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小さな依頼人

   序章 声



少女の上を鷹が舞う。

その行く先を見守るように、はたまた獲物を見定めるように。

立ち尽くす少女の表情には果てしない不安と恐怖が色濃く浮かび、ある種の決意に満ちていた。

少女の前に立った人物は、惑わすように、導くように少女にある場所を教えていた。

少女には他に寄方はなく、標もまた、なかった。

少女はより強くなった決意を胸にもう一度、力強く頷いた。

第一章  小さな依頼人


失せモノ

   お探し致します


良く言えば年代物の、悪く言えばボロ臭い板っ切れに古風な文字でそう書かれている。

案内として機能しているのかは甚だ疑問だが、その板はとある建物の門柱にひっそりと掛かっていた。

それなりに広い前庭の奥には、屋敷と呼ぶのも憚られる様な荒家が見え隠れしている。

そういえば門の上には、右読みで『万事屋』といういっそう古風な、しかしこちらは大層立派な板看板が設えられていたはずである。

総合するにそれは、なんでも屋の類なのだろう。

商売する気なんかないんじゃなかろうかというほど簡素かつテキトーなポップである。

さて、ここまででなかなかに不思議な店構えではある。

が、それに輪を掛けて不可解なことがあった。

この店、存続すら怪しそうな外観なのに、なんと新宿近郊のオフィス街に建っている。

景観、立地、土地面積、どれもが破格である。

それ以前にオフィス街の真ん中に在っていいはずがない建物だ。

しかし、そこに店は存在し、確かな存在感を持っていた。



その門の前。

と言うには少し離れた場所に板看板を見上げながら、入るべきか入らざるべきかを呻吟する女の子が一人立っていた。

まだ小学生くらいの年頃の幼女と言っても良い少女である。

客観的に見るまでもなく新宿のオフィス街に一人でいて良い年齢でもないし、ましてやこんな怪しげな建物を訪ねて来なければならない用向きなど見当もつかない。

それが子供ながらに解っているからこそ、少女は門の前で二十分以上もの時間を費やしているのだろう。

見るからに怪しい。けれど少女には他に心当たりも、行く当てだってなかった。

そんな不安と当惑がない混ぜになった顔で少女は頷くと、意を決したように門に向かって進んでいく。

門の前でもう一度頷き、覚悟を決めると真剣な顔で正門の横に設えられた勝手口の扉を叩いた。

少女が緊張にガチガチになっていると、それほど待たずに扉が開く。

扉が開く音と戸板が奥に引っ込んだことだけ認識すると、少女は相手を確認することもせず勢い良く、勢いに任せてお辞儀する。

「お願いします。お母さんを捜して下さい!」

そしてそれだけを泣きそうな声で叫んだ。



目前で頭を下げる少女を見下ろし、着流しの男は渋い顔をした。

別に少女が気に食わないのではない。

少女が背負った夥しい数の雑鬼が目についたからだ。

少女の体の三倍近くに膨れ上がった雑鬼の数は一〇や二〇では利かないだろう。霊が見えない人間が見ても気分が悪くなるか、下手をすれば意識を失うほどの量の雑鬼を背負って少女は頭を下げていた。

ここを頼って来たのだから、無下に追い帰すことは出来ない。

というより、本当に必要がない者はここを訪れることすら不可能に近い。

まあ、この男が困惑している理由はもっと些細でどうでもいいことに対してだった。

周りにはいないタイプの純真無垢な少女に、喜作に話し掛ける話術など男は持ち合わせていなかった。男の周りの女子供は皆一癖以上ある奴ばかりなのだ。

(さて、どーしたものか?)

男が迷いに迷っていると、屋内からバタバタと忙しない足音が近付いて来た。

「師匠。お客さんですか?」

出て来たのは数年前まで天才の名を欲しいままにしていた才媛、朝霧棗(あさぎりなつめ)である。

棗の実家、朝霧家は日本国内の除霊や浄霊を手掛ける名門の一族である。古今東西の妖魔、妖怪、悪魔、魔族、天使、神族そうした超越存在の封印が弛めば再度封印し、それが無理なら消滅させる。そうやって陰ながら日本を支え続けてきた一族の英才教育を受け、稀代の天才と言わしめたのが、朝霧の一人娘である彼女なのだ。

棗の恰好は、長い黒髪を頭の高い位置で括ったポニーテールを除けば、とてもボーイッシュな格好でまとまっている。ダークグレーのタンクトップに黒のパンツを併せ、その上から上半身のラインにフィットする群青色の長袖を羽織っている。

シャープな輪郭と形のよい鼻、手入れの行き届いた眉。小振りな唇は淡い桜色に染まり潤う。仄かに青を散りばめた虹彩は棗の生命力も相まって宝石の様に輝いている。

全身から溢れる活力と生命力が、棗に一層の魅力を与えていた。

しかし、棗は少女を見ると一転目を細め、

「なんですか? 用がないなら立ち去りなさい!」

冷然と言い放つ。

「あっ、馬っ鹿ソレを見んな!」

それに着流しの男は慌てて、棗の目を押さえ付けるのだが刻既に遅く、少女の周囲に溜まっていた魑魅魍魎が肉体を持って実体化していた。

彼女を天才と言わしめた一因に、この特殊な瞳の能力がある。

(じょう)(がん)の亜種に当たるらしいその瞳は、見えざるモノ、超常のモノに実体を持たせ、物理的な力の行使を可能とする希少かつ特別な(れい)(がん)なのだ。

まあ早い話が幽霊を一般人でさえも見れて喋れてぶん殴れるようにする、というなかなかに便利でそれ故に使いどころの難しい瞳なのである。この瞳と一振りの太刀が棗の力であったのだが、とある事件を切っ掛けに彼女は太刀を失い、この着流しの下に身を寄せる事になった。……のだが、それはまた別の話。

