表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第二章 それぞれの思惑

そこは広大な国有林の只中。

東京ドーム一〇個をすっぽりと収容するほど広大な霊場を管理するのが、夜塚本家の役割だ。夜塚は朝霧とは違い国外を中心に活動する大規模鎮護が主な仕事である。

表向きは伝染病や疫病、自然災害として処理されるような広域霊的災害を秘密裏かつ迅速に処理するために存在するといってもいい。

だが、それとは別に潤沢な資金と豊富な人材を育成し輩出するという、日本屈指の霊能力者斡旋機関としての顔も持っている。広大な霊場も修行場として活用され、今や若手の霊能力者にとってはなくてはならない憧れの機関にまで成長していた。

そんな森林と修行場に囲まれた夜塚本家に、薫子は彼女専用の霊装を取りに来たのだ。

街のように人工照明に照らし出されることのない森は闇に覆われる刻限。しかし今は夕と夜の間の時間、空の色は茜とも藍とも附かない特有の色合いを帯びている。

その黄昏には早過ぎるというときに、薫子は夜塚本家の最奥部である禁裏(きんり)宝物庫、その更に奥にいた。

厳重に封印され管理されてきた呪法具の中にあってなお、一際強い結界が施された祭壇。

そこで薫子は黒漆の小鞘を掴むと、白刃を抜く。

刀身は灯り取りすらない庫殿の中でさえ怪しく煌めきを放っていた。

「特一級指定妖刀。無明眷神刀(むみょうけんじんとう)燐螢(りんけい)

 彼女が抜いた小太刀は、世界でも最高ランクの妖刀だった。

薫子は抜き身の刀身の刃元に親指を軽く押し付ける。

「夜に連なる血を与え……我は解く。縛りし鎖紋の血化粧よ、封ぜし緋色の連結よ。塗り潰せ、断ち斬れろ」

鍔元から刃先までを血が濡らす。

「目覚めよ、燐螢! 無明の神の眷属よ」

刀身に小さな紅い鎖が浮き上がると、薫子の血と混ざり合い粉々に砕け散る。

庫殿内を突風が襲い、燐螢の刃が光を帯びる。

燃える燐の青と蛍の緑、二色を足した輝きは強く、薫子の周囲を明るく照らし出す。

輝き光る刀身に未だ残る血液を振り飛ばし、燐螢を黒鞘に戻すと、

「お嬢様、こちらの準備は既に整ってございます。いつでも行けますが、如何します」

待ち構えていたかのような黒服の声が掛かる。

「そう。今の時刻は?」

「はっ! 現在時刻一六二七時、強襲、偵察、隔離、各部隊員は準備を終え待機中です」

顎に手を当て薫子は黙考すると、告げる。

「各員に通達。作戦開始を翌〇二〇〇時に設定。二二〇〇時まで待機。準備を怠らせるな。奴は、御神薙已織理は化け物だ」

「はっ!」

黒服は返事一つを残し、気配ごと消える。

「どこの誰だか知らないが、この依頼、何かある。夜塚が匿名の依頼を請けるなんてありえないことなのに。お爺さま、いったい何を考えている」

薫子は仰ぎ見た先は薄暗い天井だけだ。

まるで見えない行く末を暗示するようで、気ばかりが重く沈む。

「あんな化け物相手にこの依頼いけるのか」

答えなどあるはずもない。

深い溜め息を吐くと薫子は踵を返す。

沈黙が支配する中で遠く届いていた光も途絶えた。

誰もいなくなった庫殿、その天井裏に二つの光点が灯り、「きゅい」と鳴き声を上げる。

その光も消え、今度こそ本当に禁裏宝物庫を静寂が包みこんだ。



 薫子が口にしたお爺さまこと、夜塚現当主、夜塚正厳(しょうげん)は母屋に設えられた当主執務室で茶を啜っていた。

「さて、どうしたものかのう? たぶんこれ、御神薙に喧嘩を売ったようなもんじゃろうな~。参ったの~」

 まったく参った感じがしないのはその口調の所為か、それともそうは言いながらも楽しそうに歪んだ口元の所為か。

 どちらにしても腹に一物も二物もありそうな老人である。

「あんな出所不明の依頼、本来なら歯牙にもかけんのじゃが、あんなにも質の悪い気配の手紙を無視もできんしな~」

 そう言いながら目線を流した先には別の部屋の様子を映したモニターがあり、四人の術者が険しい表情で祝詞をあげていた。

夜塚の高弟が四人掛かりで抑え込まねばならないほど、この品々は禍々しい瘴気を放っているのだ。彼らが囲んでいる物品こそが、事の発端であり戦端を開く切っ掛けになった手紙とスポーツバッグだった。

これらは、夜塚の探知、防御、隔離の全ての術式をスルーして、謁見場に忽然と現れたのだ。まるで最初からそこにあったかの如く、誰の目にも触れることなく平然と。

だが、そんな不審物に不用意に近付いた弟子が鞄から溢れた瘴気に倒れ、それを助けようとした兄弟弟子達までもがバタバタと倒れるに至って、その品々の異常性に誰もが気付いた。しかし、夜塚の門徒であるという自負が、市井の者とは違うという自信が、救援を求めることを良しとせず、事態を悪化させたのだ。皮肉なことに彼等を救う最も効果的な一助をなしたのは入門したばかりの見習いだった。

夜塚の高弟達が駆け付けなんとか事態は収拾したが、高濃度の瘴気を吸い込み七人が死亡し、一六人が意識不明のまま呪医の元に搬送された。

その瘴気の濃度と量はそれだけの被害を出しても、尽きることのないとんでもない代物だった。

「儂でも近付くの嫌じゃったもんな~。ありゃ、分家連中でも一溜りもないわい」

 最終的には当主である正厳が出張り、バックの中を確認したのだ。

 中身は二億分の札束と一通の手紙。

 内容は相原悠という少女を、御神薙已織理から引き離すこと。

 手段は問わず、そのまま二四時間が経過すれば少女は解放しても良いという曖昧なものだった。さらには成否とは別にこの二億を進呈する、という旨で締めくくられている。

 署名などはないが、その瘴気が署名代わりといえばそうだろう。

 人間ではないし、ましてや単なる妖魔でもない。古参の大妖か、魔神クラスの使い魔か、何者であっても組織、または集団で対応に当たらねばならないような手合いだった。

「まぁ、いいわい。御神薙はちょ~っと強過ぎるから、潰しあってくれるのが丁度ええくらいじゃろ」

 夜塚の当主はもう一口茶を啜り、

「あとは結果を待つばかりじゃの。あんな化け物どうせ倒せんのじゃから、無理はするなよ~。薫子」

 無責任に孫娘に一任した。

 ここにも輪郭のとても曖昧な、『光学迷彩を施したソ○ッド・ス○ーク』のような影が天井付近に張り付いていたのだが、夜塚の当主が気付いた様子はなかった。



 他方、已織理の命令を忠実に実行している管狐の一匹は、面白いモノを探して夜塚の敷地内を当てもなく飛び回っていた。

 已織理が使役する管狐は各々が意思を持っているが同時に視覚、聴覚、嗅覚の感覚を共有し、情報を絶えず仲間内で交換し続けている。そのため同じ場所に二匹が固まるような愚を犯すこともなく、それでいて自由に動き回っていた。

「きゅ、きゅ、きゅ~♪ きゅきゅっきゅきゅ~♪」

 見るまでもなく、上機嫌である。

 近くに誰かいれば声どころか気配さえ完全に無くなるような偵察用の管狐だが、浮かれ気分の今の状態では当て嵌まらないらしい。

 已織理に呼び出されたのが久しぶりなら、大自然の中を駆け回るのも久しぶりではテンションも急上昇だろう。が、彼? ――已織理が手を加えたとはいえ、オリジナルは一匹が七五匹に分裂だか増殖だかをする存在の性別など知らない――彼は大自然と自由を満喫するあまり、周囲の警戒を怠っていた。

