二・大丈夫です
六月三日、朝。
開戦予想……本日中。
準備状況……人間側に複数の問題。
戦闘状況……双方ともに敵影未確認。
ケネスはそれを試し振りしてみた。鉄塊が空気を切り裂く、ごうという音がした。身の丈ほどの剣だが、これは今朝受け取ったばかりのものだ。届けに来たのは長髪の魔術師シュタイン。長老アベルの養子だ。つまりは──
「実質上の指揮官はオレだということが、これではっきりするわけだ」
唇の端を吊り上げて満悦の表情を浮かべ、その剣を頭上に掲げる。これまで知らなかったほど重く、心地良い剣。魔術師がもたらした魔法の剣。
集落の外に作られた更地。朝の訓練のために集まってくる戦士たちの視線が自分に集まるのを、新長老ケネスは心地よく受け止めていた。
***
シュタインが訪ねて行ったときには、ムゼッカはやはり倒木に腰を下ろし、弟子の動きを見ていた。傍目にはそれはぼんやりとした、投げやりな視線にも見えたことだろう。だがシュタインには、この老英雄が目だけに頼らず、妖魔族の戦士と刃を交える弟子ルーシャの動きのすべてを捉えようとしていることが感じ取れた。
魔法使いの静心応魔にも似ている。
「ムゼッカ老」
「どした放蕩息子。見物か?」
「さすがにそこまで暇でもありませんよ」
目を向けもしない達人に近づき、立ち止まる。
「用があるんならさっさと言え。忙しいんだろう?」
「あれは何をしているんです?」
「へっ。どうせ真似できないからってよぉ、べらべらと喋るようなもんじゃねえんだよ、武術ってのは」
釈然としない顔つきで、だが食い下がることもせずに、シュタインはしばらくルーシャを眺めていた。視界からルーシャを外すと、腰に下げた皮袋の口紐を解いて何やら小声で唱えた。
皮袋の口が開いて、そこから生えるように出てきた柄を握る。持ち上げると、袋に入るはずがない長さの刃物が現れた。鞘に収まったナイフだった。
老人は身じろぎもしなかったが、反応は返ってきた。
「手品を見せに来たのか?」
まさか、と小さく笑ってから鞘の方を持ち、柄をムゼッカに差し出す。
「あなたのためのナイフだそうですよ」
初めて痩せた老人の目がシュタインに向いた。
「誰から?」
「ヴァンの友達。妖精族と言ってました」
聞いてからムゼッカは手を伸ばした。握って眉を動かす。鞘から抜いてみる。その刃はムゼッカの鼓動に合わせて白く輝いているように思えた。ムゼッカの、風のオーラの色に。
「礼を言わにゃならんな」
「言伝てなら……」
ふと口をつぐむ。吐血の話は聞いていたのだ。迂闊だったか、と思ったのだが──。
「大切に使わせてもらう。ありがとよ。これが言伝てだ。頼んだぜ」
何でもない調子でそう言い放ったムゼッカに生返事をして、シュタインは村の方へ戻ることにした。
気を取りなおさねばならない。届けるべき品物がまだ幾つもあるのだ。
***
不快な思いを頭から追い出すよう努めながら、ロビンはケネスの命じた射撃訓練をしている。しかし先程から心ここにあらずで、的にかすらせることもできない。
イオとロビンが到着した頃には、すでに訓練が始まっていた。ケネスの指示だった。早い者勝ちで上に立ち、干渉をしにくくさせたわけだ。
だが、少なくとも混乱は招かずにすんだだろう。とはいえ、このままではイオは有名無実の戦士団長に成り下がる。どうしたら主導権を奪い返すことができるのか?
