず、光源と言えば壁際に等間隔に並ぶ燭台のみだ。

 幻想的と言えば幻想的なのかもしれないが、正直に言えば蝋燭の無駄使いじゃないかというのが本音だった。万一、夜間に誰かが来た時の為だとティスは言うが、シンはそんな物好きなんか見た事無いし、実際に居るとも思えない。

(……いや待て。だったら、今来てる奴は記念すべき第一号って事になるのか?)

 居住空間と聖堂とを繋ぐ扉を開ければ、聖堂の入口の様子を窺う事が出来る。

 ティスは直ぐに見つかった。人がやっと一人通れる程度に扉を開けて、どうやらその向こう側にいる誰かと話をしているらしい。

 気になったのは、相手の声が妙に大きいという事だった。森の中に潜んでいるこの修道院は、居住スペースも含めて全体的に小ぢんまりしている。当然聖堂もあまり大きくなく、下手をすると端から端までの距離を開けていても会話は聞こえてしまいそうなくらいだ。

 だが、此処からではティスの声は聞こえず、相手の声しか聞こえない。声から判断するに恐らくは中年の男、今は興奮気味な様子だった。

「……?」

 何の話をしているのか、気にならなかったと言えば嘘になる。

 幸い此方の存在が向こうに気付かれた様子は無かったので、そのまま気配を殺して二人に接近。闇の中に溶け込むように、ティスの背後にひっそりと立つ。

 下手したらバレるかもしれない距離だったが、余程話に夢中になっているのだろう。どちらも此方に気付く様子は無かった。

「口答えを!」

 タイミングが良かったのか、悪かったのか。

 聖堂の中に反響するような怒声が響き渡ったのは、次の瞬間の事だった。

「まだ分からないのか!! 黙って聞いていれば聞くに耐えない言い訳ばかり吐かしおって!! 恥を知れ、恥を!!」

「……えっと……」

 ティスの持っている蝋燭。少々心許ない光の中に浮かんでいるのは、何処にでも居そうな脂ぎった中年の男だ。弛んだ頬や顎が喚き散らす度にブルブルと震え、興奮故か汗まで流れ落ちている。身体をすっぽりと覆うようなローブを着ているので分かりづらいが、低い身長や身体の輪郭から余分な贅肉をたっぷり蓄え込んでいるのは容易に想像が付いた。思い切り突き飛ばしたなら、さぞ滑稽に転がってくれる事だろう。

「何度も言わせるな! この修道院は我々メリア教が管理していたものだ! 貴様のような何処の馬の骨とも知れない女が、勝手に住み着いていい所ではないわ!」

「でも、此処は元々シスター・マーサーが管理していた筈ですよ? 確かに一時的な代理ですけど、私が管理者の立場に居られるようきちんと手続きしてくれた筈ですが……」

「知ったような口を叩くな! 私はそのシスター・マーサーよりも上の立場の人間だぞ! その私に刃向かうと言うのか!?」

「でも、マーサーの前では確か司教様もそのように認めて下さって……」

「黙れッ!!!」

 臭い物に蓋をするようなタイミングの怒声だった。

 思わず顔を顰めてしまったシンの前で、恐る恐るといった様子で反論していたティスもビクリと口を閉ざしてしまう。

 長い会話では無かったが、それでも話の内容は大体把握出来てしまった。要は、この修道院の管理権限を巡る問題らしい。元々は“シスター・マーサー”なる人物が管理していたこの修道院に、何でか知らないがこの男は執着しているらしい。

 ティスとしては困った話なのだろう。それに加えて、相手は図体だけはデカいクセに中身はまるで子供だと見える。自分に都合の悪い事を言われたら即座に煩い黙れと返すのだから、最早マトモな話し合いにもなっていない。シンだったら、とっくに叩き出しているレベルである。

 けれどティスは、どうやらまだ話し合うつもりのようだった。

 お人好しめ、という呟きは飽くまでも胸中に留めておいて、シンもまたその言葉に耳を傾ける事にした。

「それじゃあ、私は一体どうすればいいんですか?」

「決まっている。即刻此処から出て行って貰おう。此処は我々、教会のものだ」

「……」

 きっと彼女は困ったように笑ったのだろう。見えた訳じゃないが、彼女のそんな反応は何となく目に浮かんだ。

 そしてその反応が、相手は気に入らなかったらしい。

「何がおかしい!!」

 半開きの扉に、脂ぎった拳が叩きつけられた。

「私を舐めるのもいい加減にしろ!!」

 あの、落ち着いて、と遠慮がちなティスの声。聞こえなかったのか、或いは意図的に無視したのか、男がそれに応える素振りは無かった。

「勘違いするなよ。私はお願いしているのではない。要求しているのだ」

 激昂したような怒声から一転、抑えつけたような唸り声へ。同時にジリ、と一歩前に踏み出して、ティスとの距離を詰める。

「その気になれば貴様を力尽くで追い出す事だって出来るのだぞ。もう少し身の程を弁えて貰おうか」

 手を伸ばせば届く距離。横に広い分縦の長さには乏しいので、自然にティスを見上げる形となっている。

 態度や言っている事は見下ろしているものだから、何だかチグハグで見ていて滑稽だ。偉そうな事を言う前に、奴は自分の威厳とか器とか、そう言ったものを見直した方がいいだろう。