 管狐は夜塚の屋敷が俯瞰できる大きな木の一本にふよふよと不用意に近付き、

「きゅ?」

 視線を感じたような気がしてキョロキョロと辺りを見回す。

 しかしそれでも浮かれ気分の彼は深く考えることもなく、夜塚の邸宅を観察することを優先した。

 彼ら管狐は己が有する能力を完璧に理解していた。そのように已織理に創られたのだから当たり前だが、彼等の能力で感知できない存在など、高位の神や悪魔といったごく限られた超越存在以外にはないはずだった。

 彼は、いや彼等は、良く解っているのだ。偵察以外の機能がない自分達には、まったく、これぽっちも戦闘能力がないということを、しっかりと自覚しているのだ。

 その能力は油断があろうが、浮かれ気分だろうが関係なく自動的に機能する本能といっても過言ではないほど、根幹に根差した機能のはずだった。

 彼等は臆病であることが常であり、慢心など有り得ないのだ。

 しかし、そんな臆病な彼が違和感を覚えながらも夜塚邸宅を注視した瞬間、彼の長細い胴は、鋭い爪を持った何かによって三つに輪切りにされた。

「きゅ?」

 自分に何が起こったのかも判らぬまま、彼は自分の胴体を眺めることになった。

 それでも、最後の最後に目の端に捉えた茶褐色の羽を、仲間と已織理に伝えることだけは遣り遂げて、彼はこの世界から消滅した。



 使役獣が天に召されれば使役する者にもその情報はしっかりと伝わる。

 当然、死に方も伝わっているわけだが、如何せんその死についての情報が少な過ぎた。

 最期の努力は認めてやってもいいが、努力だけしか認められない。

『茶褐色の羽』

 それだけで何を察しろというのか?

 とりあえず、鳥。

 だからどうした、と言われればそれまでだ。だがまあ、正体に限ってしまえば全くと言って良いほど収穫はないが、相手の力量という意味ではそれなりに推察できる。

 まず間違いなく強い。高位の神魔かそれに匹敵するレベル。そして隠行にも長けている。

 とはいえ、それを神と断ずるにはまだ早い。不条理の集合体、奇跡の貯蔵庫、希望の原泉、絶望の根源、言うなれば非常識の塊が、鰯の頭さえ含まれる八百万の化け物共が、それこそが超越存在のぶっ飛んだ在り方なのだ。こちらの想像を遥かに上回っていもおかしくはない。そんな、『考えるだけ気が滅入る』何か、について已織理はすっぱりと考えるのを止めた。

 知識と情報を扱ってこその一族が、確定できない事柄を何時までも考えていても展望はない。已織理をして答えが出ないなら、それは決定的にピースが、欠片が不足し、欠落しているのだ。

 なので、已織理はより身近な事に一喜一憂することにする。

「人を化け物化け物言いやがって、泣くぞこの野郎」

具体的には、そう言って歯を剥いて唸ると、肩を落とした。

夜塚に張り付かせた管狐からの映像は、それはそれでショックではあったのだ。化け物呼ばわりされて気分が良いわけもなく、なんとなく背中が煤けている。

「あの師匠、なにかあったんですか?」

「いや、何でもねぇよ。ちょっと相手の出方を見ようと思ってな」

 管狐が何者かに殺されたことなどおくびにも出さず棗に軽く答える。

他ならない已織理の管狐を殺せるような手合いと戦り合うのは、今の彼女には早過ぎる。目が合った瞬間には殺されているかもしれない敵と対面させるわけにはいかないだろう。

そうした配慮や優しさの一切を見せることなく已織理は時計を確認し、

「そろそろ有羽理が帰って来んな。夜中までに準備を整えるなら、少し忙しくなるぞ」

コキコキと首を鳴らしながら言う。

時刻は午後五時を過ぎ、暗くなり始めた頃合いだ。

「あっ、そうですね。迎えに行きましょうか?」

「いや、こっちの準備が先だ」

棗はもう迎えに行く気満々だが、素気無く却下される。

「棗はアフロに連絡を取ってくれ。相原親子に何が起こったのか事の詳細を調べさせろ。結果は三時間以内だ」

「え~」

アフロなる人物に連絡を取るのが物凄く嫌なのか、棗から不満の声が上がる。

「羽月、夕凪の姫さんに使いを頼まれてくれねぇか?」

もちろんそんな声は無視して、已織理は次の指示を出す。

『はいは~い。いいわよ、琴姫ちゃんに何か伝言ある?』

「いや、俺からも後で連絡入れる積もりだ。必要ない」

矢継ぎ早に指示を出し已織理は帯に刺した扇子を掴み、

「それじゃあ頼む。俺は俺で来客の準備をしないとな」

締め括りというかのようにパシッ! と掌に打ち付けて会話を打ち切った。



鏡の前に立ちポーズを決める。

ダークグレーのスーツを粋に着熟し、黒いワイシャツと赤いネクタイのコントラストが男を飾る。

「俺ってなんて伊達男」

うっとりと呟き、男はもう一度ポーズを決める。

細身の身体は引き締まり、程よく鍛えられている。鋭い目付きに顎髭を蓄えた顔は野性的で整っているといえるだろう。

だがそれらの要素を総合しても、この男、断じて格好良いとは言えない。

いや、言いたくない。

何と表現すれば伝わるだろう。

そのシルエットは、

……ブロッコリー

…………カリフラワー

つまりは、そんな感じだ。

アフロ、なのである。

もこもこどばぁんと広がった頭の直径は優に八〇センチはあるだろう。

限度を知らない奴はバカだなぁ、見た人間の大半がそう思う――

「アフロをバカにするなぁぁあぁぁ!!」

魂の叫びを上げ、男は天を振り仰ぐ。

と、事務机の黒電話が音高らかに鳴り響く。

「はい、高柳探偵事務所。ご用件は……」

落ち着いたバリトンが流れるが、

「もしもし? バカですか」

電話の相手にばっさりと寸断される。

「アフロをバカにするなぁぁあぁぁ!!!」

二度目の叫びに電話相手は、

「は? なんで髪型を馬鹿にしなきゃなんないのよ?」

心底不思議そうに訊き、

「あたしはあんたを馬鹿にしてんの」

そう言い切った。

「なお悪いわ!」

激昂した男は受話器を叩き付けようと振りかぶり、

「師匠から仕事の依頼よ。相原優子、悠の身辺調査とここ最近の足取りを調べなさい」

高圧的な物言いと、『師匠』の言葉に思い止まる。

「モノを頼むときの礼儀を知らないのかね。棗さんは確かあの朝霧の娘さんじゃなかったかな?」

「ええ、たぶん、その、朝霧の棗さんだと思うわよ? ただ、はーどぼいるどって平仮名で表現しなきゃ生きていけないアフロには、これくらいで丁度いいのよ、高柳恭介(たかやなぎきょうすけ)

皮肉たっぷりの挨拶を交わし、二人は同時にチッと舌打ちをかます。

「じゃあさっきの依頼たのんだわよ。三時間以内だからね」

「相原優子、悠の身辺調査だな。なるべく調べて連絡する」

あれだけ派手にいがみ合いをしつつ必要な情報はしっかり取得している。

高柳恭介というアフロ、もとい探偵は実は有能なのかもしれない。

そんなこと知ったこっちゃない棗は、

「なるべくじゃなくて絶対よ。バーカ、アフロバーカ。プッ、ツーツー」

言いたいことだけ言うと電話を切った。


どガチャン。


「アフロをバカにするなぁぁあぁぁ!!!!」

受話器を本体に叩き付けた恭介は声も枯れよと叫ぶのだった。

――有能、なのだろうか?