棗の瞳―分類上『籠眼(かごめ)』と呼ぶ―によって実体を持った雑鬼達は、実体を持ったにも拘らず空中を彷徨い滑る。

どこからか浮力だか揚力だかを得ているのは確かだが、それが何かは不明だった。

ミノ○スキー粒子で浮いていると言われても否定さえできない。

そんな諸々を眺めると着流しの男は、

「……はぁ。 また面倒を増やすよ」

肩を落とし、心底がっかりしたとばかりに溜め息を吐く。

それでも着流しは帯に差した扇子を取り出すと軽く開いてパチリと鳴らす。

知能が低く、意思を表すことも出来ない雑鬼に、明確な目標として音を与え、

「濁」

と囁き扇子を振るう。

するとどうした事か雑鬼が一つ、また一つと融け崩れるように消滅していく。

最後の雑鬼が消滅すると、「浄」、言葉と共に大きく扇子を振り切り、淀んだ空気を一掃する。

実にあっさりとした幕切れではあるが霊視力を有する棗から見れば、あっさりとは程遠い超絶技巧の結晶だった。

雑鬼を音で引き付け、存在を『濁』の言霊で曖昧にする。

棗の見解では霊体の強さは霊が内包する情念、または意志によって決まる。

意志が強ければそれだけ霊体として強いということだ。

それは意思その物が、存在理由であり、現世に霊体を固定するための楔、だからだ。

存在理由である楔を曖昧にしてやれば、霊は自ずと消滅するというわけだ。

あとは扇子で起こした風に霊気を乗せて淀んだ空気を一気に浄化すれば終了である。

が、これらの作業を印や呪を使わずに行うのは至難。並みの術者では真似すら出来ない。

「……はぁ、話は中で聴くとしようか」

そんな術を見せられて惚けた棗と、突然の出来事に気を失った少女、二人を眺めやり着流しの男は、またまた盛大な溜め息を吐くのだった。



物の本質は外側からでは計れない。

いきなり何を? と思うかも知れないが、万事屋の中身にこそ、この言葉は当てはまる。

何故か?

それはキラキラしい室内に集約される。

最高級の井草を使い、最高峰の職人が編み込んだ畳。伝統的な組み木造りの柱は歳月を重ねた重厚な黒に染まり、そこに填まる壁は純白を維持している。

壁に掛かる掛け軸に至っては時価だろう。

惜しみない技術の結晶と、妥協を許さない保守点検に依ってこそ、この家屋は存続されている。別に部屋自体がキラキラしている訳ではないが、エフェクティブに表現すれば誰もが絶対に部屋に、✧マークを付けるだろう。

これほど外観と内装に違いがある家も珍しい。

そして外観といえばこの家屋、正門で敷地を小さく見せている。意図的に植えられた植木とビル同士の不自然に歪んだ外壁が、正面から見た万事屋に騙し絵の様な効果を与えている。

実際の万事屋は母屋、離れ、内庭、そして内庭に置かれた祭壇で構成されている。

敷地面積はいったいどれ程の物になることだろう、やはりというべきか普通ではない。

そんな平凡とはかけ離れた室内に敷かれた布団の中で、少女は未だ意識を失っていた。

「さて、あんたは何を望んだ? 何を望んでこの場に来た?」

胡坐をかき、着流しの男は扇子の先を畳に落とす。

このまま着流しの男で通したい気もしなくはないが、ここでこの男の紹介をしておこう。彼は御神薙已織理(みかなぎいおり)、平安の昔より続く退魔の一族、その末裔である。

少し高めの身長は一七〇後半というところだろうか。背中まで伸ばした黒髪を無造作に縛って座る姿は、はっきり言ってガラが悪い。

通った鼻稜と強さを表す眉、瞳は冷徹な意志を宿し、右の目元を飾る涙黒子は妖艶を形作る。三十も過ぎているのにきめ細かい肌は若々しい。

そんな、なまじ整った顔は相手に冷たい印象すら与えてしまう。

唯一の救いは、

「悪りぃようにはしねぇから、言ってみな」

言葉尻こそ悪いが、語り掛ける言葉に優しさと落ち着きを感じること。そしてその落ち着きが声に重厚な包容力を付加させていること。

だが、眠っている少女の少し上に合った視線と、誰も居ない場所に真摯に語り掛ける姿は異様だ。

もう一度だけ扇子の先を畳に落とし、トン、と音高く鳴らす。

已織理が一人芝居をしているわけでは、もちろんない。

少女の枕元に蹲る実際にはいない女に語り掛けているのだ。

「――なるほど、音には反応しないか。ならば」

目を閉じ、女幽霊に扇子を突き付け、

「喧」

言葉と共に息を吹き掛ける。


で……む、メ……悔、し……助け……死、娘……コロ、て……殺、す。ユる……サ、……ダ、けて、……まダだだダダ、しシ死死死ねなナナナァアあい。


徐々にチューニングが合って行くように、


嫌だ。助けて。苦しい。殺さないで。殺して。死にたくない。死なせて。助けて。助けて。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。死ねない。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは! 娘だけは!


言葉が響く。音源の定まらない雑音のように、ただ無限に重なり、叩き付けるが如き意思の奔流。

それがこの女の思念、そして情念。

「恨みと等量の慈愛、か。悪霊を喚んだのもこいつなら、子供を護ったのもこいつ。きついな」

苦い笑いを浮かべ、已織理は小さな小さな紙片を袖口から取り出す。

「用途は違うが、いけるだろ」

 半信半疑といった口調のまま紙片三枚を、力強く握り締めつつ、指先で手の平を浅く切り、流れだした血液を染み込ませる。血液を弾かず吸収した様を見るに、紙片の正体は和紙だろう。

「呪血の点を三方に置き線と成し、線を繋いで面とする」

已織理の手より放たれた紙片は霊を囲んで正確な三角形を畳に描く。

女の霊も自らを囲む霊力に気付いたのか必死に紙片の外に出ようと暴れだす。

「無駄だ。雑霊に破れるほど俺の術は甘くない」

畳の正三角形が血の赤に輝き、

「面の頂きにこそ力は集う。それ即ち血界なり」

女霊の頭上、ちょうど三角形の中心に紅く光点が灯る。

三角形の頂点から光点に線が引かれ、正四面体が出来上がる。

「さてと、こういう作業は棗の方が得意か」

已織理が即席で作った四面血界は、その手軽さの割に強力で、閉じ込めた霊はそこから出ることが出来ない。

ましてや悪霊化仕掛かっているとはいえ、一般の人間霊に破れるような強度の結界ではない。

「棗。この女の邪念を抑える。お前んとこの護符を使いたい。協力を」

通常会話程度の声量に、「はい」と即座に返事が返る。

(はぁ、近くにいんなら入ってくりゃいいじゃねぇか、バカが)