「……ふん」

 気付かれないように鼻で嗤う。

 少し気になる内容ではあったものの、聞いた限りではあの男が筋の通っていない駄々を捏ねているだけの話だ。所詮は上辺だけの脅迫に過ぎず、何の力も持っていないに違いない。

 いざとなれば前に出るつもりでいたが、恐らくその必要は無いだろう。

「──但し、私も鬼ではない。寛容もまた、神の教えだ」

 そんな考えが跡形も無く吹き飛んだのは、そのまま闇の中に退こうとした直前の事だった。

 ローブの袖に覆われていた手が動き、何気無く、本当に何気無くティスの肩にポンと置かれるのが見えた。月明かりや聖堂の燭台の光を貪欲に反射してギラギラと光っているのは、あれはひょっとして指輪だろうか。

 唐突な行動にティスも驚いたのだろう、呆気に取られて一瞬硬直してしまっていた。が、すぐにハッと気を取り直し、困惑したような声を上げる。

「あの、司教様……?」

「条件。条件によっては、貴様を私の所に置いてやらんでもないぞ」

 ティスの言葉は聞いていないらしい。片手だけでは飽きたらず、もう片方の手もティスの肩に乗せる。否、捕まえる。

 ゴテゴテと煌びやかな装飾の多い両手は、ティスの華奢な肩をしっかり掴んで締め上げていた。

「司教様……? その、痛いです……」

「貴様、私の下に来ないか? 聞けば近隣の者に聖堂を開放し、懺悔の真似事をしているらしいではないか」

 はぁ、と息を漏らす音が聞こえた。

 言うまでもなく司教のものであるそれは、ねっとりと荒く、人というよりは獣のそれに近い。

 視線も、一カ所に定まっていなかった。

 僅かな光の下でも尚白い首筋、キラキラと輝いている金髪。ほっそりとしているが艶やかな曲線を描いている腰のくびれや、衣服を大きく盛り上げている豊かな胸など、まるで舐めるように見ているのが確認出来た。

「私の下で学ぶがいいぞ、ティセリア・クラウン。なに、悪いようにはしない。最高の環境を提供すると約束しよう」

「えっと……?」

 ああ、そういう事なのか。

 未だ状況が呑み込めていないらしいティスとは違って、シンは妙に納得した気分だった。わざわざこんな時間に訪ねて来たのも、一目を憚るような格好をしているのも、そう考えれば全て辻褄が合う。

 この司教とやらが執着しているのは修道院でも、ティスという修道女モドキでもない。

 ティスという“女”だ。

「チッ……」

 “メリア教”とやらがどれだけ立派な教えを説いているのかも、それ以前に具体的にどういう組織なのかもシンは知らない。覚えていない。

 けれどたった今、一つだけ分かった事がある。

 この男は、豚だ。

「胸糞悪ぃ」

 気が付けば、沈み込んでいた闇の中から勢い良く飛び出していた。

 背後からティスの肩を掴んで引き戻し、同時に豚男の喉元を別の手で掴んで半開きの扉へと叩き付けてやる。

「わ」

「ぐぇッ!?」

 あまり緊張感の感じられないティスの悲鳴。潰れた瞬間の蛙のような男の悲鳴。

 男を叩き付けられた衝撃で扉が限界まで開き、壁に叩き付けられた派手な音に、二人の悲鳴は半ば掻き消されてしまった。

「ぐぉえ、がッ……!!」

「五月蠅ぇ」

 開ききった扉に押し付けた司教の身体は、存外軽かった。事態を把握するのに暫く時間が掛かっていた男が漸くジタバタと暴れ出してからも、多少の負担を覚える程度で支えきれない程ではない。

「なんだ貴様……ッ!? 放せ……ッ!?」

「五月蠅ぇって言ってんだろ。俺だってテメェなんぞに触りたくはなかったさ」

「無礼な……ッ。私が誰だか知っての狼藉かッ!? この手を放せ、天罰が下るぞ……ッ!」

「天罰だァ?」

 自分の体重が喉元に全て掛かっているのだから、その苦しさも相当なものだろう。言葉を吐き捨てる事が出来ただけでも、その根性(プライド)は認めてやらなくてはならないかもしれない。