帰宅した有羽理(ゆうり)は玄関に揃えて置かれた子供用の靴に眉をひそめた。

親子で来ているにしては、親の靴がない。こんな所――已織理が聞いたら泣く――一般の人間は来ない方が良いのだ。ましてや、子供なら尚更だ。即刻立入禁止にした方が良いとさえ思ってしまう。

なんと言っても女子高生を連れ込み同棲しているような家――もの凄ぇ誤解――である。

有羽理は父・已織理が聞いたら寝込みそうな事を考えながら、

「ただ今帰りました」

変声期前の高く澄んだ声で言う。

しかもその声の美しさときたら天使とタメを張れる程だったりする。

顔を構成するパーツにしても、茶色がかったサラサラの髪と優美な眉。優しい瞳という美少年ぶりである。

性格も温和で、微笑みを絶やすこともない。

さながら有羽理はナチュラルお姉さんキラーだった。

「あっ、お帰り。遅かったね」

そんなお姉さんキラーにも負けず棗は満面の笑みを浮かべ出迎える。

ランドセルを下ろした有羽理はその出迎えに、

「はい、友人の家に寄ってきました」

真面目に答える。

礼節を重んじ、目上を敬うことが出来る小学生。

なんか嫌な気もするが……

兎に角、有羽理は本当によく出来た一〇歳の少年だった。

棗は笑顔のまま、

「ふ~ん、あのさ帰ってすぐでなんなんだけど、琴姫んとこに泊まってくれない」

と有羽理に告げる。

「凍華さんが迎えに来てくれるから、それまでに用意しといてね?」

語り口こそ柔らかいがその雰囲気は有無を言わせぬ強さに満ちていた。

こういうときの棗は何を言っても笑顔で押し通し、何も語ってはくれない。

「そうそう、この子も一緒に行くから。ほら、おいで」

有羽理は柱の影に隠れるように様子を伺う女の子に目を向ける。

自分より年下だろうと当たりを着け、有羽理は破壊力満点の笑顔で、

「初めまして、僕は御神薙有羽理。君は?」

ゆっくりと相手の目を見て問い掛ける。

昔、まだ物心つく前の自分は暖かい腕に抱かれ、……救われた。

何からかは分からない。

誰に何をしてもらったのかも覚えていない。

それでも確信できる。自分は救われたのだと。

救われたのは心であり、身体であり、魂であり自身の根源。

だが同時に別の感覚も覚えている。

暖かった身体が、徐々に、確実に、熱を失い冷たく凍えていく瞬間を――体感と共に得られた絶望は、恩人の死。

顔は思い出せないけれど、あの人の瞳は暖かかった。

だから僕は……僕も、暖かく在ろうと思ったのだ。

「わたしは相原悠、お母さんを探してもらいに、来たの」

「そっか、じゃあ今日君が泊まる所に一緒に行こうか」

「……うん」

悠は真っ赤になりながらも確かに頷く。

傍で見ていた棗は思うのだった。

(悠ちゃん、惚れたなぁ。……ゆーりんって将来とんでもない女泣かせになるんじゃないかしら?)

 たった二回の会話と笑顔だけで悠を虜にして見せた有羽理の手腕は脅威だろう。棗の心配は遠からず実現しそうな気がした。



ポンッと小気味よい機械音が鳴り、両開きのスライドドアが音もなく開く。

中から現れたのは和服の少女とメイド、である。

少女は、白金色の生地に精緻な銀糸の飾り紋を入れた大振袖に薄紅色の帯と紅の飾り紐を合わせていた。

背中まで流れる長い髪は黒ではなく銀に艶めいている。

袖口から見える肌は白く、眠たげに細められた目は赤い。

メイドの方はレースとフリルのふんだんに着いたメイド服にワイングラスを逆にしたような形のスカート、ニーソックスにヒールという完全装備である。

だが、肩口で揃えた髪にカチューシャだけは着けていない。

どちらにしても、二人共どこかアンバランスな組み合わせである。

「ねえ、凍華? 私、荷物は、どう、したの、かしら?」

「ホテルマンに渡しましたが……いませんね。琴姫(ことひめ)

和服を着たたどたどしい喋り方の白というか、銀色の少女が琴姫、メイド服のかっちりした話し方の女性が凍華(とうか)というらしい。

そんな二人の後ろには、誰もいない。

荷物を預けたホテルマンも一緒にエレベーターに乗るはずだったのだが……

「取って参ります」

凍華はクルリと向きを変えるとエレベーターに乗り込んでいく。

「……いって、らっしゃ、い」

この二人、琴姫と呼ばれた方の少女の仕事の報酬ということで、金銭とは別に都心の一等地に建つこの某巨大ホテルに泊まることになったのである。

部屋はホテルのロイヤルスイート、六〇階建ての五八階である。

上階には展望レストランとラウンジ、プール等の娯楽施設しか存在しないため、客室の最上階は実質、琴姫達の泊まるこの部屋ということになる。

ちなみに、五八階に部屋は一室しかなく、一泊当たりのお値段は九〇万とも一〇〇万とも言われている。

そんな中にあって琴姫は困り果てたと顔色、色? で語っていた。

窓の外は都内を望める最高のロケーションだそうで、夜ともなればその夜景は光の海とも呼ばれる壮大なもの、なのだそうだ。

眼下に広がるイルミネーションの輝きは見る者の心にいつまでも残る、それはそれは素晴らしい風景だ、と言うことだった。

人づてに聞いた―聴かされたともいう―前評判は絶賛の一言に尽きた。

のだが、その光景を想像してしまった琴姫は、どんどん顔色を青褪めさせていき、ついには真っ白になってしまう。

「……高い、とこ恐、い」

ぽつりと零し、俯き、少し歩いては窓を目にして戻りを繰り返している。

三〇畳近い面積のベッドルームは、壁二面がガラス張りになっているうえに、前面の窓は構造が出窓状に突き出していて、足元にはマジックミラーがはめ込まれている。

「もっ、と普、通の、部屋で、いい」

平坦な声で愚痴り、琴姫はそろりそろりとベッドに近づいて、

「……高、い」

ちらりと見えた窓の外の景色に固まってしまう。

高い所が恐い。

琴姫はわりと重度の高所恐怖症である。

ベッドサイドにあるブラインドの開閉スイッチを押そうと思うのだが、残り五〇センチその距離が遠い。

そんな琴姫の後ろで空間が裂ける。

「!!」

驚きに跳びすさり琴姫は軽く身構える。

裂け目は徐々に広がり、

『よいしょ』

簡単な掛け声を上げる羽月を排出する。

『こんばんは、琴姫。少しお願いしたいことがあるの。って、どーしたの?』

「……羽月、様?」

油断なく構えた琴姫と、はてな顔の羽月は向き合ったまま見つめ合う。

二人の間に微妙な空気が流れるが、ポンッという機械音に救われる。

エレベーターから大量の荷物を持って降り立った凍華は、

「なにをやって居られるのですか?」

当然の疑問を口にした。

「『さあ?』」

二人同時に放たれた言葉に、凍華は珍奇な生物を見るような目を向ける。

『……冗談よ、冗談。ちょっと夜塚と戦り合わなくちゃなんないのよ。でね、已織理に使いを頼まれたの』

「「は?」」

二人はその言葉を理解すると同時に驚愕する。

業界の人間なら表にも裏にも、夜塚と正面から戦り合おうとする馬鹿はいないからだ。

夜塚はその仕事柄、個人にしても組織にしても超一流。

数年前に海外の片田舎で村が丸々一つゾンビ化した際など、四〇〇人余りの住民を除霊滅殺したのだが、ニュースどころか噂にもならずに片付けている。

これは余談だが、ゾンビというのは信仰の対象として得られる結果なので、銃で撃とうが燃やそうが、それどころかバラバラにしても死にはしない。死んでいるので死なないというのも変な話だが、普通の人間が太刀打ち出来るような怪現象でないのは確かだ。