 まあ気配で居ることは判っていたが、襖の前でしゃがんだまま声が掛かるのを待っていた意味は解らない。

かなり疲れた気分になりながら、次の手順を考え……、

「お待たせしました」

る前に棗が部屋の襖を開ける。

妙に準備が速い。

最低でも札の解封に十分程度の時間を要するはずなのだが、まだ二分と経っていないだろう。

「……待ってねぇよ、ったく」

凄まじくぞんざいな返事を返す。

「そんなぁ~」

せっかく色々と準備していたのにと、しょんぼりする棗に、

「だがまぁ、相手を観て事態を予測できるなら及第点だな。よくやった」

已織理はそう言うと、彼女の頭をポンポンと二回叩く。

棗は嬉しそうに頭に触ると、

「これがツンデレ……いいかも」

へにゃりと呟く。

「はぁ? いや大丈夫か、おまえ」

トリップ気味の棗は、ツンデレの意味がまったく解っていない已織理に引かれまくっていることにも気付かない。

「はぁ~~」

盛大な溜め息の深さに、さすがの棗もトビ気味の頭を仕事用に切り替えて、

「で、師匠。いったい守りの護符なんか何に使うんですか? こんなただの家でも聖域に換えちゃうような危ない代物」

 少し真面目に疑問を口にする。

「ん? いやさっきの娘さんに憑いてた霊なんだけどよ、魂が腐り始めてんだよ」

四面血界を扇子で示す。

そこにはもちろん女の霊がいるのだが、朝霧の護符の強力な浄化作用を厭ってか血界の壁を激しく叩いて脱出を試みている。血界はビクともしていないが。

「事情を知ってそうだしな。ちょっと正気に戻ってもらおうと思ってよ」

そう言いながら已織理は棗から受け取った護符を眠っている少女の胸元に置く。

「護符を媒体に少女の念を霊に送る。棗は念の増幅と聖別を頼む」

棗は頷き、目を閉じて精神を統一する。

「歌は詠。思いを綴る霞詩。我が謡よ眠る童の心より溢るる詞を選び詠む」

少しの間を空けて、

「詞は『情』。探せし記憶の優しき母よ、聖別されしその情よ。いま憐れな女のその魂に、響け……憂いの唄よ」

締め括った詩句と共に、少女の胸元より暖かな光が湧き上がる。

それは、その人間の魂の色そのものだ。純粋であればあるほど、清らかであればあるほど、その光は強く輝く。

已織理は、少女から溢れ出したその光を純粋に美しい、そう思った。

棗も予想以上の輝きに微笑んで、

「それでは、お願い致します」

最敬礼であとを託す。

「心得た。輝きを頂点に、その色を面に、染め上げろ。その汚れの一片までも残さずに」

血界が染まる。赤から真珠の白へ移り行く。

『がっ、あぁああぁぁ。がっがが、あああぁぁあ』

女の霊は藻掻き、苦しみ、のたうち回る。

「……? あれ」

已織理は予想外に苦しむ霊に首を傾げる。

なんというかこの光を浴びれば、誰でも胡散臭いほどの爽やかな笑顔を浮かべて落ち着くもんだ、と勝手に思い込んでいたのだが……、

「……あれ?」

二秒ほど観察後、もう一度疑問を口にして、

「あれ? じゃなあぁぁい!!」

すぱぁん! とはりせんによる激烈なツッコミを棗にくらう。

「痛い。――いや、どっから出した?」

「そりゃ籠眼で、ってちがあぁぁぁう」

はりせんが更に唸るが今度は、ひょいっとばかりに躱される。

ついでなので一つ。籠眼は霊的なモノを実体化出来る。と、いうことは密度と造形が一定以上のレベルに達してさえいれば、不定形な霊力であっても、その形を実体化出来るのである。