 所詮は豚の尊厳だが。

「……いいか、よく聞け」

 顔は寄せない。出来るだけ顔を近付けたくない。

 精一杯腕を伸ばした上で凄んでみせても迫力半減だが、やりたくないのだから仕方無い。

「俺は人間の皮を被った豚が一番嫌いだ。ブクブク太った肉の塊が盛った顔でキーキー喚いているのを見るとついつい殺してやりたくなる。飯が不味くなるからな」

 侮辱された故か、それとも単純に頭に血が行ってない故か、司教の顔がどんどん青白くなっていく。

 胸が梳いたかと言えば、全然そんな事は無かった。この顔が視界の中にあるだけで、腹の底がムカムカしてくる。

「教えがどうとか言う前に、先ずお前がこの世から消えろ。その方がよっぽど世の中の為だ」

「……ふざ、けるな……ッ」

「口が臭ぇよ」

 黙れという意味合いを込めて、首筋を掴む手の力をギュッと強める。ダイナミックに首の肉が指の間からはみ出す様は、見ていて鳥肌が立つ光景だった。

 気管を締め上げられて満足に息も出来なくなったのだろう。司教の身体がビクンと跳ねて硬直したかと思えば、直後にジタバタと狂ったように暴れ出す。

 殺されるとでも思ったらしく、その顔には恐怖の色が色濃く浮き上がっていた。ついさっきまで天罰がどうとか抜かしていたクセに、あの威勢は一体何処に行ったのか。

「選べ」

 短く吐き捨てる。

「俺の前から失せるなら俺の手首を一回、首の骨をへし折られたいなら二回。どちらか選べ」

「は、ぐ……ッ、あ……ッ!?」

「さっさとしろ」

「か……ッ!!」

 司教は答えない。従う様子も見せず、シンの手首を両手で捕まえて気道を確保しようとするばかりだ。

 ティスの前で本気で死人を出すつもりも無かった。人の話も聞けないのかと呆れつつ、僅かに手の力を緩めてやる。

 それが間違いだったと思い知らされたのは、正にその直後の事だった。


「──“エイプマン”!!」


 呼吸と共に吐き出される、掠れた金切り声。

 一瞬、何を言い出したのかと怪訝に思い、その所為で更に相手に時間を与える形になってしまう。

「何をしている!? さっさと私を助けんかッ!!」

 瞬間。

 何かとんでもなく大きな質量が落ちて来るのを感じた。咄嗟に吊し上げていた肉と脂肪の塊を脇へと放り、同時に背後を振り返って其処に居たティスの身体を掻っ攫う。

 玄関部分の床が粉々にされる轟音が聖堂に響き渡ったのは、その直後の事だった。

「うわ……粉々だ」

「つくづく大物だな、お前……」

 目を丸くしながらも何処かのんびりと呟いたティスに呆れつつも、抱え上げていた彼女を地面に下ろしてやる。

 振り返れば、もうもうと舞い上がる粉塵の中に爛々と輝く赤い光を二つ、見つけた。見上げるくらいに高い位置にあるが、あれはひょっとして“目”なのだろうか。

「いきなり出て来て何だ、アイツは?」

「大きいね。上から降りてきたみたいだけど、ひょっとして屋根の上にでも居たのかな?」

「……大物発言はもういいから、お前は後ろに下がってろ」

「え? でも」

「俺の事なら心配要らねぇよ。暴れまくる迷惑な客を多少乱暴に叩き出したって、バチは当たらんだろ。それよりお前は、双子の所にでも行って安心させてやれ」

 この騒ぎだ。双子にも間違い無く聞こえただろうし、二人共不安になっているに違いない。ティスを行かせれば二人の宥め役になってくれるだろうし、ティス自身も安全な所へ避難させる事も出来る。一石二鳥というヤツだ。

「……分かった。確かに、“シンなら”大丈夫そうだしね」

 双子の話が出ると、ティスも納得したらしい。少しの間、困ったようにその場に立ち尽くしていたが、やがてシンの言葉に押されるように居住区に向かって後退りし始める。

「でも、無理だけはダメだよ。いざとなったら、逃げてもいいんだからね?」

「あいよ」

 ある程度見送った後、シンは目の前の敵の方を向き直っていたので、ティスの姿は途中から見えなくなった。ただ、気配が滞り無く遠退いていったので、特に問題も無く離脱出来たと分かった。

(さて)