とにかく、その村で行った処理に比べれば日本で一家族消すことなど簡単なことだろう。

「羽月、様、本、気?」

『あの人、楽しそうに笑ってたから本気よ。そうすると家が戦場になっちゃうでしょう? だから有羽理達を預けたいのよ。頼める?』

「――凍華?」

「琴姫、貴女が望むことを私が拒否することなどありえません」

「ありが、と……」

何事か分かり合ったらしい二人に置いて行かれ、

『相変わらず仲いいわねぇ』

羽月は生暖かい視線で遠い虚空を眺めやる。

『そうそう、あとで已織理から連絡あるはずだからよろしくね』

そう言いながら羽月は右手で剣印を作ると、指先に力を集中する。

『開け。我は統べる者なり。我が前に彼方、此方は無きに等しい』

暴論にしか聞こえないことを言い、剣印を上から下に引くと空間に切れ目を創る。

霊体としての羽月は、強い。

魂が輪廻の輪から外れ、より高い次元で顕在化したのが精霊である。

その力は法外だ。

「そち、らも、器用、です、ね」

琴姫は羽月の枠外の力に驚嘆しつつ、

「凍華を、迎え、にやり、ます。それと、棗姉、様をよろ、しく、お願い、します」

ぺこりと頭を下げた。

『それじゃあ、またね』

裂け目に飛び込んだ羽月はヒラヒラと手を振って消える。

「凍華、禊ぎに、入る。あとは、お願、い」

「分かりました。琴姫、ブラインドは閉めておきますから、もうそんな所に立っていなくても大丈夫ですよ?」

琴姫は今の今まで、窓の外が見えそうで見えないという絶妙なポジションから動いていなかったのである。羽月が現れた時にさえ外を気にしている辺り筋金入りだ。

「……うん」

返事をした琴姫は、表情変化の乏しい少女には珍しく、俯き気味に頬を染めていた。

「それでは、行って参ります」

凍華が出ていくと琴姫は徐に携帯電話を掛け始める。

「薫姉様、大神す、らも取り、込みし、者太古の、理を編み、し者、それが御神、薙です。どうか無、理をなさ、らないで、下さい」

通話を終えた琴姫は、焦点の合わない瞳で天井を眺め、

「視え、た」

そう呟くと目を閉じた。



已織理は袖から携帯電話を取り出すと、琴姫をアドレスから読み出す。

「夜塚を動かせる程のクズ、か。何が出てくるか」

暗く沈んだ嗤いを浮かべ、琴姫に電話を掛ける。

呼び出し音ゼロで通話状態に移行し、

『―五秒後―已織理様、ですか?』

なぜか呼び出し音より長く待たされる。

「よう、元気そうだな、琴姫」

まあ、いつもの事であるし別に何分待たされようと已織理が気分を害することもない。

『はい、そちらも、お変わ、りない、ようで、すね』

「ああ、まあな。有羽理達のこと頼む」

『……承知、しており、ます。薫子、姉様を、あま、り傷付け、ないで、下さい、ね』

「ああ、お前さんや棗の家族を傷付けなんかしねぇよ」

琴姫の心配気な声に、已織理は自信満々に請け負う。

「で、本題だ。報いを受けるべき人間がいる。探せるか?」

先程とは打って変わった冷淡な声と口調で已織理は言う。

『はい、視て下ります。富永総合病院。院長、綿貫幸行(わたぬきさちゆき)の息子、綿貫進(すすむ)が主犯に当たります』

いつもの琴姫には有るまじき早口で報告は続き、

『この親子は何度か『(いん)』に依頼し内敵を呪殺しております』

隠の名を口にする。

「ほう、隠の利用者か。だったら警察のマークも厳しいだろうが、いったい何をやってんだ?」

已織理の疑問も視たのか、

『綿貫親子は他人を仲介して呪殺依頼を出しています。本人が依頼を出したことは一度もありません』

言い切った。

「なるほど、本物の外道か」

已織理の纏う気配が致命的に冷え込んでいく。

隠とはいわゆる暗殺屋である。それも夜塚のように仕事を選ぶこともない。手当たり次第に仕事を引き受ける、手段を選ばなさ過ぎる人殺し集団として有名だった。

猟奇殺人者、快楽殺人者、飼っている人間は一癖も二癖もある変態ばかりで、悪い噂には事欠かない。

「夜塚もそいつらが動かしたのか?」

『……いえ、夜塚を動かしたのはもっと強大な闇、です。地の底よりもなお深き、暗闇の果て……私が視たのはそれだけ、です』

その光景は恐怖でも想起させるのか琴姫の声が震えた。

「大丈夫だ。大概のモノからは守ってやるよ」

『ありが、とう、ござい、ます。ックシュ!』

普段より少しだけ嬉しそうな声とくしゃみが続き、

「どーした、風邪か?」

『……禊ぎ、の最中に、電話、のイメー、ジが、視えた、ので、裸の、まま。……忘れて、下さい』

琴姫が簡単な説明を加える。

「そりゃーすまなかったな。風邪ひく前に服着ろよ?」

何の動揺もなく、琴姫の現状を無視し、

「てか、こんな時間に禊ぎをしなきゃならんほど、仕事相手は汚れてんのか?」

しかし琴姫の心配はしっかりとする。

『はい。新進、気鋭の、若手? 、代議、士なの、ですが、どす黒、い未来、しか視え、ませんで、した』

「ふん、世も末だな」

『そうで、すね。ですから、少し、でも、世間が、よくな、る様に、操作、して、おきま、した』

「ん、何か変わるのか?」

世間話レベルの会話で政治経済の操作云々を語り合い、

『代議、士の、色々、な悪業、が暴露、され、政治、家の取り締、まり法、案が可、決され、ます』

その先までを予言する。

夕凪とは、見透す者。過去、現在、未来を通してその道筋を詠む。過ぎ去った過去であれば起こった事象を、現在から未来という不確定な先であれば起こり得るすべての事象を見透し、詠み切る。

つまり夕凪(ゆうなぎ)家とは、占術だけで莫大な富を築いた加持祈祷のスペシャリストということだ。夕凪は血筋によってのみ受け継がれる緋目と呼ばれる先視の力を使い、人の命脈を読み解き、また国の先行きを占い、ときにその指針にさえ手を加えることを許された、古くからある宰相の一族なのである。

その夕凪史上最高の刻詠み、それが琴姫だった。

「ちなみにその代議士とやらの末路は?」

『獄中で、首を吊、って、自殺し、ます』

人の生死を左右しておいて、その声には微塵の揺らぎもなかった。

「まぁ、妥当なところだな」

悪徳代議士の末路など興味の対象外でしかない。

已織理の反応もまた冷たかった。

「それじゃあ、な。あまり変なものは視るなよ」

『気を、付け、ます。それで、はまた』

「おう。またな」

通話を切った已織理は苦い顔で天を仰ぐ。

「強大な闇、ね。琴姫でも見透せねぇ、か。となると……」

そこから先は言葉にしない。

嫌な想像しか喚起されないのに、言葉で己が未来を狭める事はない。

「今はやれることをやるだけだ」

已織理は堅、硬、凝、護と書かれた紙片を、壁や床、家財道具に貼りつけていく。

「争うつもりもないが……あまり壊してくれるなよ」

そう呟くと袖から細い竹筒を三本取り出して、ぷらぷらと振った。

筒からは三匹の管狐が飛び出し、散っていった。



 恭介アフロは棗の依頼を忠実に熟していた。

デスクに置かれたパソコンを忌々しげに睨みつけるが、キーボードを踊る指の動きが鈍ることはない。

パソコンに表示される内容も気に食わないが、パソコン自体も実は気に入ることはない。

なぜなら、高柳探偵事務所の雰囲気に合わないからだ。というか完全に浮いていた。

自分の城として構えた探偵事務所なのである。やっぱり雰囲気だって思い通りにしたくなる。そのために、恭介が拘りに拘り抜いてレイアウトした家具や道具は、選びに選び抜いた古き良き昭和の香りが漂う一九八〇年代然とした逸品ばかりなのだ。