かなりの高等テクニックなのだが、それがツッコミに使われるのは、激しく使用方法が間違っていると言うしかない。

「無駄に高等なことしやがって。ってそれはともかく、おかしいなぁ。術式自体は合ってるはずなんだが?」

「詩も合ってるはずなんですけどねぇ?」

血界の中で半ば消えかけている幽霊より、術の検証をしてしまう辺り、所詮同じ穴のムジナ、ということか。

『あらあら、突然だけど貰うわよ?』

不毛な師弟に替わる軽やかな女の声が響き、

『惑いし女の魂よ。いまその苦しみより解放せん。強き想いを核にして、その憎しみを包みこまん』

とんでもなく高い霊格の幽霊が顕れる。

『詞は願い。ただ安らかな平穏を』

血界内の女は苦しむことを止め、だが同時に活動も停止していた。

『消耗し過ぎたのね。当分起きないわよ。アレ』

呆れ顔の霊は已織理の元妻、御神薙羽月(享年二二歳)である。

羽月が死んでからの一年間を悲しみに呉れながら過ごしていた已織理の前に、ひょっこりと戻ってきた猛者だったりする。

しかも、普通の幽霊ではありえない精霊になって舞い戻って来たのだから、已織理の驚きは一塩だった。

『なっちゃん! 詩の抽出が甘いわよ。あの娘の思いを本当の意味で突き詰めるなら括りは、『情』ではなくて『願』よ』

「は~い」

棗をなっちゃんと気安く呼べるほど、この二人は仲がいい。

「………」

そこはかとない疎外感を感じている已織理に対しても、

『あなたもです! 人の魂である以上汚れがない理由がないでしょう。全ての汚れを浄化すれば、その魂は粉々に砕け散ります。予測出来る事態なら起こる前に回避しなさい』

と叱りつける。

「はい」

しょんぼりする已織理の横で、

「ちょっと言い過ぎたんじゃないですか?」

『そーねー、あの人強いんだけど弱いからねぇ。あとでフォローしといて、頑張れ新妻の座はなっちゃんの物よ!』

なんて女性陣は囁き合っている。最後の言葉に、そんなぁ、相手にもしてもらえないのに~、という棗の叫びが混じったのはご愛敬だろう。

「はぁ~、まあ二人とも起きないなら仕方ない。次の客を突いてみるか」

凹んでいたのも束の間、已織理はゆらりと立ち上がると、玄関へと歩いて行ってしまう。

取り残された別の二人は、「えっ?」とお互いの顔を見つめ合い、慌ててあとを追うのだった。



 已織理が言った通りに、万事屋の門を前にして三人の男女が苦々しげに、その門柱を見上げていた。

男女共に黒のスーツに身を包み、男二人はサングラスを掛けている。

モブキャラ二人の説明はこの位で良いとして、メンバー唯一の女だけは顔の半分近くが隠れるミラーシェイドを装着し、目元が完全に見えないようにしていた。

ただ無駄なく尖った顎のラインと、引き絞り鍛え込まれ、それでいて女性らしさを失わないメリハリの効いた体付きが、女が美女である事を容易に想像させる。

しかし、その美女の口からは、

「くそっ! いったいナニが守ってんだ! あたしらの術がまったく通じないなんてありえないだろ!」

強い罵りの言葉が吐かれていた。

ハスキーなアルトヴォイスは場合が場合ならさぞ煽情的に響くに違いない。

もちろん、今はただ恐いだけだが――

腹立ち紛れに女は壁を蹴り付ける。

蹴り付けたはず壁は傷どころか汚れすら付かず、音もしない。

その現象を目の当たりにすると、舌打ちを残して三人組は立ち去ろうとする。

「おいおい。てめぇら、人ん家の壁になにしてやがる。いろいろあんだぜ、それ」

人を繰った物言いと仕草で、已織理は門の上にヤンキー座りのまま、黒尽くめ共を見下ろす。

追い掛けてきた棗達も合流し、場は俄かに騒然としていく。

と、そこで、

「「えっ!?」」

なぜか棗、ミラーシェイドの双方から驚きの声が上がる。

薫子(かおるこ)ちゃん?」

「棗っ?」

二人とも心底驚いたのか、完全に停止している。

「あ? お前等知り合いか? だったらそっちで話は着けろ」

已織理は投げ遣りに言うと、棗達に任せるべく、右手をプラプラ振って、経過の推移を見守るように二人を眺める姿勢をとる。

『いい加減ねぇ』

「いいんだよ。知ってる者同士が話した方が早ぇんだし」

元夫婦は世間話さながらに笑い合う。

「それに、どーせ話は決まってるしな」

下の二人は向かい合ったまま押し黙り、何から話せばいいのか考えあぐねているらしい。

そして、

「……棗がいるってことは、ここが、そうなの、か?」

「そう。貴女が最後まで反対して、でも認めてくれた場所」

 それは棗が太刀を折られ、壊れる一歩手前まで追いつめられたあの事件の、已織理に救われ師事するに至るその時のことだろう。已織理は所在も、その理由も全てを秘することを棗に約束させたのだ。周囲の反対はそれはそれは凄まじいものがあったはずだ。

棗達の声は硬い。別段交流を禁止もしていないから、普段から連絡は取り合っているはずだが、棗は約束通り此処のことは黙っていたらしい。

本来笑い合い肩を並べるべき存在が向かい合う。

「棗。あんたは今、生きている実感が有るか?」

薫子、そう呼ばれた女は淡く尋ねる。

「あるよ。わたしは今、確かな生を感じているよ」

柔らかな微笑みを浮かべ、棗は晴れやかに言う。

棗の様子に一瞬だけ表情を和らげた薫子は、

「そうか。じゃあ仕事の話をしよう。夜塚として、話をするよ」

努めて平静に『夜塚(よつか)』を口にした。

それが屋号であると示した以上、ここからが本題なのだろう。

親しみも優しさも冷徹な声に切り替わり、

「子供が来たはずです。八、九歳程度で女の子です。悪霊に取り憑かれていて大変危険です。早急に保護しなければなりません」

棗に、というよりは塀の上にいる已織理に向かって言っている。

ほぼ完璧に意識がこちらを向いていれば疑うべくもないことだが、

「あん? そりゃ俺に言ってんのか?」

確認のために已織理は訪ねる。

「そういう訳ではありませんが、早いでしょう? その方が」

「まぁな」

「確かにそんな感じの小娘が来たな。雑鬼の束だけ祓ってやったから、もう大丈夫だろ? それに帰しちまったしな」

目を細めて薫子を見つめ、平然と嘘を吐きながら已織理は薫子の表情を観察する。

そして、薫子が俯いた瞬間の舌打ちを確認し、ほんの刹那だけ激烈な怒気を漲らせる。

怒気の放出は場の停滞を生み、全員の動きを阻害する。

小さく「そうか」と呟き、已織理は薫子を追い払う様に扇子を振る。

「本当に?」

薫子の質問に顔を歪めながら棗は頷く。

「分かった。今日の所は帰るから、そんな顔しないでちょうだい」

困った様な顔で肩を竦めると踵を返し、

「行くよ」

薫子は男達を引き連れて表通りへと歩み去った。

「取り敢えず、部屋に戻んぞ。穣ちゃん達が起きてっかも知らんしな」

已織理達もまた、少女が寝かされた部屋へと戻る。



フルスモークの高級外車の中で、

「なんなのですか? あの男は」

引き攣った顔と声でサングラスの男は薫子に声を掛ける。

「分からない。でもアレは化け物だ。あたしなんかじゃ相手にもならない」

あの場では平静を装ったが、噴き出る脂汗と粟立つ肌が、已織理との対峙の恐怖を思い起こさせる。

真正面から対峙してもいないのに、身体が全力であの男から遠ざかろうとするのだ。意識的にその場に踏み止まっていなければ、じりじりと後退っていたことだろう。

あの男の底がまったく見えなかった。その片鱗さえも掴めなかった。

「あんな無機質な霊気があっていいはずがない。物体が帯びている霊気でさえ色が有るというのに」

已織理という男には霊気の色―万物が持つ固有の波長―が無かった。無色透明なのである。なんの特徴も歪みもない。空気よりもなお澄んだその霊気は、一瞬で薫子達を縛り付けた。次の行動を完璧に封じられた。強力で無慈悲に、それでいて完全に制御された力は、想像の埒外にあった。

夜塚薫子の格付けは特一級、それは日本でも最高ランクの霊能力者として正式に認められているということだ。その薫子をして相手にもならないと言わしめる正真正銘の化け物で、いままでに出会ったこともないくらいの怪物。

