0.少女との出会い
一際高く昇った太陽の日差しが降り注ぐ昼下がり。
急な暑さに驚いたのか、少しフライングして鳴いている蝉の声。
何層にも重なり広がる入道雲が夏の訪れを感じさせる。
そんな初夏の休日、水明高等学校。
一番端にある校舎の一番端にある道場で、俺は一人目を閉じていた。
数秒の後、ゆっくりと目を開け顔をあげると、俺の視界の先には綺麗な斜面を描いた美しい砂の渓谷が広がっていた。
「安土」と呼ばれるその渓谷はほんのり水分を含んで深みのある褐色をしている。
それを見ているだけで自然の美を感じられる。
しかし、俺が見ているのはそれではない。
安土をよく見ると、白と黒が交互に彩られた円状の的が等間隔で置かれていた。
俺はその中にあるひとつを見つめ、一度礼をする。
そして姿勢を正し、そこへ向かってゆっくりと足裏を滑らせる。
1歩、2歩と布を滑らす音を立て前へ進み、そして3歩目はまるでその進行を遮るように足を直角に変え、その足の先端に合わせてから扇を開くように後退した。
肩幅よりもやや開いた位開いたままその場所で立つ。
一度的を見つめ、視線を元に戻した。
臍の下にある「丹田」と呼ばれる箇所に力を加え、上体を固定する。
そして両手に持っていたものをゆっくりと開き解放した。
左手に持っているものは、自分の身長よりの遥かに大きい一本の木を何層にも重ね合わせて造られたものに、麻で出来た繊維を重ねてできた弦をつけている。
その弦に引っ張られ、両端の木は程よくしなり美しい放物線を描いている。
「弓」と呼ばれる古来から伝わる遠距離を狙う道具だ。
右手には、「懸」と呼ばれる三指を纏う手袋を身につけ、そこに黒、茶、白が芸術的に織り交ざり栄えある色彩をもつ羽がついた2本の矢を握り締めている。
これら両手にある道具を目線まで持っていき、融合させる。
弓、弦、矢が一体となり初めて「弓矢」という一つの形となったものを左膝に置き、再び的に目をやる。
一度正面に顔を戻し、張り詰めた息を静かに吐き出し呼吸を整える。
やがて静かに的を見つめ直すと左手で「手の内」と呼ばれる弓を持つための握りへと変え、懸で親指で弦を、矢を残りの二指で抑える。
そしてゆっくりと半月を描きながら弓矢を頭の上まで持ち上げた。
肩を少し落とし、その場所を固定すると左手を的へと近づけ弓を引く。
大体3分の1ほど引いたところで一度静止した。
ここで俺は自分の思い描く理想の形を想像する。よし思い描けた。
そして、ゆっくりと身体を弓矢を身体に近づけると同時に、左右の手は自分の身体の一番端まで大きく伸ばし、弓を引いた。
弓を持つ左手は的へと誘われるように近づこうと伸びていく。
それに抗うように右手は反対へと抵抗するように伸びていく。
均衡した状態のまま互いは伸び続けていく。
その姿はまるで静止画でも見ているかのように動かない。
周囲には今まで自分が生み出していた布が擦れる音や、弓のきしむ音、呼吸の音などが消え、聞こえてくるのは自然から聞こえてくる音だけになった。
しかしその力は対となるもの。その均衡状態も長くは続かない。
力は収束し、やがて互いの力が矢と通じて一本に結ばれた瞬間、
それまでの力を一点に集め、矢は前へと飛び出した。
今いる場所から安土にある的までは距離にして約30メートルも離れている。
しかし、その距離をものの一秒もかからずに矢は目標まで近づく。そして…
タァァァァァン!
乾いた空気を切り裂くような痛快な音が拡がった。
その音に酔いしれるように俺は矢を放った姿勢から動かない。
風が木を通り抜け、ざわめく音も
壁に張り付き、鳴り散らかす蝉の声も
排気ガスを出しながら、近くを通る車の音さえも
今の俺には何も耳に入らない。
この心地いい音がいつまでも鳴り響いているのだ。
その余韻に浸りながら、俺はゆっくりと弓を降ろして足を閉じた。
最後にすべての感謝を示すように深く一礼をしてその場をゆっくりと後にした。
これが「弓道」と呼ばれる昔から日本に伝わる「武道」のひとつである。
そしてこの弓道が俺、藤原大地が最も好きなスポーツだ。
今のはいい射ができた気がするな。」
俺は頬を緩ませながら弓を専用の板に置いた。
去年の春に弓道と知り合ってから一年以上。
実際に道場で弓を射るようになったのはここ二~三ヶ月前だ。
俺はようやくできたのが嬉しくて、休日も道場に足を通わせている。
いつもは何人かの弓友(同じ部活の皆)が来ているのだが、今日は誰も来ていない。
皆で意見を交わしながら楽しくやるのもいいけど、たまには一人で集中するのもいい。
今は昼をまわったところ。朝から始めて大体百射くらいは射っただろうか。
その中で一射でも自分で納得できる形が出来たのは大きな収穫だ。
「これがいつもできるようにもっと練習しないとな!」
そう言いながら俺は雪駄を履いて道場を後にした。
今の感覚を忘れないようにすぐに射ちたい。
そう思った俺は自然と小走りになって矢を取りに向かった。
…いや、向かうつもりだった。
「綺麗だね。」
不意に聞こえた声に俺は足を止めた。
誰かいるのだろうか。でもここは校舎の端だ。周囲には弓道場くらいしかない。
一瞬弓友かと思ったが、こんな時間から誰かが来たことなんて一度もない。
空耳かなにかだろう。俺はそう結論付けて再び歩き出した。
「構えた姿がとても綺麗だった。」
また聞こえた。今度はしっかりと聞こえた。
しかも俺に話しかけてるみたいだ。構える姿なんてそうそう日常で使わないだろう。
一体、誰なんだろう?
俺は声が聞こえた方向へ顔を向けた。
その声の主が目に入った瞬間に、俺は息を呑んだ。
可愛らしい顔立ちに、透き通るような白い肌。身長は平均よりもかなり小さいがスタイルはよく胸が結構大きい。髪はツインテールにしているのが彼女の愛らしさを際立たせている。そしては白いブラウスに赤いりリボン、藍色の生地に黒と赤のチェックがはいったスカート…水明高等学校の制服を着ていてまるでこの人のために用意されたのではないかと思う程似合っている。
全ての人が美少女と答えるほど彼女は可愛いのだが、俺はもっとも驚いたのは別のところだった。
「髪が…碧色?」
そう。彼女の髪は鮮やかな碧色…エメラルドのような色をしていた。
人工的には絶対に出来ないほどに本当に美しい色。いままで見てきたどの色よりも綺麗だと思った。
俺はその場で彼女を見つめていると、こちらに手を振ってきた。
思わず俺も手を振り返すと、彼女は魅力的な笑顔を見せてくれた。
「またね。」
そしてすぐに彼女は俺にそう告げると、振り返ってばたばたと走りその場を後にした。
俺はただ呆然と彼女が見えなくなるまで見ていた。
たった数十秒の出来事だが、これほどインパクトのある出来事は初めてだ。
「…まるで妖精に会ったみたいだな。」
思わずそんな事をつぶやきながら、俺は矢を取りに戻った。
―これが彼女、柏木知美との初めての邂逅だった