最近買った物にまで『汚し』を施しているほどの熱の入れようだった。

そんな中でテレビとパソコン、この二種類の電気製品だけは恭介の思想と相容れなかった。薄型? 省電力? 3D? CPU? SSD? そんな物はクソ食らえだ。クソ食らえだが必要だった。仕事にはどうしても、テレビもパソコンも情報を得る手段として必要不可欠だった。

実際、時代の流れには、地デジ化には勝てず、情報化社会の波に乗るより他なかった。

こうして、恭介のポリシーは敗北した。

それは兎も角、万事屋に依頼される案件には一定の条件がある。まず、心霊関連であること。そして理不尽で不条理な条件として已織理が係わるに値する事態であること。または、已織理が気に入る依頼であること。

この二つ目の前提条件を満たした時点で調べるべきところは限られる。

「さて、アングラサイト系から探すにしても候補が多すぎんだよな」

画面の中には出るわ出るわ、エロ、グロ、スナッフ、殺しの依頼から運び屋までありとあらゆる裏サイトがズラズラと表示される。

馴染みの情報屋と警察関係者から、この失踪には隠が絡んでいることまでは突き止めた。

さらにそこから相原優子に関係が有り、かつ已織理が係わりそうな物だけを選別する。

選ぶべきは、殺しに類する何かだろう。

「さて、これを一つ一つ見ていくなんざ願い下げだが」

最終的な候補は九項目、全て隠が開設したページからの分岐だ。

もともとが特別会員限定のページな上にハッキング紛いのアクセスのため詳細な内容が判るわけではない、が変わりにパスワードの類もない。

しかも今表示されている九項目は厳重なロックと、二重三重に設置されたゲートの奥にあったものだ。

その内容たるや醜悪の極みだ。

恭介は何度か逡巡し最初のファイルを開く。

四番目のファイルまでを見終り、毒づいて五番目のファイルに取り掛かる。

「……クソッ」

開示された映像データは、どれも依頼人に向けて公開された、ターゲットの殺害シーンの色々だった。

殺害方法に違いはあれ、ターゲットは遅かれ早かれ必ず死んでいる。

最悪だった。

同じ人間に、そこまでの非道を行えることが理解できない。

そして、五番目にして恭介は当たりを引いた。

引いてしまった。

その映像は先の四本に輪を掛けて凄惨だった。

馬鹿デカいデータ量とそれに比例して長くなる一時間半にも及ぶ映像。

映し出される光景は、一人の女が蹂躙され尽くし殺されるまでの子細。

犯され、刻まれ、挽き潰され、それでも娘の安全を懇願し続けた母親が、最後の希望すら打ち砕かれ狂死する、すべて。

最後の最期、娘だけは見逃してやると甘い言葉を吐き捨てた男が、それを覆す瞬間に見せた口元、その嘲笑は一生忘れられないだろう。

……女の四肢は、無くなっていた。

マウスを掴む手が震えた。

噛み締めた唇から血が流れた。

沸騰しそうな怒りが恭介を包み込み、

「腐ってやがる」

排斥できない憎しみに声が震えた。

殺人者は最初から最期まで自分の欲望を満たすためだけに、女をいたぶっていた。

女が上げた絶叫に愉悦を覚え、追い詰めることに快楽を見出だし、人が壊れる瞬間、絶頂に嗤った。映像の終わりに『(えつ)』と署名までしていた。

「こんな奴がなぜのうのうと生きていられる!」

手近な壁を殴り付け、恭介は已織理に電話を入れる。

「已織理、手を下したのは隠の人間だ。コードネームは『悦』、最低のクズ野郎だ!!」

電話が繋がった瞬間、我を忘れて恭介は怒鳴り散らした。

対する已織理の反応はどこ迄も冷たい。

返った言葉は一言。

『――見ていた』

その一言で背筋が凍り、肌が粟立つ。

電話越しだというのに凍えそうなほど寒い。

見回せば窓越しに光る二つの目が見える。

恭介は何も言えず息を呑む。

さらなる一言ですべてが決っした。

『叩き潰す』

已織理が浮かべたであろう表情を想像し、恭介は震え上がる。

嚇怒の末に心が冷えきってしまったが故の、酷薄で残忍な笑み。

想像に浸った数秒で携帯は沈黙していた。

「頼むぜ」

恭介は携帯を見つめ呟いた。



恭介に裏を取らせた已織理は、握っていた携帯を弄びながら、徐にとある番号を押し始める。已織理が電話を掛けた先は隠だった。

それも隠のトップである隠そのものに、だった。

表向き隠という組織は五峯輪(ごほうりん)と呼ばれる五人の絶師(ぜっし)が束ねている事に、なっている。

その五峯輪の一人に虚旋輪(こせんりん)という女がいるのだが、そいつがいわゆる隠の頭領だったらしい。らしいというのは単純に、知る機会に遭遇したからだ。

以前、羽月を殺した奴を摺り潰すために少しばかり隠に所属していた時期があった。

まぁ、目的の奴をブチ殺し、叩き潰し、言葉通りに摺り潰して血煙に変えてやった時点で、隠にいる理由がなくなった為、すっぱり辞めたのだ……その場で。

それの何が気に喰わなかったのか知らないが、血迷った隠は御大自ら已織理の粛正という名の残留交渉に来てしまったのだ。

まさかあんな惨劇が起こるとは夢にも思わずに……やったのは已織理だが。

結論から言えば已織理が圧勝した。一〇〇対〇くらいの大差で隠は倒された。

外見は二〇代後半から三〇代前半の女で、会う度に声以外の姿形が変わるという謎の多い女である。戦り合う前に、冥土の土産とか言いながら自分の正体やら技やら能力やらを得意気に語り大敗を喫すれば、已織理の退団くらい許されようと言うものだ。

あれで、已織理にもう一度挑む気概があったら大したものだし、それが出来るなら裏稼業など続けていないだろう。

その時に隠との関係は断ち切れたのだが、

「よう、隠。てめぇんとこのクズ……殺すぜ」

それは已織理からの一方的なものでしかなかった。

『誰だ! 貴様はっ!! なぜこの番号を知っている?』

「てめぇの番号なんざ知らねぇよ。だがな、てめぇの霊気は識ってるぜ」

『だから貴様は誰なんだっ!』

「あっ? 忘れちまったのか。半殺しにしてやっただろう? この俺が!」

あの時を思い出せるように声に殺気と霊力を乗せてやる。

『ッ、御神薙、已織理ッ!!』

「お~、正解だ。拍手でもしてやろうか?」

『ふざけるなっ!』

「ふざけてねぇよ。最初に言ったろうが、一人殺すってよ」

一番最初に言ってやったはずなんだが、

「まぁいい。俺が殺すのは悦とかいう下衆野郎だ。邪魔する奴ァ一緒に潰すぞ」

今度は標的の名前も込みで言ってやる。

実力至上主義、個人主義の隠に於いて頭を張っているのだから、強いといえば強かったのだが、已織理が本気を出すところまでで終わってしまった。

純粋な強さで言えば棗レベルといったところか。棗と隠が戦えばまず間違いなく隠が勝つだろうが、強さ自体は同格なのだ。

勝敗の差は正道か邪道か、使う手段のえげつなさの差でしかない。

そしてただ手段を選ばないだけの奴に地力で勝り、えげつなさでも圧勝している已織理が負ける訳もない。

「下っ端一人で今回は目を瞑ってやるんだ。イエス以外の言葉なら……まとめて潰すぞ」

『…………分かった。好きにしていい』

「で、そいつは今どこで何をやってる。世界の裏側に居ようが関係ねぇ。言え」

「……悦だったな。そいつなら現在、綿貫という男が私兵紛いのことに使っている。あぁ、場所までは知らないから自分で調べろ」

 隠とは組織であって個人。依頼は窓口である口入屋や、専用の回線、サイトから代表の隠全体に開示される。隠所属の殺し屋はそこから自分好みの依頼を選定し、各人が勝手にコンタクトを取り依頼を引き受ける。契約は依頼人と殺し屋の個人契約であり、殺し屋は依頼が達成された際に、一定の割合で組織に金を納めさえすれば良いのだ。