一瞬だけ放たれた激烈な怒気は、薫子達の呼吸どころか心臓までも止めた。あの怒気が常に発され向けられていれば確実に息の根が止まっていたと言い切れる。

そして人を殺すほどの怒気を、何事もなかったかのように抑え付けるほどの自制心をも有している。

「さすが神殺しの一族と言われるだけのことはある。あれと闘り合うなら、あたしも相応の準備が必要ね」

薫子は握り締めた拳を額に押し当て自分自身に暗示を掛ける。

それは口にしないまま、

「棗、あんたの師があたしの敵だ」

已織理を敵と定めるのだった。



「へくし」

已織理は微妙なくしゃみを一つすると、鼻を擦る。

「誰か噂してんかな? で、さっきのが三都帝(みつみかど)の一つか?」

何気なく紡がれる言葉に含まれたワードに棗は勢い良く振り返る。

「!? なぜ帝の名を識っているんです。それは極一部の者しか知らない影名なんですよ!」

「ん? あぁそういやそうだな。朝廷の任を受け、汚い仕事に手を染めた葦端。その当時、朝廷ですら手が出せないと言われた三都帝。しかし、両家は同一の物だった、とかなんとか」

棗の詰問に已織理は落ち着き払って答える。

「なっ!?」

対し棗は驚きの表情を貼りつけて固まる。

「これから独り言をいうぞ」

已織理が語るのは負の歴史。

それはいつの時代かも定かではない、それほどの昔に遡る。

時の帝は施政としての役職とは別に、葦端という土地にある一族を飼っていた。

その一族は土地の名から、葦端と名乗り帝からの依頼を熟していった。一族に依頼される仕事は、その全てが最悪の部類に属する汚い仕事ばかりであった。

謀略、暗殺、誘拐、死体の装飾さえもその仕事には含まれる。

葦端の仕事はそれ程までに凄惨で非道であった。

しかし、その一方で都には真しやかに囁かれる噂が存在した。

曰く、帝ですら逆らえない人間がいる。

曰く、帝を影で操る一族がいる。

噂は根も葉もないものとされたが、人々の口からその噂が消えることはなかった。

それはまあそうだ。その噂の基となったのが三都帝なのである。

当時、名に帝を冠する者など居らず、ゆえにその噂の流布は凄まじい広がりをみせた。

その実、三都帝が行った仕事は噂以上の力を持って行使された。

帝をすら裁くのである。

ただ、国益を害し、民を害し、圧政を施し、しかし生を謳歌した者もいれば、貴代の賢人と唄われる者が死すときもあった。

あたかも時代に即したように人を消し、首を挿げ替え、歴史を裏から操ってきた一族。

それが、葦端こと三都帝だった。

「それもまぁ、外国貿易と共に流入した他流派との摩擦、戦争なんかで力を落とし、終戦直後の混乱期には朝霧、夕凪、夜塚の三家に岐れたんだったか、確か」

已織理は軽く目を細め、挑発するように扇子を口元に当てる。

目の前で葛藤する棗が面白くてついつい遊んでしまったが、已織理の存在を正確に理解できていれば、迷うことさえないはずなのだが……、

「その情報の出所、確かめさせて頂きます。……行きます」

あまり後先を考えない棗さんには関係なかったらしい。

テンパりまくった挙げ句、已織理に突撃することを選んだようだ。

一足の間合いで飛び込もうとして、

「ぷぎゃ」

色気もなにもあったもんじゃない悲鳴を上げて、壁に打ち当たる。

が、普通に見れば単なる廊下、壁なんて在りはしない。何もないところでぶつかって、ズルズルべたんと床に突っ伏す。

なんというか間抜けな絵面だった。

『ストッ~プ!』

棗を強制的に停止させたのは羽月のポルターガイスト、というか念動の壁であるらしい。

「いった~い。なにするんですか!」

真っ赤になった額と鼻を押さえ、棗は羽月に文句を言う。

そんな棗にしょうがないなぁ的な視線を向け、

『なっちゃん、この人の存在を正しく理解しなさい。受け継ぎ、集められた記録はそれだけで全知に近い情報になるのよ』

わりととんでもない事をさらっと言い放つ。

「あぁ」

対する棗もその事実には、異論ないかの様に応える。

語ったことに意味はない。

例えそれが相手にとってどれほど重要な事柄であろうとも、已織理には関係ない。

ただ知っていることを、口にしただけだ。

已織理の一族とはそういう存在なのだ。それが災いし已織理の一族は狙われ、謀略の標的とされてきている。ただし已織理の一族が情報に特化しただけの愚鈍な一族だったなら独立した存在ではいられなかっただろうが……

「いつまでもこんなとこにいてもしょうがねぇ。行くぞ」

今の一幕などなかったかのように、已織理は先客が眠る部屋に向かう。

歩き出した已織理に、羽月は小さく囁き掛ける。

『あなた、不用意に物を言い過ぎよ。今回は何事もなかったからいいけど』

思念に会話の全てを委ねる羽月には、小声とか耳打ちとかは関係ないのだが、そこは気分の問題である。

「いいんだよ。驚きはしたが、棗のお蔭で三家の対応は理解できたしな」

斜に構えた口調と態度が、夜塚を強く意識していることを伝えてくる。

「どうせ一戦交えるんだ。少しは対策すべきだろ?」

『……かもね』

二人は悪巧み全開で歩いていく。

已織理達の視線が外れた瞬間、棗の表情が憂いに陰る。

棗にとっては已織理も薫子も大切な掛替えのない存在なのだ。

(二人が戦うところなんて見たくない。どうしてこんなことになるの?)