 これで気掛かりは無くなった。薄れていく粉塵の中から現れ出でた相手の巨体を睨め上げ、先ずは軽く溜め息を吐く。

「……こりゃまた随分とデカい奴が出て来たもんだな」

 先ず目を引くのは、煌々と輝く赤い双眸。奴はやたらゴツゴツして邪魔臭そうなゴーグルを装着しているのである。

 ドラム缶二本分の太さはあろうかという大きく膨れ上がった上半身。握り拳が床にまで届きそうな長い両腕。下半身は上半身に比べて小さく、全体的に人というよりは猿に近い体躯をしている。

 とは言え、それだけだったらまだ衝撃は少なかったかもしれない。問題なのは、奴の身体は所々が鋼鉄で出来ているという事だった。

 赤い光を放つ目元のゴーグルもそうだし、肩や上腕部から皮膚の下から鉄板の光沢が月や蝋燭の光を反射している。ボルトやプラグなど刺々しい部品は見ているだけで痛々しく、上腕部から伸びたチューブは首の後ろや背中に伸びているのが窺える。

 何より特徴的なのはその両腕で、部分的どころか腕そのものが無骨な鉄塊と化している。あんなものでブン殴られたら、きっとひとたまりも無いだろう。

「何をボンヤリしている!? 貴様、自分の役目を理解しているのか!?」

『ア゛ー?』

 “猿人(エイプマン)”。成る程、言い得て妙だ。

 目の前のシルエットは機械で出来た類人猿に無理矢理人の皮を被せたような、そんな奇っ怪な印象だった。

「ソイツを八つ裂きにしろ! この私を殺そうとした不信心者だ!!」

『オ゛ー』

 月明かりが照らす薄闇の中、ゴーグルの赤い光が緩慢に動く。その鈍さとはまるで正反対の速度で、床に付いていた鋼鉄の握り拳が大きく振り上げられるのを確かに見た。

「──!?」

 爆音。

 目の前を掠めて落ちてきた巨拳が、今まで自分の居た場所を粉々に砕く。

 速く、そして重い。

 ティスの前では大きな事を言ってしまったが、少し不安になって来た。

『ル゛ーー!』

 そんな事を考えている内に、更にもう一撃。

 こっちは大きく跳び退ったというのに、向こうはほんの少し距離を詰めて、腕の長大なリーチに物を言わせれば事足りる。

「チィ……ッ!」

 更に後退。腕は長くとも機動力が低いなら、相手の機動力と腕の長さを足しても尚届かない所まで逃げればいい。相手を聖堂内に招き入れ、この場を戦場に変える事になってしまうが、今回は止むを得ないだろう。

 ……が。

『ア゛ーーーー!!』

 ぶわっ、と。

 来ないと思っていた巨体が何の前触れも無く宙を舞うのを目の当たりにして、シンは思わず度肝を抜いた。

「冗談だろ……」

 コイツ、跳べるのか。

 笑えるくらいに頑丈な両腕が空中でガッチリと組み合わさるのを眺めながら、思わず呟く。

 ハッと我に返った時には、既に巨大な拳鎚が、空を引き裂きながら自分に向かって振り下ろされている最中だった。

 回避は、もう間に合わない。

(南無三……!!)

 いきなり追い込まれて、やけっぱちになったのかもしれない。せめてもの意地で、何とか抵抗したかったのかもしれない。

 少なくとも、諦めるような真似をしたくなかった事だけは確かだった。


『……防ぎきれない強撃には、此方も同じ強撃で対抗する事──』


 地を蹴る。僅かに前に出る事で位置を調整。同時に自らの身体に勢いを付加する。


『単純なパワーで劣るなら、此方は力を一点に凝縮して高密度にすればいい──』


 突き上げるように、或いは撃ち抜くように。ただ思い切りやればいいというものじゃない。全身の筋肉を味方に付けて、バネのように弾けさせる。


『ただ攻撃を当てるだけでは駄目だ。打撃の芯を見極めて、その中心を打ち抜く事──』


 目は閉じない。風圧もプレッシャーも全て呑み込んで、自らが狙うべき打点を一瞬で判断、凝視する。

 目を逸らしてはならない。勝機は、活路は、全てこの一瞬の中に。


「──おおおおおおおッ!!」


 轟音。

 靴底を突き上げるようなシンの蹴り上げは、相手の拳鎚と真っ向から激突。

 衝撃を撒き散らし、ビリビリと大気を震わせて、そして。

『の゛オ゛!?』

 拳鎚を、思い切り弾き返した。

 勢いを殺し切れず、相手の巨体が空中でグルリと一回転。受け身も取れずに石床の上に頭から墜落し、ズシンと重たげな音を立てる。勢い余って空中に跳び上がる形になっていたシンの身体も、それに一拍分遅れる形で着地した。