考えながらの射撃を繰り返すうち、自分が何をしているのか分からなくなってくる。理性も思考も働きが鈍っていく。はっと気づけば、矢を弓弦につがえることすらできなくなっていた。
無理もない、と思う。結局昨夜は眠れなかったのである。意識が朦朧として来る。土の地面にさえ何かの顔が見えてくるような錯覚を起こす。
悪い酒に酔っているかのよう──そこまで考えて、はっとした。
「そうか……」
ロビンはにやりとほくそ笑んだ。重たげだった瞼も上がり、青ざめていた少年のような顔が赤みと彼本来の快活さを取り戻していった。
***
長老の家。扉を叩くとすぐに開かれた。
現れたのはサミカと呼ばれている銀の髪の少女。
言葉も交わさずに奥へ通される。彼女はこの来訪を予感していたのだろう。優秀な虹使いは直感に優れた者が多い。
果たしてその彼女──キ・ハは座して待っていた。部屋に入るとすぐにその柔らかな笑みがシュタインを迎えた。だが、老女の笑顔に彼はささやかな違和感を覚えた。
「いらっしゃい、シュタイン。あなたもいろいろと大変ね。お座りなさいな」
「はい」
促されるまま敷物の上に座る。腰より長い髪が床を掃いたが、気には留めない。
シュタインは昔からキ・ハが苦手である。養父アベルと同じ長老だが、彼女は誰にでも優しく──シュタインには遠慮がなかった。彼女からしたら、他の者と同じに扱っているつもりなのであろうが、彼の方がそういう扱いに慣れていなかった。長老の子として、常に敬意という名の一線を引かれていたのだ。そのことに気づいたのは、里を出てからだったのだが。
「ところで、今日はどのような用向きなの?」
「こちらをお渡しするために参りました」
例の皮袋から取り出したのは、銀製と思しき一対の輪だった。
「腕輪?」
「妖精族から届きました。精霊の力を感じやすくする腕輪とのことです」
精霊の力を感じ取る──それは虹使いにとっては極めて重要な意味を持つ。
虹使いにとって虹魔法は、感じることと伝えることの繰り返しなのだ。精霊を相手取った交渉である。気持ちを汲み取り、提案したり要請したり、ときには撤回し、お互いの意思を通い合わせていくことで理想的な関係を維持する。維持できるからこそ、魔法によって力の行使を願うとき、精霊は応えてくれるのだ。
「……これを受け取るべきは」
老女はしばしの沈黙の後、誤魔化すように表情を緩ませた。
「私ではないようね」
「ロディエス……ですか?」
「ええ。大精霊ベヒーモスを呪縛から解放する役目を負っている彼女こそ、その腕輪の持ち主に相応しいでしょう」
「でしたら……」
若い魔術師は長老をまっすぐ見据えて言葉を継いだ。
「あなたの手でロディエスに渡してください」
かた、と音がした。そちらに目をやれば、盆に茶器を載せたボルサミカが、表情を固くして立ちすくんでいた。不似合いな花の香りに今さら気づく。シュタインも馴染みがある香草の茶の香りだ。
宥めるようにキ・ハは手を伸ばした。
「サミカ、ありがとう。ちょうど喉が乾いていたところだったの。持ってきてちょうだい」
「はい……」
少女は頷いて、ふたりの側で膝をついた。茶碗をふたりの前に置くが、その手は震えていた。
「どうして……」
小さな声でサミカが問う。
「どうしてベヒーモスはキ・ハ様ではなく、ディエを……」
「サミカ、いいのよ……ベヒーモスは私を思い遣ってくれたのよ」
今にも泣き出しそうなサミカの長い髪をキ・ハは優しい手つきで撫でた。銀色の髪を梳かれるままになっていた巫女はやがて落ち着きを取り戻したようだった。そして一言──
「……すみません」
シュタインには少女の取り乱しようが、キ・ハが押し殺している心情のように思えた。茶を口元に運びながら、ちらと老婆の表情を窺う。
そこにはやはり笑顔で本心を覆ったキ・ハがいたが、彼女ははっきりと言った。
「そうね。では私が預かって、これからあの子に届けに行くことにしましょう」
「それがよろしいかと」
老婆は立ち上がってから、同じく立とうとしたシュタインを制した。
「お父様はもうすぐこちらへいらっしゃるわ」
彼は目を見開いてしまった。だがすぐに納得する。この老婆には、自分には分からないようないろいろなことまで視えているのだろうと、思い直したのだ。
やがて長老の家にはシュタインひとりが残ることになった。
椀に残っていた茶を飲み干す。その香りは、雨上がりの青空のように冷たく清涼だった。
***
大空洞の底には地上と何ら変わらぬ景色が広がっている。
樹々が鬱蒼と生い茂る森があり、風に波立つ草原があり、岩肌目立つ荒地があり、小高く盛り上がった山がある。その間を川が流れ、樹上を鳥たちが飛び、平野を兎のような動物が跳ねている。
その岩陰に蠢く人影があった。人型をしているが大きさは異なる幾つかの影が慌ただしく動いている──戦っている。
戦士が大槌を振り上げ、振り下ろす。剣で受けて衝撃に膝をつく。そこに蹴りを喰らい、仰向けに倒れる。また鉄槌が振り下ろされる。断末魔の声。直後、両脇から槍が突き込まれる。鉄槌の使い手は身を捻って穂先を逸らす。勢いをそのままに横殴りした一撃は避けられる。
離れていたひとりが杖の先から火炎を迸らせ、戦士は苦悶の呻きを上げる。しかし怯むことなく後方へ跳び退る。背後から近づいてきた剣士は鎖帷子ごと衝突され、仰け反り倒れる。
ほどなくして妖魔の生き残りは逃走し、残ったのは数えるに両手を要する死体どもとサムソンだけになった。
二十一、と呟きながら短剣を取り出し、篭手に傷をつける。
なぜこんなことをしているのか、サムソンも理解していなかった。屈辱にいたたまれなくなったことが動機ではあろうが、老いを自覚していながら単身で妖魔の軍に挑むなど、正気ではないと判断するはずだ。
だが、挑んでいる。無謀ではないか?