自然と雰囲気も沈んでいく。

その気配を察したのか、

「んな顔すんなよ。悪りぃようにはしねぇからよ」

彼女の師匠は優しく言った。

「はいっ!!」

そう応えた棗の顔は泣き笑いのように歪むが、弾んだ声を出して已織理達の後に続いた。

前を行く二人はちょうど客人が待つ部屋に入るところだった。



「あっちゃ~」

部屋に入った已織理達が見たものは、なかなかに最悪だった。

小揺るぎもしない血界と、その内側で半ばまで腕を消滅させる女性霊。

霊体だからといって痛みがない訳ではない。

身体の破損が、=消滅に直結する以上痛み自体が生身より酷いだろう。

だが、女性霊は血界を叩き続け、眠っている少女に少しでも近付こうとする。

それはこの女が実界に存在する理由なのだ。

当然といえは当然だが、そのまま放置すれば確実に砕け散る女に、

『やめなさい。その子を目前に消える気ですか?』

羽月が軽い調子で語り掛ける。

声は軽い。

が、その実込められた意志の強制力は絶大だった。

強力無比な意志が相手を屈伏させ、反抗の意志さえ起こさせない。

『あっ? あっ、ああぁぁああぁ!!』

しかし、羽月の力を持ってさえ女性霊の怒りと悲しみは抑え切れなかった。

荒らぶる魂はどこまでも純粋に少女を目指す。

「解」

何を思ったか已織理はその一言で血界を崩し去る。

解き放たれた女性霊は取り縋るように少女を掻き抱く。

「よぅ。安心したか?」

已織理の言葉は届いていない。

それでも、女性霊が落ち着いたことはその表情を見れば解る。

鬼女をすら思わせた女は慈愛に満ちた母の顔をしていた。

『いいの? まだ彼女から完全に魔の気は抜けてないわよ? 無害ってレベルには程遠いし』

「そうですよ師匠。それにちっちゃい子供は霊的抵抗力が弱いから悪影響がモロに出ちゃいますよ」

女性陣の抗議を無視し已織理は霊に話し掛ける。

「おまえ、名前は?」

伸ばしたその右手は噛み付かれ、万力のような力で締めあげられる。

「『あっ!!』」

棗達の悲鳴も聞かなかった振りをして、已織理は女を見つめる。

女が貼りつけた表情は憎悪。野性の、それも手負いの獣の目で、牙のように歯を剥く。

ゴギ、と掌から異音が響き、

「おまえ、名は?」

霊の口の端から血が流れても、

「名は?」

已織理は平坦な声で訊く。

変わらず向けられる瞳に溜め息を吐き、已織理は霊の口から手を引き抜く。

刻まれた傷に目を細め、

「いてぇな? 人が少しでも気が晴れればと噛ませてやりゃあ調子に乗りやがる」

傷口を思い切り握り込む。

ボタボタと畳を汚す血を眺めやり口元を歪め、

「死が終わりだと、思うなよ。馬鹿が……」

険呑な気配を撒き散らす。

朱く染まった右手で霊の顔面を掴むと、更なる問いを発する。

「名は?」

籠められた霊気の量は、ただの声を言霊にまで押し上げる。

見守っていた棗達は已織理の眼差しの冷たさに肝を冷やす。

視線を外されてさえ感じる恐怖を、正面から浴びせられた女性霊に至っては完璧に硬直している。

見開いた目と噛み合わない歯の根で、それでも女は顔を反らさない。

「反らさない。っていうか反らせないんだと思うんだけど」

『そうよねぇ。あれ恐いし』

コソコソと煩い外野に対しても、

「黙ってろよ。少しムカついてんだ」

恐ろしく冷たい言葉が吐き出される。

発される気は今や殺気に近い。

「少しでも思考できるなら考えろ。自分が助かる方法を」

已織理はニコリと笑い―目は全く笑っていない―言う。

「二つに一つだ。答えるか消滅するか、好きな方を選べ」

ギリギリと手に力を込めながら相手の反応を伺う。

『ぁ…ぁぃ…』

か細い声が聞こえ、

「愛?」

已織理は力を少し弱める。

『違、う。――相原……ゆ、ぅ……こ』

それがこの女性霊の名前なのだろう。

「そうか。あいはらゆうこ、ね。で?」

畳に指を滑らせ、相原裕子と漢字を示す。

『違……う……。優しい……の、ゆ、う』

「あぁ、そう。相原優子、か。なるほど」

已織理は左手で扇子を持つと、掴んだ手を解く。

「相原優子。その名とこの血に於いて命ず。想いよ、いま静謐に沈め。憂いも恨みも一時なれば、忘れ得よう」

血を媒介に霊と結んだ縁により、強制的に術を施行する。

「汝、相原優子。刻むは刻印、契るは契約。刻印は火。契約は焔。我と結べ縁の下に、主従は決す。今ここに……。すべては淡き夢の如くに」

締め括りとして一度開いた扇子を音高く鳴らす。

女性霊の胸元を強烈な光が踊り、小さなファイアパターンが浮かび上がる。

已織理はそれを見ると、

「契約の下、焔は爆ぜる。我を糧とし、傷を癒せ」

最初の命令を下す。

胸元を淡く光が照らし、光は優子の全身を循る。

光は霊体の欠損部分に集まると骨と肉、神経と皮を再生させた。

その再生過程はグロい。

それはもう、グロい。

誰が見てもトラウマ確実のショッキングな映像である。

『うえぇぇ~』

「ひぇ! キモッ」

とか言いながら、棗達は泣きそうな顔をするが……目は背けない。

手で顔を隠すのだが、目の部分は指を開いていたり、口元だけを覆ってみたりで、楽しんでいるとしか思えない。

(あー、なんで俺の周りにはこんな女しかいないんだ?)

已織理が自分の人生についてもう一度よく考えてみようかと、半ば本気で迷っていると、

『ところでさっき、黙ってろ、とか言わなかった?』

羽月に冷たい目を向けられる。

あれは優子に脅しを掛けるための演技であって本気ではなかったのだが――、已織理の全身が冷や汗に濡れていく。

『傷ついたわ~。あんまり心が痛いから、お返し、しちゃおうかしら』

羽月の声は優しいのに、寒気が止まらない。どころか、脂汗まで出だし、

「……あの」

助けを求めるように棗を見てみれば……

「え~ん、え~ん」

嘘泣きなんかをしていやがった。

『それに、どこぞの人妻を式鬼にしちゃうし。浮気……かしら?』

 式鬼とはいわゆる式神の事で言ってしまえば術者の下僕である。思うだけでどんな命令でも、どんなことでもさせられる。

 ……浮気と言われればそうかもしれない。

この部屋に已織理の味方は居らず、羽月からは極北の風が吹き始め、

「師匠、ダメですよ? 結界内では何があるか分かりませんからね」

微笑みを浮かべる棗からは冷たい気配が忍び寄る。

「『ねぇ~』」

唱和する女達が恐ろしくて、已織理は二人から目を反らす。

(救いはないのか? 助けろ誰か!)