「ふー……」

 静寂。

 詰めていた息を吐き出し、思わず呟いたその声は、思ったよりも大きく響いた。

「死んだかと思った」

 轟音と衝撃の余韻が漂う空気の中で、耳障りな声が聞こえて来たのはその時だ。

「馬鹿な……」

 言うまでもなく司教の声だ。目を遣れば開け放たれた扉に隠れるような位置取りで、阿呆のように口を開けて突っ立っているのが見えた。

「重量級のサイボーグの一撃だぞ……? 並みの人間が対抗出来る訳……いや、待て」

 何やらブツブツと呟いていたが、やがてハッとしたような顔をする。

「そうか貴様も、貴様もPBWか……!」

「PBW……?」

 再び、聞き慣れない単語の登場だ。

 怪訝に思って聞き返すが、相手は既に聞く耳を持たなかった。忌々しそうに舌打ちをすると、床の上に俯せに倒れたままの大男に怒声を飛ばす。

「この猿! 一体何時まで寝ているつもりだ!? さっさと起きて其処の身の程知らずを始末しないか!!」

『オ゛ー……』

 今までピクリとも動かなかったエイプマンが、その言葉を受けてのそりと動き出す。長大な腕を床に付き、緩慢な動作で起き上がる。

 確かに派手にコケてはいたが、元を正せば単に攻撃を弾いただけだ。シンだって、これで終わりとは思ってはいない。

「……つっても、全然効いた様子が無いんじゃなぁ……」

「ソイツはPBWだ! 念入りに、念入りに始末しろ!」

『ア゛ー』

 頭は回らないようだが、少なくとも素直ではあるらしい。答えるような声が聞こえ、巨体が揺らめいたと思った次の瞬間、再び鉄拳が頭上から迫って来ていた。

「!」

 真横に滑るようにその場から移動。擦過し、床を打ち砕いた拳を横目に見ていると、すかさずもう一つの拳が頭上から落ちて来るのを察知。一撃目と似たような動きでそれも回避する。

 三撃目。四撃目。五撃目。逃げるシンを追い掛けて、前に横に後ろに拳は落ちる。大きく跳ばず、ギリギリの所で回避するシンの動きに躍起になっていくように、拳の間隙はどんどん狭く、小さくなっていく。

 轟音。轟音。轟音。轟音。

 鉄拳が雨霰と降り注いで来るような暴力の嵐の中に、唯一人。

 風が轟々と耳元で唸り、衝撃の余波が服の裾を煽る。周りの床や長椅子は瞬く間に粉砕されてしまい、今では風圧に翻弄される細かな破片となって見る影も無い。

 それでも、シンの身体を捉える事は無い。捉える事が、出来ない──

「単純なんだよ」

 動き続ける的を素直に追い掛けた所で当たる筈も無い。逃げる相手が、自分の拳が届く頃には何処に居るのか。それを予測して攻撃を放たない事には、お話にならない。

 拳で弾幕を張るにしても、もっと無造作に、いっそ標的に的を絞らないで撃ち込んで来ないと駄目だ。幾ら重かろうが圧倒的だろうが、後から追い掛けてくるだけの絶対に当たらない拳なんて、怖くも何とも無いからである。

 自身のスペックの確認も兼ねつつ、徒にひたすら避けまくりながらジリジリと距離を詰めていくなんて芸等は、普通なら怖くて出来ないものだ。

 やがて相手の懐に潜り込み、その身体を此方の間合いの内に捉えるまでには、そう時間は掛からない。

「破ッ!!」

 敵の拳を躱した際の前方への踏み込みをそのまま攻撃に転用。下半身による推進力に上半身のバネの力を追加し、相手の下腹に渾身の掌底突きを叩き込んでやる。

 ズンと返って来た衝撃は、予想以上に固く、重い。

 腕が痺れて使いものにならなくなるかと思ったが、下腹に打撃を貰って身体を「く」の字に折り曲げていた相手を見ると、自然に身体が反応して次の行動に移っていた。

「羅ぁッ!!」

 掌底を引き、代わりに固めたもう一つの拳を思い切り突き上げる渾身のアッパーカット。下がっていた相手の顎を思い切りカチ上げ、その巨体が大きく仰け反る。

 さぁ、仕上げだ。

 今にも倒れそうなくらいにバランスを崩した相手を見据えつつ、身体が動くままに行動する。いや、行動しようとする。

『──う゛あ゛ー』

 ぶおん、と空気を無理矢理引き千切るような音が聞こえたのはその直後。ゾクリと背筋に悪寒が疾るのとほぼ同時。

「……!?」

 ガンッ、と横合いから襲って来る、衝撃。

 何が起こったのかイマイチ把握出来ないまま、気が付けば修道院の壁に叩きつけられていた。

「な、ん……?」

 何だ、と呟いた口が上手く回らない。頭がクラクラと回り、足下がフラフラと覚束ない。

 飛んでくる殺気に反応出来ただけでも幸運な方だろう。言う事を効かない身体を重力に任せ、その場に倒れ込むようにして殺気の軌道上から何とか逃れる。

 何か重い物が頭上の壁に激突し、渇いた音を立てながら粉々に砕け散ったのを気配で感じたのは、ほんの数瞬後の事だった。

(野郎……!)