思考は長続きしない。声が聞こえる。
「次は、南か……」
誰のものとも知れぬ声に導かれるまま、荒地を進む老戦士の傷が不自然な速度で癒えていく。腰に括った水袋を解き、口をつける。鮮烈な酒精の香りがサムソンの瞳を淀ませた。
***
虹描きキ・ハが足を止めたのは、石造りの建物が多い隠れ里には珍しい木の家の前だった。里の外周をぐるりと囲っている岩のすぐ側──外縁部である。
「キ・ハ様……」
傍らの少女の小さな声に、老女は穏やかに頷いた。すぐにすみますから待っていて、と返した。銀色の髪のボルサミカは悲しげに返事をする。
壁土で塗った家はかろうじて石の家々に合わせようとしているが、色がやや近づいた程度のものだ。扉を叩く音はやはり響きが異なる。扉そのものはどの家も木材でできているのだが。
その扉が開き用向きを告げる。家に入るまで、キ・ハはサミカの気遣わしげな眼差しを感じていた。
ロディエスは果たして、待っていた。目元の腫れを見るまでもなく、泣いていたことが知れた。
ただ俯いている。まるで悪いことをして叱られるのを待つ子供のように。
老齢の虹描きは笑みを浮かべた。安心させるための笑みだが、今ばかりは偽の微笑であることが伝わってしまっている。
「ディエ、私からもお願いしますね。ベヒーモスの苦しみを取り除く……あなたならできます。必ずね」
「どうして……大精霊は私にこの役目を……」
キ・ハも幾度となく考えたことであった。理由は告げられている。だがどうしても、認められなかったと感じてしまうのだ。そのことが苛んでいる。老いた虹描きと、彼女を師と仰ぐ若い虹使いを、ひたすらに苛んでいる。
「大精霊がお認めになったの。何を戸惑うことがあると言うの」
いつもと変わらないはずの温和な声が、震えているように思えてしまう。事実キ・ハは震えているのかもしれない。心は間違いなく揺れている。
言葉にはならなかった。彼女らは言葉や考えで思いを通わせることに慣れていない。だから、手を取った。
特別なことではない。ただ、触れ合うだけ。ディエが膝に置いていた手を左手で取り、右手で撫でる。
そして、ロディエスの瞼が下りる。暖かな雫が頬を伝うに任せて。見ながら、目を閉じはせずに、キ・ハも涙を流した。
槍を持つことに慣れた手の平は硬く、杖をつくだけの手は乾いてはいても柔らかかった。
優しく、優しく、ただ手の甲を撫でる。それだけなのに、ひとりで流したのとは異なる涙が落ちた。
やがて、ディエは目を開けた。頬を濡らしたまま、宝石のような青い瞳にキ・ハを映し、照れたように笑う。
「できるだけ、やってみます」
「ええ。大丈夫。あなたならできるわ」
言葉を交わした頃には、ふたりから陰が薄れていた。抑えていた思いは涙の雫に紛れて流れ落ちてしまったのだろう。
腕輪を手渡して帰ろうとしたキ・ハは、ふと小卓の上に目を留めた。
「そのベヒーモスの尾は……?」
「はい。パティがくれたんです」
見覚えがあった。当然だ。キ・ハ自身がそれを手渡したのだ。今は謹慎に処されている、黒髪の魔術師に。
ロディエスはヴァンが地上の要塞に赴いた際、ムゼッカの家でパティたちと過ごしている。
小憎い男だ。ベヒーモスの尾は大精霊の洞に自生しているが、魔法の媒介として使える状態になるのはせいぜい数年に一本なのだ。
「備えはほとんど万全ね。眠れていれば、だけれど……」
「これから寝ます。急がないといけませんし……って、急ぐために寝るって、何だかおかしいですね」
笑い声が重なる。
「今のあなたなら、安心して任せられるようね」
「ご心配おかけしました」
手の甲で目をこすって、ロディエスははにかんだ。
「もう大丈夫です」
やっと書きました。
読んでくださる方に感謝いたします。
いいところも悪いところも空欄でかまいませんので、感想いただけましたら嬉しく思います。
読んでくださる方がいるので書き続けられています。
本当にありがとうございます。