切なる願いを叶える存在は存外近くに居てくれた。

「……ここ、は?」

眠っていた少女が起き上がったのだ。

その動きは至極緩慢で、ある種の疲れを感じさせる。

まぁ、少女に憑いた雑鬼の数と優子の今までの状態を加味すれば無理からぬことだ。今頃は子供の身には余りにも危険な負の因子が蓄積していることだろう。

已織理は少女の状態を確認するや、

「棗、茶を一杯たのむ」

いきなりお茶を所望した。

已織理が何をしたいか正確に理解した棗はすぐさま行動に移る。

用意したのは、小振りの青磁器と抹茶用の茶器である。

抹茶を篩に掛け、目を細かくする。器を湯で温め、湯を捨てて拭く。その茶碗に篩に掛けた抹茶を茶杓に山盛りで一杯と半分程入れる。

そこに棗は一度沸騰させた湯を適量注ぎ、茶筅でアルファベットの『m』を描くように掻き混ぜ、最後に『の』の字を茶碗の中に浮き上がらせる。

「どうぞ」

茶筅をそっと椀から抜くと、棗は居住まいを正して少女の前に置いた。

一見すると無造作だが、要所は踏襲しているためか、不作法であるはずの作法にはしっかりと一本の筋道が通っている。

「略式だとそんなもんだろ。けど、この術には一つ足りない」

已織理は横から椀を取るとふぅと息を吹き掛け、

「とりあえずここにいる全員で一吹き頼む」

部屋にいる人間に軽く椀を突き出す。

「『は~い』」

棗と羽月は、返事と一緒にふぅと息を吹き込む。

はてな顔の優子に対しても、

「吹け、娘のためだ」

なかば強制的にその行為は実行される。

そして已織理は少女の頭に手を置くと、安心させるようにくしゃくしゃと撫でる。

少女はきょとんとした表情のまま差し出された茶と已織理を見比べている。

「熱いし飲みにくいかもしれねぇがゆっくりでいい、飲んでみな」

人好きのする笑顔を浮かべ少女の自発的な行動を促す。

少女は少し躊躇したものの、意を決すると茶碗の中身を一気に空けた。

「……おい、しい」

「おっ! その歳で茶の味が分かるのか。すごいな」

已織理はまたも少女の頭に手を置くと、ぐりぐりと力強く撫でた。

少女の得意気な笑顔に已織理はやはり笑顔で返す。

(体内の浄化は八割ってとこか。これなら自然回復出来るな)

もう一度だけ頭をポンと叩くと、已織理は満足そうに頷く。

そこにはてな顔の棗が、

「なんで息を吹き掛けたんですか?」

と疑問を口にする。

「ん? あぁ、氣ってやつが偏らねぇようにするためさ」

「どーゆうことです?」

棗の頭にさらに『?』が増えていく。

『つまりね。私達みたいな霊能力者は扱う氣の質が偏ってるのよ』

幽霊やら精霊やらが霊能力者、者? かは甚だ疑問だが、

『ほら、私達って得意な属性が決まってるでしょ? その属性がそのまま氣質の偏りなわけ』

そう言いながら指を振る。

少し納得がいったのか棗の顔から疑問が解消され、

「あれ、じゃあ何で師匠の息だけじゃだめなんですか?」

なかった。

「あぁ、そいつは俺の氣質が『鏡』、だからなぁ」

已織理の属性は鏡、である。この世界の基本は地、水、火、風、聖、魔、の六種に、陽、月を足した八種で構成される。

多分に西洋魔術よりな考え方だが已織理自身が扱う術は東洋魔術がベースとなっている。

西洋の知識と東洋の術形態、そこに已織理の特殊な血筋が混ざり、彼に空気よりもなお澄んだ氣を与えていた。

「あぁ、なるほど!」

棗も已織理の氣質は十分に理解している。

透明に過ぎる已織理の氣は相対した氣をそのまま写し、反射してしまう。

相手によってその色を変えていく性質は正に鏡だろう。

つまり、毒に侵された者に已織理の氣をそのまま加えると、ソレは薬ではなく毒になってしまうのだ。

「まっ、そういう理由だ。さて……」

已織理は居住まい正すと、

「本日はようこそお越し下さいました。私、万事屋の店主、御神薙已織理と申します。貴女様から依頼されます全てに完璧を以って、お応えさせて頂きます」

一つ最敬礼で少女を迎える。

その所作は見事の一言に尽きた。相手に対しての間の取り方、礼節を重んじた動作、指の先まで行き届いた細やかな配慮、相手を想い相手を引き立てるそんな動作である。

ちなみに『万事屋』は、まんじや、よろずごとや、ばんじや、という感じで店主である已織理は読み方を正式に定めていない。客がどう読もうが、どう呼ぼうが、已織理のやることが変わるわけではないからだ。

今回は少女にも判りやすい『まんじや』を名乗ったが別段拘りはなかった。



御神薙已織理と名乗った目の前の男性が、自分の半分も歳のいかない少女を立ててくれたのだ。それがどういうことなのかしっかりとは判らなくても、本来なら有り得ないことだというのは直感的に理解出来た。