 組織が根掘り葉掘り詳細を質すこともない。

「ほぉ、そいつは好都合だ。……やけに物分かりがいいが、そんなに俺が恐いのか?」

『二度と関わりたくないだけだ。余り調子にのるなよ。有羽理というガキのこと、我々が知らないとで――』

馬鹿に最後まで喋らせず、

「ソレをやった奴がどーなったかも、忘れちまったのか?」

ただ現実を突き付けてやる。

『…………』

押し黙った隠を無視して已織理は通話を終わらせると、

「さて、これで水入らずってやつだ」

 冷然と呟いた。



已織理は携帯を畳むとフラリと動きだす。

無表情に歩きながらチラリと時計に視線を走らせる。

時間は午後八時一五分。

夜塚の襲撃予定時間にはまだまだ余裕がある。

「先に片付けちまうかなぁ?」

出迎えの準備もそこそこに已織理は自室に戻ると着替え始めた。

今までの青色の着物から、黒色の着物に袖を通す。

已織理は仕事の内容に応じて着物の色を変える。

といっても、その分け方は二通りしかない。

汚れ仕事か、それ以外か。

必然的に汚れ仕事は黒、それ以外なら黒以外ということになる。

已織理は慣れた手つきで着替えを済ませ、必要な小物を手にする。

呪符に大扇子、長紐の数珠をそれぞれ袖や帯に仕込む。

戦装束に身を固めた已織理は、目を閉じると数秒後に開ける。

そこに今までの已織理は存在しない。

まず雰囲気が変わった。

流水を思わせる柔軟な気質が、吹き荒ぶ吹雪の鋭さを宿す硬質な気質へと成り代わる。

表情こそ変わらないが、今の已織理に近づく馬鹿はいないだろう。

「さてと、行くか」

已織理が一歩を踏み出そうとした途端、ドタドタと喧しい足音が響く。

襖を開けるなり棗は、

「師匠、凍華さんが……」

来ましたよ、そう言おうとして絶句する。

戦闘モード全開の已織理の気に当てられ動けなくなったのだ。

そんな棗を見て已織理は苦笑すると、

「そんなお前に救われてんだ」

くしゃりと棗の頭を撫でる。

已織理が部屋を出ていく間際、何気ない口調で棗は呟く。

「夜塚に、ですか?」

「いや、富永総合病院」

「え?」

聞き覚えのない名前に振り向いたとき、部屋に已織理の姿はなかった。

「どこか悪いのかな?」

どこまでもズレたことをぬかすと、首を傾げる。

その場に已織理がいれば、悪いのはお前の頭だ、とか言いそうだが、既に已織理は富永総合病院の門前まで移動している。

あの一瞬で已織理は、直線距離にして二〇キロを走破していた。にも拘らず、息一つ乱さず、汗すらかいていない。

身体の周囲には赤く輝く紙片が浮かび、纏うように緩やかに回転する。

「解」

呪が解かれると紙片は崩れるように空中で分解される。

已織理の術は汎用性が高い。特定の神や魔神を信仰しない御神薙一族が独自に編み出した技術は、一族が蓄積してきた知識の集大成なのである。

已織理は病院の勝手口まで来ると、ドアノブに手を掛け、「開」と囁き鍵を開ける。

起こしたい事象をイメージし、その目的を最も簡略化した一文字で表し、その一文字を口にすることで術を発動する。

病院内に侵入した已織理は続いて袖から呪符を一枚取り出し、

「消、隠、気、音」

それを放つ。

呪符といっても、それは紙一面を鮮やかな朱に染めただけの物だ。

それが已織理の霊力を受けることで劇的な変化を遂げる。符は四枚に等分され、『消』、『隠』、『気』、『音』、と朱の文字が浮かび上がる。もちろん朱地に朱文字が浮く訳がない。あたかも文字に色を抜かれるかのごとく、紙片は白に漂白される。

四枚の紙片は文字を赤く輝かせ、已織理の周りを旋回し始める。

その赤光を浴びながら、

「しっかし相手の住所が分からねぇってのは致命的だったな。面倒くせぇ」

皮肉気な笑みを浮かべて天井を見上げる。

怒りにまかせて飛び出して来たものの、思い返せば富永総合病院の綿貫ということしか分かっていなかったのだ。富永総合病院自体は地域最大級の大病院のため、調べるまでもなかったが、個人の住所に関してはその枠外である。

「さて、住所録は、と」

已織理が動くたび、その姿が、気配が、立てる音が消えていく。

事務所に行くべきか、院長室に行くべきかで迷い、

「時間もねぇし、とっと済ませよう」

案内板を見て事務所へ向かう。

已織理はすれ違う看護士にも気付かれず悠々と事務所に辿り着き中へ入る。

堂々と扉を開けて入っていくが中に居た人間は、扉が開いたことに気付かない。

どうやら已織理の術は接触した物体にも効力が及ぶらしい。引き出しを開け、中身を物色し住所録の必要欄をコピーしても、誰も注意を払わなかった。

已織理はコピーを手に、壁に貼られた市街図を確認すると、

「なるほど、以外に近いな」

すぐさま病院を出る。

外に出た已織理は一度術を解くと、袖から呪符を取り出し別の術を発動する。

一瞬後、赤光が凄まじい速度で遠ざかり、暗闇に光のラインを刻み付ける。

都合の良い事に綿貫親子の住所は同じだった。



白を基調とした壁と豪洒な調度品、二〇畳を超えるリビングルームには一〇〇インチ弱の大型テレビが置かれている。

個々の調度品は落ち着いた色合いと重厚感から、相当高額な代物だと容易に想像が付く。

しかし、それらの調度品が一つの部屋に並べられ各々が自己主張を始めると途端に悪趣味に見えだす。

組み合わせの大切さを如実に表した悪例である。

そんな悪趣味なリビングルームには二人の人間がいた。

一人は五〇代半ば過ぎの恰幅の良い、まあ一言で言えばデヴ。

もう一人は三〇そこそこの痩せ形で長身の男である。

二人は体型の差を加味しても似通っており、一目で親子だと分かる。

一番似ているのは二人の目だろうか、細く鋭い目の腐り具合が同じなのだ。

親子はにやにやと下卑た笑みに顔を歪ませながら、大画面に映る映像を見ていた。

映っているのは一組の男女、男の顔は決して映らないが、絡み合う裸体同士からそれは容易に想像がつく。

女は嫌悪の涙を流し、しかし抵抗することも声を上げることもせず、ただじっと耐えている。

時折、私はどうなっても構わないから娘だけは助けてと画面の女は懇願する。

「いつ見ても楽しいもんだ」

若い男の方が画面を見ながら本当に楽しげに嗤うと、父親がそんなことを言う。

「たしかお前、こいつの旦那も殺させなかったか?」

「……? 何奴だっけ? どれのことだか覚えてないんだけど」

 息子は何かを思い出そうと軽く考えを巡らせてあっさりと諦めた。

「え~と、アレだ。ほら。力もないくせに下手な正義感を振り翳して、儂等を追いかけ回したジャーナリスト気取りの若造が居ったろ?」

「あ~あ~、いたいたそんな奴。確か電車に飛び込んでバラバラになったんだよな。自分で自分が死ぬ瞬間を撮影したって間抜けだったわ、確か。ん、じゃあなんでこの女はぶっ殺す必要があったんだ?」

「はっ、もう七年も経つっていうのにこの女、『夫が死んだのは貴男が殺し屋に依頼したからよ』とか抜かして何度も押し掛けて来やがって、そのうえ儂と菅沼先生が会っている写真まで撮りやがった。さすがに邪魔にもなる」