 どうやら、甘く見過ぎていたらしい。バラバラと容赦無く降り注いで来る破片──恐らくは長椅子の内の一つだろう──を甘んじて背中に受けながら、内心で舌打ちする。

 あれだけデカくて固いのなら、当然、その耐久性だって馬鹿みたいに高い筈。こっちの攻撃を食らいながらも反撃に転じる事なんて、造作も無かったに違いない。

 アッパーカットで大きく仰け反らされながらも即座に立ち直り、尚且つその勢いを剛腕に乗せてラリアット。大体、こんな流れだろうか。

「ったく、よく死ななかったよな、俺──」

 額でも切ったのだろう。ダラダラと視界に垂れて来たものを感じて、舌打ちする。シンの身体は思った以上に頑丈らしく、ザッと体内に気を配ってみても特に異常は感じなかったが、この幸運が次も続くとは限らない。

 どのみち、五体満足で戻れたとしてもティスに怒られる事は決定だ。どう転んだって悪い結末しか待っていないのだから、何だかもう泣きたくなってきた。

「あー、くそ……」

 背中に積もった木製の瓦礫をザラザラと落としながら、立ち上がる。先ずは機械猿が何処に居るのかと視線を飛ばし、さっきとあまり変わらない位置で長椅子を大きく振り上げているのを確認する。


『──慌てる必要は無い』

『──適当に、流せ』


 直後、鈍い風切り音と共に飛んで来た長椅子。手を伸ばしたのは考えての行動ではなく、身体の記憶(コエ)に従っただけに過ぎない。

 ふわりと手を添え、そっと脇に押し流す。

 次の瞬間、長椅子はシンの真横を通り過ぎて壁にブチ当たり、轟音と共に砕け散っていた。

「好き勝手に壊してんじゃねぇよ」

 額の血を拭い、何処かで切ったらしい口の中の血を脇に吐き捨てる。

 視線を上げれば、首を傾げるエイプマンと、隠れるのも忘れてポカンとしている司教の姿が確認出来た。

「ティスに、余計怒られちまうだろうが」

 大男が吼えるのと、此方が床を蹴って飛び出すのはほぼ同時。

 足腰に力を溜めて跳ぶのではなく、重力に引かれて倒れ込むように疾走、滑るように距離を詰めていく。剛腕に持ち上げられた長椅子が何度か叩き付けられたり、薙ぎ払われたりしたものの、脇にズレたり軽く跳ねたりすればそれで事足りた。

『ぬ゛ん゛!!』

「!」

 まるで行き先を阻むように、長椅子がシンの眼前に杭か何かのように突き立てられる。

 かと思いきや、それは次の瞬間には大男側から突き出して来た巨大な拳によってブチ折られ、粉砕されてしまう。通せんぼに怯んで一瞬でも動きを止めていたら、マトモに喰らってしまうようなタイミングだった。

『あ゛ー?』

 考える事無く進路を変更。長椅子と一緒に拳を避けつつ、相手の脇に回り込む。目を付けたのは、重そうな巨体を支えている短い脚だ。疾走の勢いを上乗せしつつ、姿勢を低くして独楽のように回転。

 片足を勢い良く薙ぎ払う足払いは、けれど何かを捉える事無く空振りに終わった。

 片足を抜いて、足払いから逃れた大男。グラリと傾いだその巨体は、バランスが崩れたのではなくて自ら崩したのだ。自慢の剛腕を折り曲げ、固くてゴツい肘に先陣を切らせて、足元に蹲っている小さな敵を押し潰さんと勢い良く倒れ込んで来る。