「お母さんを探して下さい。帰ってこないんです」

だから少女も表情を引き締めて、頭を下げる。

見よう見真似のたどたどしい動きではあったが、その一生懸命さが真摯に伝わる気持ちの入った良い礼だった。

と、少女の体がある程度傾いた時点で、

「ひっ!?」

そう洩らして、くてりと布団に突っ伏してしまう。

「……?」

一同を沈黙が彩るが、

「ああ、コレ、か」

已織理が右手を持ち上げることで激変する。

あれだけゴキバキ鳴っていた手指が無事であるわけもなく、相も変わらず盛大に血を垂れ流している。

「いやぁ――、そんな平然と持ち上げない! 開くから、止まらないから」

錯乱気味の棗が、右へ左へ大暴れし、

『そんなに慌てることじゃないわ。ちょっと骨が見えて、指がありえない方向に曲がってるだけよ。大丈夫よ』

そう言いながら羽月は茶碗や掛け軸、壼なんかを物凄い速度で中空に飛ばしている。

二人共とんでもなく動揺している。

事の主原因たる優子は顔を蒼褪めさせながら、ごめんなさいごめんなさいとぶつぶつ謝罪の言葉を吐き続ける。

重傷の已織理より幼子を優先するのはまだいい。しかし、皮肉と疑問に費やした時間は完全に無駄である。

まあ、その無駄に何事もなく付き合った已織理も已織理であるのだから、怪我の放置は一概に女性陣の所為ともいえない。

しかし忘れる事柄でもない。

善くも悪くもここに集まったのは、『裏』の人間なのだ。

己の義にこそ尽力するが、それ故に他者への関心は薄れてしまう。

とはいえ、もちろん女性陣にとっても已織理の怪我は特別である。

であるのだが、已織理の怪我には別の意味も含まれる。

普通の人間であれば指が折れ、血管や神経が何本も切断されていれば、それだけで命に関わる。

だが、已織理は己の怪我というものを顧みない。

血を流し、激痛にのたうち回ろうとも、それが命に関わらないと判断すれば決してその行動は止まらない。

「治」

血塗れの右手が振られる毎に怪我が、傷が、治っていく。

已織理が怪我を顧みない理由がここにある。

頭部や心臓を破壊されない限り、大概の怪我は治せてしまう。

成り立ちから狙われ続けた一族柄か已織理の家系はそれくらい治癒術に強い。

が、この術、実は誰もが使うような治癒魔術ではない。

已織理の一族が集めに集め、溜めに溜め、蓄積してきた知識と魔術の集大成であり、一つの完成形。

その術の名は符言術という。

それは言霊、呪符、またはその両方を複合的に作用させることに依って発現する非常に、いや異常に汎用性の高い総合魔術である。

戦闘から治癒という性質も様式も、それこそ用途も一八〇度違う魔術を符言術は、声の一字、符の一文字で網羅する。その文字が持つ意味を顕現し力と成す。印も長ったらしい呪文も、事前準備すらほとんど必要とせず、それでいてほぼ全ての状況に対応する術など反則以外のなにものでもない。

しかも、血筋が磨き上げた力の在り方、であるから他者が使うことも不可能という反則具合には恐れ入る。

見る間に修復されていく手を振りながら、

「あ~、血の染みは時間が経つと落ちにくいんだよなぁ」

辺りを見回して嘆く。

さらに宙に浮かぶ花瓶を受け止め、

「うおっ!! 羽月、止めてくれ。高いんだぜ! これ」

慌てて羽月のポルターガイストを止めようとする。


パリンッ!


破滅の音が響き、そぉーっと振り向いた先で白磁の壼が無残な姿を曝している。

已織理にとっては自分の怪我より、そちらの方がよほどダメージはデカかった。

軽く涙目になりながら悲しそうに、薄ら青味がかった残骸を拾い集める。

そして、よよよと泣き崩れた。この時すでに右手はすっかり治っている。

「すいません、ご先祖様。かれこれ六七回目の破損……」

ガクッと肩を落として呆然とする。先程までの威厳は何処へ行ったのだろう?

『ごめんなさいってばぁ。ちゃんと治しておくから、ねっ!』

「それより畳の染み抜き、あっ、着物も替えてくださいね」

『ごめんなさい。ごめんなさい』

「……?」

少女が二度目の気絶から覚めたとき、そこはなんだか訳の分からない阿鼻叫喚と化していた。

そんな少女に目敏く気付いた已織理は、

「そういや嬢ちゃんの名前を訊いていなかったな。俺はさっき言った通りの御神薙已織理だ。よろしくな」

 少女の頭をポンポンと撫でながら訊く。

「あっ、えっと、あの相原、(ゆう)、です」

 頭の上に乗っかった無傷の右手に混乱しながら、悠は頭を撫でられていた。



「と、まあ、それだけで終わっちまったら、仕込みが足りねぇよなぁ?」

 そう呟いて已織理は廊下から中庭へと向かっていった。

 とりあえずの検案事項だった悠の容体が安定したことで、こちらが手を拱いている理由がなくなったのだ。

 中庭に向かうのは先程の連中にちょっかいを掛けるためである。

 已織理は袖口に手を入れると筆ぐらいの太さの細長い竹の筒を指に手挟んで六本ばかり取り出した。どう考えても袖の中に入っていたとは思えないのだが、とにかく已織理は袖口から六本の竹筒を取り出すと、

「出てこい。仕事だぜ?」

 それをプラプラと振る。

 振り出されて筒から顔を出したのは、イタチのような格好をした可愛らしい小動物の霊だった。いわゆる管狐(くだぎつね)、また飯綱(いずな)と呼ばれる使役獣である。本来、家や血筋に憑くモノなのだが譲り受けたり、奪い取ったりしても使役できるほど、縛りの緩い使われることを前提に据えられた霊体だった。

 そこそこ従順で扱いやすく初心者にもお勧めだが、勝手に増えたり、ときたま悪さをしたりするので注意は必要だ。

まあ、霊と名の付くモノで注意しなくて良いモノなどないのだが……

 それも含めて飼いならせば、

「さっきの三人組を追い掛けろ。目的地に着いたらテキトーに散開して情報収集。あとは面白そうなことを集めてこい」

 こんなテキトー極まりない指示にも個別に存在する意思というか個性にそって、探索に行ってくれたりする。

 已織理の管狐は譲り受けた段階から品種改良と改造を繰り返し、偵察と攻撃に特化したそれ専用の―逆を言えばそれ以外まったく使えない―二種類の管狐を作出していた。そのついでに管狐のマイナス面にも手を加え改良を施している。

 已織理が振り出した六匹の管狐は薄弱で、目を凝らしてさえ背後の風景が透けて見えるほどに希薄な外見をしている。

 しかし、外見が薄弱だからといって術式の強度が脆弱かといえば、そんなことはない。弱々しい外見とは裏腹に、視聴覚をダイレクトに共有したり、密度の低さを活かした透明化と隠行のほか壁抜けや結界無効化までできる。

 密度が低いということは発せられる霊気もまた低いということになるので、発見の困難さも折り紙付きである。

 そんなハイスペックな管狐達を無感動に送り出し、

「さてさて、鬼が出るか蛇が出るか。どっちにしても踊らされるってのは趣味じゃあねぇんだよなぁ。次はなにすっかな」

 空を見上げた已織理は、獰猛に笑うのだった。


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