「何だよ夫より優秀じゃん。馬鹿な奴だよなぁ。そのまま泣き寝入りしてりゃあ、死ぬことはなかったのに、ギャハハハハハハハハっ!」

親子が笑声を上げる中、画面の中の行為は続く。

いつの間にか画面は赤く染まっていた。

女の手首が床に落ち、肘が落とされても、女は気付いていない。

そこから鮮血が流れても、女は娘のためだけに懇願を続ける。


ゴトン、びちゃり。


画面から一際大きな音が響き、女の肩から、腕が落ちた。

自分の腕が無くなっていることに気付いた女が悲鳴を上げる。

『ああぁぁあああぁ』

それを見た親子が狂笑と共に、部屋の奥に控えた男に声を掛ける。

「痛覚を部分除去してるんだったか? 悦」

「ええ、私の糸針は痛覚に限らずあらゆる感覚を操作できますよ。痛みを快楽に、辛味を甘味に、なんだったら手術中に麻酔なしで患者を解体してみますか」

男はにこやかに笑う。

細身の体を白いスーツが包み込む優男。整った顔立ちはあくまでも微笑みが浮かぶ。

これが画面の中で女を解体していたとは、とても思えない。

この優男が隠所属、殺師『悦』なのである。

「コレ見たとき一発であんたのファンになったんだ」

「ありがとうございます。そう言って頂けるなら光栄です」

言葉通り綿貫親子は気に入ったという理由で悦をボディガードとして雇っていた。

後ろ暗いことを平気で重ねてきた親子には恨みを持つ者も多く、命を狙われる理由には事欠かない。そのため常にボディガードが必要なのだ。

画面の中で女の四肢が切り取られ、

『私も楽しませて頂きました。貴方の娘は助けてあげましょう』

悦の言葉に女が歓喜に表情を崩す。

もう、自分の死を受け入れてしまったが故の笑みだった。

『あっ、預かったものを返し忘れていました。お返しします』

悦が何かを引っ張る動作をした瞬間、女が身体中を痙攣させ絶叫を迸らせる。

『痛覚をお返ししたのですが、余計でしたか? 娘さんも一人の寂しさから救って上げましょう』

女の目が一層見開かれ、絶叫の質が変わる。

『貴方の娘さんは必ず貴方の許へお送りします』

画面の悦は愉悦を滲ませ女の首を……

決定的なシーンに移ろうとした正にその時、本物の悦が動く。

唐突に綿貫親子の前に移動し、高速で手を繰る。

半瞬後、部屋の全ての窓ガラスが砕け散った。

「誰です!」

悦は庭に立つ影に気付き詰問する。

「万事屋店主・御神薙已織理」

暗がりから現われたのは、黒衣を纏った已織理だった。



表札の名前を確認し、已織理は一息に塀を越え中庭に降り立つ。

なんの加減も配慮もせず、有りったけの力を周囲に放出する。

術を解くのではなく、符に込めた余剰分の力を暴発させたのだ。

巻き起こった爆風は窓ガラスを盛大に破壊し、壁に亀裂を奔らせる。

どうやら、自分を指している誰何の声に、

「万事屋店主・御神薙已織理」

答えながら近付いていく。

見れば白い服の男がこちらを睨み付けている。

「貴方は私が隠所属、殺師(さっし)『悦』だと知っても、私と事を構える気ですか?」

余裕の笑みで名乗った馬鹿に已織理は心底嬉しそうに嗤った。

「別にお前が何処の誰だろうと関係ねぇな。組織の名前を声高に叫んでもみっともねぇだけだぜ? 俺はお前等を、殺しに来た」

言葉と共に今まで抑えに抑えていた殺気を解き放ち、垂れ流す。

悦が顔を引き攣らせ瞠目する。

その殺気は隠に居る悦ですら、ほとんど感じたことがない程の危険な気配。悦が目指す殺しの高み、絶師が持つ殺気と同等かそれ以上の馬鹿げた気配だった。

そんな悦よりも、部屋に置かれた大型テレビの映像の方が已織理の目に付き、気に障る。

吹き荒れる殺気の温度が一段階下がり、

「見たくもねぇもん見せやがって、壊」

無表情のままテレビを崩壊させる。

「なっ!?」

術の発動すら感知できなかった悦が驚愕に目を見開き、

「くっ! お前達、侵入者です。殺しなさい」

手下共を呼び付ける。

「なんでこういう奴等はみんな黒服なんだ?」

この家の中に、こんなにも人が居たのか? そう思える程の黒服が已織理を取り囲み、マシンガンを構える。

腰溜めに据えられたマシンガンのセーフティが外され、全てのマシンガンから毎分八〇〇発の勢いで弾丸が吐き出され、黒服達はそれを已織理に向かいそれぞれ二弾装ずつ撃ち込んだ。

黒服はざっと二〇人余り、それが一人に付き六〇発を已織理に叩き込んだ計算になる。

「死にましたか? 一介の霊能者には少々酷でしたかね?」

一二〇〇発もの弾丸の雨に曝されれば、大概の霊能力者は、死ぬ。

霊に対して絶対的な力を有する者が物理的に強いとは限らないのだ。

弾丸に不規則な踊りを踊っていた已織理はしかし、倒れない。

「それ位じゃ俺の防御は抜けねぇよ。攻撃当てたきゃ霊格上げるか弾に細工でもしとけ」

朱の紙片が散り、バラバラと弾丸が足元に落下する。

紙片に浮かんだ文字は壁。已織理は周囲に霊気の障壁を展開し銃弾を全て防ぎ切ったのだ。已織理が銃弾を喰らっているように見えたのは障壁が銃弾で揺らぎ光が屈折して像を歪めたために過ぎない。

見下すように已織理は、悦に訊く。

「相原優子、知ってるか?」

「さあ? 今まで殺してきた人間の事なんか知りませんよ。いちいち覚えていたら限りがありません」

なんの自慢にもならないことを誇らしげに語るクズに已織理は露骨に顔を顰める。

「そうかよ。俺もそれなりに殺してるがな、けっこう覚えてるもんだぜ。人って奴は」

淡々と話す已織理に、黒服からの追撃はない。

悦は自分が気押されていることを自覚出来ていないのである。

「何をしているのです。早く撃ちなさい。愚図共が!!」

辺りを見回せば面白いように黒服達が倒れ臥している。

「あー、黒服くんならあと一時間は起きない。なにをやっても無駄だぞ」

さすがにマシンガンを撃たせたまま放置するほど甘くはない。

弾装交換の度に霊気を練り固めた霊弾を放って、黒服達を黙らせていったわけだ。

「くっ、役立たず共が。それならこれでどうです」

悦が振るった腕から無数の糸が迸り、黒服達に纏わりつく。

「組織の為です。死になさい」

糸は黒服達の衣服を突き破り、皮膚の中へと潜り込むと停まらずに体内へと侵入する。

侵入した糸は、脳、心臓、脊椎を掌握し、そこを基点とした神経系を乗っ取っていく。

糸に操られるまま、黒服達が関節を無視した動きで立ち上がる。

三邪操身(さんじゃそうしん)(ばく)(こく)(どう)、発っ!!」

懐から取り出した札を黒服に三枚ずつ張り付ける。

「嫌だねぇ。余裕がない奴って。それじゃそいつら死んじまうだろ?」

「組織の為です」

已織理の疑問にも何故か誇らしげに、言い切る始末である。

「お前の、だろ? 救けてやれなくて悪いな、まぁ死んどけ」

自分の傷ならまだしも他人の、しかも神経系を治す技術は已織理にもない。時間を掛ければ出来ないこともないが、それをしてやる義理もない。

已織理は扇子を取ると、迫り来る屍を無慈悲に叩き伏せる。

扇子自体に特殊な霊衣導帯を通し、霊力の伝導率を上げている。その威力たるや素晴らしい。

まず瞬間的に射程が延びる。一瞬とはいえ二メートル以上の射程と絶大な打撃力でもって敵を粉砕する。それは物理的な破壊力を備え、接触時の衝撃は普通乗用車を縦に圧し潰す程である。