 しゃがみ状態である此方に、対処のしようがある筈も無い。


『──本当に、そうか?』

『──お前はさっき、奴の重い一撃を受け止めたでは無いか』

『──さぁ動け。行動しろ』

『──戦うのを止めれば、其処でお前は死ぬだけだ──』


「……うおおおおおおおッ!!」

 気が付けば、身体は既に動き出していた。

 床に手を突き、沈ませていた身体を一気に跳ね上げる。重心をどっしりと腰に据え、上体の芯を崩さないような姿勢を心掛けながら、真上に向かって両手を翳す。

 鋼鉄製、更には超重量級のエルボーが襲い掛かって来たのは、それと殆ど同時の事だ。想像もしていなかった衝撃が頭の先から突き抜けて、一瞬、意識が飛びそうになった。

 いや、本当に一瞬気絶していたのかもしれない。

『……あ゛?』

 一拍の、間。

 身体のあちこちで何かが千切れたり壊れたりする気配を感じたが、意識はまだ消えていない。踏ん張った両足が床にめり込み、若干身体が縮んだような感覚を覚えたが、この身はまだ潰れていない。

 笑う余裕は無かったが、呆けたような相手の声が聞こえた瞬間、どうだと歯を剥いて笑ってやりたい衝動に駆られた。

 肘を受け止めた状態から、腰と軸にする感覚で一気に反転。掴んでいた太い腕を素早く持ち直し、肩に担いで両腕で抱え込むようにグイと引っ張る。

 肩を支点に、掴んだ両手を力点に。自身の力と梃子の原理を最大限に利用し、背負った巨体を力いっぱい投げてやろうと試みる。

 普通に考えれば無理な話だ。自分などより遥かに重い鋼鉄の塊なんか、掴んだ所でどうにか出来る訳が無い。精々、押し潰されるのが関の山だ。

 だが、奇妙な確信があった。

「──そぉらッ……!!」

 いっそ笑ってしまうような重量が、ある点を境にふわりと浮き上がるのを感じた。一気にその腕を引き込んで、眼前の床に向かって全力で投げ落とす。

 轟音。

 うつ伏せの状態で思い切り叩き付けられる形となった大男は、自分の身に起きた事が信じられないのかピクリとも動かなかった。

「……まぁ。ザッとこんなもんかね?」

 横たわる巨体を改めて眺めると、たった今自分がこの大男を投げたなんて信じられない。投げられた当人に倣って呆然としたい所だったが、それだと折角訪れた好機を無駄にする事になってしまう。

 自慢の重量を受け止められ、更にはそのまま投げ落とされて戦意を喪失している今の相手にならば、此方の言葉も通じるかもしれないのだ。

 飽くまでも不敵な、自信満々な笑みを口元に張り付かせながら、シンはゆっくりと歩いて位置を調整し、倒れている相手の首筋に足を乗せる。

「力と重さは大したもんだが、それだけじゃあ俺には勝てねぇよ。分かんねえようだったら教えてやるが、今のお前に俺は絶対倒せねぇ」

「何をやっている!? 何時まで寝てるんだ!? 起きろ! さっさと起きてソイツを殺せ! エイプマン! エイプマン!!」

 脇から司教ががなり立てるのが聞こえる。今の今までその存在を忘れてしまっていたから、少しばかり驚いてしまった。

 勿論、そんな感情はおくびにも出さないけれど。

「選べ」

 耳障りな金切り声は軽く流して、踏みつける喉元にほんの少しだけ体重を掛ける。どうにも鈍いようにしか見えない相手だが、自身の危機にはそれなりに敏感なようだ。声一つ立てない代わりに、ほんの少しだけ身体を硬直させるのが分かった。

「これ以上続けるつもりなら、今すぐこの場でテメェの首を踏み砕いてやる。出来ないとか思うなよ? テメェを投げ飛ばしたんだ、それくらい朝飯前だからな」

 本当に出来るか否かはともかくとして、この脅し文句はそれなりに効いているようだった。

 相手は声一つ立てないし、指先一つ動かさない。その表情は見えないが、此方を刺激しないように神妙に身を縮め、次の言葉を今か今かと待っている。

「だが、あそこの五月蝿い豚を連れて此処から失せるんなら、命だけは勘弁しといてやる。お前は明日を迎えられるし、俺は不味い飯を食わずに済む。お互い万々歳って訳だ」

「貴様、黙って言わせておけば! エイプマン、起きろ! 貴様の雇い主はこの私だぞ!? エイプマン……ッ!!」

 ちょっとだけ、目の前の大男が気の毒に思えた。悪い雇い主に捕まった結果がこれだ。この男自身、マトモな人生を送ってるようには思えないが、こうやって素直に此方の話を聞いている所を見ていると、そこの司教よりは数倍マシな気がしてくる。

「どっちにする?」

 実際、その通りなのだろう。

 既に腹の内は決まっているらしい大男に向けて、シンはゆっくりと選択を迫る。

「選べ」

























「乱暴」

「悪かったな」

 今夜の月は随分と明るい。森の中は多少暗くなるが、今まさにその中に消えていこうとしているのは見た目も屈強な大男と、それに抱えられている肥え太った中年男である。

 せいぜい気を付けるべきは足下くらいで、流石に其処まで面倒見る義理はシンには無い。

「初めに言っただろ、叩き出すって。聖堂をボロボロにしちまったのは、まぁ、悪かったが、直せるとこは責任持って直す。だからそう怒るな」

「そうじゃなくて」

 半分開いた扉にもたれかかり、招かれざる客達を見送っていると、背後から誰かが近付いて来るのを感じた。

 言うまでもなくティスであり、此方の予想通りに怒っている様子だったが、その色合いはシンの思っていたものと少し違うらしい。

「無理はしないでって言ったのに。病気も怪我も、病み上がりが一番肝心なんだよ?」

 平常時のティスの声は、外見を裏切らずに静かで優しげだ。怒っているとは言っても、その声が普段と殆ど変わらないのでは迫力なんかある筈も無い。膨れ気味な表情は子供っぽくて想定外だったが、これが意外と、良い意味で似合っている。ティスには悪いが、これでしおらしくなれと言われても無理な話だった。

「……無理なんかしてねぇよ。やれると思ったからやった。あのデカいのも思ったより素直な奴だったしな。最後はちゃんと話し合いで解決したろ?」

「話し合い、というのもまたちょっと違う気がするけど……」

 結局、ティスは追及するのを諦めたらしかった。やれやれとばかりに溜め息を吐くと、寄って来て傷の具合を見ようとする。

 何となく素直に身を任せるのは抵抗があったが、此処で距離を取ろうとするのもおかしな話だ。僅かに身体が強張ってしまうのを感じつつも、最終的にはティスの好きなようにさせておく事にした。

「……アイツらは?」

「お陰様で、平気。もちろん私もね。護ってくれてありがとう」

「……。ああ」

 何でも無いようにさらりと紡がれたその言葉は、シンにとっては完全な不意打ちだった。

 幸いティスは傷口のチェックに余念が無かったようで、此方の様子に気付いた様子は無かったけれど、もしも顔を見られていたなら拙かったかもしれない。

 むず痒いような、落ち着かないような。

 自分でもよく分からないが、とにかく自分以外の誰かに知られたくないと自分自身が強く望んでいるのは確かだった。

「それにしても、あんなに大きくて強そうなサイボーグを倒しちゃうなんてね。凄い凄いとは思ってたけど、まさか此処までとは思わなかった」

「サイ……何だって?」

半機械人(サイボーグ)。PBWの一種だよ。身体の半分を機械化して、強化してるの」

「PBW……あの司教にも言われたな」

「普通の人間がPBWに正面から対抗出来る訳、無いもんね。私もその通りだと思うよ」

 そもそも、PBWとは何なのか。

 話の大前提が分からない事を伝えると、ティスは簡単に教えてくれた。

 曰わく、それは生身の身体に改良を施す事で人為的に産み出された、通常よりも強力な戦闘能力を持つ強化兵士の事なのだという。

 Personal Bio Wepon。

 兵士と言えば聞こえはいいが、その名前は扱われ方を雄弁に語っている。

 兵士というより兵器。其処に自由や人権などといったものは無く、周囲からはただひたすらに戦う事だけを求められる。

 あんまりお勧めはしたくない人生だよねと小さく呟いて、ティスはそっと微笑(わら)っていた。

「さっきみたいに機械と融合してしまう“半機械人(サイボーグ)”も居れば、身体そのもののスペックを増強して、生身のまま強くなろうとする“強化人間(バイオヒューマノイド)”もいる。シンはきっと、バイオヒューマノイドだね」

「ふぅん……」

 いきなりそんな事言われても、あまり実感は無いというのが現状だった。

 シンはシンとして此処に居る。それ以上でも、それ以下でも無い。凄いともてはやされようが怖いと恐れられようが、それは飽くまでも他人事だ。好きに言わせておけばいい。

「……」

 ただ、一つだけ気になる事がある。

 ティスはシンの事を兵器だと言った。本人にはそんなつもりは無かったのかもしれないが、シンにとっては失われた過去の一端に関わる話だ。気にならない訳が無い。

(俺は……)

 子供を連れて、血塗れになって森の奥に倒れていた男。何も覚えていないが、戦闘経験だけは身体に刻み付けられていた男。

 記憶を失う前は何をしていたのだろう。何を考えて生きて来て、これからはどんな人生を送るつもりだったのだろう。

 分からない。思い出せない。

(俺は、誰だ……?)

 ふと見上げた空には銀色の月。

 シンの疑問に答えてくれる筈も無く、そいつはただ、素知らぬ顔をしてぽっかりと浮かんでいた。


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