そんな物で黒服達を薙払っているのだ。決着など簡単に着こうというものだった。

「私の技がそう簡単に破られることなど、有りはしない! 立ちなさい」

指を繰り、糸針を無闇やたらに動かすが黒服は微動と痙攣を繰り返すだけで一向に立ち上がろうとしない。

「霊は祓った。衝撃で糸も切れてんだ。まともに動くやつなんぞいねぇよ」

已織理は冷たく言い、

「もういいだろ? 遊びは、終わりだ」

瞬時に悦の脇を通り抜ける。

「「ひいっ、ひっ、ひっ」」

もはや悲鳴すら上げられぬ綿貫親子に已織理は冷然と告げる。

「裁きの時間だ。お前等に人権はない、救いもない。魂さえも残らない」

已織理の両手が親子の顔面を掴み、その掌が顔面に沈んでいく。

掴み出されるのは腐った魂、

「安心しろ。痛みはない。有るのは引き剥がされる恐怖だけだ」

引き摺り出されるのは身体から無理矢理に剥離させられたことで壊れた魂。

その成れの果て。

悦はそれをただ黙って見続けた。

「馬鹿な……人の術ではない。幽体を離脱させるのではなく引き剥がす、だと?」

肉体と幽体の間には、神経と同レベルのパスが張り巡らされている。これらの接続を一時的に切った状態が幽体離脱と呼ばれる訳だが、そのパスを無理矢理破壊した場合、そのパスが戻ることは二度とないのだ。

故にそのパスは強固であり、並みの術者には決して破壊出来ない。

そんな物を素手で引き千切り、已織理は綿貫親子の魂を途中まで分離してしまう。

「そうか、俺がこれをやっちまったら意味がねぇのか」

そう言って已織理は魂から手を離す。

「絶、離、封、壁」

呪符を四枚放ち、敷地を結界で囲う。

「お前程度じゃこの結界は破れねぇ。これからゲストを連れて来てやろう。その間、精々首でも洗って待っていろ」

悪役度一二〇パーセントの台詞で死刑宣告をし、

「そんなか細い糸針じゃ、俺に毛程の傷もつけられねぇぜ。俺を殺してぇならもう少しましな武器を用意するんだな」

何事もなく立ち去ろうとする。

「ふざけるな! 私は『隠』の殺師だぞ。貴様ごとき殺せない訳がない」

メッキの剥げ落ちた悦は最初に使っていた敬語すら忘れ、怒鳴り散らす。

「だからどうした? 絶師でもない小僧が身の程を知れ。……それに、お前等を殺すのは俺じゃねぇ」

已織理はそれだけを言い残し、今度こそ本当に綿貫邸を後にした。



已織理に死刑を宣告され、その圧倒的なまでの力の差を見せ付けられた悦は放心したまま部屋の中で座り込んでいた。

庭には使い捨てた黒服が累々と転がり、部屋には死んでいないだけの肉の塊が置かれている。

完全な敗北だった。

与えられた兵を失い、依頼人を壊され、自分は無傷のまま放置されている。

このような屈辱が許される訳がない。

悦は突然立ち上がり、携帯を猛然と押し始める。

数秒の呼び出し音の後に携帯は繋がり、

「隠所属、殺師・悦。殺師頭、(ごう)に至急応援を要請します」

現状説明もなく応援要請をする。

追い詰められた末の行動とはいえ、それは余りにもみっともない愚行であった。

基本的に隠に横の繋がりはない。個々人の技術、信念の違いもさることながら、人格そのものに癖があり過ぎるのだ。協調性を求める事はおろか、協力を乞う事すら出来はしない。

冷静な思考力があれば自分がどれだけ愚かな願いを乞うたか悦にも分かるはずだった。

そんな悦に対して殺師頭は沈痛な声音で残念そうに、

『殺師、悦。隠は貴方の死を受け入れました。今まで良く働いてくれましたが貴方の苦労に報いる事は出来ません。非常に残念です。もう声を聞くこともないでしょうが、後の処理は任せて下さい。ご苦労様でした』

そう告げると、電話を切った。

以降何度コールしても電話が繋がる事はなく、この番号は現在使われていないという無慈悲なアナウンスが流れるばかりだった。

切り捨てる側だと思っていた男が、組織という集団に切り捨てられた瞬間だった。

携帯を握り潰した悦は狂気を滲ませた目で上を向き、意味すらない絶叫を上げる。

そこに、現れる。

一羽の鷹が……。

凄まじい力を撒き散らし、屈服と隷属を自ら願い出ずにはおかない圧倒的な存在感を見せつけて舞い降りる。

『のう、小僧? 恐怖しておるか? 絶望しておるか? 助かりたいと願うておるか?』

 鷹の口から紡がれる台詞は、その声は、毒だった。そして蜜だった。

 聞いてはいけないと知りながら、聴かずにはおれず、食べてはいけないと思いながら、手を伸ばさずにはいられない、甘い甘い誘惑。

「貴方、は?」

 焦点のズレた瞳で鷹に顔を向けた悦は、崩れた笑みで指を伸ばす。

「貴方は私を救って下さるのですか?」

『救ってやるとも、助けてやるとも――力ならホレ、そこに、目の前に転がっておるだろう? ソレを拾え』

 悦の手元には黒い果実が落ちていた。悦は言葉に抗わず、ソッと拾い上げる。隠という後ろ盾に自分が思っている以上に悦は依存していたのだ。その後ろ盾は儚く消え、悦には縋るモノが、隠に変わる何かが必要だった。

 鷹は悦の、欲求を満たし、信仰とも呼べる念を持たせることを身一つで実現していた。

『ソレは力、そして知識。ソレを喰らえ。さすれば汝は彼奴に打ち勝つ術と時を手中にするであろう』

「ああ、あぁ、なんと慈悲深き御方。お力添え感謝します」

 悦は喜んで黒い果実を貪り喰らい、目を血走らせ、全身の血管を浮き立たせて天を仰ぎ、

「っっっをををおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」

 張り裂けんばかりの叫び声を上げる。

『ほおほお、幾らでも力は貸すよぉ。ただし、ドコまでも堕ちてもらうがねぇ』

鷹の言葉など最早聞こえなくなった狂った目をした男は大量の符を撒き散らし、忙しなく腕を繰って糸針を自らに突き刺していった。



全身が符と糸針に覆われ、埋め尽くされたとき、悦は人間を辞めた。某超高層ホテルのロイヤルスイートには琴姫、凍華、有羽理、悠の四人が集合していた。

琴姫のために凍華が閉めていったブラインドは、有羽理達が来た時点で全開である。

子供の無邪気さとは残酷で、琴姫の事情も状態もまったくの無視だ。子供達は夜景の素晴らしさに目を奪われ屈託なく笑っている。

重度の高所恐怖症である琴姫にとってその空間は地獄にも等しい。

本来なら蒼白な顔で泡でも噴いているところだ。

しかし今の琴姫は悲しげな顔で悠を見ている。視える未来に悠が泣かない未来はない。

だがそれよりも問題なのは広がる未来の在り方だ。本来無数に選択出来るはずの未来への筋道が片手で数える程度しかなく、悠が本当に笑える未来はその中でも奇跡のような偶然と確率が必要になる。

(已織理様、どうかこの子の未来を救って下さい。貴方様ならくだらない運命など打ち砕いてしまえるはずです)

琴姫は祈るように希望の未来を見つめ続け、気付く。

細い、余りにも細い希望への道筋がほんの少しだが太くなったのだ。

何かの拍子に途切れてしまいそうだった道がしっかりと繋がった。

「まだ、細いけれ、ど、道は、繋が、った」

琴姫の言葉に凍華達の視線が集中する。

「!?」

その視線に驚いた琴姫は窓の外を見てしまう。

ふぅーっと遠退く意識の中で、それでも悠を視る。

悠を取り巻く不幸の連鎖が、未来を狭めるその一つが崩れ去る。

それは、已織理が悦の全てを打ち砕いた瞬間と、同時だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